入ったことがないのでわからないが、きっと遠心分離機にかけられたような気分に違いない。
俺の視界はブラックアウトし、平衡感覚さえままならず身体の感覚の全てさえ失われたように思えた。
そして。
「――うぉぉおおっ!?」
俺は身体を支えることができなくなり、その場にしりもちをついた。
痛い。って、しりもちだと。つまり、床があるのか。
「……ここは」
薄暗い部屋の中らしい。
いいやここは見覚えがある。
「文芸部」
顔を上げた先には見慣れた長机とその上にパソコン。
辺りを見回しても誰もおらず、また、SOS団のアジトにあるような余計なものは置かれていない。
あの世界に回帰できたわけではないのだろうか。
「どういうこった」
驚くのはまだ早かった。しだいに俺は熱気を感じ、ついには額から汗さえにじみ出てきた。
これは変だ。冬の文芸部部室の寒さは一ヶ月もない短期間の間に思い知らされたのだ。
まるで熱帯夜。人工のものではなく自然の暑さを感じる。
「……どこだ……いや、いつだよ……」
立ち上がり、呟きながらモッズコートを脱ぎマフラーも外す。
長机の上に置いていたはずの学習鞄は見当たらない。
「オーライ。とにかくここに居ても始まらないらしいな」
コートとマフラーだけで済むものか。この暑さから逃れるためにブレザーも脱ぎ、それらを横脇に抱えながら俺は部室を飛び出した。
夜の校舎を徘徊するのは二回目であるが、今回は閉鎖空間ではなさそうだ。
宿直の教師にでも見つかると厄介極まりないので時折は物陰に潜みながらも急いで校舎を移動していく。
どうにかこうにか生徒玄関までやってきた俺だが自分の下駄箱を漁って外靴が出るとは思えない。
「……たまげたぜ」
だのに外靴は入っていた。俺のではない誰かのスニーカーだ。
しかも、某高級ブランドのものだ。モデルは少し古いが。
「悪く思わんでくれ」
これを持って帰れると嬉しい、なんてことを思いつつ校舎を脱出。
生徒玄関からは出られなさそうだったので一階廊下の窓からのことだ。
校門までいくと鉄扉があり、先にコート一式を外に放り投げると俺はいつぞやの涼宮さながらに鉄扉をよじ登った。
そして、着地。
「大脱走のマーチでも誰か歌ってくれるといいんだがな……」
携帯の日付時刻はてんでアテにならず電波も対応していないらしい。
渋々坂道を下ること十数分。北高から最寄のコンビニへと到達した。
ある時は涼宮と朝ごはんを調達しに行き、またつい先日は涼宮のためにモールを買ったあのコンビニだ。
最後に通りがかった時には『クリスマスケーキ予約受付中』なんて垂れ幕が店の外にあったはずだがこんな気温であるはずもない。
外気の温度から逃れるように店内に駆け込むと、すっかり恋しくなっていた冷やかな空気を味わえた。
「……」
どこのコンビニにもある光景、カウンター前に並ぶ新聞一部を俺は拝借。
偏った内容しか書かれていないために新聞嫌いの俺がこの時ばかりはやけに素直に紙面の情報を拾い上げた。
「そういうことかよ」
どこまでも涼宮は俺と関わってくれるらしい。だと、思ってたぜ。
一番上の西暦、その日付、それは間違いなく俺がいた時代から三年前であり、今は七月七日らしい。
店の奥の壁際にかかっている時計が刻む時刻は八時三十分を通過している。
だが、俺はどうすればいいんだ。
「……どうもこうもねえだろうが」
ここがどの世界かを確かめる方法が一つだけある。
直接涼宮に会うなんてリスキーな方法よりは安全だろう。
俺が朝比奈に飛ばされた三年前ならば、駅前公園に俺がいる。
もしそこに俺がいなければここは俺の世界だってことだ。
後者であった場合いよいよもって頼れるものがなくなってしまうではないか。
前者を願うばかりだ。大人朝比奈ならば何か知っているに違いない。
「……」
冷やかしもいいとこでコンビニを後にし、俺は光陽院駅駅前公園を目指して走り出した。
ここが涼宮と北高生の俺が出会った世界だとして、大人朝比奈に会えなければ困るからだ。
だが、急いでも三十分近くが経過しただろう。それでも公園近くに辿り着いた俺は。
「見つけた、ぜ」
ちょうど大人朝比奈が公園から外へ出たところらしく、彼女は背を向けて遠ざかろうとしている。
俺はどうにか身体にムチを入れて力を振り絞り。
「待ちやがれ!」
彼女の後ろまで追いついて叫んだ。
足を止めた彼女はゆっくりと振り向いて。
「……こんばんは」
古泉のよりはよっぽど目にいい笑顔を見せてくれた。
あいさつを返したいところだが。
「どうなってやがる。説明しろ、朝比奈」
「長い話になります……あなたも疲れたでしょう? 座れるところでお話ししませんか」
釈然としない態度だが断る理由はとりあえずない。
二人して公園に入ると俺と大人朝比奈はベンチに座る。
もしかしたらさっきまで別の俺がここに座っていたのかもしれない。
朝比奈がいるということはそういうことだ。
世間話などさせずに俺は早速隣に居座る彼女に対して。
「いくつか質問がある」
「なんでしょう」
「さっきまでオレがいた世界のことだ」
長門の緊急脱出プログラムとやらの前置き文では、俺が俺じゃなくなっていると書いていた。
俺の世界とはやや違うが、それでも俺の世界に近い世界だった。
「オレが世界を移動していたのか、世界の方が変わっていたのか、どっちなんだ?」
「……両方です」
「あの世界は……オレが、生まれた世界なのか?」
「詳しいことは話せません」
俺は横の女に掴みかかってやりたくなった。
彼女を婦女暴行しても気が済まないような怒りに支配されつつある。
「どうして答えられねえんだ」
「今のあなたには既に関係のないことだからです」
「……そん、な」
「あなたはこちら側を選びました」
ああ、そうだよ。
間違いない。
エンターキーを押したさ。
「全ては結果です。あなたがあの世界のことを知ったところで意味がありますか? それにわたしにもあの世界がこの先どう回っていくかなんてことはわかりません」
「ならあんたの知ってることを話してくれ、じゃないと、オレは」
「正確には、あなたが飛ばされた世界はあなたが生まれついた世界ではありません。同じだけど違うの」
「どう違うんだ」
「知らない方がいいわ」
どちくしょうが。
だが、この女に頼るほかないという事実が俺をなんとかコントロールしていた。
「……腑に落ちない点がある」
俺の認識についてだ。
俺はどこまで自分の認識を操作されているんだ。
何より。
「オレの家族だ」
家族構成までキョンと俺は同じだってのか。
小学五年生のちんちくりんな妹も。
「なあ、オレの頭をこれ以上弄らないでくれ」
「……わたしにはどうすることもできません」
「オレの家族は本当にオレの家族なのか……?」
「この世界のあなたの家族はあなたの家族ですよ。わたしが言えるのはそれだけです」
つまりあっちの世界に関しては何の保証もないってことだ。
あっちの愚妹がキョンの妹だとして、俺の妹はどうなったんだろうか。
俺は死んだことになっているのだから彼女は一人になっているに違いない。
「それは禁則事項です」
「……はっ」
わけ、わかんねえよ。
だからきっと涼宮にとってもそうだったんだろう。
次に彼女の口から語られた仕事の内容。
「それこそがあなたの役割なんです」
「……なるほどな。一回じゃあ不十分だったってのか?」
「ううん。これも詳しいことは説明できませんが、涼宮さんに必要なことなの」
「いいぜオーケイだ。オレがあいつを北高に呼べばいいんだな?」
七がつけばラッキーセブンだなんて考えはどうかと思うね。
七夕だってそうだ。全ての始まりにしては出来すぎてる。
俺はマフラーを除くコート一式を大人朝比奈に持ってもらい、渋々住宅街へと向かうことにした。
もし俺がタイムマシン開発者に文句を言える立場だとしたら、もう少しどうにかならんのかと言ってやりたい。
時間移動の際の強烈な不快感の正体は時間酔いとかいうそのまんますぎるネーミングの症状だそうだ。
ともすれば長門式緊急脱出装置の折りも似たような感覚を覚えたので、現在俺は通算四度目の快挙となっている。
本格的に俺は未来人を名乗っていいのではないだろうか。
「……到着しましたよ」
大人朝比奈の声に従い閉じていた目を開く俺。
あれから俺は一仕事終えた後に元の時間軸へと戻されることになった。
「十二月十八日、午前四時十八分……もうすぐです」
ここは北高付近の一角だ。
すぐ近くに平日限定で開店している駄菓子屋がある。
わざわざこんな所に飛ばされた理由は――
――って。
「さ、寒いんだが……」
「ふ、冬ですから」
大人朝比奈も冬に適した格好をしていなかったので震えている。
この女、思わせぶりな態度をとるくせにやけに抜けているではないか。
「……これを着るといい」
渋々ブレザーだけで乗り切ることにした俺はコートを朝比奈に手渡す。
少しぶかぶかなようであったが何も着ないのとは段違いだろう。
「ごめんね、わたしドジだから」
「気にすんな」
ドジよりもタチの悪い破天荒娘を俺は二人も知ってるからな。涼宮と愚妹だ。
朝比奈は一呼吸置いてから真剣な眼差しで。
「……あなたにはこれからこの事件の犯人に会ってもらいます」
そいつを止める――というか説得――のが俺の仕事だそうだ。
つくづく無理な要求だと思うのだが、俺が行く必要があるらしい。
時間の流れとかそういうのが関係するのか?
どうにも未来人の立ち位置が不明だ。
「鬼が出るか蛇が出るか……あんたは犯人が誰か知ってるんだろ」
朝比奈は無言だったが否定しなかった。
かくいう俺も犯人が何者かが気になっている。
そいつに文句の一つでも言えずに解決とはいかないさ。
「……気を付けてね」
「もちろんだ」
その一張羅をお前に預けたまま、なんてのはごめんだ。
件の犯人。北高の校門の前にそいつはいるらしい。
俺は一人でそいつのもとを目指して歩いていく。
「――驚いたぜ」
そして、そいつはそこにいた。
街灯に照らされながら道路の真ん中で。
「まさか……な。涼宮の仕業じゃあねえと思っていたが、やはりお前か」
冬の風に揺られながら、だ。
北高制服のスカートも長い髪も揺れていた。
そいつは俺に気付いて驚いた様子で。
「……あなた、どうしてここに」
「さあな。オレが聞きたいぐらいだぜ」
きっと全ての元凶はお前なのかも、とは思ってたさ。
今回の犯人、いや。
「"キョン"を殺したお前ならな」
俺がこの世界で最初に出会った相手。
北高生で宇宙人の朝倉涼子が、そこにいた。
未だに明るくならない早朝の空気の中で。
「答えろ」
「……」
「お前は一体、なんだってオレをあんな世界に」
「あなた、勘違いしてるわよ」
唖然としていたのも一瞬で、彼女はいつも通りの笑顔になった。
俺にはやはりその表情が酷く不気味なものに見えた。
「自分が主人公か何かだと勘違いしてるんじゃないかしら?」
「……何が言いてえ」
「一つ教えてあげるわ。あなただけを消すつもりじゃないのよ。そう、これからこの世界を書き換える」
「それがお前の目的か?」
「違うわ。私の目的は変えること……」
何がどう違うのかは俺には不明だ。
古泉に言っても多分理解できないだろう。
朝倉はおどけた調子で。
「あなたはよくやってくれてる。認めてあげるわよ。でもね、それじゃ足りないのよ」
「地球語で頼む」
「何より涼宮さんじゃ役者不足みたいなの。だから――」
先に言っておく。
俺と朝倉涼子の二者間距離は五メートルぐらいはあったはずだ、と。
「――私がやることにしたから」
俺の動体視力が優れていたのか、朝倉の狙いが狂ったのか。
何にせよ次の瞬間には俺の左腕に妙な感触を覚えた。
とん、と冷たい感触がした。二の腕辺りだったと思う。
「……な」
「あら」
ナイフだ。
深々と突き刺さっていた。
しかし朝倉が狙っていたのは間違いなく致命傷なはずだ。
痛みに悶える暇もなく、朝倉がナイフを素早く引き抜くとそのまま俺の顔目がけて近づけてくる。
「う、ぐ……」
「……頑張るわね」
だが右手でエッジを掴んでどうにか堪える。
もっとも気休めにもならなかった。ナイフの刃を掴むなど悪手もいいとこだ。
その上宇宙人の筋力は俺よりも上らしく、スパッと引き抜かれた。
「いぃぃっ……」
ぽたぽたと血が流れ出る。
右手のひらと左腕。
「こんなのはどうかしら?」
なんて朝倉が言ったかと思えば衝撃と同時に俺の右ひざに爆発したかのような激痛が走った。
もはや立つことも叶わずに俺はその場に崩れ落ちる。
「がっ……」
「有機生命体の接合部って脆いのね。手加減した方なのよ?」
「……お、おま、え……」
「私はただあなたの脚を蹴っただけなのに」
涼宮も大概なゴリラ女だがこいつはその上だってのか。
よりによってひざを狙うかね。選手生命が危うい。
なんて軽口すら叩けないほどに俺は生命そのものの危機に瀕している。
特に最後のひざへの一撃がヤバい。意識が飛びそうだ。
朝倉はあっさりと。
「じゃ、とどめね」
再びナイフを手に持ってうずくまりかけている俺の顔に突き立てんと手を振り下ろす。
彼女の力ならば俺の脳にまでさっくり刺さるかもしれない。マジで絶命五秒前だ。
くそが、ふざけんじゃねえ。
「――え?」
「……」
そのナイフの切っ先は俺へと達することはなかった。
横から伸びた誰かの手がナイフのエッジを掴んでいる。
さっきの俺みたいに。いや、俺なんかよりもよっぽど戦えそうな奴だ。
「……あなたはとても優秀。だけど詰め(チェック)が甘い」
「へぇ。私の邪魔をするつもり?」
「既に警告はしたはず」
「私たちの目的達成のために涼宮さんの力を使うのが一番の近道じゃない」
「その行為は許可されていない」
俺を庇うような形で、眼鏡の少女が立っていた。
長門有希が立っていた。
「前にも言ったわよね。それはあなたの派閥の話でしょ?」
「……最終通告。自身の武装解除を推奨する」
「いやだって言ったら?」
「やってみるといい」
残念ながらスカートの中を拝むような気力は俺にない。
情けない話だが歯を食いしばるのがやっとだ。
右手はまだしも左腕の血がヤバい。脈をやられたってヤツだろうか。
「ふふふふふふふ。あなたが私に勝てると思うの? その足手まといを庇いつつ」
「朝倉涼子。あなたの相手はわたしではない」
「なんですって……?」
よくわからねえ、意識が朦朧としつつある。
じんわりとした熱が暴走しているような感覚だ。
痛みというよりは麻痺に近い。
「喜緑江美里。彼女はあなたの監視係であり、わたしよりも上位の権限が与えられている。あなたの排除は彼女の仕事」
「うん、いいわ、やってやろうじゃないの。あの女の次は長門さんね。一応言っておくけど逃げても無駄だから」
そして朝倉の姿は長門の前から消えたらしい。
喜緑がどこかにいるのか。その女も宇宙人らしい。
二人は別の場所で戦うつもりなのか。
「な、がと……」
俺は最後の力を使って声を出す。
俺に気付いた長門は振り返る。
彼女の右手からも血が流れているが、何ら気にしていない様子だ。
それどころか申し訳なさそうに。
「遅れてしまった」
いいや、そんなことはどうでもいいのさ。
とにかくどうでもいいから。
「あ、さ倉を……殺、す……な……」
走馬灯が見えてもおかしくねえな。
段々と夢の中のような浮遊感を覚えながら俺の意識は失せていく――