翌日。
十二月十九日。
起きた時にまた何かが変化していたら。
あるいは、また何処かへ飛ばされていたら。五月に北高の教室で目覚めた時のように。
「……はぁ」
もしそのどちらかが達成されていたならば俺はとうとう飛び降り自殺でもはかっていたかもしれない。
幸か不幸か、多分に幸いではないだろうが世界は昨日と変わっていないようである。
つまり一昨日とは違うままだ。
「キョンくんおっはよー」
朝も早々に部屋に入り込んできた愚妹の目的はシャミセンだ。
こいつはすっかり猫に懐いてはいるものの、猫はこいつに懐いていない。
俺と涼宮との関係もそんなものだったのかもしれない。
俺はベッドの上で未だに毛布にくるまっている三毛猫を指差して。
「あまり乱暴してやるなよ。猫は寝るのが仕事なんだ……今日ぐらいはゆっくりさせてやれ」
「はーい」
存外と素直に愚妹は引っ込んでいった。
なんとなく、その様子がどこか滑稽に思えてしょうがない。
滑稽なのは俺なのか。きっと、今の言葉だって俺は俺に向けて似たようなことを言いたかったに違いない。
あえて言うほどのことではないが愚妹と涼宮は何度か面識がある。
野球大会に始まり、夏期合宿の時も、文化祭の二日目は母さんと一緒に北高へやって来た愚妹は涼宮に頭を撫でられていた。
これだけではないがとにかく愚妹は涼宮を知っているはずなのだが、知らないということになっている。
「……羨ましいぜ」
シャミセンを眺めながら愚痴るように言う。
この猫だが、設定としては俺が先月外国に行く友達から譲り受けたというものだった。
その設定は俺が両親を説得させるために考えたウソも方便とやらだ。
今となってはひょうたんから出た駒、嘘が真実になってしまっているのだから笑えない。
三毛猫にも涼宮ハルヒとの接点はないのだ。まして、喋るわけもない。
ところで、いつ、どこでだったかは知らないが俺はこんな言葉を聞いたことがある。
『我々はみな運命に選ばれた兵士なのだ』
運命だとか因果だとか因縁だとか宿命だとかそんなものを信仰しているわけではない。
わけではない、が、一般的な定義として運命等は神が定めるものと考えられている。
そして俺は神のような力を持つらしい奴を一人だけ知っている。
「涼宮……」
朝の冬空の下、えっちらおっちら坂道を上りながら彼女の名前を呟く。
この世界にだって涼宮ハルヒは存在するらしい。けれどそれは俺の知らないまた新しい涼宮ハルヒなのだろう。
会ってもいないがわかるさ。あいつは自分の持つ神のような力に気付いていないらしい。
つまり、今の彼女に能力があろうがなかろうが自分だけこの変化に対応しているってことはないはずだ。
エンドレスな夏休みの時はそうだったんだからな。
――腑に落ちない点がある。
登校を終えて一年五組に到着した俺は国木田をつかまえて教室の一角――掃除用具箱の近く――で話をすることにした。
それとなく、情報を得るために。
「お前、光陽園学院に知り合いはいないか?」
「光陽園? 駅前にあるところで間違いないんだよね」
「ああ」
私立のお嬢様校に知り合いがいるとしたらそれはそれでこいつもやり手な野郎かもしれないが、とっかかりがあれば何でもよかった。
昨日、谷口から聞いたところによるとこの世界の涼宮ハルヒも俺の生まれたあの世界のように光陽園学院に進学していたらしい。
この日谷口はダウンしてしまったらしく姿を見せる事はなかったが、感謝はしておく。
考えれば北高にいない涼宮がどこにいるのか、なんてのは簡単な話なのだが。
国木田は呑気に構えながら。
「塾の知り合いで何人かいるけどキョンが期待しているのは女子生徒だよね? スズミヤさんだっけ? やっぱり僕は知らないなあ」
「……女子生徒?」
光陽園は私立の女学校でハイソなお嬢様の一団なはずだ。
彼の口ぶりではまさか男子生徒が在籍しているようであった。
そしてそのまさかであり、光陽園学院も俺の知っているものとやや異なっていた。
県内有数の進学率を誇る本物の進学校にして名門校、それが光陽園学院の設定らしい。
「そんなに気になるんなら今度誰かに訊いてみるけど」
「いいや、構わんぜ……」
聞くまでもない。涼宮ハルヒが消えるには早すぎる世の中だ。
彼女はそこにいるのだろう。
次に国木田とは長門に関して話をした。
そこでこいつは。
「うらやましいよね、キョンはイブの相手がいてさ。しかも谷口いわく校内に隠れファンが多い長門さんでしょ? 中学時代は恋愛なんてしそうな感じじゃなかったのにね」
長門が俺と付き合っているということと、中学時代は国木田と同じ学校らしかったということを話した。
長門と俺が付き合う経緯なんてのは当然のように彼が知るはずもないのだが。
「ファンが多いって言っても彼氏がいることは知れ渡ってるわけだし、人気は朝比奈さんほどじゃないみたいだけど」
彼氏としては喜ぶべきなのかどうなのか微妙なところだよね、なんて語る国木田。
おい。今、お前、なんて言った?
「朝比奈……」
べつに彼女の存在を忘れていたわけではない。
覚えていたところで意味がないと判断していたからだ。
俺は国木田の両肩を自分の両手でがしっと押さえこむようにして。
「それって、二年二組にいる朝比奈みくるのことか!?」
「う、うん……ど、どうしたのキョン……?」
びくっとした様子の国木田の表情で我に返り、俺は慌てて手を放した。
国木田の話によれば、この北高でも一昨日までの北高と同様に朝比奈は学校のマドンナ的存在だそうだ。
そう、よくよく考えた末に俺は不思議に思った。
朝の時間も終わり授業中に俺は一人で呟きながら思考した。
「……朝比奈みくるは、何故北高にいるんだ……?」
いるのだからいる、と言われてしまえばそれまでなのだが、俺は疑問に思えた。
これは俺の考えに基づく理論だとことわった上で言わせてもらうのだが、朝比奈みくるが未来人なのであればこの時代にいるのはおかしい。
何故なら彼女はもともと未来からやってきた人間であり、この時代に生まれついているはずがないからである。
当たり前のことだと思うだろう。俺が言いたいのはそういうことではない。その先の話だ。
俺が考える平行世界というのは"もしも"の世界ではなく"そうかもしれない"という世界である。
朝比奈みくるは涼宮に願われた結果として、未来人という形で未来からやってきた。
それは紛れもない事実なのだろう。実際に更に先の未来からきた大人朝比奈にも俺は会った。
「彼女がこの時代の人間では説明がつかない……」
涼宮の力が真実に到達する力なのか、それとも現実を改変する力なのか。
そのどちらも神に匹敵するだろう。個人が持つような能力にしては強大すぎる。
あいつの能力が後者だと仮定した場合、今、長門有希や朝倉涼子が宇宙人ではないということは即ち古泉一樹は超能力者ではないし、朝比奈みくるは未来人でもない。
成り立ちからして違う異世界だと考えた方が話が早いだろう。涼宮はそれらの存在を呼んでいない。
長門はもともとここの生徒として存在していたかもしれないから普通の人間の彼女が北高にいてもおかしくない。
特進クラスが消えたのは謎だが、超能力者として存在した古泉が北高にいた理由は涼宮の監視のためであり、元は転校生だという。
「……古泉の野郎がいないのも納得できる」
だが、もし朝比奈みくるが未来人じゃなかったら?
それは単純にこの時代に存在しないということではないのか?
未来にタイムトラベルの技術が確立しているかはさておき、再三言うように涼宮に呼ばれてやってきた朝比奈。
未来人という属性はどちらかといえば俺たちから見ての属性だ。
涼宮が朝比奈を呼ばなかった、ということは朝比奈がいない方が自然なはずだ。
この時代に存在していた彼女を涼宮が後付けで未来人と書き換えたわけがない。
異世界、つまり平行世界とは可能性の世界であり、あり得ないことはあり得ないのだ。
俺が北高にいるとか涼宮が光陽園にいたり北高にいたりなんてのは誤差の範囲内であり、学生には進学先を選ぶ権利があるのだから違う世界の俺が違う学校にいるのはあり得ることだ。
古泉がここに居ないのもほぼ同じ理由だと言える。
「……」
朝比奈みくるが今から何年後の未来からやってきてたかまでは知らないが、一年とか二年先の話ではなかろう。
十年、二十年、ひょっとしたら百年単位も先の未来から彼女はきていた。と、考えるのが妥当だ。
そんな先の未来に生まれる運命を背負った人間がこの時代にいる。あり得ない。
これを認めてしまえば平行世界なんてもんが破綻してしまう。それこそなんでもありになる。
今、俺が見られる教室風景の中にマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズがクラスメートとして存在する世界があると思うか?
もっと言えば全人類が同じ年齢で生きている――不老とかじゃなくて同じように歳を取る――世界があると思うか?
「……」
俺は無いと思うしありえないと思う。
きっと人がいつ生まれていつ死ぬかなんてのは最初から決まっている。
神でもない限り人生のなんたるかを好き勝手することなど不可能だ。
朝比奈みくるは遠い未来に産まれるはずの人間。
つまり。
「……涼宮の仕業」
そう考えるのが妥当なんだろうさ。
でも、誓っていいが涼宮はこんな風に世界を変えたりはしない。
やるのなら徹底的にやる女だ。俺だけ残すようなマネはしない。
他の誰かの仕業だ。
この日から短縮授業だったので、午前で授業は終わり。
放課後を迎えた俺は誰に頼まれるでもなく文芸部へと身体を運んでいく。そこはSOS団のアジトではない。
どこの学校にもあるような、普通の、文芸部の部室である。
「でさー、みくるは厚着しすぎじゃないかなっ?」
「ううん……でも、やっぱりあたし寒いの苦手なんです……」
「もっと身体をキビキビ動かすのさっ。しゃきっとするにょろよ!」
廊下を歩いていると、朝比奈みくると鶴屋の二人組を見かけた。
楽しそうに笑い合っていた。仲のいい友達同士が談笑しているということだ。
これも普通の光景なんだろ。
「……」
涼宮が普通を望んだとしよう。
これがその結果だと俺は思わん。
それに、俺だけを弾きたいのなら他にもやりようは残っているわけだ。
やはり涼宮の仕業には思えない。それをできる奴はあいつぐらいだと知っていても、俺はあいつを信じたかった。
俺の独り善がりなのだろうか。
「……よう」
昨日と、いや、一昨日までと同じように扉を開けて文芸部部室に入る。
昨日と同じだ。長門は微笑んで俺を迎え、穏やかな空気が室内を支配する。
キョンはこの空気が好きだったんだろう。彼女と同じ時間を共有するのが好きだったんだろう。
だから文芸部の部員なんてやっているに違いない。
「はぁ……」
「……どうかした?」
「いいや」
昨日と同じ【ハイぺリオン】を読んでもよかったのだが、実のところこの本には続きがあるらしい。
シリーズものでしかも四部作。ううむ、気長に読めとでも言っているのかこの著者は。
べつに続きが気になってしょうがないわけでもない――おそらく俺にとってはお気に入りたる作品ではないのだろう――ので、本棚でも眺めて違う本でもないかと考えた。
ハイぺリオンの続編らしい【ハイぺリオンの没落】に始まり俺には縁もゆかりもないような題名の本ばかりであった。
「……ん」
俺でもわかるようなヤツといえば【グリム童話集】ぐらいだろう。
自然に俺は本棚の一角に置かれていた一冊を手に取る。
本棚の前で立ちながら本を開いて目次を見た。その中の作品の一つ。
「【白雪姫】ね……」
いつぞや未来からやってきた大人朝比奈が、抜き差しならない時はこの単語を思い出せとか言ってたっけ。
残念ながら俺に言わせりゃまさに今がちょうどそのタイミングなんだがな。
ぱらぱらっとページをめくっていく。老いぼれズルタン、六羽の白鳥、いばら姫、適当に流し読みを続けていた。
すると、本に妙な感触を覚えた。何かが途中で挟まっているらしい。飛ばして開いてみる。
白雪姫の項目の最後のページにそれはあった。
「……栞……?」
栞が本に挟まっていること自体はなんてことない。そのために栞は存在するのだから。
ライトブルーの紙でできた左下に花のイラストがプリントしてあるファンシーな栞だった。
手に取って、見てみる。そして俺は硬直した。
「これは、なんなんだ……?」
その栞の裏には明朝体のようにペン書きされた文字でこう書かれていた。
『プログラム起動条件 鍵をそろえよ 最終期限 二日後』
長門の方を向く。
彼女は手元の本を読んでいる。
電気ストーブもない寒い室内にも関わらず、長門は寒さを気にしていないようだった。
自意識過剰な発言かもしれないが、それはきっと俺がいるからなのだろう。
「長門」
俺は亡霊の如く彼女がパイプ椅子に座る窓辺まで歩いて行き、呼びかけると同時に彼女の眼前に栞をつき出した。
これは彼女が書いたのだろうか?
「白雪姫の最後のページにこれが挟まれていたんだが、お前が書いたのか?」
「え……?」
昨日俺が涼宮のことを問いかけた時と同じ表情だった。
少しばかり長門は栞の文字を見つめ続けていたが、首を振った。
「でも、その字……わたしの字に似ている……?」
「……そうか」
長門じゃない長門が書いたとしたならば、ひょっとすると宇宙人の長門が書いたのではなかろうか。
今一度俺は謎の栞を見てみる。先ほどと書かれている内容に変わりはなかった。
もっとわかりやすい文面に変化していれば俺は頭を痛めずに済むのかもしれないが。
「……」
本当に長門が書いたかもわからないが、これは何かのメッセージらしい。
こんな怪文書のような栞が売られているわけもなく手作りなのは誰の目から見ても明らかだ。
まず俺が考えるべきは誰が書いたか、なんてことよりもこの文面の意味だろう。
最初からしてわからない。プログラムときた。それはアプリケーションと考えていいのだろうか?
「長門。今日もパソコン使っていいか?」
「どうぞ」
起動してみるも昨日と相変わらずになんの変哲もないパソコンだった。
やはりコマンドプロンプトは作動しない。
もし、これが何か俺にとってプラスとなるようなプログラムだとしたら。
「……まさか、な」
いくらなんでも【マトリックス】の世界じゃあるまい。
現実世界に戻るためにプログラムがあって、扉を開けたら戻れる、だなんて。
俺はエージェント・スミスのように替えが利くような存在かもしれないのだから。
いいや、希望的に考えろ。考えろ。考えるのをやめるな。
起動条件を満たせば何かが起きるかもしれない。
「"鍵"」
宇宙人長門が口にしていた単語だ。
俺は涼宮にとっての鍵、その役割なのだと。
では『鍵を揃えよ』とはどういう意味なんだ。
俺以外にも鍵と呼べる存在が他にもいるのだろうか。
今のところ俺一人で何かが変化するようには思えない。
「……」
「……」
パソコンに向かい合っている俺を不思議といった様子で窺う長門。
本当に、彼女も何も知らないようだ。
「ったく」
渋々、俺は逃避するかのようにハイぺリオンの続きを読むことにした。
タイムリミットらしいものだとか、一度に俺に押し付けられても困るってんだ。
長机の上に昨日放置したハードカバーを手に取る。
どうして俺がこの本を気に入らないのかは読んでいくうちにわかった。
時間を彷徨うだとか、世界を旅するだとか、俺は結局どこにも行きたくないって思い始めていたからだ。
「……ふふ」
――長門有希よ。
ついぞ俺は見られなかったが、宇宙人のお前もそんな風に笑えるのか?
下校時間は昨日より早かったはずだが、午前で授業が終わった分ここにいた時間は昨日より長い。
ばたむ、という音を聞くなり俺はさっさと立ち上がった。
今日はもう一人で帰ろう。家で、ゆっくり考えさせてくれ。
「キョンくん……」
「ん」
長門がそわそわした様子で声をかけてきた。
俺は有無を言わさずここから逃げるべきだったに違いない。
「今日……わたしの……」
「何だ」
「わたしの、家に、来ない?」
ここで質問だが、こう誘われてお前ならどうする?