空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない 作:白山羊クーエン
それは彼女らが自宅で武器の整備を行っている時だった。
エニグマの通信、エステル・ブライトとヨシュア・ブライトは同時に自身のエニグマを見やる。ロイド・バニングスとエリィ・マクダエルからの通信である。ヨシュアはタイミング悪く手が離せず、先にエステルが応答した。
「ロイド君どうし――ってあれ?」
「どうしたの?」
「切れちゃった。ヨシュアのほうも切れたみたいね」
音が消滅する二つのエニグマ、二人は首を傾げた。こちらからコールしてみるも出ることはない。
「何だったんだろ」
「……ねぇエステル、かけた通信を断りもなく切り、その後応答しない時って君ならどんな時?」
「ん? そりゃ急いでいる時とか――」
そこまで考えてぎょっとする。エステルは顔に緊張を走らせ、ヨシュアも頷いた。
「エニグマが通じる以上市内のはずだ」
「まずはミシェルさんに連絡しないと!」
突然切れた通信、そこに緊急性がないと判断するほどこの街は平和な場所ではない。即座に支度を整え飛び出す。行く先は隣のギルド、まずはミシェルから情報を得る必要がある。
しかし建物を出た二人は歩みを止める。そこには一体の警察犬が座っていた。
「っと、確かロイド君たちのとこの――」
「うん、支援課の警察犬のツァイトだ」
「ウォン」
ツァイトは一声上げると踵を返し、首だけ振り返り視線を送る。予想外の事態に反応が遅れるも速やかに対応し、二人はツァイトの後を追って走り出した。ツァイトの様子から見て危険性は些かばかり低下したが、彼の常を知らない二人にはそこから判断するには情報が足りなかった。
階段を駆け下り正面玄関に辿り着く。一瞬のアイコンタクトでヨシュアが内部の情報を読み取り合図、エステルがツァイトとともに飛び込んだ。
「失礼しますッ!」
唐突に響いた声に振り向くと、そこにはそれぞれの得物を構えたエステルとヨシュア、そしてツァイトがいた。
二人は一瞬で室内を吟味し、そして武器を納める。
「えーっと、一応確認するね。何事もない?」
「あ、ああ。どうしたんだ、いきなり」
「それはこっちの台詞だよ、ロイド。エリィさんと二人して通信をかけて、いきなり途切れるから何かあったのかと思ってさ」
そこの彼が連れてきてくれたから杞憂だとは思ったけどね、とヨシュア。ロイドとエリィは忘れていた通信に関して間抜けな声を上げ、そして頬を掻いた。
「お二人に通信を入れていたのですか?」
ティオが尋ねる。それは彼女とランディがいない間の出来事なので寝耳に水だった。
「ええ、二人はレンちゃんの関係者だろうから……」
「え……?」
不意に聞こえた探し人の名前にエステルが呆然とする。ヨシュアも反応し、事の次第を要求した。
二人の探していた少女がレンであることは既に確信していた。それに加えてレンのほうも今の状況で拒絶することはないだろう。ロイドは頷き、歩きながら話すと二人を案内した。
そして――
クローゼットを開ける。そこには先と同じスミレ色の少女、顔を膝に埋めている。
「レン」
「――ッ!?」
エステルは静かな声で呼び、レンは身体を震わせた。恐る恐る顔を上げると、彼女が知る二人の顔がある。
「エステル、ヨシュア」
「うん。久しぶり、レン」
ヨシュアも静かに応え、微笑む。泣きはらしたことがわかる少女の顔には疑問が浮かんでおり、しかし思い出したかのように遠くを見つめた。
「そっか、通信繋いじゃったんだっけ……」
「そうよ。とは言っても、レンがここにいたことは知らなかったんだけどね」
微笑むエステル、レンは恥ずかしそうに目を擦りそっぽを向いた。ヨシュアがレンから目を切る。
「続きを頼むよ、ロイド」
「わかった」
ここまではコリンが行方不明となりレンとともに捜索したことしか話し終えていない。ロイドは改めて今回の核心を話し始めた。
それは長い話、レンとの会話やヘイワース夫妻の話。それを影で聞いていたレン。順序だてて、ゆっくりと説明した。
ランディやティオもレンとの会話は知らない、二人も黙って聞いていた。
ロイドとエリィが話す中、エステルとヨシュアは顔を伏せて静かに言葉を飲み込んでいた。彼女らが激情を起こすに足る内容だ、それは最後の最後まで聞かないといけないという理性の表れだったのかもしれない。
「――これが、俺たちの知る今回の話だ」
そう纏め、長く話していた二人は同時に息を吐いた。なるべく自分の感情を排して事実だけを述べたつもりだが、流石に当事者なので完全にとはいかなかった。事実、エリィは少し息が荒い。
「エステル……」
ヨシュアが話しかける。彼は落ち着いていたけれど、それは傍らの彼女を思ってのことだったのだろう。
彼にも激情はあった、しかしそれ以上に放ってはおけない存在がいたのである。
「――ッ!」
エステルは俯いたままレンを抱きしめた。既に落ち着いていた少女はその行動に目を見開く。
「え、エステル――?」
「…………」
エステルは何も言わない、ただレンの言葉に腕の力が増した。
きつく抱きすくめられたレンは少し苦しくもあり、同時にその温かさに安らぎを覚える。あの時とは逆だな、と弟の姿を浮かべながら思った。
「……ぅぅ」
「エステル……」
ヨシュアがエステルの頭を撫でる。柔らかな感触が心地良い。まるで世界の全てが優しくなったように思える。
「よかったね、エステル」
「うん…………うんっ」
そして、彼女は涙した。全ての渦中にいたこの少女の辛さや苦しさのために、少女の知らなかった優しい現実のために。
そして何より、それを知ることができた愛しい少女のために。
「う、うあ……うぁあああああああああああっ!!」
「ちょ、ちょっとエステルっ、なんであなたが泣くのよっ!」
「よかった……よかったね、レン……っ! うあああああっ!」
人目を憚らず泣きはらすエステルを受け止めるように抱きしめられているレンはその素直な感情の奔流に相対し、次第に尽きたはずの感情が零れだしていく。抱きしめる少女の気持ちが伝わってくる。
その全てが自分自身のためのもの、他人である自分のために流される涙と安堵の気持ち。それが触れた肌を通して沁み込んでくるのだから彼女にはもう何もできない。
それはもう、どんな才能を持ってしても耐えられないものだった。
「え、すてるっ。なんでよぉ……なんで、レンは……っ」
「レン、もういいんだ」
ヨシュアが二人を包み込むように抱き寄せた。二重の温もりにさらされたレンは呂律の廻らない口調でどうして、どうしてと繰り返している。エステルの声は大きくなり、腕に込める力も強くなっていく。
「もう、残酷な世界は崩れたから。だからもう、君が傷つくことはないんだ」
「うんっ、ぐす……そうよっ、もう辛くないし苦しくもないっ! もしそうでも一人になんてしてあげないっ! これからの幸せな毎日を、嫌だって、言っても……っ! お見舞いするんだから――っ!」
「もう逃がさないよ。だから」
「だから――!」
一緒に生きよう。家族に、なろう――――。
* * *
全員分の紅茶が配られエリィとティオが椅子に戻る。そこでようやく彼らに言葉が戻った。
「――ありがとう。皆さんがいてくれたから、僕らはレンに届くことができた。目的を果たすことができた。言葉では言い表せないくらい感謝しています」
ヨシュアが頭を下げる。ロイドは手を振って否定した。
「いや、俺たちは何もしてないよ。ただあの子の手伝いをしただけさ」
「そうね。レンちゃんが望んだことが叶った、結局はそれだけだもの」
目が赤い彼女は見事に中てられて涙した一人である。恥ずかしいのか、カップを運ぶ回数が多い。
「……なんだかそう聞くと、まるで神様みたいですね」
「だな。望んだ結果になるってのは理想だが、今回に関しちゃ何の文句もないぜ」
涙したもう一人とランディが言う。現実がハッピーエンドだけではないことを知る二人だが、今日に限っては世界の全てがそうであっても不思議ではないと言ってもいい気分である。
ヨシュアは紅茶を含み、真面目な表情をして言った。
「それは事実だよ。レンは、世界に願いを叶えさせる方法を知っている」
今ロイドの部屋で眠っている少女は天才中の天才である。彼女の特性であり本質は、あらゆる情報を取り込み、理解し、自らを含めたその情報体を望むままに変質・操作すること。
いわば環境を操作する能力、彼女はその力で幾つもの残酷を乗り越えていった。彼女は自身の願いを叶えるのではなく、自分を含む世界をその願いを叶えさせるように動かすことができる。
それは神の所業かその同類か、故に彼女は“天使”の名を冠したのである。
「なるほどね……」
ロイドは彼女に関する記憶を反芻し、その全てに説明がつくヨシュアの言葉に納得した。実際問題信じられない能力だがあの少女ならば不思議ではないと思える。それほどに彼女は常軌を逸した存在だった。
傍で丸まっていたツァイトが小さく吼える。すると階段を降りる音が聞こえ、やがてゆっくりとした足取りで二人が降りてきた。
「あはは。ご、ごめんねみんな」
「…………」
エステルが恥ずかしそうに笑い、レンは視線を少し下に向けている。彼女らの手はしっかりと繋がれていた。
エリィが紅茶を入れ、二人も着席する。涙で水分が飛んだ二人はすぐに口をつけ、同時に舌を出して悶えた。
「エステル……それにレンも。気をつけなよ」
「ははは、子猫だけに猫舌だってか。エステルちゃんも子猫かい?」
ランディがからかうように笑い二人はムッとする。その姿はまるで実の姉妹のようだった。
「からかわないでよランディさんっ」
「レディをからかうなんて紳士として失格ね」
「あらら、振られちまったぜ」
少しも堪えていない彼はおどけて場の空気を和らげる。その意図に気づいてか、ティオもそれに乗っかる形で毒を吐いた。
「ランディさんはいつも振られているイメージがあるので驚きませんが」
「全くね」
「ランディも少しは節度ってものをな……」
「エステルは猫じゃなくて犬かな」
「きぃ、お前ら言わせておけばっ!」
「ちょっとヨシュア、それどういうことよっ」
その後はぎゃあぎゃあと騒がしく、レンも一緒になって楽しい時間が過ぎていった。
そこにはしがらみも何もない、ただ仲の良い友人の集いのような年相応の時間。そんな時間を久しく過ごしていなかった彼らは今までの分を取り返すようにはしゃぎにはしゃいだ。
日も暮れる時間だったので夕食を共にすることになる。龍老飯店にくり出してもいいがどうせなら全員で料理をしようと決まり、支援課に残されていた全ての食材がふんだんに盛り込まれた食卓が完成した。
身長が足りないレンは台に乗ることを渋っていたが、身長が足りているにもかかわらず何故かその台に乗ってきたティオに促される形でその問題をクリアした。ちなみにティオの行為が台に描かれたキャラクターのせいであることをロイドだけが知っている。
リベール、共和国、クロスベルと様々な地域性の盛り込まれた料理の数々に舌鼓を打ちつつ話し込む。セルゲイが帰ってきた頃にはもう残飯しかなく彼は渋い顔をしていたが、空間に残る余韻に何かを感じ取ったのか何も言わずに消えていった。今頃はどこかで一杯引っ掛けているだろう。
とりとめのない話が尽きかけてくるとエステルとヨシュアの旅の話がメインとなった。リベールを襲った前代未聞の事件とそれにまつわる多くの人々の事情、それは話し手であるヨシュアやレンの過去にも関わるものだった。
宴の雰囲気は一変し、支援課の四人は固唾を呑んで聴いている。とても重い話だったが、それでもエステルがいるという事実がそこに光を生んでいた。結局その話で際立ったのはエステルの人間性、彼女という存在がそんな話の中でも明日を見つめる希望となっていた。
そんな彼らの話だが、やがてはやはり今後のことについての話となる。エステルにしてもヨシュアにしても、今後のことは支援課の四人がいる中で話しておきたかった。
「――レン、君は、これからどうする?」
ヨシュアの問いにレンは困った顔をする。返答がないまま、エステルが続いた。
「私個人の気持ちから言うとね、もうレンをリベールに連れて帰りたいんだ。ティータだって心配してるし、早く父さんと四人揃って家族全員集合! ってやりたい。母さんにも、紹介したいしね。でもね……」
「……レンにはまだやることがある。だから今すぐには行けないわ」
「うん、きっとそうじゃないかって思っていたんだ。それに僕たちが諸国を周っているのは僕の事情もある」
レンにはもう一つの目的があり、そしてヨシュアにも旅を続ける意図があった。エステルにも、このままクロスベル支部を去ることに感情的な抵抗がある。
「こんなこと言うのも何だけど、きっと今すぐには帰れないな、とは考えていたよ」
「ヨシュアは話を遠回しにするのが好きね。ま、今回は見逃してあげるけど」
そう言ってレンは振り返り、今回世話になった四人の顔を見る。疑問符を浮かべる彼らに構わず会話は続く。
「それでレン、ここからが本題だ。君は今ローゼンベルク工房にいるね」
「ええ、パテル=マテルの修理が終わってないし、あそこはネット関係でも有用だから」
「でも私たちとしては今からでも一緒に暮らしたいのよ。工房にはおじいさんがいるらしいじゃない、レンと一緒にいる時間を取られるのは癪なのよね」
「情報収集の点ではネットワーク環境の整っている工房にいるのは正解だろうけど、でもこの件に関しては僕もエステルに賛成かな」
ヨシュアの言葉に少しだけ目を見張ったレン、やがて仕方のないことのようにため息を吐いた。
「ヨシュアがそこまで言うなら、仕方ないわね……」
「むぅ。ちょっとレン、私はどうでもいいっての?」
「エステルは自分の感情しか言ってないじゃない。基本的に合理的効率重視のヨシュアがそれを度外視してまで頼むから折れたのよ」
レンは椅子から降り、スカートを叩いた。
「でもずっと一緒にはいないわよ? レンは目的を果たすためにここにいるんだから」
「うん、それで構わない」
「でも後で教えてね? きっと助けてあげるから!」
エステルが胸を叩き、レンは意地の悪い顔をした。幻覚か、猫の耳が生えたように見える。
「あらエステル、あなたレンより強くなったつもり? 殲滅してあげましょうか?」
「言ってなさい、後でぎゃふんと言わせてあげるから。そんなことよりお風呂よお風呂! まずは隅々まで洗ったげるから!」
レンを後ろから羽交い絞めにして頬を摺り寄せるエステル、レンは嫌そうな表情をしてなんとか距離を離そうともがいている。
それでも奥に喜びがあるのは見てとれたのか、ヨシュアも穏やかな表情で見つめている。
「それじゃあ、レンは遊撃士協会預かりになるのか?」
ロイドが問う。エステルとレンは動きを止め動向を見守った。
「厳密にはまだ家族扱いにはならないから一応そういう形にはなるね。ミシェルさんなんかは可愛がりそうだけど」
「……それで、その。結社のほうは……」
エリィが言いにくそうに尋ねると、ヨシュアはその点については大丈夫だと言う。それでも不安そうな四人に対し詳細を話し出す。
「クロスベルは帝国と共和国が二大宗主国だ。歯がゆいけど、現行のクロスベル自治州法ではそこからの諜報員やそれに関する揉め事に強く出られない。そんな危険地帯だから結社としても二の足を踏んでいるんだろう。尤もそれは結社としてであって、レンのように執行者が個人的に滞在することはあるだろうけどね」
身喰らう蛇――結社と呼ばれる組織に所属する執行者はある程度の自由が与えられている。それは組織に所属している人間にとっては破格の条件である“命令に対して受けるかどうかは本人に委ねられる”というものだ。言ってみればある計画に参加するかどうかは執行者の自由なのである。
これは結社のトップである盟主が定めたもの、執行者の上に当たる使徒ですら犯すことはできないのである。
ヨシュアもレンもかつては結社に在籍していた執行者である。
No.13漆黒の牙とNo.15殲滅天使、そう呼ばれた二人は幼い頃より結社に訓練された一級の戦闘者なのである。
レンの残酷な過去――教団と呼ばれる組織から救ったのが結社在籍時のヨシュアと剣帝と呼ばれた存在だった。リベールでおきた導力停止事件も結社によるものである。この一連の事件でヨシュアは結社と決別し、レンもそこに戻らない日々を始めたのだ。
「ふふ、でもそれはあくまで今までの話よ。クロスベルにもおじいさんみたいな協力者はいるし、ここの大司祭は封聖省を嫌っているから星杯騎士も来ない。条件的には相殺しているから――ってきゃっ!?」
レンが不安を煽るようなことを言うが、後ろに笑顔のエステルがいる時点で緊張感はない。レンはそのままエステルに取り込まれてしまった。
「とりあえず結社は現在はクロスベルにはそこまで深く関わっていないみたいだから、そこは安心していいよ」
二人のやりとりをなかったことにしてヨシュアはそう纏めた。
ロイドらは一応の安心は得るも、しかし大局的な部分では安心はできないことを知る。それでも彼らにはそこまでの規模の壁に立ち向かうための力はなかった。
理想を語ることはできる、しかしそれを成す為にはそれに見合う力がなければならない。そんな当たり前のことを再認識した思いだった。
エリィがかつて言っていた、クロスベルの平和は薄皮一枚の上に成り立っているのだと。そしてアレックス・ダドリーはそれを否定しなかった。
一課でさえも、まだそこまでの力はないのだ。ならば一課に劣る自分たちにできることは何なのか。
「そうだ、お兄さんたちにはこれをあげるわ」
不意に、レンが一枚の便箋を渡してきた。わけのわからないままに開けてみるとそこには黒い手紙。金の刺繍で薔薇が象られている。それはヨナの情報にもあった黒の競売会の招待状だった。
「これは……っ」
「面白そうな出物があるかと思って手に入れたけど、今のお兄さんたちに必要でしょう? 今日のお礼にどうぞ」
それは間違いなく本物だという。レンがどういう手段で手に入れたのかは知らないが、これがあれば堂々と競売会には参加できる。エステルたちも予想外だったのか、レンに突っかかっていた。
「だって遊撃士より警察の分野じゃないっ、エステルたちが行っても多分ばれちゃうわよ!」
えい、とエステルを受け流しながらレンは説明し、エステルは不満から頬を膨らませている。彼女としてもせっかくの手がかりを失いたくないようだ。
「でもロイドたちはルバーチェに顔が知られているんじゃないのかい? 確か二回ほど企てを阻止して、かつこの間の事件でも接触したんだろう?」
「それでもヨシュアたちよりは警戒されていないわ。だって弱っちいもの、あっちも羽虫程度にしか思っていないんじゃない?」
容赦ないレンの口撃が支援課に突き刺さる。苦笑いしか浮かべられない。
「それにあくまでこれはお礼、この招待状をどうするかはお兄さんたちの自由よ。後のことは知らないわ」
レンはエステルの拘束から抜け出しツァイトの毛並みを撫で始めた。彼も悪い気分ではないのか欠伸をして以降は動かない。
ロイドはその招待状を眺めながら悩んでいた。
放任主義のセルゲイに止められるほどのクロスベルの闇、ルバーチェの重要な資金源である以上彼らの力の入れようも過去の事件の比ではないだろう。警察上層部は動かず、一課ですら毎年手をこまねいて見ていることしかできないこの事案。正面から対峙する手段を得たとして、自分たちはどうすればいいのか。
ちらと、仲間を見る。それぞれ思考していたが彼の視線に気づいて顔を上げた。
その一つ一つと視線を交わし、彼は最後の判断を下す。
その方法は、兄であるガイ・バニングスならどうするのか。
彼は壁に直面した時決まってこの思考をする。自分がガイでないことを自覚しつつも、捜査官としてのレベルの違いから、彼の判断のほうが最適な気がしてくるのだ。
警察学校の恩師に出された問題でも同じことをしたが、よく考えれば今の状況はその問いに似ていた。
今では退任したジェフ捜査官、彼の最後の教え子である自分が卒業時に出された問い。
「――容疑者は既に発覚している」
「え?」
エリィが声を出し、そこにいる全員ロイドを見た。目を閉じた彼は思い出すように綴る。
「しかしその容疑者は駐在武官にして帝国の有力貴族だ。複数の証言から立件は容易いが、帝国派の議員からの横入れ、容疑者の立場、帝国への敵対行為と見なされる危険性がある。どうする?」
それはクロスベルに避けられない問題だ。大局的に考えれば帝国との衝突を避けるために立件するべきではないのかもしれない。しかしそれでは事件の被害者は浮かばれず、警察への不信感は一層高まるだろう。
当時この問いを出されたロイドは長い思考の末にわからないと答え、それでいいとジェフに諭された。聞けばガイにも同様の質問をし、同じ答えを受けたという。
ただ、ロイドとガイの違いは――
「わからない。けど、それはその時になったら体が動いてくれるはず。それに任せる」
「ロイドさん……」
今がその時だ。ガイのように体がすぐに動くことはなかったけれど、それでも今自分自身が思っていることは一つしかない。
「課長には止められた。けど俺は、黒の競売会を認めることはできない、見て見ぬ振りもできない。上層部からの圧力なんて特務支援課にあってはいけないんだと思う。俺たちは、そういうしがらみを無視してすべきことをしなければいけないんだ」
当然それは後ろ盾がないことの裏返しである。どんなことがあっても自分たちで責任を負わなければならない。
今までそれを任せていたセルゲイにも言えない今回の意志。それを仲間を見ながら堂々と言う。中途半端な物言いは捜査官には許されないし、仲間の前で意見を言えないなんて事実もいらなかった。
「明日、俺はミシュラムに行く。皆も、来てくれるか――?」