空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない   作:白山羊クーエン

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太陽の砦

 

 

 

 奈落の底を見せ付けられているかのようだった。

 光の一切を許さないブラックホール、それが地面を刳り貫いて存在している。放つのは負の気配、吐き気を催すほどに圧縮され満ち満ちた異界だった。

 二人は眼下に広がる縦穴を呆然と眺める。真実異界となった世界を見た経験がある二人からしてもここは異界で、同時に現実であることを認識しているためにその齟齬で頭が狂いそうだった。

「これが、人の業ってことなのかな……」

 黒髪の青年ヨシュア・ブライトはただそれを生み出した妄執の人形に哀しみしか湧かない。人間の欺瞞に狂わされた人生、それを知っている彼はこの世界が他人事のようには思えなかった。

 

「間違ってる。絶対に間違ってるわ」

 しかしそれは彼が一人の時だけだ、今青年の隣にはエステル・ブライトがいる。彼にとっての太陽が、光の道を共に歩んでくれる存在がいる。

 だからこそ、あまりの想念に引きずり込まれそうでもそうはならない。二人は手を取って歩いていくと決めているのだから。

「流石に深いね、おそらくは最深部がヨアヒム・ギュンターの場所なんだろうけど」

「骨が折れそうね、魔獣の気配もあるし気を引き締めていかないと」

 むんと両拳を握り締め気合を入れる。背中からタクトを抜き、一気に振り下ろした。ヨシュアも腰のホルダーから双剣を抜く。

 二人は互いの得物をこつんと合わせた。

「遊撃士協会クロスベル支部正遊撃士エステル・ブライト」

「同じくヨシュア・ブライト――――これより太陽の砦を制圧し、D∴G教団幹部司祭ヨアヒム・ギュンター、並びにクロスベル市長暗殺未遂事件被疑者アーネスト・ライズの確保に向かいます」

「よし、行っくわよー!」

 濃い紫色の瘴気の中、二人の英雄は最深部までの道程を駆けていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくつもの困難を乗り越えてきた二人にとって、この遺跡が果たしてどれほどの難度だったのかはわからない。しかし二人にとって『二人でいる』という事実がどれだけ力になっているのか、それは本人たちの視点と第三者の視点がなければ語りきれない。

 信頼しあえるパートナーがいる事実は迫り来る異形の魔獣を相手取ることでその一端が垣間見える。ヨシュアが先手を取り、ひるんだところをエステルが仕留める。

 基本性能的にこの戦法が主流だが、しかし先手のヨシュアに決定力がないわけではなく、またエステルに先手を取る俊敏性がないわけではない。それはどちらかといえばという贅沢な話であり、結局はどのような状況にも容易く対処できる。

 長い間ともにい続けた二人の連携は阿吽の呼吸、常に相手がどうするのかが読み取れる間柄は戦闘に一切の無駄を要さない。実力的にも劣る魔獣の群れは二人にかすり傷一つ浴びせられない。

「エステル!」

「りょーかい!」

 そして同時に、二人は恋人同士だ。そんな二人が二人でいられる時間・空間は何よりの活力源になる。

 信頼しあうパートナーとの連携こそが第三者が見る力の上昇なら、本人たちが感じられる心の充足こそが当事者が見る力の上昇なのだろう。

 

 ブレードファングが迫る。その大顎を跳躍して交わしたエステルはそのまま頭部に棒術具を振り下ろし、

「はぁ!」

 更にその衝撃で戻った得物を身体を一回転させることで更に振り下ろし止めを刺す。

 そのエステルを狙ったビジョウのアーツを切り払ったヨシュアは残像が残る速さで懐に入り込み、腰に溜めた剣で居合いのようにその巨体を切り裂いた。

 かつて、エオリア・フォーリアやリン・ホンメイは特務支援課が苦戦する魔獣をいとも簡単にし止めたことがある。そしてスコット・カシュオーンは古代の魔獣ブレードファング三体を相手取り、さほどの損傷もなく勝利した。

 そんな三人と同レベルな二人が、いくら相手のフィールドであっても魔獣に負けるはずがない。

 

「なんか気だるいわね……」

「空気が汚染されているみたいだ。あまり長居はしたくないね」

 既に相当数の魔獣を滅し、長い距離を歩いている。肉体的な疲れはあまりない、しかし密室における空気の澱みは士気に影響を与えていた。

 それでも彼らの空気を壊すほどには至っていないのだが、しかし――

「エステル、ストップ」

「ん? どうしたの?」

 新たな階段を下りきったエステルが振り返るとヨシュアは階段付近の壁面を見ている。それが何を意味するのか理解したエステルは瞬時に周囲を見回した。

「一本道だったはずよね、ということは――」

「幻術か……いや、どうやら空間がループしているみたいだ」

 ヨシュアが指でなぞった壁には瑕が残されている。ヨシュアが定期的につけている瑕だ。

 こうした建造物の探索では迷わないように印をつける。一本道を進み、まだ通っていないはずの階段を下りた先には、確かに彼がつけた瑕が残されていた。無数にあるその他の瑕とは明らかに異なる、遊撃士に共通するマークである。

「どこかに解除スイッチがあるとかかな?」

「最悪囚われた人間には解除不能かもしれない。とりあえず」

 先を見る。新たな魔獣が歓迎しているようだ。

「上等っ、返り討ちよ!」

「体力は温存で頼むよ」

 

 ゆっくりと浮遊するビジョウの数は三体、紫と黒という暗黒のイメージしか思わせない球体についた獣のような瞳と口、外周を鬣のような鋭いとげが覆う異色の魔獣である。

 ビジョウの攻撃はアーツか牙による咬合である。アーツに関しては体内に持つ属性値の高さから幻・時属性の上位魔法を行使し、また牙には数多の細菌を保有しているためにかすり傷でも酷い症状を巻き起こす。

 本来生態系に組み込まれていないこの魔獣は教団の研究の成果、元々存在する意味はない。そこに僅かな憐憫を覚えるが、それでも立ちはだかるならば容赦はしない。

 二人にできること、それは間違った生まれ方をしてしまったこの魔獣を一刻も早く解放することだけである。

 

「はっ――!」

 ビジョウが詠唱のために止まる。それを視認したエステルは高速の踏み込みで以ってビジョウとの距離を零にした。

 同時、エニグマが起動、金の光に包まれたエステルは横に一回転、三体のそれに渾身の薙ぎを繰り出す。

 真・金剛撃、特殊な一撃でアーツの詠唱を阻害する戦技である。

 もちろん詠唱解除だけではない、七耀の補助も加えた彼女の一撃はビジョウをまとめて吹き飛ばし、更に薙ぎから縦の振り下ろしに移行したエステルはその振りで衝撃波を発生させる。

 体勢を整える暇も与えない連撃はビジョウを容易く呑みこみ、その存在を融和させた。

「エステル!」

 刹那、ヨシュアが叫びエステルの正面に移動した。瞬間鈍い音とともに空気が割れる。

「な、新手っ!?」

 魔獣を撃退した直後とはいえ、エステルに接近を気づかせなかったそれはヨシュアに攻撃を防がれても何も反応しない。むしろその存在に驚いたのはヨシュアであり、双剣と刀の鍔迫り合いから相手を弾き返した彼は、そのまま何も言わない人間に向かって問い詰めた。

 

「ルバーチェの人間ですか、どういうつもりです」

「…………」

 それは紛れもない黒服の男、サングラスで目を見れず、それ以外のパーツも感情を窺わせない。エステルは一瞬の隙に自身を叱咤し、そして口を開いた。

「あんた、自分が今何してるかわかってるの!?」

 その叫びは男に行動を促した。しかしそれは対話などという理性的なものではなく、正真正銘の戦闘意志だった。

「――ッ、この気配は……!」

 ヨシュアが一歩飛び退き、そして男は紫の瘴気を外に現した。

 それはおよそ人間の持てるものではない、まるで鎧のように身体の表面に取り付いた悪意はそのまま蜃気楼のように男の身体を朧と化す。その異常な光景は咄嗟に攻撃を仕掛けることも許さず、二人の遊撃士が認める中、その身体全てを武器にした。

 

「魔人化、した……?」

「これがグノーシスの力なの……」

 男の身長は成人男性の平均を大きく上回ってしまった。それは人間が持てるスケールを凌駕し古代の魔獣に匹敵する。

 隆起した筋肉は鋼のような硬度を持ち、身体の全部位を攻撃的な鋭角で覆っている。それを纏め上げる脳がある頭部はかろうじて人間の名残を持っていた。

 しかしそれは形だけの話、口は裂け白い牙から唾液がこぼれる。瞳孔を失った白眼は焦点というものが存在しなかった。

 人間の精神を変容させたグノーシスは、その精神によって肉体構成までもを変異させた。二人が見る男は理性と引き換えにその業を成し遂げたのである。

 

「ああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ――!」

 叫びともつかない咆哮、それは衝撃となって二人を襲う。その大音量に顔を顰めた二人はしかしそれ以上にその変容に心を痛めていた。

 たとえ彼らが守るべき民間人ではないとしても、これまで持っていたものを捨てていいわけではないのである。それが本人の意思ではなく他者の意志であるのならなおさらだ。

 

「……元に戻せる、かな」

「わからない。でも、ここで止めなければならないことは確かだよ。それが本人のためでもある」

 気休めはいらない。だからこそその次の言葉を信じられる。

 目を僅かに細め、半身になる。右手は高く、得物の先端を地に定め、

「行くよ、ヨシュア」

 同じく半身となり、右の剣は地を、左の剣は目の前の哀れに――

「うん。解放してあげよう――」

 動物的な突進、それを迎え撃つように遊撃士は地を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 月が眩しい。そう感じたことは今までの何度かあったと思うが、しかしここまでそれに近づいたことはなかった。

 だからこそ今までよりも大きく明るい月光、そんな白光の舞台の中で夜風を切り裂いて空を翔ける赤の機体。

「もうすぐよ」

 レンがそう告げるパテル=マテルの上、それに対し慣れていない四人は一様に目を見開いている。それも一瞬、少女の言葉に時が来たことを知り四人は口元を結んだ。

 特殊なフィールドによって高速機動を続ける機体の上でも強風は来ない。これは一般の定期船にも使われている技術だが、使われているのが船ではなく人形なのだから驚きもひとしおである。

 

「レン、君は来ないのか?」

「そうねぇ、まだお茶会って気分じゃないし、また今度にするわ」

 今度、とは言うがその機会が思うより早いことは想像に難くない。彼女のクロスベルにいた目的、その元凶に対して彼女が何も行動しないわけはないのである。

「ロッジの探索はお兄さんたちやエステルに任せるわ。レンは来るべき時のために準備しなくちゃ」

「そうか。わかった」

 パテル=マテルの身体が変形する。降下体勢に入っていた。

 古戦場が見渡せる高所、ゆっくりとパテル=マテルは遺跡との距離を縮めていく。ふと、ティオが呟いた。

「そういえば、どこに下りるんです?」

「どこって、それはもちろん――」

 レンが久しぶりの子猫のような笑みを浮かべた。嫌な予感しかしなかった。

 

 ――そして、巨大な遺跡の一角を破壊して特務支援課は太陽の砦に侵入した。偶然か、そこには驚きに目を剥いている二人の遊撃士の姿があった。

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 魔人化した男――ヴァンピールが突進してくる。その巨体は視界を埋め尽くさんばかり、構成する鋼の肉体とその加速は衝突すれば一たまりもないだろう。

 距離が離れていたこともあり、エステルとヨシュアはそれを左右に分かれて危なげなく回避する。石畳を滑り土煙を舞い上げた両足に力を込め、一瞬前にいた場所を通過したヴァンピールの背後を強襲する。

 双剣と棒術具、その二つの持ち主は同時に背中目掛けて走り、しかし狙う箇所は異なる。棒術使いエステル・ブライトは人体の急所である膝の裏側を一回転して狙い、双剣使いヨシュア・ブライトは首の裏側、背中よりも強度の劣る脊髄の切断にかかる。

 同時に行われた攻撃は甲高い金属音を奏で、その感触に二人を凍りつかせる。

 

 ヴァンピールが反転、それに伴い距離を取ろうと跳躍した二人。その片方、エステルに向かってまるで誘導ミサイルのように跳躍して迫ったヴァンピールは肥大化した両腕を一つにして叩きつける。

「ッ――!」

 エステルは回避を諦め防御姿勢に、タクトの耐久力を信じつつその一撃を受け止めた。

「ぐぅ――ッ」

 びりびりと衝撃がエステルを襲う。全体重をかけたヴァンピールの一撃は古代魔獣もかくやという威力を誇り、エステルの身体を地に縫いとめる。

 

 瞬間、組まれていた両手が解かれ、そのままエステルの得物を握り締める。

「しま――」

 それを支点としてくるりとエステルの懐を下から侵略したヴァンピールは両足の蹴りで彼女を壁にまで叩き付けた。

「エステル!」

 ヨシュアが迫る。

 タクトを放り捨てたヴァンピールは残像を伴うヨシュアの動きを何で捉えたのか、正確に死角を突いたはずの彼の一閃を容易く右腕で受け止める。

「く」

 剣が弾かれ身体が泳ぐも反対の腕でその盾に剣を突き刺し強引に姿勢制御、巨腕を足場にしてヴァンピールの頭を狙う。

 その彼に反対の腕で迎撃する魔人、そして更に上を行ったヨシュアは双剣を両眼に突き立てた。

「――ッ」

 柔らかい感触と緑の体液がヨシュアに降りかかる。

 直後、重力を失ったように空を舞ったヨシュアの側面をヴァンピールの右腕が捉え、エステルとは反対の方向に叩きつけられた。

 

 煙が舞い、目を潰されたヴァンピールが咆哮する。その煙が消えないうちにその中から現れたエステルは投げ捨てられていた自身の武器を手に取り血を吐き捨てた。口内を切ったのか、その痛みに顔を顰める。

「やってくれるじゃない――!」

 咄嗟に手を離し後方に飛んで威力を殺した彼女だが、それでも腹部には鈍痛がある。しかし戦闘不能に至らせるには圧倒的に足りなかった。

 彼女の出現にヴァンピールが歓喜の雄叫びを上げる中、その背後から瓦礫を押しのけてヨシュアが立ち上がる。頬を切ったのか血がこぼれていた。

 それを拭い、そして二人は同時に駆けた。心の中でギアを一段階上げる。

 尾を引くような疾駆は正反対からのものだったからだろうか、ヴァンピールに行動を与える間もなく同時に腹部に一撃を与える。その衝撃は痛覚のない魔人の肺から空気を根こそぎ奪い、反射的に身を縮める隙を生み出す。

 弱所を教える行為に答えるようにエステルのエニグマが起動、

「はぁああああああアアアッ!」

 高速の刺突連打がその防御を打ち砕く。

 ガードの開いたヴァンピールを前に一層身を低くした彼女は止めとばかりにその巨体を空に打ち出す。四肢が開けた魔人、その上空から、

「――――」

 エニグマを起動したヨシュアの振り下ろしが地に磔を完成させた。

 

 

 ――瞬間、瓦礫とともに降りてきたパテル=マテルがその磔を破壊した。

 

 

「ちょ、えぇええええええ!?」

「パテル=マテルッ、それに支援課の……!」

「いやいやそれよりあの人無事なの!?」

 エステルは眼前に現れたパテル=マテルの下敷きになったヴァンピールが原型をとどめているのか不安になった。そんなことも知らない支援課は降り立った地面と空気に顔を顰めながら首を傾げている。

「レン、今すぐパテル=マテルをどけて!」

「何よもう、言われなくてもすぐ行くわ」

 失礼しちゃう、とレンはパテル=マテルに指示を出し、その身体を上昇させた。すぐさま駆け寄ったエステルはいつの間にか元の人間大になっている男の首筋に手をやり、その鼓動に安堵する。

 どうやら縮んだことでパテル=マテルからは逃れられたようだ。純粋にこれまでの戦闘ダメージで気を失っているようである。

「えっと、とりあえず説明してもらえると助かる」

 ロイドが口を開き、頷いたヨシュアはこれまでを説明した。

 

 

「――つまり、今は罠に嵌って抜け出せない状況ってことか」

 ロイドの確認に頷いたヨシュア。特務支援課と遊撃士二人の計六人はルバーチェの男を安全な場所にまで運んだ後先に進み始めた。

 とは言ってもループの罠に嵌っているので脱出の手がかりを探しているところである。

「とりあえず君たちが来たからね、もしかしたら機能停止しているかもしれない」

 囚われた二人ではない外部からの侵入、それによってトラップが解除されている可能性はある。故に罠を認識したところまで進み、それを確認しようというのだ。

「でも正直、お二人が見つけられないなら難しいですね」

 エリィが言うようにこれで先に進めないなら時間がかかることは確実だ。魔獣もやってくる上に囚われてしまっては身体もそうだが精神のほうにも負担がかかってしまう。ゴールを知らされないマラソンをやるようなものだ。

「市内にアリオスさんがいてくれるっていうなら期待に応えないとね」

 仲間が増えて明るさも増したエステルに場の雰囲気が軽くなる。しかしそれに乗り切れていない人物もおり、空気に敏感な彼はそれを訝った。

「ランディさん?」

「何でもねぇよ、今は先に集中しようぜ」

 それは確実に何かある答えだったが、そこに踏み込んではいけないと判断したヨシュアはそのまま会話を切る。

 

 エステルとエリィ、ティオの会話が続く中、一向は無間の罠を乗り越えることに成功した。しかしそれはパテル=マテルが砦を破壊したからではない。それを仕組んだ存在が待ち望んでいた彼らがやってきたからである。

 その名はアーネスト・ライズ、特務支援課と因果の深い人物である。

 

 

 広間のようなスペースに仁王立ちする二つの人影、それに対して息を呑むのは仕方のないことだった。

「待っていたよ、エリィ」

「アーネストさん……」

「アーネスト、それに――」

「あんたか……」

 四方を柱で飾る部屋は赤い。それは血液ではないが、それ以上に寒気のする色であり目に毒である。

 まるで血に染まったアルカンシェルの舞台のよう。そう思ったロイドは不意に鋭利な頭痛を覚えて眉間にしわを寄せた。

 

 大剣を地に突き刺し壮絶な笑みを浮かべるアーネストの横には俯いて表情が窺えないガルシア・ロッシがいる。その異様な雰囲気は察するに最悪の展開、ランディは静かにその闘気を高めた。

「両者ともに上位属性の耐性を確認、グノーシスの投与は確実です……!」

 ティオのアナライザーが情報を読み取り、しかしそれだけだ。重力に似た状態変化は見受けられず、アーネストは涼しげである。

「さて、エリィ。もう一度聞こうか。クロスベル市長である私の側近にならないか?」

「……アーネストさん、もうやめましょう。これ以上は、もう……っ」

 既に犯罪者として公表されてしまった彼が市長になることはありえない。そんな当たり前のこともわからずに、今なお市長になった先を見ている彼の姿は居た堪れなかった。

 あるいはそれは、ヨアヒムが支配したクロスベルの未来なのかもしれない。しかしそのどちらでも、彼の傍に彼女がいることはありえなかった。

 

「何故だい、エリィ。私は君が幼い頃から君の傍にいたじゃないか。そんな私の傍に君がいることは当たり前じゃないのかい? だってそうだろう、私は君の家庭教師で、君は私の教え子だ。なら君は僕の傍にいるべきだし、そうしたほうが君のためになる。そして何より私のためになるじゃないか。ならエリィ、迷うことはないだろう? 幼い頃に憧れの存在だった私が、君に来てくれと言っているんだ。ほら、もう君の未来は決まったようなものだろう!」

 酔っているかのように熱弁するアーネストの姿にこみ上げてくるものを抑えられない。滲んだ視界から一筋の涙がこぼれたことすらエリィにはわからず、ただ変わり果てた恩師が悲しかった。

 

「――アーネスト、もういいだろう」

 ロイドがエリィをかばうように前に出る。そこで初めてロイドに気づいたように、アーネストは、ああ、と呟いた。

「君か……確か殺したと思ったんだが」

「それはあなたの妄想だろ……実際今のあなたに現実と妄想の区別がついているとは思えないから言っても意味はないのかもしれないけど。それでもこれだけは言ってやる――――。あなたにエリィは渡さない」

「ロイド……」

「何をおかしなことを。エリィの答えは決まっているんだ、部外者の君が言うことなど何もない!」

 アーネストは笑う。ロイドの啖呵もエリィの懇願も、何もかもが彼には届かない。伝わらない。

 しかし彼の言葉は二人には、いやエリィとその仲間には伝わった。だからこそ、これまで推移を見守ってきた全員が口を開いた。

 

「部外者なんかじゃありません……!」

「そうよ! エリィさんは大切な友達なんだから!」

「勝手な意見を押し付けさせるわけにはいかないね」

「……むかつくぜ、てめぇ」

 ティオが、エステルが、ヨシュアが、ランディが、戦意とともに武器を向ける。

 その刃先にはアーネスト・ライズ、それを不思議なことのようにきょとんと眺める男の姿。

「エリィは大切な人だ、あなたの妄執につき合わせるわけにはいかない!」

「みんな……」

「――アーネスト・ライズ、あなたを逮捕する。抵抗は無意味、おとなしく投降しろ!」

 トンファーを向け、最後の通告をする。

 それに対し、今まで柳に風のように言葉を受け流していたアーネストが初めて反応した。肩を震わせ、激情を制御するように俯いている。

 その姿はどこまでも不気味で、しかし戦意は微塵も途切れなかった。

 

「――――言って聞かないなら、強引に聞かせるまでだ」

 清潔なイメージを与えるはずの若葉色のスーツ、それを纏う鍛え上げられた肉体から吹き出る暗黒の闘気。そこから誘われる死の気配に緊張感が増していく。

 立ち昇った闘気は彼の身長の倍ほどにまで到達し、ようやく顔を上げたアーネスト・ライズはその真紅の瞳で彼らを射抜いた。

 唇が三日月を成す。暗い闘気に導かれるように突き刺していた剣を掲げた彼は――

「死んでしまうほど辛いかもしれないが、せいぜい頑張って耐えてみせてくれ――ッ!」

 自身を魔人へと失墜させ、異形として立ちふさがった。

 

「おおおおおおおおおおおおオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 それに呼応するように、今まで沈黙していたガルシアが吼え、その爆発的な闘気を溢れさせる。その戦闘の合図にランディとティオが反応した。

「俺が抑える」

「わたしも援護します! こっちは任せてください!」

 アーネストは対峙する四人を見る。先ほど戦った構成員は完全に理性を失っていたが、どうやらアーネストは自我があるようだった。

 あるいはそれは、試作段階のグノーシスを投与したからなのかもしれない。

 アーネストはそうして、視界にいる邪魔な存在のために指を鳴らした。その行動に身構える四人に笑いかける。

「エリィとそこの君は私が直々に相手をするとして。君たちは邪魔だよ遊撃士、せいぜい楽しんでくるといい」

「何を言って――うわっ!?」

 反論しようとしたエステルの上空から黒い炎が降ってくる。寸でで避けたエステルは同じく奇襲を受けたヨシュアとともに後退する。

 その二人とロイド、エリィとの間に緑の翼竜が舞い降りた。

「あの時の魔獣!」

「鳥、いや竜か!」

「オークヴィラージ、私専用の魔獣だよ。だがこの二体だけじゃ役不足だろうと思ってね、奮発させてもらった」

 

 直後、天井が崩れて暴音が世界を飲み込む。それでもエステルとヨシュアは魔獣から目を切らず、土煙を作る瓦礫から何が現れても対処できるように心を再構築した。

 しかし、それは想定外の規模の前に霞と化す。

 

 瓦礫を弾きながら現れたのはヴァンピール、おそらくはルバーチェの構成員たちの成れの果てであろう。

 それだけなら実力的に問題はない。しかし質で劣る場合に取る方法は限られている。

「く……」

「流石に多すぎる、な……」

 一体でも二体でも役不足な遊撃士の相手。それならばそれを越える数を集めればいい。

 協会の誇るクロスベル支部遊撃士二人、それを相手取るのは二体の翼竜と二十を越える魔人だった。

「エステルっ、ヨシュア!」

「後ろを向く余裕は君たちにはないだろう?」

 アーネストの言葉は真実だ、ロイドもエリィも後ろを顧みる余裕などない。

 ヴァンピールの群れに飲まれるようにエステルとヨシュアが後退していく。そして十分な距離が取られた時、オークヴィラージが劈く。

 

 さながら角笛のように、三つに切り裂かれた戦場は動き出した。そのどれもが負けられない戦いだった。

 

 

 


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