「…………」
「……」
青い空。白い雲。
柔らかな陽光が目に射し込み、わずかに眩しい。
背後の深い森からは時折獣の鳴き声が聞こえ、浜辺には波が寄せては返す。そう、ここは絶海の孤島。
修太郎は遭難していた。
知らない銀髪の少女と、二人で。
しばし、両者の間で沈黙の空気が漂い、そして一言。
「何故こうなった」
「…………本当にっ、すみません……!」
―○●○―
海から吹き付ける冷気は冬の到来を思わせる。
中天に太陽輝く絶好の航海日和。北欧はアイスランドに向かう船の上で、二人は言葉を交わしていた。
「さーむーいー、さーむーいーにゃー」
「抱き着くな、動きにくい。ちゃんと服は買ってやっただろう」
文句たらたらで修太郎の腰にしがみつく黒歌の格好は普段の着物姿ではない。
ハイネックのセーターにスカート、黒いストッキングを履き、靴はひざ下までの編み上げブーツ。厚手のコートとマフラーという、和風から一転して耐寒仕様の洋服を着た重装備だ。
男としては、寒いのになぜそれほどスカートを履きたがるのかはわからないところもあるが、少なくとも以前の着物姿よりは大分マシなはずだ。
無駄にブランド品を購入したので懐は痛んだが、必要経費と割り切った。どうせ生活費以外は本の購入ぐらいにしか使うことはないし、いつもと違う印象の相棒を見れば悪い気もしない。
というか。
「お前なら術で好きに調整できるだろうに、何故それをしない」
「私、こう見えても賞金首よ? いつ戦いになるかわからないなら、普段からかかる労力は少ない方が効率的にゃん?」
「正直に言えば?」
「面倒にゃん」
今までは気温に関する不平不満などそこまで主張しなかった猫だ。そんなことだろうと思った。
呆れた修太郎の様子に、黒歌は体を離す。
「それに……」
前置きの言葉を放って、その場でくるりと一回転。
普段の髪型とは違う、長いポニーテールがその動きに追従して綺麗な軌跡を描く。一般人の目を考慮して猫耳を隠しているので、その容姿は正真正銘人間の美女だった。
「シュウは、こんな格好の私は嫌い? もしかして似合わない?」
瞳の色はやや不安げだ。様子は常とは違い乙女そのもので、強大な力を持つ悪魔であることを一瞬忘れさせる。
初見であれば惑わされるのだろうが、今までの経験から修太郎はそれが演技であることを見破った。からかおうとしているのだ。
しかし、ぞんざいに扱えばそれはそれで拗ねるのだろう。
「いや、似合っていると思う」
「……それだけ?」
「お前は美しい。これだけでは不満か?」
「……む~。でももうちょっと甘い一言が欲しいのが女心ってものよ。そんなのじゃ合格点はあげられないにゃん」
そう言う黒歌だが、頬はわずかに赤く、発する空気もそこまで不機嫌なものではない。
ちょろい。
最初に会った時はもっと冷たく刺々しい態度だったと修太郎は記憶しているが、それも今は懐かしい思い出だ。
しかし、親しくなった方が付き合いの複雑さも上がるのだから、人間(この場合は人魔と言うべきだろうか)関係と言うのは本当にわからない。
「でもでも~、前寝る時に言ってくれた言葉、もう一度聞いたら機嫌も直るかもしれないにゃん?」
そして予想通りの言葉。最近は事あるごとにこれなのだ。
思い付きで迂闊な言葉を放ったことを、修太郎は軽く後悔していた
「覚えが無いな。訳わからないこと言ってないで、寒いなら早く部屋に戻るぞ」
たまにはこういう弄り方もいいだろう。
なおもぎゃーぎゃーうるさい黒歌を引き連れて、修太郎は船室へと戻ろうと歩を進めると。
響く轟音。次いで、大きく船が揺れる。
「――クロ!」
「下よ!」
黒歌の言葉を受けて船の下を覗き込めば、うねる触手が飛び出した。寸でのところで首を引いて躱し、飛び退る。
「刀を出せ!」
「はいにゃ!」
黒歌が亜空間から修太郎の愛刀を取り出し、放る。
未だ空中にある刀の柄を掴み、間を置かず放たれる迅雷の一刀。既に総身を闘気が包み、その速度は余人が捉えられる領域に無い。
必然、抗うこともできず深々と斬りつけられた巨大な触手は、激痛に身をよじるようにうねり暴れると荒々しく海に沈む。
大きな水飛沫を残し去って行った当面の脅威だったが、船そのものを襲う何かは無論のこと立ち去らない。
『**********!!』
むしろ怒ったように咆哮すると、船の周囲を囲むように無数の触手が姿を現した。
「シュウ、これは……」
「おそらくは、クラーケン」
クラーケン。
主に北欧の伝承に伝わる海の怪物だ。その姿はイカあるいはタコに似て、多数の触手を有し、人の肉を求めて船ごと海に引きずり込むと言う。
たびたび映画の題材にもされ、その道に通じていない人でもそれなりに知る者は多いだろう。
特筆すべきはその尋常ではない巨大さであり、話によっては島に間違えられるほどの巨体が存在すると言うのだから、海においてはシーサーペントと同様に大きな脅威として認識されている。
人間が相手をするには特級の危険度を誇る大海魔。それが、修太郎たちが乗る客船を襲っていた。
気付けば、周囲の雰囲気が一変している。
晴れた空は暗く濁った魔の空に、吹き抜ける風は悪寒を伴う不気味なものに。船の後方を見ればある一点を境に景色が変わっている。
これが表すものとはすなわち。
「異界……か? しかし何時迷い込んだ?」
「どうするにゃん?」
「船を守ることが先決だ。船全体を覆うように頑丈な結界を張れ。出来るな?」
「当然。私を誰だと思っているにゃん?」
黒歌が両の手を虚空にかざせば、曼荼羅の如く広がる魔法陣。中心部から外へ、弾き出されるように発生した力場の壁が船を覆いつくし、襲い掛かるクラーケンの触手を悉く防ぐ。
これで自分たちと乗客の安全は確保できた。
「それをそのまま維持していろ。俺は敵を直接叩く」
「ああ……うん、予想はしてた」
諦めたように了解した黒歌を置いて、修太郎は勢いよく海へ飛び込む。
狙うは船の下に身を潜める海魔、クラーケン。
―○●○―
クラーケンは激怒していた。
人界からは隔離されているはずの魔の海域に、何が原因かは知らないが迷い込んだ人の船。
久方ぶりに人間の味を堪能するべく、海上を往く鉄の箱を己が触手の怪力で圧し潰そうとした矢先であった。
年を経ておびただしい量に数を増やした自身の腕、その末端に突如痛みが走ったのだ。無力な獲物から負わされたわずかな傷に、長らく付近一帯の王者であった怪物が激怒するのは必然だったろう。
それだけではない。その後間もなく発生した強固な壁が、自身の貪るはずだった餌箱を覆いつくし、生意気にも食事を邪魔してきたのだから怪物の頭の中は憤怒一色に染まっていた。
海魔の唸りが海中に激しい乱流を発生させ、船の周囲に大小無数の渦潮を作る。
感情一つ迸らせるだけでこれだ。
その威容は、海の怪物にふさわしい。
ふと、クラーケンの感覚野に触れる何かがあった。
わずかな反応に意識を集中すれば、それは人間。男が一人、乱流をものともせずこちらに泳いで来る。
表情を表す機能を持たないクラーケンだったが、その時、確かににやりと笑った。
おそらくは激しい揺れに船から投げ出されたのだろうと予想、比較的小さな触手を伸ばし捕まえようとする。解消するには足りないが、フラストレーションをいくらか鎮めることはできるだろう。小さくとも美味な食糧であるのだ。見逃す理由などどこにも無い。
当たり前のように捕らえ、当たり前のように喰らう。そうなるはずだった。
銀の閃光が水流を切り裂き、無尽に走る。
瞬く間に寸断された触手が、青い体液と共に激しい海の流れに散った。
鋭い痛みに絶叫する怪物は、迫る人間の正体に気付いた。"これ"が最初の痛みの原因、"これ"こそが自身の敵なのだ。
同時に嘲りほくそ笑む。地を這う人が、海を渡るのに不細工な箱を用いる他ない人が、この海の中で己に勝つつもりなのかと。
最も大きく成長した腕――最古の触手を繰り出す。
自身が生み出した乱流すらも掻き消していくそれは、年経た大木よりもなお太い大質量。巨人すらも恐れおののく暴威で、容易く人間を弾き飛ばした。
なんとも、あっけない。
それ見た事かとつまらなさげに唸りを上げて、今度こそ食事にとりかかる。
怪物の対応は実に妥当なものであった。巨体の生命力と、それより生み出される破壊力は人間が手にする武器で打倒できるレベルではない。
もしも誤りがあったとすれば、相手が常識に納まる手合いではなかったことだろう。
海から弾き飛ばされ、空中高くに投げ出された修太郎は、はたして無事だった。
しかしながら無傷とはいかず、衝撃に脳が揺さぶられ、意識も朦朧と骨も軋む痛みが全身を襲っている。直撃を可能な限り芯をずらして受けても、内臓まで響くダメージは大きい。それでも手に握る刀は離さず、鋭い眼光は敵の本体がいる位置を見据えていた。
修太郎のすぐそばには敵の最も頼りにする極太の触腕。天を突くその迫力は柱か、あるいは塔そのものだ。
それに向かって刃を突出し、平たくなったその先端を刺す。大きすぎるのだろう、先の小さな触手群とは違い神経は鈍いようで、痛みに暴れる様子は無い。
自然、修太郎の口が端を釣り上げる。
海中では無敵と言うのならば、その外で攻撃を加えればどうか?
素早く刀に体を引き寄せれば、敵の触腕は垂直の足場だ。
廻る、廻る、生命のエネルギーが総身を高速で回転する。
次いで、解放。
自身の中枢――脊椎に意識を向ければ、そこに位置する
そうして刀を引き抜けば、修太郎を支えるものは何一つなくなった。
落ちるままに疾走する。
天を指す怪物の腕を足場に、重力より速く駆け抜ける。
数段階上へと昇華された気力を刀身に込め、膂力を引き絞り、踏込と共に斬――――。
「全属性・精霊・神霊、術式並列起動!
閃光、爆音。
突如降り注いだ無数の光条がクラーケンの触手を焼き払い、凍結させ、切り刻み、打ち砕く。
極彩色の爆撃は黒歌たちが乗る船を器用に避け、怪物だけに直撃していた。
圧倒的破壊力で怪物の肉を削り、吹き飛ばしていくさまは圧巻の一言。
相当な技量の魔法使いなのだろうが、しかしどうにも修太郎までロックオンしたことは確認してなかったらしい。
奥義と呼べる技の出かかり、足場の限られる中空で最大の隙を晒していた修太郎にはそれを回避することができなかった。
「――な!?」
直撃するマジックミサイル。
次いでレーザー。
さらにジャベリン。
おまけのスマッシャー。
とどめにバスター。
反射的に集中させた闘気の防護が無ければ即死の猛攻。それでも意識を保っていた修太郎は流石と言うべきだろう。
だが不幸はそれだけにとどまらなかった。
それは怒れる怪物・クラーケン。
あれほどの魔法を受けてなお戦意衰えないクラーケンは、如何なる原理か身体全体を憤怒の赤に染めて、見境なしに触手を振り回す。
体長にして一千メートルに近い巨体が感情のままに振り回されれば、海は荒れ狂い途方もなく巨大な渦潮が発生する。
変化はそれだけではない。奇妙な咆哮と共に衝撃の波が発せられると、吹く風が急激に勢いを増して嵐となった。雲は黒く雨まで降りだし、雷鳴が辺りに轟く。
その間に海に落ちた修太郎は激しい海流に抵抗しながら気を廻して回復を図っていたのだが、そうそう都合よく相手が待つはずも無く、間もなくしてクラーケンの触手に弾き飛ばされた。
再びの空中。この時から流石に意識も曖昧となり、記憶もひどく混濁している。
「えぇっ!? 人間!?」
ただ、覚えているのは急激に迫る少女の驚いた顔と、激突の感触だけだった。
―○●○―
ロスヴァイセと名乗った銀髪の少女は、ヴァルキリーであるらしい。
煌びやかな鎧に身を包んだ、目も醒めるような凛とした美人だ。
半神半人の戦乙女、死せる勇者を導く者――なるほど、あの高い戦闘力も納得できる。
しかし本来であればアースガルズに詰めているはずの彼女が、何故あのような場所に出張ってきていたのか。
聞けば、今現在アースガルズを含め北欧に存在する異界の出入り口がランダム周期で不安定になっており、人間が魔物に襲われる事例が増えているのだと言う。
周期はランダムでも不安定化する座標については既に解析済みなため、今回のクラーケン襲撃にもタイミングよく現れることができたとのことだった。
彼女にはあの巨大クラーケンを倒せずとも撃退できるだけの火力が確実に備わっている。有効な人員配置だったのだろうが、そこに現れたイレギュラーが修太郎だ。
まあ、普通はあの大きさの海魔を人間が単独でどうこうしようとは思わない。諸共に巻き込むのも仕方がないと言える。
状況的にロスヴァイセに落ち度はないのだが、ミスはミス。何が悪いかと言えば間が悪かったのだろう。
「うう……すみません……」
落ち込むロスヴァイセは、今も甲斐甲斐しく修太郎の手当てをしている。
常人なら瞬く間に消し飛ぶ威力の魔法の連射を浴びたのだからそれも当然。もし自分の放った魔法に巻き込んで無関係の人間を殺したのがバレたら上位神からの評価も下がるだろうし、あるいは罰を受けることになるかもしれない。何よりも、こうして接するだけで伝わる彼女の真面目さを見れば、自身の過失で命を奪うなど自分で自分が許せなくなるのだろう。
随所に見られる火傷に凍傷、無数の切り傷に、加えて感電の影響から修太郎はうまく体が動かせない。
今も加速させ続けている気の循環による活性治癒と、ロスヴァイセの魔法による治療も働いてだいぶ楽にはなったが、万全の状態に戻るにはいましばらく時間が必要だろう。
黒歌がいればまだ速いのだが、付近に彼女の気配が無いのを見るに、完全にはぐれてしまったらしい。
ロスヴァイセがどこからともなく取り出した包帯を修太郎の上半身に巻いていく。傍らを見れば大きな木のエンブレム――ユグドラシルと読める――が書かれた応急キット的なものが見えた。亜空間に収納していたのだろう。毎回思うが便利で羨ましい。
「それにしても、随分と手馴れた治療の手際だな。流石は戦乙女か」
「そう大したことは出来ていないのですが……。私たちは勇者をもてなしたり、時にはサポートしたりするのが本来の仕事ですので、こういった技能は一通り習得しているんです。……もっとも、今までは機会に恵まれず使ったことは無かったのですが」
「それでも誇るべきことだろう。こういう時に人を救える技術は尊重されるべきだと、俺は思う」
「そうでしょうか。でもそう言ってもらえると助かります。……それにしても、あなたって傷の治りが早いと言われたことはありませんか?」
「よく言われるが、それが?」
「何か最初よりも傷が浅いような……いえ、いいでしょう。では、下も見せてください」
「…………下?」
「どうしまし………………あ!! いえ、そういう意味ではなく、あくまで治療の意味でですね! 別に興味があるとかじゃなくて、本当に、ただ純粋に……」
顔を赤くして慌て出し、弁解の言葉を吐き出しまくる戦乙女。
「わかっている。まだ少し痺れてはいるが、脚の周りはそこまで大きな怪我は無い。ありがたいが、不要だ」
「あ、いえ、すみません、取り乱しました……ではひとまずこれで治療は終わりです。あなたには何か自分の治癒力を向上させる技術があるようですが、大事をとってしばらくは安静にしてください」
やはり身近で見ればある程度推測はつくらしい。この後普通に動く気満々だった修太郎にとっては、釘を刺された形である。
それならそれで出来ることはこの少女と情報を整理することぐらいだろうか。
「それでロスヴァイセ……でいいか? この場がいったい何処のどういう場所なのか、把握は可能か?」
「はい、呼び名はそれで。……ここがどこなのかは私にもわかりません。まずアースガルズではありませんし、魔が住む海域の孤島なのではないかと推測は出来ますが……」
なるほど、それは参った。内心で頭を抱える。
人の世界であればいざ知らず、異なる位相に阻まれた異界の中だとするなら修太郎単独での帰還は非常に難しい。
「俺はともかく、キミだけでもアースガルズに戻ることは?」
「……おそらく、難しいでしょう。転送魔法陣はあの時クラーケンが現れた場所より少し離れた小島に設置してありましたが、嵐に巻き込まれて流されてしまったため何処にあるかわからなくなりました。大人しく待っていれば救援の一つでも来るのでしょうが……どれほど時間がかかるかは見当がつきません。はっきり言えば、運ですね」
「と、なると」
「ええ、しばらくはここで生活しなければなりません」
まさか男女二人で無人島生活とは、船の上にいたころには思いもよらなかった事態だ。
きっと黒歌も修太郎を探している途中だろう。再会した時のことを考えると、今から頭が痛くなってくる。
「幸い当面の食料は私が持っています。数日間はこれで食いつなげるでしょう。しかし、その後は完全にサバイバルです。失礼ですが、経験は?」
「そこそこには」
「それは良かった。私はほとんどありませんから、わからない部分はあなたの判断に任せることにしましょう」
話は決まった。
とりあえず本日は修太郎の身体を治すために、この場を極力動かない方向で行くことになった。
そして、夕日が沈むころ。
周囲に魔除けの結界を敷設するロスヴァイセは、実に無駄の無い動きで作業をしている。
魔法陣の出たり消えたりするわずかな振動を感じる中、深く瞑想し、己に埋没しながら肉体活性の気を練り上げる修太郎はなんだか落ち着かなかった。
ふと、その原因に思い当たる。
今までは必ず手の届く範囲にあったそれ、自分の身体の延長とも言うべきモノ――。
「――剣が無い」
ロスヴァイセさんは一応サブヒロインになる予定。