そして、十二月二十日。
結局"鍵"とやらがなんなのか俺にはわからず終いだ。
でも、俺には何か確信めいたものがあった。
「涼宮……」
あいつならどうにかしてくれる。
超常的パワーがなかろうがあいつには凄い力がある。
世界中の誰もが羨む、そんな力だ。
「おはよーキョンくんー」
できればこんな呼び方で俺の部屋に突撃してくる愚妹とはこれっきりにしたいものだ。
明日は土曜日。確かに平日のうちに片付いた方がスッキリするさ。
「今日はシャミと遊ぶもんねー」
「妹よ」
さっさと毛玉生物を確保してご満悦な愚妹に向かって言う。
もっとも精神的な保険に過ぎないが。
「オレのことは『お兄ちゃん』と呼べ」
能天気頭のこいつには効果がなさそうだったと述べておく。
朝食を終えた俺は、制服に着替えるだけ着替えると。
「……フッ」
制服、か。北高の制服を着るのがまるで自然みたいな物言いだ。
半年近く続けていたらいつのまにか俺は思考を放棄していたらしい。
俺はこの状況にあって何か真実に辿り着けるのだろうか。
わからない。でも、考えなきゃならない。
「……」
だから悩むのをやめた。この世界のことだとかその他諸々は後で悩めばいい。
昨日、長門に明後日は一緒に出掛けようと言ったのも結局は保険でしかない。
緑のブレザーに着替えた俺だが学習鞄は持たなかった。モッズコートを羽織り青いマフラーを首に巻くと俺は旅人のように家を出て行った。
「……」
いつもの二割、いや三割どころか四割は早く家を出たに違いない。
早歩きだった足も自然と駆け出していた。駅へと向かって。否、駅前にある目的地へと。
「……なあ」
古泉よ。いつだったかお前は俺に覚悟があるのか、と言っていたな。
残念ながらその質問は今更だったらしい。俺は涼宮ハルヒとキスをしたあの時から。
「いや……」
ずっともっと早い、そう、初めてあいつとまともに関わった俺にとっての三年前、七月七日のあの日から。
中途半端だったかもしれないが、覚悟していたのかもしれない。何かの始まりを覚悟してあいつに声をかけたのかもしれない。
そして今はもう大丈夫だ。迷わなければ、悩まなければいいだけの話なんだ。
人間はよく、やらないで後悔するよりもやってから後悔した方がいい、と言うではないか。
さっきわかったんだ。ここの長門有希と俺の知る涼宮ハルヒは、程遠い存在のようでいてある一点において酷似していた。
「……っ」
儚く、脆く、弱い存在だ。
涼宮も本質的には強い人間ではない。わかる奴にはわかるのさ。
俺は知ってる。忘れてやるもんか。あっちが忘れたなら思い出させてやればいい。
だから、まず、会えればいい。彼女ならどうにかしてくれる。
「はぁ……はぁ……」
我ながらよく頑張ったもんだ。自己ベスト更新かもしれない。
気がつけば無駄に壮大にも見える校舎が奥手に潜む校門の近くまで来ていた。
ここは間違いなく光陽園学院なのだろう。校門の所に張り付いているプレートにもそう刻まれている。
まだ時間は七時台なだけあって人影は見えない、が、私立校なだけあってセキュリティはとてつもなさそうだ。
門の近くには警備員室があってこんな時間からスタンバってる。涼宮のように突っ切っていけば確保されるだろうな。
俺も易々と取り押さえられるような奴ではないがリスクを冒す割りに合う行動ではない。警察まで来られたらと思うだけで及び腰だ。
他ルートからの侵入も、有刺鉄線付きのフェンスがそれを断念させている。
「……しょうが――」
ねえな、と言う前に口をつぐみ、俺は校門から少し距離を置いて待つことにした。
登校中の生徒に声をかけるってのもともすれば警備員の目に入れば厄介だが、その時はその時だ。
視界に入らないように手短に話が済めばいいんだがな。
「……」
相も変わらずに冬の空はどんよりしている。
待ちながら自然と俺はコートの右ポケットに手が伸びた。
「プログラム、ね」
中の栞が入っている感触を確かめながら呟く。
このプログラムとやらが希望的なものであるということが俺の希望であった。
かくして待ち続けていると二、三十分もしないうちに視線の先から人影が見え始めた。
一人、二人、女子生徒が何人か続いたと思えば男子生徒の顔もあった。
あれはどこかで見たことがある顔だな。
「……ん」
そうだ。文化祭の時、古泉と一緒に演劇に出ていた野郎だ。
名前は知らないが一年九組の野郎ではなかろうか。
なんて思っているとしだいにぞろぞろと人が門へと押し寄せ始めた。
我ながらまずった。こりゃ悪手だったか。もしここで涼宮を見失おうもんなら半日コースが確定だ。
勘弁してくれ、とまでは言わないがスピーディーに行くにこしたことはなかろう。
集中して生徒の顔を吟味しながら俺は考え始めた。今まで考え付きはしたが、なるべく無視してきた考えだ。
つまるところやはりこれが涼宮の仕業であって、俺や異端者三人は共々用済みになったということ。
元々世界は一つしかなくて今までのは全部あいつが好き勝手に世界を書き換えた末の話だったのさ。
――ジーザス、いや、オーマイゴッド。
もしこの世界で涼宮は満足するようになっていたら心変わりさせりゃいいだけだ。
俺が一番危惧しているのは、認めたくないのは、俺の代わりをあいつが用意しているってことだ。
おっ死んじまったあの世界のキョンには申し訳ないが、俺は涼宮を渡したくはない。
俺が諦めるのはあいつに正面切ってフられた時だけだ。こんな不意打ちみたいなマネを認めるものか。
認めて、やるものか。
「……ああ」
ちくしょう。いともたやすく見つかったじゃねえか。
誰でもいいからこの世のどこかにいる誰かの分の勇気を盗んで、俺はもう一度覚悟を決めた。
最初の一歩さえ動けば、後は繰り返しなんだ。歩き出すってのはそういうことなんだ。
俺は立ち止っていた足をゆっくり、しかし確実に動かしていく。
家まで乗り込まなかっただけ俺は良心的な奴だ。まあ、最悪の場合はそうしていたが。
とにかく俺は十数メートル先にある人波へとついには駆けていき、かき分けていった。
黒のブレザーに身を包んだお高くとまった優等生連中の中にそいつはいたんだ。
「おい、女!」
――いや。
「涼宮ハルヒ!」
周りの連中は俺をなんだと思っているだろうか。
不審者、ストーカー、いやいや同世代の野郎相手に失敬な。
俺にとってはどうでもいいんだがな。
「……なによ。……っていうかあんた誰?」
冬の寒さなど彼女には関係なかった。
コートも羽織らず黒いブレザーだけが見受けられる彼女。
いつも通りリボンカチューシャをつけていた、が、髪の長さは腰より先まであるほどの超ロングヘア。
長い髪の手入れは入念なのだろう。ボサボサなようには見られない。
その、涼宮ハルヒは不快そうに俺を見ている。
「あたしの名前を知ってるってことは……もしかしてあんたストーカー?」
「さあな、なんのことだか」
周りの生徒連中はこちらを気にしながらも構わずに校門へと進んでいるようであった。
もしかしてこいつはこの学校でも変人ぶりを発揮しているのか。
これが朝比奈だったらすぐに野郎が俺に跳んできそうなもんだが。
なんて思っていると。
「いかがなされましたか、涼宮さん」
涼宮の右隣に現れたのはつい先日まで顔をつき合わせていた野郎だ。
ハンサムながらも俺を警戒するような細い目で見ている。
服装は緑のブレザーではなく学ランだった。
「古泉、一樹か」
「……僕のことをご存知なのですか……?」
余計に警戒心を煽ってしまったのかもしれないがとにかくとっかかりはできた。
にしても一年九組の出向先がよもや光陽園とはな。共学だってことさえまず気付かないだろ。
手の込んだやり方なのか、いいや手抜きだ。涼宮ならもっと遠くへ飛ばすはずだ。
「とっくにご存知なんだぜ。お前のことも、そこの涼宮のこともな」
「失礼。あなたと僕はどこかでお会いしましたか?」
「初対面さ」
わざとらしく肩をすくめて言ってやった。
いつもは古泉が演じるピエロだが、今日限定で俺のターンだ。
彼の隣の涼宮は、ふん、と切り捨てるように声を出してから。
「気味が悪いわ……。行きましょ、古泉くん」
「いいんですか?」
「こいつがつきまとってくるようならあたしじゃなくて国家権力が相手になるだけよ」
「……それもそうですね」
二人で完結してしまったようで俺の前から立ち去ろうとした。
ふざけんな。俺の話はこれから先なんだぜ。
「待て」
「……ちょっといいかげんにしなさいよ」
「オレの質問に答えてくれりゃあそれでいい。何、数分もかからんさ。それでお前の気が済むなら俺は大人しく立ち去ろう。二度と、お前の前に姿を見せないでやるさ」
溜息を吐いて馬鹿を見るような目で俺を見る涼宮。
悪いがこっちはその視線に慣れっこなのさ。いつの間にかな。
俺の質問は単純なものだ。
「今から三年前の七月七日の話だ。七夕。あの日、東中学校のグラウンドに地上絵を描いたのはお前だな?」
「ええ、そうね。それがどうしたのよ。新聞にも載るようなちょっとした騒ぎになったからあたしのことを知ってる人はだいたい知ってるわ」
「お前の単独犯か?」
「……何が言いたいの」
目の色が変わった。
どうやらアタリを引いたらしいな。
「七夕の地上絵を描いた事件はお前の単独犯だったのか、と訊いているんだぜ。え? 涼宮ハルヒ」
「……もちろんよ」
「嘘だな」
ここで俺が切るべきカードは二枚ある。
どっちかがアタリで、どっちかがハズレだ。
俺はどれを選べばいいんだ。どの名前を使えばいい?
散々悩んだが未だに結論は出せちゃいねえ。
当然だ。この瞬間まで先送りにしたんだからな。
「あんたさっきから意味わかんないわ。急に出てきたかと思えば質問に答えろ、で、その内容が三年前の話って――」
考えろ、考えろ。
俺は、どうすればいい――
――そんな時、ふいに、俺の脳内にある日のやりとりが回想された。
五月の某日。涼宮と灰色空間ですったもんだした翌日の文芸部部室。
あの世界の、宇宙人の長門有希との会話だ。
彼女は俺に危機が迫るかもしれないと言った。
俺はそれを受けて。
『オレが死んでもまた代わりがいるだろ……』
『いない』
なあ、長門。
お前を信じていいんだな?
『どうぞ』
ありがとう。今、受け取ったぜ。
ま、最初からわかりきってたんだがな。
俺に勇気をくれたのはお前だったんだ。
俺は一人の男の名前を呟いた。
「……えっ?」
すると、涼宮の顔は変わった。
誰がどう見ても驚いているようである。
「お前とそいつの共犯だ。違うか?」
「……違うわ」
「嘘をつくんじゃあねえ!」
名前に反応しただろうが。聞いたことあるって顔に書いてある。
それは、間違いなくこの世界で俺が剥奪されたはずの。
「オレの名前なんだ! オレの、オレのな……」
ああ、ちくしょう。今日は最悪の一日なのかもしれない。
彼女は暗黙のうちにこれを認めてしまっている。
つまりここはやはり俺の世界だ。
「……」
「……」
まるでデカいハンマーで頭を殴られたような感覚だ。
立っているのもやっとな状態。脳の血の巡りは悪く、膝は今にも折れそうで、五臓六腑はうねりを上げる。
俺は身体中の骨が軋み、寒さではないところから震えがきている。
「なんであんたが。嘘よ、そんなはずないじゃないの」
古泉は何も言わずに佇み、涼宮は確認するように口を開いて言葉を紡いだ。
次の一言で本当に俺は倒れそうになったね。
「だってあいつは……死んだはずよ……」
涼宮までもが倒れそうな顔をしていた。
幽霊を見たかのような、そんな様子だった。
おそらくこのままでは永遠にこの状態が続いていたのかもしれない。
見かねた古泉が。
「お二方、僕には何を話しているのかわかりかねますが、差し当たって僕たちには授業が控えています」
そういやこいつは副団長に任命されてたんだっけ。
夏の合宿の時に合宿地を提供した功績を称えられて。
「あなたも学生でしょう。コートの下の制服から見て北高生のようだ。すみませんがこの場は一旦お開きにしてまた後程話を伺うというのは――」
「……駄目だ」
俺の話はこれから始まるんだ。
一分や二分で終わるかよ。
「もうすぐ冬休みなんだぜ。一日ぐらいフけたってべつに構わんだろうが」
それから俺によって半ば強制的に二人を連行して話し合いの場が作られた。
光陽園学院生の人波を逆流する俺と涼宮と古泉。道中は無言だった。
で、いつも通りに駅前の喫茶店といきたかったがこんな時間に空いているわけもない。
同じ駅前通りにある某ファストフード店に入ることにした。
「オレの奢りだ……好きなもん頼みやがれ……」
俺はホットコーヒー、古泉はアイスティー、涼宮はフライドポテトとコーラ。
制服姿の三人がどう見られているのかは知らないが、喫茶店よりはここに居る方が自然だろう。
いずれにせよこんな時間なので不良に思われているのは確かだろうがな。
安っぽいテーブルの上に注文したものを各々置いていく。
席は俺の向かいに涼宮と古泉が並ぶ形だ。腹立たしいことこの上ない光景だな。
まず口を開いたのは落ち着かない様子の涼宮である。
「……あんた、何者なの?」
「自己紹介が必要か。名乗ったはずだぜ」
「本当の名前よ。この際あんたがなんであいつのことを知ってるかなんてどうでもいいから」
むしろ本名がさっき名乗った方であり、今、俺が認知されているらしいキョンの本名ではない。
とりあえずこう答えよう。
「名無しの権兵衛(ジョン・ドゥ)」
「答えるつもりはないみたいね」
キッと睨むような視線を俺に浴びせる涼宮。
古泉は再び空気を読んでくれているのか空気と化していた。
こいつには関係ない話だしな。
「オレの方が訊きたいぐらいだ。『死んだはず』ってのはどういうこった」
これもあまり考えたくはない話だった。全部、俺の勘違いになってしまうからだ。
涼宮は視線を落とし、思い出すように語り始めた。
「あの日、七夕の地上絵を手伝ってくれた奴が居た。同じクラスの男子だったわ。あの地上絵は実を言うとほとんどそいつが描いたの……あたしは指示と細かい個所の修正ぐらいね」
俺の記憶となんら変わりないらしい。
その翌日に涼宮は自分の単独犯だと教師に自白。
何故そんなことをしたかは謎に包まれたまま事件は終息。
「あたしは気にしてなかったけど、そいつとは中学三年間、ずっと同じクラスだった」
「……いいや、違うね。小学校五年生からだ」
「あんたそんなことまで知ってるのね……」
もうこれ以上驚けないのか涼宮は普通に流した。
「卒業式の日にお礼を言ったわ。三年前、手伝ってくれてありがとうってね。そこで初めてあいつの名前をちゃんと覚えた」
失礼な奴である。
涼宮らしいが。
「その翌日よ。あいつは交通事故で死んだ……トラックに撥ねられたそうよ。ニュースでやってた。信じられなかったけど本当みたい。谷口って奴に確認したけど、あいつで間違いないって」
「んなはずねえだろ!」
俺は問題なく生きていた。憶えている。
半年の間、隣町の進学校に通っていた。
電車を使って通学していた。
「……うん。四月から隣町の高校に通うはずだったって聞いたわ」
はず、ってなんだよ。おかしいじゃないか。
意味が分からないし笑えない。俺が死んだって?
いつ? どこでだ?
「解せませんね」
俺の心中を代弁するかのように古泉一樹が口を開いた。
そして俺をたしなめるように。
「あなたの意図がまるで見えてきません」
「なんだよ……」
「三年前の話など、例え涼宮さんが誰かに言わなかったとしてもその共犯者の方に聞けばわかることです。あなたは単にそのお方と親しかっただけでは?」
暴論ではないか。
だが、一理はある。
「だいたいからしてあなたが涼宮さんにその話をする意味はなんでしょうか?」
「……」
「丸っきり与太話というわけでもないようですが、涼宮さんはあなたそのものには心当たりがないそうですよ」
こいつの中では自分の名前など簡単に調べられるとか思っているんだろう。
そこら辺は深く追求してこないし、こちらが指摘してもその可能性を提示できる。
さて、どうしたものか。
「古泉くん、こいつはまだ説明が終わってないわよ」
涼宮はむすっとした顔で言った。
彼女は意外にもこちらの味方をしているらしい。
「あんたが何者か。あいつから今の話を聞いたってだけなら……もうあたしに関わらないで。べつにただの知り合いが一人死んだだけの話。とてもじゃないけど愉快な気分にはなれないの」
「あたしに関わるな、ね。お前は普通の人間に興味がないからか?」
「ふん。よくわかってるじゃない」
挑発的な笑みを浮かべた涼宮。それも一瞬ではあったが、俺は嬉しくなった。
こいつにとって面白くない話だったから嫌な気分になったんだろうさ。
それもそうだな。こいつは人が死んで愉快になれるような悪魔みたいな女じゃない。
自己中心的なのは自分が見放されたくないから。そんな捻くれ者だ。
「だったらこんな話はどうだ」
「あたしの質問に答えなさいよ」
「答えてやる。……実はオレ、異世界人なんだ」
「……は?」
驚く、というよりは単純に反応できずに硬直しているだけの涼宮。
俺は有無を言わせず次の言葉を紡いだ。
「違う世界のお前と馬鹿やってた、みたいな話だ」
普通じゃない異常な出来事をなるべく面白可笑しく語ってやろうじゃないか。
俺の言葉を聞いた古泉は何か言いたそうな様子であったが、涼宮がそれをさせない。
何故なら俺の目の前の女の眼は、輝いていたから。なんてな。
で、少しは興味が湧いてくれたか。
「……しょうがないわね。せっかくだからあんたの話、聞いてあげるわよ」