週末の昼下がり、シグナムは主二人に連れ立たれ、バスに揺られていた。目指す場所は、海鳴大学病院。はやての治療のためである。
はやては原因不明の下肢麻痺を患っており、月に何度か通院しなければならない。長年治療を続けてはいるが、残念ながら回復の兆しは見られないそうだ。治療系の魔法を専門とするシャマルが診ても、やはり原因はわからなかった。
ちなみに、そのシャマル達三人は家で留守番中である。守護騎士達を一人ずつ、はやての担当医に紹介していく算段なのだ。
『次は、海鳴大学病院前、海鳴大学病院前』
「シグナム、そこのボタン押してくれるか?」
「こちらですか?」
「そや」
バス内にアナウンスが流れると、はやての指示に従い、手を伸ばして停車ボタンを押す。ランプが点灯したのを確認したシグナムは、隣でぐったりとしている颯輔を見た。
「まもなく到着しますので、それまでの辛抱です」
「ああ……」
窓際に座る颯輔の顔色は真っ青で、目に見えて体調が優れないとわかる。聞けば、颯輔は乗り物、特に車には弱いらしい。発車して数分と経たないうちから辛そうにしていた。
颯輔も診察を受けた方がいいのではないか、とシグナムは提案したが、車を降りて数分も休めばすぐに治るとのこと。精神的な問題だから心配しないでほしい、と言われていた。
「もう。シグナムが付いてきてくれるんやから、お兄は家で待ってればよかったやん」
「そういうわけにもいかないだろ……」
家を出る前に交わした会話を再び繰り返す。
担当医にシグナム達の事を伝えておかなければならず、また、はやての病状を把握しておくため、颯輔は酔い止めを飲んでまで同行したのだ。そう言われてしまえば、シグナムには颯輔を止めることはできない。はやてにも止められないのならば、主を守るための道具に過ぎない自分も当然である。
「申し訳ありません。こちらの世界に慣れれば、私やシャマルが主……貴方の負担を減らしますので」
「謝らなくていいから……」
力なく笑う颯輔の背を擦っていると、程なくしてバスが目的地に到着した。よろよろと立ちあがる颯輔を支えようとしたが、はやての方を頼む、と言われ、はやての車椅子へと手をかける。
海鳴市を巡回するこのバスは、ドアにスロープを取り付けることで車椅子利用者も利用することのできる、所謂ノンステップバスだ。八神家から病院まではそこそこの距離があるため、通院の際には重宝させてもらっていた。
バスを降りると、抜けるような青空の下に大きくて真っ白な建物が正面に見えた。海鳴大学病院は、ここいら一帯では最も充実した施設を誇る医療機関だそうだ。
スロープを収納した運転手がバスに乗り込むのを見送り、シグナムは病院、続いて空へと視線を移した。
「ん? シグナム、どないした?」
「ああ、いえ、美しい空だと思いまして」
「んー、確かに気持ちええくらいに晴れとるなぁ。これなら、帰る頃には洗濯物も乾いとるね」
「はい。ですが、その頃にはシャマルが取り込んでいるでしょう。お二人に比べればまだまだ未熟ですが、あれも役立とうと必死です。ヴィータにザフィーラも協力するでしょうから、気にする必要はありません」
「ふふふ、シグナムらが来てからやることが減って助かっとるわ。ご飯は増えたけど、食卓が賑わうからプラマイゼロ、むしろプラスやしなぁ。おーい、お兄、もう大丈夫かー?」
「も、もうちょっと……」
いくらか顔色は元に戻ったが、まだ辛そうにしている颯輔が回復するのを待つ。シャマルがいればよかったが、戦闘に特化しているシグナムでは颯輔を癒すことができない。
バス停のベンチに腰掛けはやてと言葉を交わしながら、再び颯輔の背を擦り始めるシグナムだった。
◇
ベッドの上で医療用の検査機器に繋がれたはやての姿を、シグナムはただ黙って見守っていた。
魔法技術は見られないが、代わりに科学技術の水準は高い。
それが、地球という世界に抱いたシグナムの感想である。突き詰めて言ってしまえば魔法技術も科学技術の一つの形なのだが、この世界の技術は『魔法』とは別ベクトルで大きく発展していた。魔法技術のない世界で起動されたのは初めてのことであるため、シグナムにとっては物珍しいことだ。
しかし、いくら技術が発展しようとも、解決できない問題というものはどこの世界にも存在するらしい。
その一つが、主であるはやての病気だった。
原因不明の下肢麻痺。生まれつきやからもう慣れたよ、とはやては笑って言っていたが、それが辛くないはずがない。シグナム達守護騎士プログラムが起動したこの一週間で、はやてには一人では出来ないことが少なからずあるのだと理解した。
大抵のことはハンデを抱えていることを感じさせずにやってのけるはやてだが、それでも、入浴や排泄のときなどは誰かの手を借りなければならない。騎士としては初めての経験である介護を通じ、はやての不自由さを痛感したシグナムである。
知らず、握った拳に力が込められる。
二人の主に仕え始めてから今まで、シグナムは不自由や理不尽さを感じることは全くなかった。舌を唸らせる食事に温かい衣服、柔らかい寝床と穏やかな時間、そのどれもが、造り出されてからの長い時の中では与えられたことのないものだった。
一刻も早く闇の書の完成を、と闘争に明け暮れた日々。自分達に好意的な人間が全くいなかったわけではないが、少なくとも、主が好意的ということは絶対になかったと断言できる。
『蒐集はしなくてもいい。というか、しないでくれ。大層な力を手に入れたって、その責任には耐えられそうもない。だからまあ、今回は長い休暇だと思っていいから。少しは手伝いをしてもらう気でいるけど、ガチガチに行動を制限するつもりもないし。もちろん、危ないことや悪いことはさせないけどね』
もう一人の主の言葉を思い出す。
絶対的な力を目前にして、颯輔が望んだことはただ生活を共にすることだけだった。蒐集云々については伝えていないはやても同様である。
力を望まない主。道具として扱うのではなく人間として接する主。重なった例外が、シグナムを含めた守護騎士全員に戦闘以外の思考を取り戻させていた。
心優しい主達を襲う理不尽な境遇。闇の書を完成させれば、或いは――
「これで検査はお終いよ。お疲れ様、はやてちゃん」
入室してきた黒髪の女性の声に、シグナムは思考を中断した。
石田幸恵。海鳴大学病院の神経内科医で、はやての主治医である。
石田は手慣れた様子で検査機器を取り外すと、はやてを車椅子へと戻した。おおきに、と告げるはやてに、どういたしまして、と柔らかい笑みを返している。
はやてにはどこか遠慮が感じられたが、石田からははやてを想う気心が感じられた。
「それじゃあ、この後もう一回だけ診察するから、待合室で待っていてね」
「わかりました」
車椅子の後ろへと回っていた颯輔が返事をし、検査室を出る。シグナムもそれに続こうとした所で、呼び声がかかった。
「シグナムさん。少し、いいかしら?」
「私ですか?」
「ええ。ごめんね、颯輔君にはやてちゃん。シグナムさんと、少しお話をさせてちょうだいね」
「はぁ、シグナムがいいのなら、構いませんけど」
そっと目配せをしてくる颯輔に、小さく頷いて返す。
すでに石田には話を通してはあるが、遅かれ早かれ、こうして一対一で向かい合う機会があるだろうとは予測していたことだった。
「ほな、向こうで待っとるよ、シグナム」
「はい」
小さく手を振るはやてに笑みを浮かべて見送ったシグナムは、二人の姿が見えなくなると表情を戻して石田に向き直った。
「驚いたわ。はやてちゃん、随分とあなたに懐いているのね」
「……どういう意味でしょうか?」
石田は心底驚いたという顔をしていた。自然、その物言いに表情が険しくなったシグナムだったが、石田はそれに対し、悪い意味じゃないのよ、と苦笑で返す。
「はやてちゃん、颯輔君にべったりでしょう? あの子、他人にはほとんど心を開かないのよ。私もそこそこのお付き合いになるけど、未だに少しだけ壁を感じちゃうくらい。こっちは一方的に保護者みたいに思ってるのにね。だけど、何ていうのかしら……そう、あなたとは、もう心の距離が近いというか……。だから、驚いてしまったの。気を悪くしないでちょうだいね」
「いえ……」
心の距離が近い。
その言葉は、シグナムも感じていることではあった。
魔法の知識が皆無だった主二人には不可解な存在であろう自分達にも、同じ人間に接するのように接してくれる。それも、主だからと言って傲慢な態度を取らずにだ。
特に、通学している颯輔とは違い、現在は休学しているはやてとは共に過ごす時間は多かったためか、大分頼りにされていると感じている。
買い物などに出かけるときはもちろん、入浴や就寝も、ヴィータを交えた所にシャマルと一日交替で共にすることを誘われていた。はやてが自分にできないことを自覚しているためではあるが、スキンシップは別である。ヴィータとシグナムを両脇に配置し、甘えるかのように身を摺り寄せてくるのは、純粋な好意からであろう。戦いに明け暮れる日々をだったシグナムにも、あれだけ純粋無垢な笑顔を向けられれば、それくらいのことは察することができる。
武骨な自分のどこを気に入ったのかは、未だにわからないが。
「正直に言えば、ただでさえ大変な生活をしているのに、そこにホームステイなんて、って最初は思ったけど……はやてちゃんも懐いているようだし、颯輔君も助かっているって言っていたし、何も心配することはなかったのかもしれないわね。お門違いかもしれないけれど、私からもお礼を言わせてください。あの子達のお世話をしてくれて、本当にありがとうございます」
「あ、頭を上げてください。私達は当然の事をしているだけで、世話になっているのはこちらの方なのですから」
「それでも、よ。いくらしっかりしているとは言っても、颯輔君はまだ高校生だから一人じゃ大変な事も多いはずだから。そこに、日本には不慣れでも大人の助けがあるだけで、どれほど安心できることか。はやてちゃんも一人の時間が減るし、いい事ばかりだわ。……まあ、長年保護者面してきた私としては、少し悔しく思う所もあるのだけれど」
「申し訳ありません……」
代わって頭を下げたシグナムに、石田はただの冗談ですよ、本気にとらないでください、と返す。
元来生真面目な性格に設定されているシグナムには、冗談はほとんど通じないのだ。
真剣な話をしつつもどこか世間話をするようだった石田は、シグナムが頭を上げたのを見計らって表情を引き締めた。
「はやてちゃんの事もあるけど、あなたと話したかったのは、実は、颯輔君の助けになって欲しかったからなの」
「ある――コホン、そ、颯輔の助け、ですか?」
一週間経っても慣れない呼び方に恐縮しつつも、シグナムは疑問を返す。客観的に見ても、助けの手が必要なのは颯輔ではなくはやての方ではないのか、と考えながら。
「確かに、はやてちゃんには誰かの手が必要よ。だけど、あの子は大抵の事は一人でできてしまうし、できない事については颯輔君がいるから、そこまで過保護にならなくてもいいの。もちろん、本心は別だけどね……。でも、颯輔君は違う。はやてちゃんには颯輔君がいるけど、颯輔君には助けになってくれる人がいないのよ。あの子達の両親は早くに亡くなっているし、今の保護者さんも国外だしお仕事が忙しくてなかなか日本には来られないと聞いているわ」
それもあって、あなた達のホームステイ先にさせたのでしょうけど。
石田は一度そこで区切り、話を続ける。
「シグナムさんも感じただろうけど、介護って、想像以上に大変な事なの。それを、颯輔君はたった一人でこなしてきた。はやてちゃんの両親が亡くなってからだから、もう五年くらいになるのかしら。信じられる? ヘルパーの手があったのを考えても、当時はまだまだ子供だったはずの男の子がよ? 同年代の子と比べて大人びているとはいえ、遊びたい盛りのはずだったのに。たった一人の家族ですから、と言って、身を粉にして尽くしてきたの」
その話は、颯輔がいない時にはやてから聞かされていた。
やりたい事があるはずなのに、自分の所為で迷惑をかけてきてしまったと。もうそれに気づいたはずなのに、甘えてしまっていると。だから、シグナム達が現れてくれて本当に良かったと。
十歳にもならない女の子が、そう語ったのだ。
「颯輔君は、愚痴一つ零さなかったわ。最初の頃は大変そうにしていて、ヘルパーも雇っていたけれど、家事を覚えてからは一人でするようになってしまったし。それは、はやてちゃんが赤の他人の手を借りる事を気にするっていう理由もあるのだろうけど。私も気にかけてはいるけど、他にも患者さんはいて、あまり大した事はできていない……。心配かけまいと振る舞ってはいるけれど、颯輔君にだって内に溜め込んでいるものは少なからずあるはずなの。だから、あなたには……あなた達には、はやてちゃんだけでなく、颯輔君も支えてあげて欲しいんです。初対面で図々しいのはわかっています。だけど、あの子達の近くにいるのは……近くにいられるのは、あなた達だけだから……だから、お願いします。日本にいる間だけでいいですから、あの子達の面倒を見てあげてください」
まるで、本当の母親のようだ。
そう思いながら、シグナムは返事を返すのだった。
「当然です。……我らは、そのためだけに存在しているのですから……」
◇
とっくの疾うに日は沈み、気温も下がって少しばかり肌寒さを覚える外気に触れながら、シグナムは一人ベランダに備えられたイスに座り、ゆっくりとした時間を過ごしていた。
辺りは人工の光と月明かりに照らされてそこまで暗くはないが、思考を切り上げて見上げた快晴の夜空には、数えきれないほどの星々が瞬いている。街が眠ればさらによく見えるのだろうが、シグナムにとっては空に雲がないだけで幸運。それが快晴ともなれば、奇跡のような出来事だ。このような光景を目におさめられた事に感謝こそすれど、不満を覚える事などあるはずがない。
「ベルカの空に比べ、地球の空のなんと美しいことか……」
独りごちて、空気を胸いっぱいに吸い込む。
シグナム達守護騎士が、闇の書が作られた世界では、常に陰鬱な色をした雲が空を席巻していた。空を見上げても雲の下に戦船が見えるだけで、星を見る機会など皆無だったのだ。雲を抜ければまた別なのだろうが、そもそも、当時の自分達にはそんな発想すら浮かばなかった。それに、浮かんでもそれを許されることはなかっただろう。
だが、今は違う。時折家事の手伝いを頼まれることもあるが、こうして自分の時間を過ごすことも許されている。理不尽な命令を与えられることもなければ、剣を振るうこともない。砂塵の舞っていない空気は澄んでいて、血臭や死臭が鼻を突く事もない。もっとも、主達に言わせれば、もっと空気のおいしい場所はあるらしいのだが。それでも、シグナムにはここだけで十分満足だった。
月明かりを受け、手慰みに撫でていた待機状態のレヴァンティンが、きらりと光る。
「私は、弱くなってしまったのだろうか……」
戦いこそが日常で、剣を振るうことは呼吸と同じく生きるために必要な行為で、強者との戦闘に何よりの喜びを感じていたはずだ。それが、今回起動してからは全くない。体を動かす事が目的でレヴァンティンを起動することもあるが、それを振るう先に相手はいない。そもそも、この世界には敵と呼べる敵がいないのだ。忙しなく蒐集対象を求めて空を飛び廻ることもなく、こうして一人の時間を楽しむ余裕さえある。
そう、自分はこの時間を楽しんでいるのだ。
「お前の主にはこういった一面もあるらしい。戦闘しか知らぬはずが、滑稽な事だな」
《Sorgen Sie sich nicht.(いいのではありませんか)》
「くっく。そうか……確かに、悪くはないな」
己が半身と言っても過言ではない存在に肯定され、シグナムは満足そうに笑う。
少なからず意思を持つレヴァンティンも主に影響されたのか、ここでの生活で思考パターンに変化を来しているようだった。それがいいことなのか悪いことなのかは、まだわからない。しかし、いいことであると信じたい。少なくとも、シグナムはそう思う。
再び思考を空にして夜空を見上げようとした所で、窓が開く音が聞こえた。そちらを見れば、此度の主二人がいた。颯輔ははやてを抱きかかえ、はやては両手に湯気の立つマグカップを持っている。
「お邪魔しても?」
「邪魔などではありませんよ。どうぞ、こちらへ」
空いていた対面の席を引き、着席を促す。そこには颯輔が座り、はやては当然の如く颯輔の膝の上に落ち着いた。
ベランダのイスは二つしかないため、二人を座らせて自身は立っていようと思ったシグナムだったが、それはいらぬ心配だったらしい。仲睦まじい兄妹の様子に微笑を浮かべ、シグナムは元の場所へと腰を下ろした。
「はい、シグナム。寒かったやろ? コーヒー淹れといたから」
「ありがとうございます。ですが、よろしいのですか? それではどちらかが……」
「ああ、ええんよ。こっちは二人で半分こやから。ね?」
「そうそう。気にしないでいいよ」
「では、いただきます」
シグナム好みのブラックコーヒーを流し込むと、体の奥からじんわりと熱が広がる。寒かったわけではないが、確かに冷えていた体には心地良い温もりだった。
対面では、宣言通りにホットココアを飲み分けている二人が笑顔でいた。
シグナム達が現れた当初はそこまで近くはなかったが、三日と経たずに元の鞘に戻ってしまったはやてである。颯輔の意向で入浴や就寝は別になっていたが、それ以外の颯輔が家にいる時間では、はやてはその定位置に納まっていた。
曰く、いつかばれるんやから、見栄なんて張らんでも良かった、とのこと。
「星空を見ていたのか?」
「ええ。今宵は光を遮る無粋な雲もありませんから」
無粋な雲。
果たして、自分達はこの二人の仲を隔てる無粋な雲にはなっていないだろうか。
長年主の様子を捉え、ある程度は感情が読めるようになった目には、そのような様子は映らない。だが、本音まではわからない。主との間に繋がっている精神リンクでも、大きな感情は読み取れても小さな感情までは読み取れないのだ。かと言って、直接尋ねるのはまた違う気もするし、何より、答えを聞くのが怖いと思う自分がいる。
嫌われるのが、怖い。
起動してから一週間足らずだが、やはり、自分はこの二人から大きな影響を受けているらしい。もしかしたら、守護騎士プログラムに重大なバグが生じているのかもしれない。
「星かぁ。星座がわかったら、もっとおもろいんやろうけど……。あっ、そや、お兄、星座早見持ってへんかった? あのまぁるいやつ」
「あったとは思うけど、どこに仕舞ったかなぁ……。あ、星座早見っていうのは、その時間にどんな星座が見えるかわかるやつね。ちょっと探して来ようか?」
「いえ、今は大丈夫です。ですが、よろしければ、探しておいてもらえると幸いです。私だけでなく、皆も夜空には興味があるでしょうから。特に、ヴィータは喜ぶでしょう。あれはよく空を見上げていましたから。私もヴィータの影響を受けて見るようになったのです」
「そっか。なら、しっかり探しておくよ」
「見つからへんかったら買うて来ないとなぁ」
「そうだな」
「そ、そこまでせずとも……」
シグナムの遠慮もどこ吹く風で、颯輔とはやてはいつの間にか、いっそのこと人数分揃えるか、などと相談を始めている。
そんな、心優しい主達だからこそ、シグナムは思う。この二人が幸福にならなければ、それは嘘であると。シグナムだけでなく、ヴィータにシャマル、ザフィーラも、きっとそう思っていることだろう。それほどまでに、颯輔とはやては自分達によくしてくれた。主の道具に過ぎない、守護騎士達に。
「主、お話があります」
居住まいを正したシグナムは、星座早見から夜空をよく観察できるスポットの話へと移行していた主二人に向き直った。
「改めてどしたんや、シグナム?」
「何か大事な話?」
「ええ。……主はやての、お体に関することです」
空気が重くなることを理解しつつも、シグナムは告げる。
「蒐集を行い、闇の書を完成させましょう。そうすれば、今は治すことのできない貴女の病も、治すことができるはずです」
「……っ!」
病院から帰ってきてから、ずっと考えていた事の答えだった。
口には出さずとも、はやてが自身の体に不満を抱いている事は明白である。それが両者の負担になっているのなら、その問題を解決してしまえばいい。
闇の書の主に選ばれる者は、膨大な魔力を備えていることが絶対の条件。闇の書が完成し、その管制融合騎と融合すれば、それまで溜め込んだ闇の書の貯蔵魔力も扱え、並の魔導師が束になっても、例え次元航行艦の艦隊が相手でも、脅威とも思わずに退けることができるのだ。それほどの力があれば、不治の病どころか死者でさえ蘇らせることができるかもしれない。蒐集した魔法にその術式がなくとも、蓄えた知識と無限に近い魔力を行使できる闇の書の真の主ならば、その術式を作り上げることも不可能ではないはずだ。
もちろん、二人の支えとなるのが嫌なわけではない。心優しい颯輔とはやてだからこそ、闇の書の守護騎士だからではなく、シグナム個人が仕えたいと思う。二人には、真の意味で幸せになって欲しいのだ。それには、はやてを苦しめる病などない方がいい。健康な体であれば、さらに人生を謳歌することができるはずなのだから。
だと言うのに――
「……それは、あかんよ」
言葉を失う颯輔に変わり、病に苦しむ本人が――はやて自身が、それを否定した。
「――っ!? 何故ですかっ!?」
それが信じられなくて、悲しげな表情を見たくなくて、シグナムは声を張り上げる。
「貴女だって、病を治したいはずですっ! ご自身の足で歩きたいはずですっ! 主颯輔の隣に立ちたいはずですっ!」
ベッドの中で、はやては語っていた。いつか病気が治ったら、お兄と一緒にお散歩してみたい、もちろん、シグナムもヴィータもシャマルもザフィーラも、みーんな一緒にやで、と。
「闇の書を完成させれば、その願いが叶うのですよっ!? 貴女の、お二人の願いを叶えるためならば、我らは……私は……例えどのような罪を被ろうとも……!!」
「それや」
「え……?」
「シグナム、今自分で言うたやないか。どのような罪を被ろうとも、って。それって、闇の書の蒐集は悪い事やってことなんやろ?」
「それ、は……」
世が乱れ、正に弱肉強食の時代だったベルカの世界でも、時空管理局が目を光らせている現代でも、闇の書の魔力蒐集は確かに違法行為だ。同意の下になら話は別だが、そもそも、下手をすればリンカーコアが回復せず、二度と魔法が使えない体になってしまう蒐集を了承してくれる魔導師などいるはずがない。
リンカーコアを持つ魔法生物から蒐集することも可能だが、魔法生物の保護にも力を入れている管理局からすれば、どちらも違法行為であるのに変わりはなかった。
悲しげな顔から一転、はやてはいつもの優しい笑顔を浮かべる。
「だったら、あかんよ。わたしの自分勝手な願いの所為で、人様に迷惑をかけるわけにはいかん。それになにより、シグナムらはもう家族や。いくら自分のためとはいえ、家族が罪を犯すのを黙って見てられるわけないやろ?」
「あ、あぁ……」
視界が歪む。
これは、涙だ。涙で視界が歪んでいるのだ。どうやら自分は、柄にもなく涙を流して泣いているらしい。
人間を模して造り出されたとはいえ、プログラム体に過ぎないシグナムに涙を流させるほどに、はやての言葉はシグナムの胸を打った。
闇の書の主にしては、自分達に好意的だとは思っていた。しかし、『家族』と言ってくれるほどに好意を抱かれているとは、夢にも思わなかった。
何が理由で好かれているかは、よくわからない。それほどの好意を寄せられるような事は、何一つとしてしていない。主を支えるどころか、世話になってばかりだったのだ。その恩を、自分達は何一つとして返せていない。
しかし、精神リンクを介して流れ込んでくるこの温かな気持ちは、間違いなく本物だった。
「そやから、わたしらが主でいる限り、闇の書の蒐集は禁止や。今までがどうやったかはようわからんけど、これからは、傍にいてくれるだけでええんよ。……お兄も、それでええな? おかしな事考えたらあかんよ?」
「……大丈夫だよ。最初から蒐集させるつもりはなかったしな」
「どう、して……」
どうして貴女方は、自身の幸福を望まないのですか。
言葉にならなかった問いは、しっかりと伝わっていたらしい。
「そんなの簡単や。わたしの願いは、もう叶っとるからな。お兄に、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラと一緒におること。家族みーんなで楽しく過ごすことが、わたしの願いや」
そやからわたしは、もうとっくに幸せなんよ。
その言葉に、堪えていた涙が堰を切ったかのように溢れ出す。そんなシグナムをおいでおいでと引き寄せ、はやてはその小さな胸の中に抱え込んだ。颯輔もおずおずと手を伸ばし、やがて、はやてにするようにそっと頭を撫でる。
この日、剣の騎士は、長き旅路の果てに、自身も気づくことのなかった最も欲っしたものを手に入れた。
夜天の下で交わした誓いが破られるのは、これから約四ヶ月後のことである。