俺は中途半端でしかなかった。
世界が狂ったとして現状にむせび泣くほど弱くはなかったが、冷静沈着でいられるほど強くもなかった。
もしこの時の俺が冷静に見られたとしていたらそれはただ硬直していただけに過ぎない。
実際問題としていくら考えようとしたところで考えることができなかった。
いいかげんに考えるのをやめたくもなった。何がなんだかわからないこの状況に対して。
「あなた、さっきからヘンよ?」
廊下で棒立ちの俺の後方から声がした。
振り返るまでもないが振り返ると朝倉涼子が病人を見るかのような目で俺を見ていた。
彼女は言葉を続けて。
「スズミヤって人のことを言い出したかと思えば谷口くんにまで絡んだそうね? 何かあったの?」
「いいや、べつに……」
「顔色が悪いわ。あなたも風邪なんじゃないかしら」
「……オレの顔は生まれつきだぜ」
少し遠くで女子の一団がチラチラこちらを見ながらひそひそ話している。
気にする必要もない。有象無象がさっきの出来事についてあることないことを話しているだけにすぎない。
なんて、いつの頃からか涼宮みたいな考え方をしちまっているんじゃないのか、俺。
「とにかく、長門さんを心配させるようなマネは駄目よ? 谷口くんとあなたは友達でしょ?」
「長門……」
こいつの口から長門の名前が出るとは。
いや。
「朝倉、お前もしかして宇宙人だったりするか?」
「……はぁ……」
まずったか。いよいよ朝倉は哀れみの目に変化した。
きっと涼宮はこんな感じで振る舞っていくうちに校内一の変人まで成り上がったに違いない。
俺が北高の覇者になる日も近い。
「いいからさっさと長門さんのところに行きなさい。調子が悪いなら大人しく帰るのね。長門さんには私から伝えておくから」
長門のところだと?
それは彼女が所属する一年六組のことだろうか。
クラスは確かに一年五組の隣だが。
まあ、なんにせよ長門有希はこの学校に存在するらしい。
ひょっとすると最初から彼女は俺の生まれついたあの世界にもいたのかもしれない。
今となっては真相は闇の中であるが。
「……本当に様子がおかしいみたい。いつもなら放課後のチャイムが鳴るなり文芸部へ飛んでいくのに」
嘆かわしいといった様子で朝倉は目を伏せそう言った。
何かわからんが、このままではマジに病院へ連行されかねない。
「わかったよ。行けばいいんだろ……部室に……」
「大丈夫なの?」
「そこそこな」
疲れてるならゆっくり休みなさい、と言われて俺は朝倉と別れた。
向かうは部室棟にある文芸部。その部室。
今の所言えるのはこんな状況下でも校舎内は寒いということだ。
渡り廊下を通り、一階まで階段を降りて、そこから外に出て別校舎である部室棟に入り、階段を登った。
薄暗い部室棟の廊下を歩いて行くとようやく目的地に到達した。
昨日まで部室のプレートにはSOS団と書かれた紙が上から貼られていたはずだがそんなものはなく、間違いなく今日は文芸部と刻まれている。
「……」
何故。どうして。
俺は文芸部へと脚を運んだのか。
もしかするとそれは作為的な何かが働いていたのかもしれない。
一旦保留にしようとしていた長門有希との邂逅をあえて今行う必要がどこにあったのか。
俺にはわからない。
「……」
ギィ、と古ぼけた部室の扉を開けて、室内の様子を窺う。
居た。
「長門……」
いつもと変わらぬように彼女は座って読書をしていた。
こちらの様子に気付いた長門は微笑んで。
「……こんにちは」
と小さな声でそう言った。
こんな精神的に混乱しつつある俺もあいさつぐらいはまともに返さなければ――
「――は……?」
思わず間抜けな音を口から吐いてしまった。
寡黙を通り越しでほぼ無言な長門有希があいさつをしただって? 微笑みながら?
が、瞬時に理解した。朝倉涼子が宇宙人でないただの人間ならば、長門有希だってそうに違いないということを。
あるいは今日から俺の目に映し出されているこの世界が本来の姿なのかもしれない。
涼宮には願望を実現する能力があって、世界を変える力までもがある。
異端者三人はそれと気付かぬうちに書き換えられていたのかもしれない。自分のパーソナルデータを。
少なくともこの部室内でパイプ椅子に座って読書している眼鏡の少女はごく普通の少女に見えた。
機械的な所作など見受けられず、昨日までしていなかったひざ掛けなんかもしている。
ひざ掛けはピンクのかわいらしいやつだ。
「……ふふ」
何故かは知らないが彼女は楽しげであった。
慈愛に満ちた表情をしている。
俺は着ているモッズコートを脱ぐよりも先に彼女に質問した。
「お前、涼宮ハルヒって奴を知らないか?」
「……え……?」
突然どうしたのだろうか。
と、いった様子で目を丸くした彼女はひとしきり思考した後スローモーに首を振った。
それは彼女なりの否定の合図らしい。
エンドレスなループ中の記憶を引き継いでいたはずの宇宙人長門有希ならば、こんなことはないはずなのに。
「……そうか」
自分でも驚くほどに期待していなかったから、ある意味では期待通りの結果である。
冷静に部屋を見回せば嫌でもわかったさ。
ここにSOS団が存在した痕跡など何一つ残されていないってことに。
掃除用具箱の上は何も置かれていない。昨日までは野球道具一式が段ボールに詰められて置いてあったんだ。
窓の端には枯れた竹なんてない。短冊さえも。昨日までそれは確かに安置されていた。
昨日までラジカセや地球儀が置かれていた場所には文芸部らしく本が並べられているだけ。
コンピ研との対決の戦利品であるノートパソコンは置かれていた丸テーブルごと消えている。
コスプレ衣装がかけられたハンガーラックも、黒板に貼られていた思い出の写真も、ホワイトボードも、昨日まであったはずのものが。
「いや。涼宮が、オレたちが関係していたものは……全部、消えてやがる……」
部室にあるものはといえば何脚かのパイプ椅子と本棚、長机、その上にパソコン。
団長席などそんなもん置かれてないに決まってるぜ、と言わんばかりに部室の間取りが広くなったように錯覚した。
涼宮に関してはよくわからないがここに長門がいるのは当然のことなのだろう。
何故なら彼女は生粋の文芸部部員らしく、公式にはSOS団に所属していたわけではない。
文化祭の予算も長門が文芸部部員として存在していたから貰えたわけだ。
「ん……?」
待て。おかしい。
どうしてパソコンが文芸部の部室にあるんだ。
あの型の奴は数か月前まで最新式だったという奴だ。
店頭で買い求めるには学生の身分としてはきついし、文芸部に部費が出ていたとしてもちょっとやそっとでは買えないはずである。
そんなものがSOS団の部室に置かれていたのはひとえに涼宮のおかげであり、早い話がコンピ研から強奪したらしい。
俺はその場に立ち会わせていないから聞いた話でしかないのだが。
「なあ、そのパソコンっていつから置かれていたんだ?」
「……入部した時にはもうあった……」
俺の思い違いか。
このパソコンがなんらかのヒントとなると少し思ってしまった。
いつぞやは宇宙人がコマンドプロンプトでアドバイスをくれただけに今回もと期待した。
結果はハズレ。パソコンを少し使用させてもらったが何事もなくOSが起動した。
オフラインだったのでネットサーフィンもできなかった。
ヒントなんてものがあるわけがない。心の中で否定している俺だが、情報収集ぐらいしか俺にはできることがない。
考えること、それが俺の武器だ。
「長門は……その……」
脱いだ俺のコートとマフラーは長机の上に起いてある。
パイプ椅子に腰かけて俺はこう切り出した。
知り合い相手に質問すると、まず頭の異常を疑われるような質問だ。
「オレと、知り合いだったりするのか?」
俺はとても真剣な表情だったに違いない。
流石に俺も谷口相手の時のように圧迫面接さながらな質問をこの少女を相手に実施する気にはなれない。
彼女が宇宙人だったら別かもしれないが。
しばらく無言が続いたかと思えば、やがて長門はくすりと笑ってから。
「キョンくん、またヘンなこと言ってる……」
どうやら彼女と知り合いらしい俺――というか俺ではない誰か――は日常的に多少の変な言動があったらしい。
朝倉や国木田、谷口が呆れた様子でもあったのはそういった背景からだろうか。
いずれにせよ俺と彼女は知り合いらしい。どんな接点かといえば、なんと俺は文芸部の部員その二だそうだ。
「長門がここの部長なのか?」
「うん」
まるで記憶喪失者を相手にしているような気分なのかもしれない。
いや、彼女の中では俺がそういう設定で彼女をからかっている、みたいに補完されているのか。
長門は終始楽しそうだった。
べつに俺は読書が嫌いだの苦手だのというわけではないが、好き好んで活字と対面するような人種ではない。
しかしながらキョンと呼ばれる野郎ははたして読書好きなのかどうかは知らないがなんにせよ文芸部の部員らしい。
朝倉が部室に行けとか言ってたのも俺が部員なら当然だが、部員だからお前は行けって様子ではなさそうだった。
そんな文芸部部員その二と化した俺は長門に訊くだけ訊いてハイサヨウナラをかますほど薄情でもない。
ごく自然の成り行きで俺は彼女と同じ空間でハードカバーとにらめっこしていた。
「……」
「……」
俺も始めて聞いたようなタイトルの海外作家によるSFものだった。
中盤あたりまで読み進めたかなと思うと、ばたむ、と長門の座る方から本を閉じた音が聞こえて。
「……今日はここまで」
と、彼女が喋った。
外は当然のように暗くなっている。
時刻にすれば午後六時前だと思われるが、中身のない読書タイムの終わりにしてはいつだって同じようなもんだろう。
そして本の中身にも興味がすっかり失せている俺は栞もせずに本を閉じた。
俺の様子を見た長門はこれまたどこか面白そうにくすりと笑っている。
「どうしたんだ?」
「その本……」
俺が読んでいた本のことだろうか。
こちらの手元を指差しながら。
「あなたはその本がお気に入り」
なんだって?
それから断片的に語られた彼女の情報を繋ぎ合わせたところ、俺はこの小説をもう何度も読んでいるらしい。
飽きもせずに。
「……ああ、お気に入り……らしいぜ」
そしてその度に長門はどうしてもおかしく思えて笑ってしまうのだという。
少々笑いのツボがおかしな気もするが、彼女が言うには。
「わたしにとって、読書は一過性のものでしかないから」
文芸部員としてそれがあるべき姿かは不明だが、よくよく思えば確かに宇宙人の長門も同じ本を繰り返し読んでいたようには思えない。
きっと読み終えた本とはそれきりだったに違いない。どこから用意したかはついぞ不明だが部室に置かれる本は増えている一方だった。
「お話を考えたり、書いたりはしないのか?」
「……読むだけ」
「本を読むのは好きか?」
「わりと」
「そうか」
あるいは本質的に長門有希は何も変わっていないのかもしれない。
朝倉涼子しかり。俺にはその差が絶対的なものとしか判断できないだけだ。
宇宙人を愛せる奴がいたら、それこそ変人だろうぜ。神らしい涼宮を好きな俺はどうなんだって話だが。
【ハイぺリオン】と、題名に書かれたハードカバーを長机の上に置いたままにして俺はコートを羽織りはじめる。
どうせ明日もここに来ることになるかもしれないから続きなんて気長に読めばいい。
昨日まで長門は寒さなどお構いなしにカーディガンだけで行動していたようだが、今日の長門はしっかり防寒をしている。
茶色のコートにピンクのマフラー。季節感のある、普通の恰好だった。
「……」
「……」
俺が先に廊下に出て、長門が部室の電気を消すと、それから廊下に出た彼女が扉に鍵をかけてようやく俺と長門は部室を後にした。
このまま帰りがてらに涼宮の家に行ってもよかった。だが、行ってどうするんだ?
今の俺と彼女には何一つとして接点が存在しないだろう。携帯電話には長門以外のSOS団メンバの連絡先は登録されていなかった。
つまり、そういうことだ。
「……ハッ」
「……」
薄暗い渡り廊下を俺が先導しながら歩いて行く。
お互いに会話らしい会話はない。
きっと俺は何か言い訳を用意して涼宮と会うのを避けているだけに違いない。
考えなくなってわかる。彼女は俺のことを知らないのだから、俺がパッと出て何か口にしたところでほいほい信じるほどあいつも馬鹿じゃない。
彼女に不振がられ、取り付く島もなくなったら俺の心はへし折れるだろう。
それほどまでに涼宮ハルヒという存在は俺の中で大きな存在と化していたのだ。
近づけば近づくほど身を焼かれてしまう。月並みだが、俺にとって彼女は太陽のようにさえ思えた。
だが、紛れもなく、今は夜だった。
「……」
生徒玄関まで到着して手早く外靴に履き替える。
ここの俺は、というかこの男は東中出身者ではない。
東中の男子生徒はだいたい覚えている。名前か、顔か、そのどちらも知らないってことは多分ない。
重ねて言おう。ここのキョンと呼ばれる野郎は涼宮ハルヒと繋がりがない。
同時に、存在していない俺の存在を証明することもできないので今のところ俺はキョンとして身分を偽るほかないらしい。
なに、昨日までとそこまで差はないじゃないか。
「だな……」
と、独りごちたところで長門も靴を履き替え終わったのか、俺の方へとことこやって来た。
彼女と二人で下校するなど言うまでもなく初めてのことだった。俺にとっては。
無言で俺は校舎の外に出ようとしたが、ガラス扉手前で後ろから声がした。
「……あの」
長門だ。
彼女の方を振り向くと、様子がどこかおかしかった。
紫色のショートボブで眼鏡をかけたその少女は遠慮しがちに顔を赤らめながら。
「その、今日は……」
「何だ?」
「手を……繋がないの……?」
先に翌日の話を少しさせてもらいたい。
国木田から聞いたところ、どうやらキョンと長門は交際中。付き合っているらしい。
どうしてこうなっているのかは知らないが、今、キョンは俺になっているがな。
で、この時の俺がどう対応するのが正解だったのか、なんて話はよしてくれよ。
間違っても『しょうがない』だなんて口にするわけはないさ。
「……いいぜ。手、繋ぐか?」
こくり、と恥ずかしげに頷いて右手を差し出した少女は、どこをどう見ても普通の地球人だった。
彼女の小さな手を握ると、二人して校舎を後にしていく。
――俺は何をやっているんだ?
今すぐにでもてめえの頭をカチ割った方がいいのではなかろうか。
右手をコートのポケットに突っ込み、左手は長門の手を握る。
昨日までの俺はまさかこんな状況に自分がなっていると夢にも思わなかったはずだ。
あいにくと昨日見た夢を覚えてないから確たることは言えないが、俺の行為が俺の自己満足以下の行為なのは真実だ。
『涼宮の次は長門か』
誰かにそう責められたら俺は否定できない。
俺は俺として存在して、誰かと心を通わすなんてことはできないのだろうか。
涼宮が好きになった男は俺じゃないんだ。きっと。
「……っ」
「……」
ついさっき思い出した。
俺が、いや、世界が滅んだあの日は十二月十八日だったのかもしれない。と。
どうしてこんなことを忘れていたんだ。俺はようやく自分の時間に追いつけるかと思ったその瞬間に、俺としての存在を失った。
名前も違う誰かとして生活することを強いられている。これで顔まで変わっていたらマジに発狂していたな。
「長門よ」
「……なに……?」
「もしオレが――」
違う人間に成り代わっていたらどうする。
とは、言えなかった。
「……いいや、気にしないでくれ」
道中、長門は挙動不審な俺のことは特に気にせず――本当は気にしつつもあえていつも通りの対応をしていたのかもしれないが――なるべく楽しい話題を提供しようと彼女なりにつたない言葉で話をしていた。
自分のクラスでも風邪が蔓延しつつあるが、あなたとわたしは健康だから健康なまま冬休みを迎えたい。
仮にあなたが風邪にかかった時は、迷惑でないならわたしがあなたの家まで行って看病したい、と、思う。
明日から短縮授業だが、部活の活動時間も短くした方がいいだろうか。等々。
「……終業式の日は――」
世間話をしていると、あっという間に彼女が住まう分譲マンション前まで到着した。
俺も俺で、途中で自分の家へ帰っていけばよかったものをわざわざ長門を送っていた。
立ち止った俺は繋いでいた手を離す。
「……あっ」
どこか切なげな表情をしていた長門だが、俺はそれから逃げるようにきびすを返して。
「また、明日だな……」
足早にその場から立ち去って行った。
あのまま居たら、俺は本格的に何かを見失う。そんな気がしてならなかった。
既にそうかもしれないなんて絶望的な考えを払拭していくように、早く、夜道を歩く。
家に着いたのはそれから十数分も経過してからだった。
結局、俺は長門が終業式の日あるいはクリスマスイブである二十四日について語ろうとしていた何かを耳にすることはない。