第五十五話
ある所に唐突に医師から二十四時間後にお前は死んでしまうと宣告された一人の人間がいたとしよう。
そいつは現代医学ではどうすることもできず、もはや残された時間が過ぎるのをただただ待つだけの運命だ。
しかし残り十二時間になった時、そいつの前に死神が現れてこう言った。
「お前の命を助けてやろう。ただし、誰かがお前の代わりに死ぬことになる」
比類なきまでの権力者だろうと人類最強レベルで格闘技が強い屈強な肉体を持つ奴だろうといつかは死んでしまう。
だが、誰しも"それ"が訪れるのは明日ではないと信じて生きているに違いない。
つまりほとんどの奴がその死神に対してこう言うだろうぜ。
「他人なんかどうでもいいから自分を助けてくれ」
ってな。そりゃそうだろ。
阪中から持ち込まれた依頼は例によってハルヒ的不思議事件簿のひとつに分類されるわけだが、ま、どうでもいい。
話の主題はハルヒに終始すべきであり、犬がどうこうというよりは幽霊がどうこうという話が主となるべきだ。
もっとも今回の犯人は幽霊なんかではなく巨大カマドウマの時と同じく地球外生命体だったわけだが。
いずれにせよ学校が休みに入ればそういうトラブルと直面する機会も自ずと減るべきであって、嘆かわしいことに休み中の方が超常現象に直面しているのは何故なのだろうか。
ハルヒもハルヒだ。春休みが長くもない期間だということは重々承知のはずにも関わらず全くと言っていいほど俺は休めなかった。
何故かといえば毎日の如く俺はあいつと顔を合わせていたわけだ。SOS団で集まっていろんなとこに行くだけなら夏休みの再来であり、俺にも多少の休息時間があるはずなのだが、二人で市内外問わずに遊覧するものだからはっきり言って何が変わったという兆しは見られなかった。
しかし未だにわからないのがどうしてハルヒは俺と付き合ってくれているんだ。
「さあ、なんでかしらね」
当のハルヒ本人はもっともらしい理由を俺には一度も口にせず、謎は謎のままであるのが現状だ。
そりゃあこちとら健全な男子高校生であって、こんな可愛い女の子とくっつけるなら言うことなし。
現に春休み最終日を控えた今は俺の部屋でシャミセンの顔をわしわし触っている。俺そっちのけで。
「ハルヒよ、猫いじりの何が楽しいんだ? オレにはちっともわからねえ」
べつに猫が嫌いなわけではないがどちらかといえば俺は犬派なのだ。
一度でいいからアラスカンマラミュートを子犬から育ててみたいもんだ。
するとハルヒはくるっとこちらに顔を向けて。
「わからないの? 飼ってるのあんたなのに」
愚妹はともかく俺は飼いたくて飼っているわけではないということを忘れないでくれ。
そもそもの原因はお前にあるんだぞ。
「わかんないから訊いているんだぜ」
「猫が人類にとってどれだけ有益な存在なのかをあんたはわからないみたいね」
カリカリや猫缶を食べていくだけで外に散歩にも行かないこのにゃん太郎が穀潰し以上の役割があるとは思えないね。
一時は喋る珍獣として売り出せなくもなかったが今やその陰もなりをひそめてしまっている。
結論からいうと無益どころか損失しか生み出していない。猫など妹の遊び相手が関の山だ。
俺がその旨を述べるとハルヒは心底呆れた様子で。
「いい? 猫は人類より優れた生き物で―ー」
そこから小一時間ほどハルヒによる常人には到底理解できぬ猫トークが始まった。
悪いが猫の毛ほども俺は内容を覚えちゃいない。こいつの頭の中の自然界がビーストウォーズなことだけは俺にもわかるが。
だいたいそうこうしているうちにシャミセンは俺の部屋から出て行ったぞ。
「ま、今はこんなもんでいいわ。おいおい理解してもらうから」
猫の何を理解すりゃいいのやら。俺にとってはハルヒが猫並みに気まぐれな猫女みたいなもんだ。
それにしてもハルヒも随分と丸くなったもので、理不尽な命令こそあれど奇行らしい奇行は見られない。
喜ばしいことなのだろう。ストレスを溜めるのは愚かな行為だと某サラリーマンも言ってるしな。
なんて俺がどこか達観視っているとハルヒはこちらににじり寄ってきて。
「ねえ。あんたはさ、あたしとえっちなことをしたいとか思わないわけ?」
突然何言ってやがる。お前はもう少し恥じらいを持て恥じらいを。
いや、そういやハルヒは男子の眼の前で着替えようとするほどブッ飛んでる女だったっけ。
そりゃあしたいかしたくないかでいえば誰しもしたいと思うに決まっている、俺もそうだ。
「だがな、最低限の節度ってもんはオレにもある。こうしてお前と一緒にいられるだけで割かし満足してんだよ」
「納得いかないわ」
悪いがまたの機会ということにしてくれないか。少なくとも今日ではないぞ。
俺の家には母もいるし愚妹もいる。シャミセンだけなら大丈夫だが。
苦肉の策として俺は話題を変えることにした。
「明日は遠出すんだろ。ゆっくりしてるのが一番だと思わんのかね」
「自分がゆっくりしすぎたと思わないの? そんなんだから遅刻ばっかしてるんでしょ」
だいたい罰金制度というからには逆となる褒賞がないのがおかしいと俺は思う。
もっとも実際にはカネのやりとりではなく強制的な奢りという形である。
モチベーションの向上のためにも是非一位の奴には何かしらの褒美をあげるべきだ、と俺が述べたところ。
「ふふん。あんたも現金な奴じゃない。でもね、世の中金が全てってわけじゃないのよ。少なくともあたしは金で買えないわ」
そりゃそうだ。人身売買は国際条約で禁じられているからな。
宇宙人だろうが超能力者だろうが金で買える世の中じゃないのさ。
まずそういう連中は存在してないわけだ、表向きは。
「だから」
なんだと俺が言うよりも早く、ぬっと伸びたハルヒの手から放たれたデコピンが俺の額にコンと当たった。
痛くはないが俺の不快指数が上昇したのは確かだろう。
「明日ぐらいはあんたもしっかりしなさいよね」
はたしてハルヒのこの発言は何らかの前フリだったのか、いや、それにしては少々こじつけ気味ではある。
まあ、そうだな、翌日のことから語ろうかと思う。
春休み最後の日。この日は市外で行われるフリーマーケットに行くということになっていた。
なんでも本来であれば出品者側として参加したかったそうだが、審査にも時間がかかるので今回は下見もとい冷やかしに行くのだとか。
めぼしい物が置いてあるなら部費で買おうだのとハルヒ言っていた。しかし生徒会に文芸部の予算をストップされてないのが謎で仕方ない。
その辺は『機関』と北高に大なり小なりの繋がりがあるようで、いよいよもってうさんくさい連中である。
かくして我が愛車こと流星号を颯爽といつもの駅前目がけて走らせ、駐輪場のどこへ駐輪しようかと考えあぐねていると。
「やあ、久しぶりだね」
俺の後方から聞きなれない女の声が聞こえてきた。後方といってもマジに至近距離だ、間隔は三寸ばかりだったかもしれない。
慌てて振り返るも、そこにおられたのはどう見ても初対面なお方で、なかなかに顔が整っている女子であった。
彼女が着ている制服は間違いなく俺がかつて通っていた市外の某校とはそう遠くない場所に位置する私立校のもので、ショートヘアの女子高校生と思わしき人物は俺と同じく自転車のハンドルに手をかけて佇んでいる。
かつて電車で通学していた俺は毎朝のごとく駅を行き来するこの私立校の生徒の姿も見ていた。
その制服にどこか懐かしさを覚えた俺だが、他校どころか自分の学校の女子とさえまともに関わっていなかった俺がこの女子に見覚えなどあろうはずもなかった。
さて、なんと言えばいいのやら。ひょっとするとこの前クラスメートだったという男から電話がかかってきたように"キョン"の知り合いかもしれない。
しかしこういう時の便利な受け答えとして俺は一つの解答を持ち合わせている。
「……前にオレとどこかで会ったことあるか?」
普段ならカッコよすぎて自殺したくなるほどベタベタな台詞だが、俺の目的はナンパではない。
これで相手方の反応を伺おうというわけだ。ともすれば女子生徒はくくっと笑ってから。
「これは失敬、キミとは初めましてになるよ。今のは単なる確認……心理テストみたいなものさ」
なんだってんだ、気味が悪い。いっそのこと俺の発言を馬鹿にしてくれればわかりやすかったというものを。
俺はその女を無視してとっとと適当なスペースに愛車を駐輪し、その場から立ち去ろうとした。
「待ってくれないか」
だが女は俺を呼び止めようとした。
仕方がないので歩みを止めて立ち止る。
「何だよ」
「キミの方は僕に用はないかもしれないけど、僕の方はキミに用がある。つまらない話さ」
初対面の奴に絡まれるような用事などロクなものではない。
俺はキャッチセールスにも宗教にも興味はないぞ。
「キミはこの世界の住人ではないのだろう?」
途端に雲行きが怪しくなってきやがったと思えば女はそのようなことを口にした。
はっきり言って精神がやられてる奴の発言だぜ、それ。
「わけがわからねえな」
「ではアプローチの仕方を変えよう、僕はキミたちSOS団の裏の顔を知っている。宇宙人、未来人、異世界人に超能力者、そして神がかり的な能力を持つ涼宮さん」
この女は何者だ。いつぞやの朝倉涼子よろしく俺の命を狙う刺客なのか。
少なくともこいつは伊達や酔狂でこんなことを口走っている雰囲気ではない。
俺は女の一挙一動に注意しながらどうするべきかを考えていく。
「……なら話は早い。オレの質問はいたってシンプルだぜ、何が目的だ」
仮にこの女が腕を振るうだけで俺を即殺できるような輩だった場合、下手な刺激はできない。
俺にできることといえば時間を稼いで状況が変わるのを期待するぐらいだ。欲を言えば長門あたりに助けに来てもらいたい。
女はわざとらあしく片手で自分の前髪を遊ばせながら。
「何も。僕はただキミと話がしたいだけさ。キミは知らないかもしれないけれど僕は親友だったんだ」
「誰のこった」
「キョンさ」
だとしたら余計に謎だ。俺がそのキョンとかいう故人とは別人だと知覚できてるのは宇宙人と多分ハルヒぐらい。
この女は俺がキョンではないと認識できているということだ。
「といっても中学三年の時にクラスが同じだったというだけの間柄でね、卒業してそれきり音信不通。彼は僕をどう思ってたのかは今となってや知る由もない」
「そうかい。悪いがオレはお前の戯言につきあってる余裕も時間もないんだ、この辺で勘弁しちゃあくれねえか」
「手厳しいな」
女はどこ吹く風でそう呟くと、自転車を手押しして近くの有料駐輪場に入れて施錠した。
ちなみにその有料駐輪場は北高の自転車通学にあたって月極契約する人がいたりいなかったりする場所である。
俺はこっそり忍び足で駅前公園に向かって既に歩き出していたが、女は馴れ馴れしく俺の隣までやってきて。
「これから塾だ。しかも電車に乗らざるを得ない所にある」
「難儀なこった」
「今日は春休み最後の日だろう? そのような貴重な一日に朝から私鉄駅前まで来るとなれば、デートだろうか」
「さあな」
残念ながらそのような予定ではない。そんなイベントは一週間ほど前に散々やり尽くしたんでね。
県外の大型テーマパークまで連れてかれたおかげで春なのに俺の財布が冬模様なのはいうまでもなかろう。
すると不意に女はくっくっくと笑いを上げて。
「羨ましい限りだ。きっとキミは有意義な高校生活を送っているに違いない」
有意義ね。俺の理想としてはえも言えぬ晴耕雨読の日々なのだが、ハルヒはそれを好しとしそうにない。
しかしこの女の口ぶりはまるで自分の生活が有意義どころか非生産的とまで思えるほどだ。
「お前は違うってのか」
「もちろんさ、精神の削り合いをしているかのような毎日だ。僕の高校は心が落ち着かないし女っ気の欠片もない」
なるほどな。まあ、わからなくもない。なまじ頭のいい連中の中にぶち込まれると余計な心労が作用するというものだ。
今となってはそのような苦痛から解放されている俺だが、やがて訪れる大学受験を考えるとそうウカウカしてもいられぬ。
「それで? オレと話して気が済んだか? お前が何者かは知らねえが、ハルヒの前で迂闊な発言は控えてもらいたいんでね。早い話がとっとと失せな」
「……やれやれ。僕もキミと進む方向は同じらしいんだ。そう邪険にしないでほしい、心が痛む」
小規模な抵抗が功を奏さないのは何もハルヒ相手に限ったことではないようだ。
俺は基本的に紳士的な人間なので、間違っても女性に暴力で訴えるという手段はとらない。
よって話し合いで解決できなければ投了する他がないというわけである。
さて、お察しの方が大多数だと思われるが、俺はこの女に遭遇したおかげで中々のタイムロスをしてしまっている。
俺が駅前公園に到達する頃に本当の意味で遅刻していたのは火を見るより明らかだった。
当然、他の四人は既にいる。ハルヒは怒りを通り越して呆れた様子で。
「あんたの正気を疑ってたところよ。これで来なかったら磔刑も辞さなかったんだからね」
磔刑も何も、張り付けにできそうなものなど公園に植えられた木ぐらいしかないだろう。
そしてハルヒは頼みもしないのに俺についてきた女を見て、怪訝な表情を俺にぶつけた。
「……誰かしら」
道すがら出逢った名も知らぬ人物だ、というのが嘘偽りない説明だ。
我が心に一点の曇りなし。もっともこの女はともすれば火種になりかねない発言をしてくれた。
「僕はキョンの親友さ、そうだろう?」
などといって俺に同意を求めてきた女。下手に否定するのもあれなので乗っかっておく。
ボロが出られても困るが、長門がいるしなんとかなるだろ。俺はお茶を濁すかのように。
「らしいな……」
「ふーん。親友ねえ」
まるで異星人でも見るかのような奇異の視線を女にぶつけるハルヒ。
ひょっとしてハルヒなりに思う所があるのか、万年お花畑なこいつが。
「その親友さんがどうしたってのよ」
「たまたま行きがかりでキョンと再会しただけです。世間話に花を咲かせたいところだったのですが、どうやら彼も暇人ではないようですね」
「ええ、今日一日は予定が埋まってるわ」
人の予定を勝手に埋めるな、なんて言ったところで無駄もいいところだ。
そして俺の前にしゃしゃり出た女はハルヒに向かって右手を差し出し。
「佐々木です、はじめまして。またお会いするかはわかりかねますが、今後ともよろしくお願いします」
「涼宮です、こちらこそよろしく」
といってハルヒは握手に応じた。校内一に破天荒な輩といえど猫の皮を被る程度はできる。
ハルヒが事務的な挨拶を存外と容易く行えるということは去年の合宿の折に確認済みだ。
手を握りあっただけの所作の時間はそれほど長くなく、奇妙な空気が流れていた。
それから佐々木とやらは長門と朝比奈と古泉にもそれぞれ握手を交わしてからこちらに向き直って。
「キミは素晴らしい友人に恵まれているらしい。羨ましい限りだ」
そう言って俺たちに笑顔を振りまくと、きびすを返し北口駅の改札口へと消えていった。
魔法詠唱ができない状態異常にかかったばりに俺を含めた五人は沈黙していたが、やがてハルヒがぽつりと。
「あれがあんたの親友? 信じらんない」
「何がだよ」
「あんな綺麗な人と付き合ってたなんて」
いや、交際という意味での付き合いは無いだろ。多分。
俺としてもますますキョンの素性が気になる一方ではあるが。
「ま、あんたに浮気なんてできる度胸はないだろうけどね」
変な笑みを浮かべてそう言うハルヒ。
古泉、お前の意見を訊きたいところだ。
「ノーコメントで」
などと超能力者にあっさり躱されてしまった。
男は度胸とはいうが、浮気は度胸とかそういう問題ではないと思うんだがな。
長門よ、最近どうだ。
「……」
いつも通りの無言か。
それから佐々木の存在などなかったかのように気を取り直したハルヒは、恒例の朝比奈イジりと喫茶店でのブレイクタイムを実施すべくとっとと歩き出した。
「あんたの友達、変わってるわね」
お前ほどじゃないがな。それに今日初めて会ったばかりだ。などと口が裂けても言えまい。
とにかく、こうして出会っちまったわけだ。有無を言わさずして、な。