職場にはそれぞれ特有の雰囲気というか、ルールみたいなものがある。
アットホームなところがあれば、必要以上に年功序列を厳しくしている職場もある。それを決めるのは店長はもちろんのこと、スタッフそれぞれの空気みたいなものがあるのだろう。
上司が代わっただけで職場の雰囲気までがらりと変わったというのはよくある話だ。影響力があるならば、それは一人のスタッフからでも起こり得ることだろう。
つまり、人一人が雰囲気を変えてしまうということが、職場でもままあるということなのである。……さすがに立場を度外視してまで影響力のある人なんて稀なのだと信じたいが。
「んまあー。新人が入ったって聞いてはいたけど、こんなに若い男の子だったのねぇー。張本ちゃんが何か厳しいこと言ってきたらあたしに言いなさいな。ビシッと言ってあげるから。おほほほほほっ」
「は、はあ……」
パワフルなおばちゃんが俺の肩をばしばし叩く。力加減を間違えていることにも気づかず嬉しそうなものだ。
この人は吉田さん。この間急用で休んだスタッフである。俺と望月さんが代わりになれるよう奮闘したことを聞いて、感謝をしたいと話しかけてきたのだ。
「それにしても高木ちゃん男の子なのに料理できるのねぇ。うちも男の子がいるんだけど全然ダメなのよ。もうね、料理は食べる専門だ、って言って手伝いもしてくれないの。そのくせ好き嫌いがあって困っちゃうのよ。この前なんてね、カレーが食べたいって言うからお野菜たっぷりのを作ってあげたのよね。それでなんて言ったと思う? こんなのカレーじゃないって文句ばっかりなのよ信じられる? だからね――」
「え、えっと……」
……のはずなのだが、感謝どころか話が別方向へと行ってしまうのは気のせいだろうか?
職場のことを口にしていたかと思えば、自分の子供がどうのとか、学校はどうなのよとか、段々話が離れてきている。
おしゃべり好きのおばちゃん。よくいそうな人ではあるけど、俺の周りにはここまでのマシンガントークする人に心当たりはなかった。一向に口の動きが止まらないことに戦慄する。これいつ終わるの?
けれど、仕事に入ってしまえば吉田さんの雰囲気ががらりと変わった。ピリリとした緊張感が俺達にも伝染するほどである。
吉田さんはただのおしゃべり好きのおばちゃんではなく、とても仕事ができるおばちゃんでもあった。それは職人気質だと感じていた張本さんでさえ頭が上がらないようだった。
こんな人が休んだりすれば店長が慌てるのも納得してしまう。一体吉田さん一人で何人分の仕事ができるのやら。
「それでね、うちの子ったら夏休みだからってだらけちゃってばかりなのよ。こっちが宿題やってるのかって聞いても生返事するだけ。本当に困ったものよね。こっちだって暑い中でも関係なく忙しいってのにねぇ。そうそう、今朝のニュースで言ってたわ。あの女優が離婚したらしいわね。えーっと、名前はなんだったかしら……」
「へぇー、そうなんですかぁ。大変ですねー」
休憩室から漏れる声を耳にし、今度は望月さんが吉田さんのターゲットにされてしまったのだと悟る。望月さんの生返事に気づいていないのか、吉田さんのおしゃべりは止まる様子を見せない。話題がコロコロ変わっても気にしてないみたい。
「ごめーん望月さーん。ちょっと教えてもらいたいことがあるんだけどー」
休憩室の外から新人ならではの困っているアピールをする。望月さんは「助かった!」とばかりの表情で、小走りでその場を脱出した。
「高木くん気を利かせてくれたんですね。助かりましたー」
「お疲れ様望月さん。吉田さんっていつもあんなに元気なのか?」
「あはは……。たぶん新しく高木くんがきてくれたから嬉しくなっているみたいですよ」
いつも明るい表情の望月さんがぐったりと疲れている。人付き合いの上手い彼女が疲労を隠せないほどになるとは……。吉田さん恐るべしである。
俺が知らず労わるような顔でもしていたのだろう。望月さんは「勘違いしないでくださいね」と手を振った。
「僕は別に吉田さんを嫌っているわけじゃないんですよ。仕事はできるし、気配りだって誰よりもできる人なんです。お子さんがいる中で働いて、家のこともして……。僕は吉田さんのことを尊敬できる人だと思っているんですよ」
「それは俺も同感だよ」
吉田さんが自分のことを話す中に、滲み出る苦労を感じた。冷静に聞いていると、よく働いている印象を抱かせるのだ。
それを明るいおしゃべりで笑い話にしている。苦労を自慢するわけでもない。吉田さんのマイナスを感じさせないパワーが、より一層職場を盛り上げているのかもしれなかった。
「ただ……長話の相手をするのは大変かなぁって……」
「……それも同感」
わりと関係のない話も多い人である。話した時間もそう長くない俺が思ってしまうのだから、望月さんはもっと大変だったのだろう。
二人でため息をつく。ちょうどというべきか、休憩室のドアが開いた。
「あらあらまあまあ、まだこんなところにいたの? 高木くん困っていることがあるならいつでも言ってね。今困っているの? なんでも教えてあげるから言って言って。こう見えてもあたしけっこうベテランなんだから」
俺と望月さんは噴き出すように笑った。どうやら新人は吉田さんにかわいがられる運命らしい。望月さんから口パクで「がんばってくださいね」とエールを送られた。
※ ※ ※
ファミレスバイトの日々は慌ただしくも過ぎていく。
仕事を少しずつ覚えて、仕事をしていた頃を少しずつ思い出す。体は段々と慣れていくものである。姿勢が良くなってきたのか腰の痛みもだいぶマシになってきた。
バイト以外のことで覚えたといえば、望月さんのことだろうか。正確に言えば望月さんのお兄さん達のことだ。
望月さんと出勤日が被った日はいっしょに帰っている。また良一さんに出くわしたりしないようにと早めに別れるのだけど、はっきり結論を口にするなら無駄なことであった。
「俺の名前は
「俺は高木俊成です。まずは落ち着きましょうか。はい、深呼吸してくださいねー」
「すー……はー……。よし! なんかスッキリした。帰るぞ梨菜」
ある日は次男の勇士さんと。
「ふーん。君が高木俊成くんなんだー。梨菜のクラスメートで、バイト仲間なんだー。へぇー」
「ええ、まあ……。そういうあなたは望月さんのお兄さんですか?」
「まあねー。
「世話になってるのは俺の方ですよ。望月さんにはバイトの先輩としていろいろ教えてもらっていますし。良い妹さんですね」
「へへっ、そうだろー。自慢の妹なんだー」
ある日は三男の幸治さんと。
「……良兄達が言っていた高木って君? 俺は
「どうもご丁寧に。こちらこそよろしくお願いします。……今までのお兄さんの中で望月さんと一番顔立ちが似ていますね」
「そう……? 君は良い人、かも……」
「今のどこに良い人要素があったと!?」
ある日は四男の宗司さんと。
「高木、毎回梨菜を送っているんだってな。バイトも真面目に取り組んでいると梨菜から聞いた。だがそんな上辺だけじゃあ何も判断できない。お前は俺達の梨菜を想う心について来れるか?」
「いい加減にしろバカ兄貴! 僕がどれだけ恥ずかしい思いをしているかちょっとくらい想像してよ! ……ですよ」
そして、ある日は長男の良一さんにばったり会ったりした。本当にばったり? と疑問に思ってはいけないのだろうな。爆発した望月さんのことも見なかったことにした方がいいんだろうな。
おかげで望月さんのお兄ちゃんズの顔と名前が一致するようになってしまった。遭遇率は一〇〇%である。毎回望月兄の誰かに会っている。全員妹のこと好き過ぎるだろ。
だからって、彼らのことを悪くは思えなかった。
兄として妹が心配なのだろう。俺は一人っ子だけど、葵と瞳子と幼い頃から接してきたこともあってか、なんとなくその気持ちがわかる。
ほんの些細なことでも、俺は葵と瞳子を心配してしまう。それが余計なことだと思われたとしてもだ。
「兄達が本当にごめんなさい。こんなに迷惑かけちゃって……。妹ばっかりにかまけちゃうだなんて、恋人ができなくなっちゃったらどうするんでしょうね……。せっかく顔は良いのに、残念なことにならなければいいのですが。……いいえ、僕がしっかり言ってやらないといけませんね」
それは逆も然りである。
お兄さん達から心配されながらも、望月さんもまたお兄さん達の心配をしていた。それがなんとなくだけども、葵と瞳子が俺を心配している目と被る。
「……」
身内の目、か……。
自分以外は他人。そんな考えもあるだろう。
でも、自分のことのように、もしかしたら自分以上に一喜一憂し、心が揺さぶられる。そんな人は確かにいて、それが身内と呼べるものなのだろうと思う。
本当の意味で他人との違いがわかるとすれば、本物の身内になった時だけかもしれない。もしその時がきたとして、自分がどう思うのか……。今考えても仕方のないことだけれど、そうわかっていても気になってしまって考えずにはいられなかった。
※ ※ ※
俺は働く。時には吉田さんに指導され、時には張本さんに叱られ、四人の兄の奇行を愚痴る望月さんの聞き役となっていた。
そして、ついに目標金額を稼ぐに至ったのである。
短期間ではあったけど、濃い時間を過ごさせてもらったバイト生活も今日が最後だ。そのことを昼休憩の時に望月さんに伝えた。まかないのカツとじがいつもより美味しく感じる。
「おめでとうございます。でも、高木くんがいなくなるのは寂しいですね。それでお給料の使い道は決まっているんですか? ここだけの秘密にしますから教えてくださいよー」
目標を達成して締まらない表情をしていたのだろう。望月さんが気になるとばかりに尋ねてきた。
俺は表情を引き締めなおし、ニヒルな笑みを作ってこう答えたのだ。
「実は、ちょっとした旅行を計画しているんだ」