夜天に輝く二つの光   作:栢人

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第七話 守護騎士達に休息を(中編)

 

 

 一陣の風が吹き、立ち込めていた砂煙が晴れる。

 視界を埋めるのは、干乾びた大地と五千を超える兵士達。空には暗雲が立ち込め、数隻の戦船が窺える。戦船の中には、眼前に迫る兵士達と同数以上の兵力が控えているのだろう。一国を攻め滅ぼさんとする戦力が、ヴォルケンリッターの前に迫っていた。

 だが、そんな事は関係ない。どんな敵がどれほど待ち構えていようとも、知った事ではないのだ。薙ぎ払い、叩き潰し、蹂躙して魔力を奪うのみ。それだけが、闇の書の守護騎士である自分達の役目。

 全ては、闇の書の主のために。

 例えこちらの戦力が、たったの四人であろうとも。

 

「流石に四人で相手にするのは厳しいわね……。ザフィーラと私でどうにか攻撃を防ぐわ。やれるわね、ザフィーラ?」

「無論」

「シグナムはファルケンで爆撃を。ヴィータちゃんは、接近してきた敵の迎撃をお願いできる?」

「心得た」

「…………」

「ヴィータちゃん……?」

 

 シャマルが細々とした作戦を練っているが、その内容が気に入らなかった。

 守護騎士では随一の防御魔法の使い手であるザフィーラと、それにも劣らない広域防壁を展開できるシャマル。この二人の守りを突破できる者など、ニアSクラスの魔力を持つ者だけで、凡夫が大半の敵軍には片手で数えるほどしかいないだろう。シグナムの最強の一手、シュツルムファルケンを何十射かすれば、無駄に数だけは多い敵軍も残らず地に這いつくばるはずだ。

 だが、自分はどうだ。

 先も言ったように、シャマルとザフィーラの守りを突破してくる敵などほとんどいない。いたとしても、自分の所に到達する前に、気を利かせたシグナムが射線に入れて撃墜してしまうだろう。

 つまり、自分がこの戦鎚を振るう可能性は、ほとんど皆無という事だ。

 気に入らない。

 別に、自分が活躍したいというわけではない。そんなことをしたとしても、主が頭を撫でて褒めてくれるわけではないのだ。無論、褒めて欲しいなどとは微塵も思ってはいないが。

 思い返せば、いつかの戦闘でもこういった作戦だった。結果は読み通り、堅牢な防御を切り崩すことができずに一方的な爆撃で蹂躙される。枯れた大地に立っているのは四人だけで、余力を持て余しているのはたった一人だけ。

 そう、最初に戦端を開くべきポジションの自分だけが、大した魔力も消費せずに立っていたのだ。見た目の幼さゆえに、大きな背中に庇われて。

 闇の書の守護騎士は戦乱のベルカでも名を轟かす最強の存在だ。自分達を地べたに這わせることができるのは、出鱈目な力を持つ王くらいのものだろう。

 しかし、一対一では分が悪くとも、四人揃えば例え王が相手でも後れを取る事はない。それだけの力を持つ守護騎士でも、消耗しないわけではないのだ。

 大軍を相手に勝利した時、自分を除いた三人は魔力切れ寸前まで追い込まれていた。自分も戦いはしたが、羽虫を叩き潰した程度の戦闘しかしておらず、役立たずもいい所だった。

 だから、気に入らない。

 このふざけた容姿も、下手な気遣いも、私利私欲で動く王も、目先の力に囚われた闇の書の主も、枯れ果てた大地も、真っ黒な空も、全部、全部、気に入らない。

 

「……アイゼン」

《Explosion.》

 

 カートリッジを二発ロード。圧縮魔力が戦鎚の中で炸裂し、自身の魔力も相まって、行き場を失った膨大な力の奔流が風となって吹き荒れる。足元に浮かぶ真紅のベルカ式魔法陣が、眩いほどに輝きを放った。

 

「ヴィータちゃんっ!?」

「貴様、何をする気だ?」

「うるせえっ! あんなやつら、あたし一人で十分だってんだよっ! 行くぞ、アイゼンッ!!」

《Jawohl!》

 

 シャマルとシグナムの制止を振り切り、ヴィータは単身で敵軍へと飛び出した。共にあるのは、己が半身であるグラーフアイゼンのみ。鉄の伯爵は戦船をも粉砕するほどに巨大な姿へと変貌し、全てを叩き潰すべく振り上げられる。

 

「おおおおおああああああッッ!!」

 

 これから始まるのは、紅の鉄騎による一方的な虐殺劇だった。

 

 

 

 

「……タ、ヴィータっ!」

「う、あ……」

 

 半ば悲鳴のような呼び声に、ヴィータは意識を浮上させた。

 重い瞼を持ち上げてみれば、眼前には泣き出しそうな顔をしてこちらを覗き込むはやての姿があった。その奥には、同じ守護騎士の一人であるシャマルの姿が窺える。はやての寝室、そのベッドの上だった。

 

「よかったぁ……。もう、心配したんやで?」

「どうしたの、はやて……?」

「どうしたのって、酷くうなされてたのよ、ヴィータちゃんは」

「うなされて……」

 

 代わって答えたシャマルの言葉に、直前まで見ていた夢の内容をぼんやりとだが思い出す。あれは、ヴィータの古い記憶だった。

 今までの日常、戦場の風景。血の丘に佇む、武骨な甲冑を身に纏った自分……。

 

「――っ!」

「ヴィータ……?」

 

 思い出した瞬間、足元が崩れ去ったかのような感覚に囚われて、はやての胸に縋りついた。

 大丈夫、自分はちゃんとここにいる。

 まだ何も、失ってなんかいない。

 そう自分に言い聞かせるが、心に纏わりつく何かは一向に離れてくれる気配がない。まるで、大蛇に全身を締め上げられているかのような、どうしようもない息苦しさと不快感があった。

 

「よしよし、怖い夢やったね。もう大丈夫やから、安心しぃ」

 

 困惑気味に受け止めたはやてだったが、きゅっとヴィータの小さな体を抱きすくめ、そっと後頭部を撫でてくれた。

 母親のような温もりが、大蛇の拘束をほんの少しだけ緩めた気がした。

 しばらくそうしていると、廊下からパタパタと足音が聞こえてくる。寝室の扉を開けたのは、一度抜け出したシャマルだった。その手には、ガラスのコップが握られていた。

 

「ヴィータちゃん、お水、飲める?」

「ん……」

 

 シャマルからコップを受け取り、少しずつ口に含む。奥まで流し込むと、張り付いて不快だった喉が潤いを取り戻した。

 しかし、喉の不快感は消えてくれても、体の不快感と息苦しさは、なかなか消えてはくれない。

 

(クソ、なんだってんだよ……)

 

 心の中で吐き捨てる。

 はやての隣で心地よく眠りについて、明日も気持ちのいい朝を迎えるはずだったのだ。朝のミルクを飲んで、顔を洗って着替えたらザフィーラの散歩。散歩から帰ったら、おいしいご飯を食べるはずだったのだ。そうしたら、学校に行く颯輔を見送って、それから、はやてと穏やかな時間を過ごすはずだったのだ。

 

(平和ボケしてんなってことか?)

 

 確かに、今の日常はこれまでの日常とはかけ離れている。

 闇の書の主は二人もいるし、蒐集はしなくていいなどと言い出すし、服も食事も与えてくれるし、寝床もふかふかで温かい。

 そして何より、主二人が好意的なのだ。

 これまでとは、何もかもが正反対。これでは何のための守護騎士システムなのか、わからなくなる。

 しかし、ヴィータは今の日常を気に入っているのだ。気に入らなかった子供扱いをされようとも、さして疑問も抱かずに受け入れられるほどに。

 起動してから一週間が経って、ようやくこの生活にも慣れてきたというのに。こんな生活もいいかもしれないと思えるようになったのに。

 これではまるで、その全てを否定されているようではないか。

 

「……はやて」

「なんや?」

「あたしは……あたし達は、ここにいてもいいんだよな?」

「……なぁーに当たり前の事言うてるんや。誰もダメやなんて、言うてへんよ」

 

 ヴィータを抱きしめる腕が、少しだけ強くなる。

 

「ヴィータはわたしの大事な家族や。ヴィータがおらんと、寂しくてかなわんもん」

「うん……うんっ……!」

「は、はやてちゃんはやてちゃん、私はどうなんですかっ?」

「もちろん、シャマルもやで。ヴィータもシャマルもシグナムも、ザフィーラもおらんと嫌や」

「よ、よかったです~!」

「ひゃあっ!?」

「うわっ!?」

 

 感極まったらしいシャマルが抱き着いてきたせいで、はやて共々ベッドに押し倒されてしまう。

 昔から守護騎士の中では感情豊かなやつだったが、ここまで馬鹿みたいにオープンなやつではなかったはずだ。

 そういえば、昨晩はあのシグナムが泣いている所を目撃してしまった。ぶすっとしているか、不敵な笑みを浮かべるかだったあのシグナムが、涙を流していたのだ。初めてばかりでさんざん驚かされた今回では、おそらく、一番驚かされた事だろう。

 

「お、重い~! さっさとどけよシャマルっ!」

「し、失礼ねっ! 私はそんなに重くありませんー!」

「いーや、重いね! ここに来てから太っただろお前!」

「ヴィータちゃんが酷いっ!? はやてちゃん、そ、そんなに重くないですよね……?」

「う、う~ん……ちょう、苦しいかなぁ」

「はやてちゃんまでーっ!? そ、それは、颯輔君とはやてちゃんのご飯はおいしいですから、ついついたくさん食べちゃいますけど……」

「いいからどけってんだよっ!」

「きゃんっ!?」

 

 今回の自分達は、明らかに今までとは違う。

 しかし、そんな変化も悪くはないと思える。

 見た目に反する怪力でシャマルを押しのけたヴィータは、はやてと共に布団を被った。いつの間にか、大蛇はいなくなってしまったようだった。

 

 

 

 

「………………」

 

 どうしてこうなった。

 ヴィータの心情を表す言葉は、正にその一言に尽きる。

 

《So daß ein Meister fest schläft. Gehen wir!(主の安眠のためです。行きましょう!)》

「お、おう……」

 

 パジャマの下にあるヴィータのデバイス――グラーフアイゼンが、何故か、意気揚々と告げてくる。相方は戦場にでも赴くかのようなテンションだが、対する主の方は、いまいち決心がつかないでいた。

 小さな手を差し出しては寸前で弾かれたように引っ込め、胸に抱いたのろいうさぎに戻る。そんなこんなを、かれこれ五分は繰り返しているのだ。

 二階にある、颯輔の部屋の前で。

 

『ヴィータ、寝られへんのか?』

 

 あの後、ヴィータは大人しく眠ろうと思ったのだ。

 思ったのだが、思っただけで、やはり、寝付くことはできなかった。

 目覚めた世界が、この陽だまりの世界ではなくて、『いつもの』世界になっているような気がして。

 

『そや、お兄のとこ行ってみるか?』

 

 それを見かねたはやてが、一つの提案をしたのだ。

 

『お兄と一緒に寝るとな、不思議と、怖い夢も見んでぐっすり寝られるんよ』

 

 颯輔と一緒に眠る事である。

 

『心配せんでもええよ、ちゃーんと説明しとくから。ん? もう寝てるだろうって? そんときは、起こしてまえばええんよ』

 

 ヴィータの反論も特に気に留めもせず、はやては思念通話で何やらやり取りをした後、のろいうさぎを渡し、ほな、おやすみな、と笑顔で締め出してしまったのだった。

 はやてには非常に申し訳ないが、そのときの有無も言わさぬ傍若無人っぷりは今までの主にどこか通ずるものがあった気がしないでもない。やはり、闇の書の主に選ばれる人間には、何かしら共通点があるのかもしれないと思った。はやてや颯輔を今までの主と一緒にするのは、本当に納得できないが。

 ともかく、そんなやりとりの結果、ヴィータは颯輔の部屋を訪ねることとなったのである。

 なったのだが。

 

(ああーっ、クソっ! たかだか一緒に寝るだけじゃねえか! はやてとは毎日一緒に寝てんだから、颯輔とだって何の問題もねえっ!)

 

 目標を前に地団太を踏む鉄槌の騎士。さらに、その頬を真っ赤に染めているときた。一騎当千の騎士と謳われたベルカの世界では、まず見られない光景である。

 

「部屋の前でいつまでも……お前はいったい何をしているのだ」

「うきゃうっ!?」

 

 びっくりした。

 びっくりしすぎて変な声が出てしまった。

 それに、みっともなく尻餅までついてしまった。

 見れば、いつの間にか颯輔の部屋の扉は開いており、ザフィーラが呆れたような目をこちらに向けていた。

 

「て、ててててめえっ!」

「我は一階で眠る。主を頼むぞ」

 

 わなわなと指差すヴィータを置いて、ザフィーラは横を抜けて行ってしまう。

 どうやら口下手なりに気を遣ってくれたらしい。

 歩みに合わせて左右に揺れる尻尾を、ヴィータは黙って見送ることしかできなかった。

 

「…………けっ」

「ふふっ」

「おわぁっ!?」

 

 びっくりした。

 あまり変な声は出なかったが、びっくりはした。

 見れば、開いている颯輔の部屋の扉から、颯輔が顔を出してこちらを窺っていた。

 どうやら、一連の流れはすっかり見られてしまっていたらしい。ヴィータは、頬が再びかあっと熱くなるのを感じた。

 

「ごめん、驚かせたかな? でも、はやてに起こされたはいいけど、なかなか来ないからさ」

「うっ……」

 

 ヴィータにその意思がなかったとはいえ、確かに、颯輔を起こしたのはこちら側なのだ。それなのに、態々起こしておいて、こちらの都合で待たせてしまった。

 迷惑だったのだろうか。

 嫌われて、しまったのだろうか。

 

「大丈夫?」

 

 俯くヴィータの頭に、そっと乗せられる大きな手。

 はっ、と見上げてみれば、そこには、はやてと同じように、心配そうにこちらを覗き込む颯輔の顔が。

 

「怖い夢見たんだろ? 思い出しちゃったか?」

「そんなことない、けど……」

「そっか……」

 

 颯輔は再び俯いたヴィータの頭をくしゃりと一撫でし、その手を戻す。

 かと思ったら、続いて、ヴィータの両脇に颯輔の両手が差しこまれた。

 わっ、わっ、と声を上げるうちに、ひょい、と軽々と颯輔に抱きかかえられてしまう。突然のことに驚きはしたが、不思議と嫌な感じはなくて、ヴィータは颯輔の肩に手をおいた。

 はやてがよくされている抱かれ方で、何だか胸の奥からあたたかいものが込み上げてくる。これまでは知ることのなかった気持ちだ。

 颯輔はベッドにヴィータを寝かせると、自身も隣に横になり、布団をかけた。すると、颯輔の腕に抱かれている間は何てこともなかったはずなのに、今さらになって、ヴィータの心臓がドキドキと暴れ出した。

 

(う、あ……な、何つーか、今すっげーことしてんじゃねえか?)

 

 ただ一緒のベッドに入っているだけなのに、それが、とてもいけないことをしているように感じてしまう。

 恥ずかしさのあまりに固く閉ざした目に変わり、自分の鼓動でうるさい耳が、颯輔の苦笑を拾った。

 

「なんか、懐かしいな。昔に戻ったみたいだ」

「……昔?」

 

 赤い顔を見られたくなくて、頭まで被っていた布団からひょっこりと顔を出す。布団の間から、胸に抱いたのろいうさぎの耳がぴょこんと覗いていた。

 

「ああ。はやてにも、こんな小さい時期があったなぁって。……って、これじゃあヴィータをバカにしてるみたいだよな、ごめんごめん」

「別に、いいけど……」

「そう? まあともかく、当たり前のことだけど、はやてにも小さい頃があったわけさ」

 

 今でも小さいけどな。

 そう言って、颯輔ははにかむように笑う。

 こちらを向く颯輔の瞳は夜空のように深く、ともすれば、ふとした瞬間に吸い込まれてしまいそうだ。そこに映っているのはヴィータのはずなのに、颯輔が視ているのは、別の人のようで。

 

「小さい頃のはやても魘されることがあってな、その度に、よくこうしたもんだよ」

 

 布団の上から颯輔の手が伸びてきて、ヴィータのお腹のあたりに触れる。ビクリ、と固まるヴィータを余所に、颯輔の手は、ゆっくりと一定のリズムを刻み始めた。

 これまた不思議なことに、やっぱり嫌な感じはしなくて、徐々に強張った体の力は抜け始める。大きな存在に見守られているような、そんな安心感がヴィータの胸を満たした。

 まるで、魔法のようだ。

 颯輔は何の魔法も使っていないはずなのに、下手な魔法よりもずっと魔法らしいと思った。

 

「夢っていうのは、頭が記憶を整理しているときに見るものなんだって。……怖い夢を見たってことは、つまり、ヴィータがそういう体験をしてきたってことなんだと思う」

「………………」

 

 颯輔には、自分達守護騎士が具体的に何をしてきたかなどは話していない。大まかなことを教えただけで、颯輔も、それ以上を追及しようとはしなかった。

 できれば、知られたくない。

 蒐集をしなければ、颯輔とはやてが闇の書の真の主として覚醒してこれまでの闇の書の記憶を知ることはない。だから、隠し事をしていることになろうとも、ヴィータには、二人にこれまでのことを話すつもりはなかった。

 きっと、嫌われてしまうだろうから。

 無論、話せと命令されれば話すしかないのだが。

 

「でも、もう大丈夫」

「…………?」

「これからは、怖い思いなんてさせないから。ヴィータ達が楽しく過ごせるように、主として頑張らせてもらうよ。だからきっと、これから見るヴィータの夢は、楽しいものになるはずだ」

 

 底抜けに優しくて、だけど、どこか儚く消えてしまいそうな微笑み。

 ヴィータが今まで向けられることのなかった表情が、そこにはあった。

 

「おやすみ、ヴィータ。良い夢を」

「……うん。おやすみ、颯輔」

 

 その笑顔を目に焼き付けて、ヴィータはゆっくりと目を閉じる。

 何だか今日は、ぐっすりと眠れるような気がした。

 

 

 

 

《Stehen Sie bitte auf. Es ist schon Morgen.(起きてください。もう朝ですよ。)》

「ん、ううん……もう少し……」

《Meister Sosuke ist schon auf. Sind Sie gut?(主颯輔はすでに起きているようです。よいのですか?)》

「それを先に言ってよ!」

 

 朝の惰眠を貪ろうとしていたシャマルは、己の相棒である指輪のデバイス――クラールヴィントの念話を受けて飛び起きた。

 本日八神家の朝食を作る担当は、颯輔とシャマルの二名。未だ不慣れな作業で颯輔におんぶに抱っこのシャマルとしては、せめて颯輔よりも早く起きて準備を済ませておきたいところだったのだ。

 

《Seien Sie bitte still. Meister Hayate steht vielleicht auf.(お静かに。主はやてが起きてしまいます)》

「うっ!」

 

 ピコピコと咎めるように光る指輪の忠告を受け、隣のはやての様子を窺う。

 幸いにも、小さな主は未だに夢の中にいるようだった。すぅすぅと穏やかな寝息を立てており、それに合わせてかけ布団が上下している。どうやらはやての眠りは深い方らしい。

 ホッと胸を撫で下ろしたシャマルは、そろそろとベッドを抜け出した。極力音を立てないように注意しながら、しかし、できるだけ急いで、昨晩のうちに持ち込んでいた服に着替える。

 

「それじゃあ行ってきますね、はやてちゃん」

 

 夢見る主に小声で挨拶をし、するりと無音で部屋を抜け出す。

 八神家の筆頭主婦を目指すヴォルケンリッターが参謀役、湖の騎士シャマルの一日の始まりだった。

 

 

 

 

「ごめんなさい颯輔君、遅くなってしまいました~!」

 

 顔を洗い、頑固な寝癖も無事に整えたシャマルは、緑色のエプロンを装着しながら台所に飛び込んだ。そこにはすでに、此度の闇の書の主の一人である黒いエプロンを装着した颯輔の姿がある。

 シャマルに気が付いた颯輔は、少し苦笑しながら振り向いた。

 

「俺が早く起きちゃっただけだし、そんなに遅れてないから慌てなくても大丈夫だよ。それから、おはよう、シャマル」

「あ、はい、おはようございます」

 

 ペコリと挨拶を返すと、颯輔は満足そうに頷いた。

 エプロンの紐を結び終えたシャマルは、颯輔の隣に立つ。コンロにはすでに鍋がかけてあり、かつおだしのいい香りが台所に漂っていた。

 

「それじゃあ、今日は味噌汁を作ってもらおうかな。……と言っても、もうだしは取っちゃったんだけど」

「あぅ……すみません……」

「いいっていいって。それじゃあ、いっぺんに覚えるのは大変だから、一つずつ確実に覚えていこうか」

「はいっ!」

 

 主で先生でもある颯輔の言葉に、シャマルは胸の前で握り拳を作って答えた。

 料理に限らず掃除や洗濯に買い物など、颯輔は家事全般におけるシャマルの先生だった。長年八神家の主夫を務めてきただけあって、その腕はご近所の奥様方の間でも評判だ。颯輔君が婿に来てくれれば一家の家事は安泰、などと井戸端で噂されるほどである。

 しかし、いくら優れた主夫力を誇ろうとも、颯輔は高校に通う学生。おまけにはやての世話まであるのだから、突然押しかけた形となったシャマル達までいつまでも甘えているわけにはいかない。此度の守護騎士の役割は、主二人の生活を支えることなのだから。

 腕まくりをして気合をいれたシャマルは、颯輔の指示に従って調理に取り掛かり始めた。

 

「冷蔵庫に豆腐が入ってるから、出汁が沸騰するまでに切っておこうか。木綿って書いてあるやつね。分かる?」

「これ、ですか?」

「そうそう。切り方は、こうやって……こう。正方形をいくつも作る感じで。できそう?」

「あ、はい。何度か颯輔君やはやてちゃんがしているのを見ていましたから」

 

 一騎当千の騎士であるシャマル達に頼まれたことは二つ。はやての面倒を見ることと、家事を手伝うことであった。

 几帳面な性格のシグナムは掃除を得意とし、妹のように可愛がられているヴィータははやてのお世話、はやてに狼形態でいることを望まれているザフィーラは番犬代わり、シャマルはご近所付き合いの他にも家事全般を担当していた。

 最初は不審がられたご近所付き合いは、人当たりよく設定された性格もあってかすでに良好。荒廃はしていても文明度は高い世界にいたため、掃除機や洗濯機の使い方も完璧なまでにものにすることができた。これらは主二人に筋がいいと褒められるほどである。

 しかし、料理の腕の成長速度は他と比べるといまいちだった。味付けもそうだし、食材の組み合わせによって千変万化する完成形の複雑さは、あるいは魔法の術式の方が単純なのではないかと疑うほどである。

 現に、事前にしっかりと予習していた包丁さばきもなかなか上手くいかないでいる。いったい自分のどこがいけなかったのだろうか。教えられたとおりに豆腐に包丁を入れてみたはいいが、一つ一つの大きさがてんでばらばらで不格好な形になってしまったのだ。

 

「ま、まあ、最初から上手くできる人なんていないよ。俺もそうだったし、少しずつ慣れていけばいいさ」

「は、はい……」

 

 気落ちするシャマルの隣で、颯輔はシグナムの剣技のように冴え渡る包丁さばきで魚の内臓を取り除いている。はやての手つきも慣れたものであったし、あのレベルにまで達するには相当な精進が必要となるだろう。

 

「それじゃあ、あとは中火にしてから味噌を溶いて……うん、これくらいかな。一気に全部じゃなくて、少しずつ溶かすといいよ」

 

 颯輔は出汁が沸騰したのを見計らい、火を弱めてからおたまに味噌を掬って渡してくる。分量を記憶したシャマルはそれを受け取り、見よう見まねで溶かし始めた。

 あとは特に心配する必要はないと思ったのか、颯輔は自分の作業に戻ってテキパキと仕事をこなしていく。

 台所は主婦の城とお隣の奥様に聞いたが、ここの主も颯輔で間違いないようだった。さばいた魚を焼き始めた颯輔は、焼き上がるまでの間を利用して手際よく大根を下している。

 今日は味噌汁を、と言っていたとおり、颯輔には他のことを教えるつもりはないらしい。しかし、シャマルはその作業の様子を事細かに観察していた。まずは見てなんとなく覚えること、とは、これまたご近所様の教えである。

 そのあとは具を加えるだけだったために失敗らしい失敗はなく、無事に朝食の準備を済ませることができた。

 もっとも、シャマルが行ったのはせいぜい豆腐を切ることと味噌を溶かすことくらいで、颯輔が分量を量ったために味付けもろくにしていないのだが。

 朝食時、食にうるさくなったシグナムによって小姑の如く少々歪な形の豆腐を小馬鹿にされたシャマルは、料理の腕も完璧にしてみせると心に誓うのだった。

 

 

 

 

 空の半分は雲に覆われており、その合間から太陽が顔を覗かせている。

 一家揃っての朝食を済ませた後、シャマルはヴィータと共に洗濯物を干していた。

 人間形態になるのは大きな買い物のときくらいとなったザフィーラを除けば、洗濯物を出すのは五人。それほどの人数ともなれば、一日の洗濯物の量もそれなりの物となってしまう。さらに、この季節の洗濯物は輪をかけて大変だとお隣さんも言っていた。

 この世界には梅雨と呼ばれる雨の多くなる時期があるらしい。例年に比べて遅くなった梅雨入りらしいが、遅かろうと早かろうとその時期が疎ましいのに変わりはないそうだ。

 天気予報では本日の天気も午後から崩れると告げていたため、雲行きが怪しくなったら屋内に取り込むこととなるだろう。確かに、せっかく外に干した物を乾いてもいないのに取り込むのはなんだか負けた気がする。

 

「ん」

「はい」

 

 ハンガーに掛けられた洗濯物をヴィータから受け取り、物干し竿へと吊るす。

 身長的に無理のあるヴィータは、洗濯物をハンガーに掛けるまでが仕事だった。

 飛行魔法を使えば身長など関係ないのだが、魔法技術が皆無なこの世界での魔法の使用は主二人によって基本的には禁止されている。ここでの常識で考えれば、空中に浮かんで洗濯物を干す少女などを見られたらどんな噂が立つかわからない。ホームステイに来た、とただでさえ目立っているのだから、これ以上の悪目立ちは避けたいところである。

 

「ん? なんか今、不快な思念を受信したような……?」

「き、気のせいじゃないかしら?」

 

 精神リンクから何かを感じ取ったのか、触覚のように伸びたアホ毛をピコピコと揺らすヴィータに慌てて返した。

 一撃の破壊力に定評のある小さなアタッカーは、自身のデザインに大きな不満があるのだ。せっかく寝起きからにこにこと機嫌がよかったのだから、こちらまでゴロゴロと悪天候にするのはよろしくない。

 

「それより、昨日はよく眠れた? 颯輔君は、特に何もなかったって言ってたけど」

「ま、まあな。べ、別に、嫌な夢も見なかったぞ」

 

 はた目から見ればあからさまな話題転換ではあったが、その効果は予想以上にあったようだ。ヴィータは薄く染めた頬をポリポリとかき、覗き込むシャマルから逃れるように顔を逸らしていた。

 どうやら、颯輔にとっては何でもないことであってもヴィータにとっては一大イベントであったらしい。このように照れている表情など、これまでは見せたこともなかったのだから。

 

「うふふ、可愛い顔するようになったわね、ヴィータちゃん」

「ううう、うっせーなっ! 誰もそんな顔してねーよっ!」

「真っ赤になって否定しちゃってー。かーわいっ」

「こ、子供扱いすんなってっ!」

 

 颯輔君とはやてちゃんには許してるくせに、などと思いながら、小さくじたばたと暴れるヴィータの頭を撫でまわす。

 以前にこんなことをしようものなら、問答無用でグラーフアイゼンの頑固な汚れにされていただろう。それがここまで豹変するのだから、主二人の影響力は計り知れない。

 もっとも、以前の自分もこのようにじゃれつこうとは考えもしなかっただろうが。

 

「コラコラ、仲がいいのは結構だけど、あんまり外で騒ぐとあとで恥ずかしい思いをすることになるぞ」

 

 一見すれば母子のふれ合いにも見えなくもない行為を止めたのは、玄関から出てきた颯輔だった。もう学校に行く時間らしく、服装は制服になっている。

 恥ずかしい思いが嫌なのか、颯輔に注意されたからか、はたまた現在進行形で恥ずかしい思いをしているのか、ヴィータはシャマルの腕をするりと抜けだして颯輔の下へと駆け寄っていた。ザフィーラのように尻尾が生えていれば、ぱたぱたと忙しなく揺れていただろう。

 

「颯輔、もう行くの?」

「ああ。留守番よろしく頼むぞ?」

「うんっ!」

「傘は持ちましたか? 帰りの時間まで雨が上がるかはわかりませんよ?」

「折り畳み傘を入れてあるから大丈夫だよ。冷蔵庫の中身はまだあるから、買い物は大丈夫だと思う。今日は家でゆっくりしていていいよ」

「わかりました。それじゃあ、いってらっしゃい、颯輔君」

「気をつけてね、颯輔」

「うん。いってきます」

 

 ヴィータと二人、主の後姿を見送る。

 蒐集に駆り出されるのではなく、留守を預けられるのもいいものだとシャマルは感じた。

 

 


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