ペルソナ物語4~ポケットが真実でいっぱいいっぱい~   作:琥珀兎

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番外編其の二:彼女達の戦い

 いつかのある日。

 一日の授業が全て終わり放課後となった教室内では、生徒達が帰り支度を始めたり、部活動に向かったり、または教室に残って雑談を始めたりと賑わっていた。

 花村陽介は遊びを選んだ一人で、友人の鳴上悠や霧城大和を誘って遊びに行こうと席を立った。

 

「鳴上ー、霧城、これから遊びに……あれ? 霧城はどこだ?」

「あいつなら慌てた様子で教室を出て行ったぞ」

 

 悠が机の中にあるノートや教科書を鞄に詰めながら答えた。

 隣に座っている筈の大和の机は既にもぬけの殻となっていた。悠が慌てた様子で出て行ったと言ったことから、陽介はまた何か面倒な事に首を突っ込んだのか、それとも持ち出されたのか。いずれにせよ確実に女関係だろう、と嫉妬と共に吐き捨てる事にした。

 自分は三枚目なのに、大和が二枚目で通っているのが悔しいのだろう。陽介は羨ましいと思いつつ、反面妬ましくも思っていた。

 

「たまには痛い目見てもらわなくちゃ、世の中的にも不公平だよな」

「霧城が望んだわけではなさそうだけど」

「望まずにモテるって状況が既におかしいだろっ、何だよそれ! めちゃくちゃ羨ましいわ!」

 

 嫉妬心でどうにかなりそうな陽介が頭を抱えて仰け反った。

 何故にこうも人は差が生まれるのだろうか、と嘆きを叫ぶ陽介に、人知れず同意する男子の姿が教室ないには点在していた。

 

 

 ※

 

 

 授業が終わって早々、俺は千枝とかねてからの約束で特訓に付き合う為に鮫川の河川敷に訪れていた。既に御馴染みとなったこの場所も、訪れる住人が気を使ってくれたのか、千枝と俺が現れると場所を作るように離れた場所へと移動してくれたりする。

 なんだか暗に邪魔だから退けとも受け取られかねないが、そんな悪意ある判断を持った住人はおらず、今日もここは平和で静かな場所だった。

 小川のせせらぎと木々を撫でるそよ風が穏やかな旋律を奏でる中、俺は上半身にジャージを着こんだ千枝の前にサンドバッグを差し出した。

 

「今日はこれを使って、千枝の蹴りの威力を底上げすると同時に、フォームの矯正をしようかと思う。それが終わったら組手だ」

「ランニングとかは今日はしなくていいの?」

「十分に体力はついてきたからな。バランスを取る為にも、ある程度の体力が付いたらやるつもりだったんだ」

「わかった、それじゃあ今日もよろしくお願いします!」

 

 気合を入れて挨拶をする千枝の前に、サンドバッグを挟んで倒れないように背後へと回る。

 最近になって成長著しい威力を持ってきた千枝の蹴りだが、そのせいか一発一発の動きが雑になりつつあるのが俺の中で懸念対象になっていた。女子と二人で居るのにやる事が特訓とは、なんとも汗臭いデートだ。

 

「どりゃぁああ!」

 

 掛け声と同時に千枝の蹴りが繰り出される。

 後ろにやった右足に力をこめて踏ん張り、サンドバッグを伝わってくる衝撃に耐える。一般人目線からしたら、この蹴りは十分に脅威になりうるだろう。冗談で彼女を怒らせたらこの蹴りが飛んでくる、そう思ったら鳥肌が立つのを感じた。

 三十発程蹴りを打った頃に、しだいに千枝のフォームが崩れ始めてきた。反復運動による単純化が原因だろうか、蹴りを放つ本人は気が付いていない様子だ。

 

「ちょっと待った。千枝、フォームが崩れてきているぞ」

「えっ嘘、気を付けてたつもりなんだけどなー。どこら辺がおかしいかな?」

「そうだな、口で言うにはちょっと難しいから……ちょっといいか?」

「わっ、ちょ……大和君っ?」

 

 サンドバッグから手を放して千枝のしなやかな足に触れる。スカートを穿いているからパンツが見えるかも、とか思うかもしれないが、千枝はスカートの下にスパッツを穿いているので問題ない。俺は変態じゃない。

 顔を赤くして狼狽える千枝を無視して、僅かに汗を掻いている足の位置を修正する。

 

「いいか、蹴り上げる時に此処の位置から、こっちへと持って行くんだ。それと同時に、全体重を前に、腰を捻って回転を生むんだ。身体が覚えるぐらい繰り返せば、自然となるはずだ」

「あ、わわかったからっ、触り過ぎだよ大和君!」

 

 ぶおんと豪風が側頭から吹いてきた。反射的に俺は身を屈める事で回避する。

 

「それだ千枝。今の感じを忘れるなよ?」

「もう、なんか……特訓と称して合法的にセクハラしているように思えてきたよ」

「何を言う、俺はそんな事思ってないぞ」

 

 欠片程度しか。

 蹴り上げた時、千枝はスパッツでも恥ずかしいのか、俺に見られないようにスカートの裾を両手で押さえていた。俺を見下ろす視線が、若干冷たいように感じるのは気のせいだろうか。

 気を取り直してサンドバッグを持ち、蹴りを催促する。忘れっぽい千枝は、理解している内に体に染みつかせないと忘れてしまう可能性があるからな。鉄は熱い内に打てってやつだ。

 誤魔化されたと思ってるのだろうか、千枝は不満げに眉を顰めるが、そのまま再び蹴りを繰り出し始めた。さっきよりも若干威力が上がっているような気がした。

 

「それじゃあ少し休憩しようか」

「うん、ちょうど喉も乾いてきちゃったよあたし」

「ほれ、だろうと思って飲み物の準備はしてあるぞ」

「おお気が利くねえ。それじゃ、ありがたくいただきまーす」

 

 木の下にあるベンチに腰掛け、汗だくになって熱気を持った千枝に飲み物を差し出した。千枝は喜び、それを勢いよく咥内に流し込んでいる。喉が鳴る音がやけに身近に聞こえた。

 定期的に行われる特訓ももう何度目だろうか、始めの頃はどうしようもない訓練をしているのを見かねて、て感じだっただろうか。そのままの流れで今まで来たが、あの頃に比べて色々と変化していった人間関係も、ここでは何も変わらない。

 俺と千枝の二人だけの、完結した世界のように感じる。

 でも、千枝はそう思っているわけではないらしい、と思ったのはこんな事を口走ったからだ。

 

「ねえ、大和君はどうしてりせちゃんの事になると、あんなに甘くなるの?」

「……え?」

 

 飲み物を飲み干した千枝は、殻になった容器を太腿の上に持ったまま置き視線を下ろしそう言い放った。どうしていきなりりせの話題が出るのか、一瞬理解が追いつかなかったが、千枝は端からそれが今日の目的の一つだったのだろう。

 冗談を感じさせない雰囲気と、その表情に、俺は息を呑んだ。どう説明すればいいのか、わからなかったからだ。

 

「それは…………」

 

 初めて会った頃、嘘の仮面をかぶっていたりせ。内面では現実と架空のキャラクターに当てこすられ次第に精神が摩耗していったりせ。そんな彼女にとって、自惚れなのかもしれないけど、俺だけが例外として存在していたのが救いだったんだろう。依存したりせを俺は拒否できず、挙句に個人的な目的のために生贄とした。

 その罪悪感が俺にりせに対して遠慮と後ろめたさを持たせた……そう、この前まで思っていた。

 今になって改めて考えてみると、よく分からない。ただ、多分……、

 

「よくわからんが、なんだろうな……放っておけないんだよあいつの事は」

「それは、りせちゃんが……大事って事?」

「是が非か問われれば、間違いなく是と俺は答えるだろうな」

「……そっか…………」

 

 千枝の頭が沈んだように落ちた。なのに、その表情は横顔からでもわかるぐらいに穏やかそのものだった。

 りせは間違いなく大事な存在だ。もし彼女が死に瀕したら、俺は間違いなく全能力を発揮しても彼女を救い、守るだろう。それは俺の責任であって、そうしたいと願う願望だから。

 

「だけど、俺は千枝……お前の事だってとんでもなく大事に思ってる」

「え……」

 

 掠れるような声をあげて千枝がこちらを向いた。

 彼女の容器を持っている汗で滲んだ手に俺の手を重ねる。ぴくんと彼女の手が驚いたように跳ね、いつまで経っても肉体接触になれていないんだな、と心の中で笑いを溢した。

 不安そうな千枝を安心させるために、俺は双眸に力をこめて、声にして送る。

 

「だって―――」

「―――せ~んぱぁ~い!」

 

 水を差すってのはこういう事だろう。いざ言葉を発しようとした瞬間、示し合わせたように声を割り込ませてきたのに俺と千枝はお互い固まってしまった。

 あっぱらぱーな声で呼ぶのは、話題に上っていたりせだった。学生服を着て居る事から帰り道だったんだろうけど、何故今このタイミングなのだ。天真爛漫な笑顔でコッチに駆け寄ってくるりせの背中に、小さな悪魔の羽が見えるような気がした。

 真っ直ぐに俺達の下へとやってきたりせは、立ち止まるなり、笑顔から反転咎めるような怒気の孕んだ表情をした。

 

「あぁ~! なんで里中先輩と手なんか繋いでるんですか!?」

「うぇっ、あ、これは違う! 違うのりせちゃん!」

「へぶっ!」

 

 手を振りほどかれ、同時にフリーになった両手でベンチから突き落とされた。照れ隠しがバイオレンス。こうして女性は強くなっていくのか。

 

「へ~、それじゃあ大和先輩は私と手を繋ぎましょ、はいっ」

「ああー! どうしてそうなるのよっ」

 

 ぎゅっと繋がれたりせの柔らかい手の平の感触がした。何をしに来たんだこの子は。

 にこにこ笑顔で手を握るりせは、倒れた俺を引き起こして身体を密着させてきた。汗臭くなってるから出来ればやめて欲しい。

 

「それじゃあ、帰りましょ先輩」

「いきなり何を言ってるんだりせ」

「だって、早く帰らないとお店を手伝えないでしょ……一緒に」

「うぐっ」

 

 語尾を強調させて挑戦的な視線を千枝に送り、唸り声をあげる。この二人はどうして揃うとこうして対立するのだろうか。理由はある程度わからなくもないが、それでも過剰だろう。

 板挟みになった俺は、まんまと蜘蛛の巣の罠にかかった蝶のように身動きが取れない。やめて、俺の為に争わないで! とか言ったら解放してくれるかな。

 

「何言ってるんだりせ、今日は店を手伝わなくても良いって婆さんも言ってたぞ」

「えぇ~、でもやっぱり心配でしょお婆ちゃん一人じゃ」

「帰っちゃうの? 大和君」

 

 捨てられそうな子犬のように縮こまった千枝の視線が痛い。今すぐ抱きしめたい衝動に駆られるが、りせがそれを許さないと言わんばかりに拘束を強くした。代償に、りせの胸部の感触が腕に感じた。

 千枝との約束は前からあった。それを婆さんには前から話して休みを貰ってもいた。よって、こうしてりせのわがままを許すわけにもいかない。さっき千枝にその件について言及されたようなもんなんだから。

 

「悪いが、今日は千枝との先約なんだ。それは婆さんも知ってるから、店に戻るわけにもいかないんだりせ」

 

 言った直後の二人の反応はわかりやすく正反対のものだった。

 留まる事を喜ぶ千枝と、留まる事に落胆するりせ。天秤の秤のように、どちらかが上がれば片方が下がる。二人の関係はまさにそれだった。

 りせの拘束を解こうと、空いた片手で彼女の手に触れる……が、食い込むほどに強く握られ簡単には出来なかった。りせの口がへの字になり俺を見上げた。

 

「じゃあ私も一緒に残るっ、先輩と一緒に特訓するっ!」

「なんでそうなるの。りせちゃんはシャドウとの戦闘には参加しないじゃん」

 

 そう、千枝の言う通りりせはシャドウとの戦闘には参加しない。ペルソナを発現させた時、彼女の特性が索敵と解析に特化しているとわかったからこそ、前線には投入できず後方支援をしてくれと鳴上が提案したのだ。自分を理解していたりせはそれを受け入れた。だから特訓をする必要は無いのだ。

 けれどりせは、

 

「だって里中先輩と大和先輩が二人っきりなんて嫌だもん」

 

 なんて、正直すぎる意見を押し通した。

 こうして、仕方なくなし崩しにりせの参加が決まり、千枝も諦めてそれを受け入れた。なんだか今日は大変な一日になりそうだ。

 

 

 ※

 

 

 特訓をすると豪語したりせであったが、そもそも彼女には武道の経験など露ほどもないのは周知の事実だ。だから、千枝に対抗心を燃やしていくら頑張ろうとも、自力の差は生まれてしまう。

 

「千枝はサンドバッグを継続、それとりせは……そうだな、護身術程度に今日はしておこう」

 

 体力と経験の差を見抜いた大和は的確に指示を飛ばした。

 千枝の蹴るサンドバッグは倒れないように木の幹に縛り付けた。大和と一緒に練習出来ない事を惜しむ気持ちもあったが、訓練を疎かにしては本末転倒だと思った千枝は真面目に言われた通りのメニューをこなす事にした。

 一方、如何に自分が劣っているかを大和の口から言われたように受け取ってしまったりせは内心落ち込んでいた。なにも悪し様に言われたわけではないが、逆に気を使われたのが彼女には痛かったのだろう。正直にりせは体力が無いからこれでいこう、と言われていたら結果は変わっただろうか。恐らくは、それはそれで落ち込んだだろう。乙女心とは菓子作りのように慎重に、そして正確な量の気遣いをしなくては臍を曲げてしまうのだ。

 

「いいかりせ、お前は正直言って非力だから相手の力を利用した手段を学んでもらう」

「それって、合気道っていうやつ? それなら出来そうな気がする」

「とは言っても、あまり楽観するんじゃないぞ。小さくまとまった武術ほど難しいものはないんだから。まずは……」

 

 千枝にやった教え方同様、身体で覚えさせる為に大和はりせの身体に触れた。それだけでりせの機嫌は最高潮に上り、熱を発した。

 激しく脈動する血液が同様に激しく鼓動する心臓を活発にさせ、りせの頭の中は真っ白になってしまった。そんな事は露知らず、大和は懇切丁寧に身体の動作を仕込み続ける。背後に突き刺さる千枝の視線を受けながら。

 

「りせ、ちゃんと聞いてるか?」

「ふぇっ、あ、はい。ちょっとまだ良くわからないから、手取り足取り教えて欲しいな」

 

 なるべくこの時間が長く続くように、という魂胆が見え見えだが、いちいちそれを咎めて中断しても先に進まない。大和は半分呆けているりせに嘆息しながらも、身を守る術を覚えて欲しいという思いから真剣に教えを続ける。

 りせもまた、これが長く続いても実を結ばなければ大和に呆れられると思い直し、大和とのスキンシップを堪能しながらも真面目に覚えるよう努力をした。

 そうして型の練習を重ね、ある程度覚えてきたなと感じた大和はりせから一歩離れた。名残惜しそうな顔をするりせだったが、千枝の監視が先程から焼けるように厳しいのを感じ仕方なく受け入れた。

 

「うん、じゃあ次は実際に試してみよう」

「試すって、誰に……もしかして里中先輩じゃないよね?」

「千枝相手にしたらどっちかが怪我をするかもしれないから、俺が相手になる」

「じゃあじゃあ、先輩が悪漢役って事? きゃっ襲われちゃう」

「いいから始めるぞ」

 

 そっけなく聞き流されて若干不満を持ったりせだが、そんな事は今に始まったことではないのでそこまで気にもしなかった。基本的にりせに対して甘い大和だが、それでも普段通りな所もある。大体がりせの悪ふざけを真に受けない所に収束するが。

 千枝の叩くサンドバッグの音が大きくなるのを聞きつつ、大和はりせとの距離を取った。そうして、一拍置いてりせに襲いかかった。シチュエーションに忠実に。

 

「げへへ、おれっちのタルカジャされたゴッドハンドを味わってみないかぁ~!?」

 

 変態の一言に尽きる。どう聞いても怪しい言動と、だらしなく弛緩した表情筋が相まってさらにその悍ましさが強調されている。今の大和は、一人の悪漢に過ぎなかった。

 傍目にそれを見ていた千枝が、ポツリと呟く。

 

「……変態」

「きゃー、このままじゃ先輩に美味しくいただかれちゃうーっ」

 

 千枝とは正反対に喜ぶように己の身体を抱くりせは、間違いなく被害者の顔をしていなかった。大和の暴走を目の当たりにして、なおこの態度を貫くのだから彼女の肝もなかなか据わっている。

 大和の魔手がりせの肢体を正確に狙い打たれる。場所は臀部……桃のような尻だった。

 演技と言えど真面目に、遊びが混じれば悪乗りを。それもモットーにしている大和は悪漢になりきっていた。結局、りせには逆らえなかった。

 

「げべげべげべ」

「いーやー」

 

 およそ人の発する声じゃない声を出しながら、大和の手がりせの臀部に迫る。

 この瞬間、りせはこのまま尻を触らせればもしかすると千枝との間でリードを取得できるかもしれないと考えたが、流石に羞恥心が邪魔をして真面目に大和の迫る魔手を掴んだ。

 手首を掴まれ、それを返されそのまま大和は投げられた。といっても、りせの腕力でそれが出来るわけもなく、間接をとられた大和が自分から飛んだのだ。

 投げられた大和はそのまま空中で体を捻り見ごとに着地した。

 

「っと、今のは良かったぞりせ」

「えへへ、成功だね。それじゃあご褒美ちょうだいっ」

「褒美? 何をやれば……あぁ」

 

 褒められて顔を綻ばせたりせは大和に頭頂部を差し出した。要は、頭を撫でてくれと行動で示したのだ。

 千枝の事が一瞬脳裏をよぎったが、それではりせの機嫌を損ねてしまうと思った大和は、千枝にばれないよう彼女とりせの間に回り込みすかさず頭を撫でた。背後で木の幹が軋む音がしたのは気のせいではなかった。

 寒気を覚えた大和とは逆に、りせは暖かい気持ちになり身を委ねていた。

 その時、耐えきれなくなったのか千枝が練習を中断した。

 

「大和君……あたしとも組手しようか」

「……はい」

 

 背中から降りかかった氷柱のような声に縮みあがり、大和は壊れたマリオネットのように何度も首肯した。

 満足した様子のりせから手を離し、大和と千枝が向かい合う。お互いに構え、いつでも攻撃に移れるよう相手の動きを観察する。

 りせは離れた位置のベンチに座り、そんな二人の組手を観察していた。どれほど自分と千枝の間に差があるのか、それを目の当たりにするいい機会だと思ったのだ。なにも戦闘面で彼女に勝とうなどと思い上がりをしているわけではないが、ライバルの情報は大いに越したことはない、とりせは思っていた。

 先攻を仕掛けたのは千枝だった。

 持ち前の脚力で地を蹴りロケットのようにスタートを切った。小手先の小細工などまどろっこしいと大和から教えてもらい、また自分もそれに同感だと思った事から千枝の突貫は直線的だった。泰然と構える大和に対して、己の中で最速の蹴りを繰り出す。

 

「シッ!」

 

 軸足を回転させ真っ直ぐに突き出される蹴りは、シャドウを彼方に蹴り飛ばす威力をもっていた。

 しかし、それを片手のみで線をずらす事によって回避した大和。

 予想通りの対応をした大和に、千枝は思わず笑みを溢した。

 突き出した蹴り足は掌を添えられているだけで掴まれてはいない。ならば、この足は死んではいない。すかさず千枝は蹴り足を弧を描くように地に付け軸足へとシフトさせた。

 

「どりゃあぁああ!」

 

 新たに軸足となった右をしっかりと踏ん張り、弧を描いた時の回転を殺さず左のハイキックに繋げた。密かに千枝が、せめて一度大和に一死報いたいという思いから編み出した連携だった。

 高速で迫る左に、大和は感嘆の声を漏らした。

 当たる。そう確信していた千枝の期待は、見事に裏切られた。

 

「ハイキックってのはここ一番、絶対に避けられないって時の決め技だ。そう簡単に当たるもんじゃないんだよ」

「……ちぇっ」

 

 足の甲にちょうど当たると思っていた蹴りは、しかし大和が体を逸らせるだけで簡単に不発に終わった。

 この隙を逃さず蹴り上げられた千枝の足の下を潜り、半身にして右で蹴り足が地につかないように添え、そして左で軸足を救い上げた。

 

「きゃっ……!」

「はい、おしまい」

 

 両足が地を離れ、千枝は背中から地面に着地した。起き上がろうとして、それを大和の握った拳を目の前に出され防がれた。

 試合は僅か三回の攻防によって終局を迎えた。

 倒れた千枝を起こそうと、大和が手を差し伸べる。千枝は恥ずかしげにそれを取り立ち上がる。

 

「惜しかったな。もうちょい練れてれば、俺も危なかったかもな」

「嘘つき、全然本気じゃないくせに」

 

 不敵に笑いながらそう言った思い人に、千枝は笑みを持って皮肉で返した。

 晴れ晴れとした気分になり、自然と声が高揚しているのを気が付きながら、それでもまあいいかと千枝は受け入れた。

 

 

 

 

 りせは二人の組手を見て、率直に羨ましいと感じた。

 意思疎通を交わした千枝と大和の間にある信頼関係に、入り込む余地がないほどに太い絆を感じたのだ。

 もはや周知の事実だが、りせは大和に恋している。これは揺るぎようがない自身があった。しかし、だからこそ千枝だけが持っている大和の信頼が何よりも羨ましかった。自分はここでどうして憧憬の眼差しを向けるしか出来ないのだろうと、まざまざと見せつけられ歯痒さに身体が震える。

 テレビの中で千枝に余裕の宣言をしたのに、彼女は狼狽えていたのに、今や立場は逆転していた。

 妬ましかった。自分が欲したものを独占する千枝が。何も出来ずにいた自分が。

 こんな思いを抱かなければ、すぐに二人の間に割って入る事が出来たのに。嫉妬に染まってしまった今それをするのは、負けを抱くのと変わらないと思ってりせはもう行動に移せない。

 大和が霞のように消えてしまう幻視を視て、りせは震えが止まらなかった。

 

 時間が経ち日も暮れた頃。

 特訓のメニューも終わり、今日はこれで解散するだけとなっていた。

 

「もう外も暗くなったし、帰ろ先輩」

 

 一刻も早く千枝から大和を引き離したかったりせは、いつも以上の強引さで大和をぐいぐいと牽引していた。

 意図を測りかねた大和としては、何故りせがこうまで帰宅にこだわるのか疑問に思いつつも、確かに言い分通り空は暗くなっているから帰宅した方が良いだろうと、抵抗する様子も見せなかった。

 

「そうだな、もういい時間だし今日はこれでおしまいにしよう。じゃあ千枝、また明日学校でな」

「さようなら~、里中先輩っ」

「あ、うん……それじゃあね大和君、りせちゃん。また明日」

 

 せめてもの意趣返しとして、あからさまに大和にくっ付きその存在が己のものであると所有権を主張しつつりせは大和と共に帰路についた。

 見送る二人の背中を眺めながら、千枝は降って湧いた寂寥感に苛まれた。このまま彼と彼女を見逃せば、今夜のうちにもしかしたら、自分が追いつけない場所まで追い抜かれてしまうかもしれない。そんな焦りと羨望が千枝を煩悶させた。

 仲睦まじげに帰宅する二人を見て、千枝は羨ましいと感じた。

 自分では絶対に得ることが出来ない一つ屋根の下というアドバンテージを持ち、尚且つアイドルとして人気を得られる容姿と愛される性格に。なにより、彼女のわがままを殆ど受け入れる大和のりせに向けられた寛容さが羨ましかった。

 林間学校の夜にハッキリと言葉にして以降、千枝は頑張ってアピールをし続けたつもりだった。持ち前の男勝りさ、と不器用さが相まって空振りも多かったが、それでも前よりは進展していると思っていた。

 しかし、こうして自分を置いてりせと腕を組む大和を見て胸が痛む。

 嘗て自分のシャドウと相対した時だって、これほどの苦痛は無かったのに。

 

「…………まって大和君!」

 

 耐えきれず、千枝はとうとう二人を呼び止めた。

 声に気が付いた大和とりせがゆっくりと千枝の方に振り返ってくる。その時、りせの顔を見た瞬間。テレビの中で彼女に言われた挑戦的な言葉が蘇った。

 

『じゃあ……私がアプローチしても問題ないですよね?』

 

「あたし…………今日は大和君の家に泊まる!」

「……はい?」

 

 りせには負けたくない。千枝の負けん気が発揮され、とっさに口走ってしまった言葉に大和が素っ頓狂な声で返した。

 驚愕の余り、大和は口が開いたままで固まっている。

 ふと、自分が何を言ったのか、我に返った瞬間千枝は己の行いを深く恥じた。今すぐ走って逃げだしたいと本気で思った。だけど、このまま尻尾を巻いて逃げればりせの天下になってしまうのは明らか。一度踏み出した以上、千枝は前を向いて立ち向かわなくてはならないのだ。

 

「も、もう決めたからっ! まさか、こ、断るなんてしない……よね!?」

「だけど、明日も学校があるぞ。無理じゃあ、ない、ですかい?」

 

 いきなりのアプローチに、流石の大和もドギマギだった。自分が千枝を好きだと言うのは変わらず、だからこそそんな千枝から家に泊まりたいなんて言い出すのだ。大和は脳内で勝手に浴衣姿で三つ指付いている千枝を想像した。

 しかし、明日は平日。よって通常通り学校があるわけで、そうなると断られるのも当然だろう。千枝が諦めの良い少女ならば……。

 

「じゃあ制服持って行くから良いでしょ? それなら、明日一緒に登校出来るし、そうしよう!」

「ま、まあ確かにそれなら……」

 

 よし、いける。千枝はしどろもどろになっている大和の反応を見て確信した。

 このまま畳み掛ければ大和は自分の宿泊を認めるだろう。

 りせの存在が無ければ。

 

「だ、だめー! そんなの、駄目っ!」

 

 大和の前に立ちふさがり両手を広げてりせが叫んだ。

 自分の領域に……大和と自分の領域に入ってくる事に恐れたのだ。さっきの組手を見てから、りせは千枝に対して危機感を抱いていた。だから千枝がここで自宅にまで押しかけてくるのは、どうしても阻止しなくてはならなかった。

 

「どうして駄目なのりせちゃん?」

「どうしてって、それは、だって同級生の男女が同じ屋根の下だなんて、不純だもん!」

「それならりせちゃんだって同じことでしょ。ならあたし一人増えたって変わらないよっ」

「ぬぐぅ……それは……」

 

 どこからどう見ても正論な千枝の反論に、りせも返す言葉が無かった。

 当人を差し置いての侃々諤々と意見をたたかわす様を見て、大和は既に当人であって部外者となっていた。今この場は既に女の戦いの最中。不用意に発言をするようならば、両端からの同時口撃に遭い男の尊厳を打ち砕かれるだろう。

 だがしかし、女子に言われるがままされるがままの大和ではない。もとより彼は自由を好み、やりたいようにやってきたのだ。だから、いくら非難されようとこの場での発言権を放棄するようなことはしない。

 

「……わかった! 認める!」

「ホントっ? いいの?」

「え~、もう……先輩が良いなら、私も良いです」

「ただし、条件が一つある」

「うん、何かな」

 

 固唾を飲んで待ち構える千枝に、人差し指を立てる大和。

 

「ちゃんと、親の承諾を得るんだ。良いな?」

「わかった。それじゃあ、また連絡するね大和君」

 

 まさか本当に承諾してくれるとは思ってもみなかったのか、千枝は嬉しそうな顔をしながら急ぎ足で自宅へと帰って行った。

 後に残ったりせは恨めしそうに大和を見上げていた。

 

「どうして里中先輩が泊まるのに賛成したの先輩? もしかして、私に隠れて……!」

「アホぬかせ、いいだろ泊まるぐらい。お前が居るんだから、何も問題はない」

「それってぇ、大和さんには私が居ればいいって……そういう意味?」

「都合の良い解釈をするな。ほれ、行くぞ」

「は~い」

 

 大和がどういった意を持って千枝の宿泊を許したか、りせは結局本当の所理解できなかった。もう終わってしまった事にいつまでも固執するより、今夜の対策を考える方がよっぽど有益だからだ。

 日が沈み暗くなった空を見上げ、改めてりせは負けられないと隣を歩く大和の腕を繋ぎ止めるように抱き締めた。

 

 

 ※

 

 

 千枝がマル久を訪れたのは鮫川河川敷で別れてから一時間位が経過した時だった。

 緊張した様子で敷地を跨いで大和に居間へと通され、りせの祖母に挨拶を済まし出されたお茶を一杯飲み干した。そこまでしてようやく彼女は落ち着きを取り戻し、一息吐く事が出来た。

 千枝にしては初めての大和の家である。二度ほど豆腐屋の方には顔を出したことがあったが、それに比べてやはり生活感漂うこの日本家屋は千枝には親しみを持てる趣きだった。

 

「千枝、飯はどうする食べてきたのか? もしまだなら一緒に作るけど」

「うん、食べる食べる。実は特訓が終わってから何も食べてないんだよねー、もうお腹が減って減って大変なのよ」

「そっかそれなら一緒に作っちまうわ」

 

 大和の手作り料理が食べられる。これは千枝にとって喜ばしい事だった。以前に行った林間学校の時に、大和の料理の腕は確認済みなので万が一にも自分や雪子が作ったような料理になるわけがないと確信を持てるからだ。何より、あの時食べたラーメンが美味しかったから。

 台所へと向かった大和を居間で見送る。残ったのは千枝を除いて一人だけ。りせの祖母は既に自室にこもっており、よって残るはりせだけ。

 一時は諦めたものの、やはり大和が千枝と良い雰囲気で会話をしているのが面白くないりせは、ちゃぶ台に突っ伏して顎を乗せて頬を膨らましていた。拗ねているのだ。

 ライバルと言えどこのまま険悪なままと言うのも嫌だった千枝は意を決してりせに話しかけようとした。その時だった。

 

「すまん、どうやら冷蔵庫に食材が全然ないわ」

「え、それってじゃあ」

「先輩の料理は、無しってこと」

「そうなるな。いまから買い物に行っても商店街はみんな殆ど締まってるし、どうする久し振りに店屋物にするか?」

 

 良いだろ、と返事も待たずに大和は携帯電話を取り出して電話帳を開いた。その時、千枝は天啓のようにひらめいた。

 

「それじゃああたし愛屋の肉丼が良いなっ」

「あっ、愛屋なら私はいつものでお願い先輩」

「あいよ……もしもし出前良いですか?」

 

 流暢に注文をする大和。

 千枝は肉丼が楽しみなのか座りながらもそわそわと忙しなく体を揺らしていた。近くでやられると鬱陶しいのか、りせが三白眼で横目に見ていた。

 しばらくして出前の到着を知らせるインターフォンが鳴った。中に這入ってきたのは、やはりと千枝が予感していた通り中村あいかだった。

 出前を頼むとどこであろうと、場所を伝えずとも現れる少女。それが中村あいかだった。

 

「毎度、おまちー」

 

 岡持ちをちゃぶ台の横に置き開くと、そこには豪華絢爛な料理が沢山詰まっているように千枝には見えた。

 中には千枝の頼んだ肉丼と、大和の頼んだチャーシュー面と餃子半チャーハンセット。それに、りせのいつものといっていた品。それは、

 

「これって……もしかして麻婆豆腐?」

「もしかしなくても、どこからどう見ても麻婆豆腐じゃないですか」

「いやあんた、この赤々としたのを麻婆豆腐とは……あたしは言いたくないわ」

 

 見るからに辛そうな赤さの麻婆豆腐は香りからして既に咽そうになってしまう程で、千枝は口角をひくつかせていた。

 りせにとってこれは常識なのか、大和も驚いた様子は見せずに淡々とあいかから品物を受け取りちゃぶ台に並べて行った。ふと、大和の目にもう一つ岡持ちが在るのが見えた。

 

「その岡持ちは、他の出前のか?」

「これは、サービス」

 

 そう言ってあいかは岡持ちを開いた。中を見た瞬間、千枝が思わずおおーと感嘆の声を漏らした。

 中に入っていたのは本来なら雨の日にしか出さない愛屋の特別メニュー、スペシャル肉丼だった。

 あいかは慣れた手つきでそれを取り出し、大和の食べ物が並ぶ場所に置いた。

 

「わたしからの気持ちだから、御代には入ってない」

「なんか悪いな。ま、貰えるってんならありがたくいただくわ。ありがとなあいか」

「なにそれっ!? ちょっと大和先輩っ」

「まぁまぁ、おちついてりせちゃん。……言い分は後にとっておこうよ」

 

 冷ややかな千枝の言葉に、りせの驚き様に、大和はまた始まったと思いつつあいかを巻き込まないように玄関先まで送り届けた。

 相変わらずの無表情で何を考えているのか大和にはわからないが、それでもまあ悪い子ではないのだろうと思い、感謝しつつあいかを見送った。

 

「先輩ってどうしてこう、周りに女の子ばかり侍らすの? 里中先輩も含めて。そういう癖でも持ってるのかな」

「確かに、あれは彼の悪い癖みたいなもんだね。というか一言余計だよ」

「だって、事実じゃないですかー」

「それはコッチの台詞でもあるからね」

 

 大和が玄関口に消え、二人が残った今では小規模な攻防が繰り広げられていた。

 しかし、言葉以上の険悪さは無く、どちらかと言えば仲の良い姉妹の言い争いに近い印象を覚える。

 

「それじゃ、飯も届いたことだし食うか」

「その前に、一つ先輩に聞きたい事があるんだけど……」

「あいかちゃんの気持ちって……どういうことなのかな」

 

 二人が結託して大和を責めた瞬間だった。今日の特訓の時から二人の小競り合いを見ていた大和としては、たとえ自分が敵になろうと二人が手を取り合うこの状況を、好ましく思ったのか責められている状況にも拘らず笑顔を溢した。

 

「あれはあいかなりの、常連に対する感謝の言葉なんだろ。あいつ不器用だし、勘ぐってもしょうがないだろ。ほら、さっさと食おうぜ」

「確かに、あいかちゃんってかなり不器用な子だからなぁそこらへん」

「なんか言い包められた気がするけど、ご飯時だから、まあ見逃してあげる」

「なんでそんな偉そうなんだりせは」

 

 食事は円満に進んだ。

 一度りせが千枝に、どうしてそんなにも肉丼が好きなのか問うたが。千枝は、ならどうしてそんなに辛そうな物を口に放る事が出来るのかを問い返していた。

 久しぶりの愛屋の味に、大和も箸が進みあっという間にチャーシュー麺と餃子半チャーハンセットを平らげ、さらにあいかからのサービスの品であるスペシャル肉丼もあっという間に平らげた。完食したとき、女子二人から称えられた。

 こうして夕飯が終わり、残す所は風呂に入って寝るぐらいだった。

 千枝としては大和の家に泊まる事で目的を達成したようなものだったからか、それより先の事を考えてなかった。よって、いざ風呂と大和に言われても、すぐには反応出来なかった。

 

「千枝はお客なんだし、今日は千枝が一番最初で良いぞ」

「そ、それじゃあお言葉に……甘えます」

「いってらっしゃーい……さ、大和さん、私たちはいつものようにその後一緒に入りましょ」

「いきなり何を言い出すんだお前はっ」

「大和君っ!?」

 

 千枝が激昂して咄嗟にトゥーキックを大和のこめかみにお見舞いした。不意を突かれた、と言ってもそれでも回避能力が十分に備わっている大和だったが、これを避けたところで千枝の機嫌が解消されるわけもないと考え、甘んじてそれを受ける事にした。衝撃が走ったが、ダメージは無かった。

 結局、りせの悪戯によって警戒をした千枝は、りせと一緒に風呂に入る事にした。昏倒したふりをして、大和はそれを見送った。

 

「まったく、ああいう冗談を言うのはやめてよね」

「だって、里中先輩って簡単に騙されるんだもん。面白くなっちゃってつい」

 

 脱衣所で服を脱ぎ棄て、二人は浴室へと入って行った。クラスの男子ならば血の涙を流しながら切望するような、りせの裸体がそこにはあった。同じ女である千枝でさえ思わず息を呑んだほどだった。

 テレビで水着姿を見た事はあったが、裸体を目の当たりにするのは当然ながら初めてだ。これは男子が食いつくのもよく分かるな、と千枝は独りごちた。

 一方の自分は平凡な体系だ、と少し女として落ち込む千枝だった。

 それほど広いわけでもない浴室で二人は上手い具合に座って身体を洗い、サッパリとした所で浴槽に肩までつかった。時折天井に出来た水滴が体にあたって、千枝は声を上げたのをりせが笑っていた。

 なんどか笑いあった後、ふと停止したように固まり、濛々と立ち上る湯気を挟んで、二人はお互いに沈黙したまま見合っていた。

 千枝はこの時を待っていた。風呂の話題が出た時、まず思いついたのはりせとちゃんとした会話をすることが出来る場だという事だった。大和に聞かれないように、りせと話をするなら浴室はうってつけだと思ったのだ。りせの言動が無くとも、千枝は始めからりせを誘うのを決めていたのだ。

 

「ねえ、りせちゃん」

「……なんですか里中先輩」

 

 何を言いたいのか、りせも理解しているのだろう。眼光は鋭くも、大和をまねるような不敵な笑みを崩すことなく千枝を見ている。

 

「わかっていると思うけど、話があるの」

「大和さん、の事ですよね?」

「うん」

 

 ぴちょんと水滴が浴槽の水面を叩く音がした。

 

「まず一応の確認なんだけど……りせちゃんは大和君の事が、好きなの?」

「そんな当たり前の事、今更確認するまでもないんじゃないですか」

「だから一応なんだよ。君は……どうしたいの? 大和君と、どうなりたいの?」

 

 そして、あの時の言葉は本気なのか。それを千枝は確かめたかった。

 りせは笑みを崩さない。

 

「私は、大和さんが大好き。だからずっと一緒に居たいし、居るつもりだよ」

 

 熱くなってきたのかりせは浴槽から出て縁に腰掛けた。

 水着モデルをした経験もあるだけあって、りせの肢体は流れるような流線型を描いており、女の千枝からしても目を奪われる歳不相応な妖艶さを持っていた。

 

「大和さんは私にとっての全て。だって、いつだって私を助けてくれて何でも出来るヒーローみたいな人なんだもん」

 

 自分が辛い時、いつだって傍に居たのは大和だった。出会ってまだ数か月ではあるが、それは千枝も同じことであるから言及をするつもりはない。だけど、千枝はりせのいう何でも出来るという部分に食いついた。

 

「でも、大和君はりせちゃんが思っているほど超人じゃないよ。ああ見えて内面は脆いし、なんどか身体を悪くして倒れたこともあるんだよ」

 

 りせが知らない大和の一面を千枝は話し始めた。

 それは転校してきてからの思い出で。大和がまだ自分らとは一線の距離を置いていたころの話。

 いつだったかのジュネスで見かけた逃げるように去った大和の事。あの時はちょうど奈々子を迎えて遊びに行った時だったのを良く覚えていた。千枝は当時こそどうして大和が逃げるようにその場を後にしたのか分からなかった。たんに自分らに気が付かなかったのでは、とも思ったが今にして思えば、大和が気が付かないわけがないのだ。

 あれは恐らく、大和の弱さなのだろうと、千枝は理解した。転校初日に感じた壁は、大和にとっての防衛線だったのだろう。彼は、人に近づくのを恐れている。そう思った。

 

「大和君はね、何でもないような顔をして余裕そうに笑うけど……それは人を寄せ付けないように、助けなんていらないって予防線を張ってるんだよ」

「……どうしてそう思うんですか? 大和さんに聞いたんですか?」

「ううん。聞いたって、絶対に答えてくれないよ。だから、あたしは彼を支えたいんだ」

「それは……好き……だから?」

「うん……だからりせちゃんに負けるつもりはないよ」

 

 大和に無償の愛を捧げるりせと、大和の弱さを支えたいと思う千枝。

 同じ献身でも、方向性が全く違う二人は鏡合わせのようにして向かい合う。千枝も熱くなってきたのか、浴槽から上がり縁に座った。

 りせからしてみれば、自分がしらない思い出を語る千枝を卑怯だと思った。だけど、同時に負けたくないという気持ちが湧き上がるのを感じた。

 自分がしらない弱さを持つ面の大和を語ったことで諦めさせようという魂胆なら、それは無駄だ。とりせは思った。そんなことで冷めるような恋なら、始めから自分はしない。自身をもってそれは言える。

 

「残念でしたね、里中先輩。私、そのくらいじゃ大和さんの事を諦める程簡単じゃないですよ」

「そうかもね、だからこそ話したんだよ」

「……?」

 

 言いたい事の意味がわからずりせは首を傾げた。

 

「あたしは大和君が好き、りせちゃんも大和君が好き。だけど、あたしはりせちゃんと仲良くしたいとも思ってるから」

「…………先輩は、お人好しですね」

「違うよ。ただ自分に自信が持てないだけの、臆病なんだよ」

 

 そう言ってほほ笑んだ千枝に、りせもまた警戒心を解いて笑顔をかえした。

 どちらからともなくお互い示し合わせたように右手を差し出した。それは奇しくもテレビの中で交わした偽りの契約の時のように―――。

 つないだ手からお互いの体温が巡る。あの時とは違って冷たさを感じられず、千枝は改めてりせの表情を窺って安堵した。空恐ろしく思った彼女はもう居ない。それだけでも、千枝は行動したかいがあったと思った。

 

「……ちょっと先輩、力が強すぎなんだけど」

「あっ、ごめん」

 

 りせの敬語は、もう解けていた。

 

 

 ※

 

 

 就寝時、千枝はりせの部屋で寝る事に決まり大和は就寝の挨拶をして自室へと戻って行った。

 ぎくしゃくした雰囲気はすでに霧散し、色々な話に花咲かせていた乙女達はやがて訪れた眠気に負け床につく事になった。

 会話がなくなって静かになり数時間。もそもそと布団が動き、りせが置き始めた。

 

「……せーんぱい、起きてますかー?」

 

 小さく、掠れるような声量で千枝が眠っているかどうかを確認したりせは、何度かそれを繰り返して千枝が反応を示さないのを確認すると、しめしめと笑みを浮かべて静かに部屋を出た。

 古くなった廊下を、音をたてないように細心の注意を払ってりせは進む。行く先はトイレでも、飲み物が入っている冷蔵庫でもない。慣れたように暗闇の中を歩くりせは、とある和室の引き戸の前で立ち止まった。そこは、大和の部屋だった。

 千枝とは違って鋭利な感覚を持っている大和に感づかれないように、りせはゆっくりと時間を掛けて戸を開いた。

 シンプルな大和の部屋の中央に、敷布団が敷いてあり、そこには当然大和の眠る姿があった。

 

「(さぁ、大和さん……りせちーが来ましたよー)」

 

 声を押し殺して笑いながら、りせが静かに眠る大和に近づいた。

 死人のように眠る大和の顔を見た瞬間、りせは吸い込まれるように見入ってしまった。ほんの少し悪戯をするだけで済まそうとしたのだが、そんなものは大和の寝顔を見た瞬間吹き飛んでしまった。

 規則正しく呼吸をつづける唇が目に映り、息を呑んだ。そしてこの唇とキスを交わしたのをりせは思い出して顔が熱くなるのを感じた。どういった理由でああしたのか、りせはわからないが、それは彼女に火を点けるには十分な火力を持っていた。

 

「(大和……さん)」

 

 幻覚に囚われたようにうつろな瞳で、次第に唇を近づけるりせ。

 彼女が大和を“先輩”ではなく“さん”と呼称するのは、人目が少ない時取り乱した時、もしくは大和への愛を示す時だけだ。先輩と呼べとは言われたが、他の人と同じ呼称ではいまいち特別感が無いと思ったからだ。

 あと二センチを残してりせはとうとう心臓の動機が激しくなって呼吸が苦しくなった。いつも大胆なアピールをしてはいるものの、いざ本番を迎えると狼狽えるりせ。彼女もまた年相応の乙女なのだ。

 

「(だけど、ここで躊躇してたら先には進めない!)」

 

 決意を固め、いざ突き進んだ瞬間。

 バンと大きく戸が柱を叩く音が鳴り響いた。その音に驚いたりせは、反射的に大和から離れ起き上がり背後を振り返った。

 そこには、悪鬼が立っていた。

 

「り~せ~、そういう抜け駆けは……あたし、狡いと思うなぁ……」

「さ、さとなか……先輩? これは最初からそのつもりじゃ、なかったんだよ? ホントだよ?」

「問答無用!」

 

 りせの言い分に聞く耳持たない千枝は彼女の襟を掴んで大和の部屋から出ようとした。

 しかし、りせも簡単には引き下がらなかった。

 

「なによぅ、別に良いじゃない! 減るもんじゃないし!」

「そういう問題かぁ! やっぱりあんたと仲良くなんて出来っこなぁーい!」

「それはコッチだって!」

 

 夜中だと言うのにも拘らず口論をし始めた二人の間で、眉を顰めて瞼を閉じている大和。

 どかどかと彼女達の足が時折、彼の身体を直撃したりしているのを、黙って受け入れているのは……なんかもう面倒くさくなったから。

 

「(……やるなら昼やってくれよ、せめて)」

 

 彼女らの言い争いは深夜まで続き、お陰で大和はその晩寝不足になってしまった。

 もう二度とりせが居る時に千枝を泊めるのはよそうと、そう思った日だった。

 

 

 ※

 

 

 結局、あの晩は眠れなかった。

 なんだってあの二人はああも水と油みたいに対立しあうんだよ。風呂場で仲良くなったかと思って安心した途端あれだ。いくらなんでも俺の身が持たん。強化されてて良かった本当に。

 翌朝も、何かと言い争いをしながら登校したせいで、通りがかった花村の視線が冷たかった。

 

「ねぇ、ちょっと」

「あっ? 誰だ……って、海老原か久しぶりだな」

 

 授業の合間の休み時間。飲み物でも買おうかと思って歩いていたら、海老原が声をかけてきた。相変わらずキツそうな顔をしている。

 

「どうしたんだ、なんか用か?」

「あんた昨日、鮫川に居たわよね?」

「いたけど、それが?」

「女の子二人と一緒に居たけど、あんたあたし以外にも手ぇ出してたんだ」

 

 なんでそうなる。いつ俺がお前に手を出したか詳しく言ってみろ。

 

「なんでそうなる……」

「ま、程々にしておかないと……いつか刺されるわよ。それだけ、またね“大和”」

「…………おう」

 

 そう言って柔らかい笑みを残して彼女は去って行った。最後に、どうしてか俺の後ろの方を見て。俺って、そう思われてたんだな。ちょっと生活態度改めようかな。

 とりあえず今は、後ろに控えているだろう千枝とりせから逃れる所から始めよう。

 まったく、相性がいいのか悪いのかよくわからん奴らだ。




今回は大和ではなく、主に千枝とりせに重点を置いて話しを作ってみました。
番外編だからこそ出来る軽い感じのラブコメっぽいぬるい修羅場。

本編ではもっと重くなる……かも。

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