空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない   作:白山羊クーエン

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※ テ○スの王子様と封神○義を知ってくださっていれば幸いです。


プリンスオブベーカリー

 

 

 

 ロイド・バニングスが彼の組織に足を踏み入れたのは支援要請の時だった。

 市庁舎からの住居確認の仕事、遊撃士協会の隣の家屋は空き家であるという誤りを確認した時に足を踏み入れた場所こそがその組織のクロスベル支部であったのである。

 その組織の名は『釣公師団』、釣りをこよなく愛する者の集団である。彼らは自身が釣りを楽しむとともに、釣りの布教のため出会った人々に釣具を提供している。そしてたまたま渡されたのがロイド・バニングス、かつて兄とともに釣りをした経験を持つ捜査官である。

 

 彼はそこで捜査官としての目標以外のものを手に入れた。それは“釣聖”と呼ばれる釣公師団認定の階級である。

 クロスベルに存在する全ての魚を釣ることで達成されるそれはクロスベル全域で釣りを行わなければ到底辿り着けるものではない。そんな途方もない目標を目指すことにむしろ武者震いのような震えを覚えているのだからロイドも生粋の釣り人なのだろう。

 今日も彼は釣聖目指して旅をする。

 

 

 

 

 

 

 東クロスベル街道を歩いていく。この身は太公望、魔獣などに構っている暇はないのである。

 早速小川まで辿り着いたので本日最初の勝負に入る。餌となるのは全て生の物だ。疑似餌などという騙すような真似はしない。

 何故か、それは互いの生と誇りを懸けているからだ。本来の釣りの目的は魚という食材を得ること、今は娯楽の一つとして昇華しているがそれは人間のみの理由に過ぎない。釣られる魚は元から食物連鎖の中では人の下にいるとしても、食事の際に「いただきます」と口にすることの意味を忘れてはならないのだ。

 本来の命を懸けた勝負。そこに疑似餌という魚の生とは関係のない事柄を入れることは釣公師団団員としてあってはならないことなのである。

 

「さぁ、行くぞ!」

 気合を一つ、ロイドはロッドを手にした。ノービスロッド、釣公師団が配布している初心者用の釣竿である。そこに餌として付けるのは、いや付けられるのはミミズと練り団子だけである。一応カサギンと呼ばれる金色の小魚も付けることはできるが生憎手持ちにない。

 

 クロスベルに戻ってきて初の釣り、その第一の目的はかつての勘を取り戻すことと魚の生息地の把握である。釣竿と少しの餌とともに渡された釣り手帳、言ってみれば魔獣手帳と同じだがこれに記さねば段位の昇格ができない。

 付属する長い用紙に魚拓を残すことも忘れてはならない。各自のモラルは信用しているが、その記録に信憑性がないと困るのである。記録用の墨も忘れずに持ってきた。いざ、勝負である。

 

「そらっ!」

 まず始めは練り団子、ちなみに開発は釣公師団である。流れる川面に波紋を与えて沈んでいく餌、そしてまずは流されるままにするロイド。

 川上に向けて放たれたそれは流れに沿って緩やかに進んでいく。川から常時発される振動に変化が来ればヒットだが、まずはその振動を身体に沁みこませる必要がある。

 あっという間に右から左へ流された餌を一度戻し、また川上へと投げる。まずはその繰り返し、その間に当たれば儲けものというところか。

 数回それを行い感覚を馴染ませた後、いよいよロイドは勝負をかける。

 釣果零など笑えない、新米とはいえ釣公師団団員、その力を見せてやる。

 

「はぁ!」

 変わらず練り団子をつけ川上へと放る。ロッドをテンポよく上下に揺らし、一定の変化をつけて肴を引きつける戦法だ。練り団子は生物ではない、故にその目につきやすいように広範囲を攻める必要がある。

 ロッドを縦横無尽に操りその範囲を広げていく。川下に流されれば引き上げ、繰り返し。釣りというのは忍耐、その継続力がものを言うのだ。

「ッ!」

 その時ロイドに電流が走る。即座にリールを滑らせ魚との一騎打ちを敢行し、

 

「――あ、根掛かりだ」

 

 彼はお約束を守った。

 

 

 

 

「練り団子に釣られる魚がいないのか、それともスレているのか……」

 生態と好み、そして場慣れである。何度も釣られた魚は慎重になってなかなか食いつかない。とはいえ釣公師団以外でレジャーとして釣りを行うものはそういない。

 大抵は釣れば食う、小さくなければ。

「餌を変えよう」

 ロイドはミミズを使うことにした。

 とはいえここまでは彼の予想通りである。釣公師団クロスベル支部を任されているセルダン支部長は言っていた。練り団子は流れの穏やかな場所に使うべし、と。

「いや、忘れていたわけじゃないぞ」

 誰にでもなく口にした言葉通りである。

 

 活きのいいミミズが針にもがく中投げ込む。ミミズを餌とする魚は総じて草のかかった岸寄りにいることが多い。その分根掛かりの心配も増えるがロイドは果敢に立ち向かった。

「…………」

 ゆらゆらと糸が揺れて、それを微動だにせず眺めるロイド。果たして餌を変えた一投は、

「よしっ!」

 確かな反抗をロイドに伝えてきた。

 ばしゃばしゃと水を散らして動く釣り糸に対し、ロイドは委ねるタイミングと引くタイミングを交互に見極めて着実に彼我の距離を縮めていく。引っ張る力は強い、いきなりの大物か。

 焦りと期待で塗れた表情を隠すこともせずロイドは夢中になってそれを追い詰める。

 

 そしてついにその姿を視界に捉え一気に釣り上げた。

「よっし! やったぞ!」

 草の絨毯の上でびちびちと跳ねるそれは黒に僅かな黄土色が混じった鱗をした口の大きい魚。

「グラトンバス、48リジュってところか」

 メジャーで測り記録する。しかしグラトンバス、それはなんとも処理に困るものだった。

「白身だけど、あまり食べないんだよなぁ……」

 淡白で臭みの取りづらいグラトンバスは中々食卓には上がらない。しかし初の釣果、リリースするのも心情的に気が引ける。

 結局ロイドは持ってきていたボックスに収めることにした。後で考えればいいかという彼にしては怠惰な思考である。とはいえ持ち帰るならばそれまでは川にいたほうがいい。持ち帰るまでは網に入れて川に浸しておく。

「よし、続きだ!」

 そしてミミズで再開した。

 

 

 

 

 

 

 結局釣れたのは二種類。グラトンバスと、細長い黒の魚イールである。イールに関してはよく食事に用いられるので万々歳だ。

 二種類しか釣れなかったのは餌の問題かもしれない。新たな餌を手に入れる必要があった。

「とはいえもう市外に出る時間がない。市内での釣りポイントに切り替えよう」

 午後からは再び支援要請、なければ訓練が入っている。自由に使えるのは午前だけなのでもう遠出はできなかった。というよりもう時間がないので戻ることしかできない。

「…………いや、住宅街。住宅街ならすぐに支援課に戻れる」

 ロイドは住宅街に向かった。

 

 住宅街に着いた。ここの釣り場はジオフロントB区画入り口前を流れる水場である。クロスベルは湖が近いのでそこから水を取り入れている。この場所もその一つだ。

「港湾区に行くべきだったか……」

 港湾区はルピナス川に面しているので種類も豊富、しかも市内なので移動時間も短い。せっかくだからと市外に出たことが失敗だったか。

「いや、楽しみをとっておいたということにしよう。それよりも今はこの場所で魚をフィッシュすることが肝心だ」

 ロイドは練り団子をつけ、投げた。綺麗な音と共に餌が消え、あとは待つのみ。

「…………」

 

 

 釣り人を太公望と言う所以となった人物――太公望呂尚は考え事のために釣りを行っていたと聞く。一説によれば菜食主義であったために魚を食せず、故に釣り針も真っ直ぐであったなどという不思議な事実もあるようだが、そればっかりはロイドも真実を探せない。

 その代わりロイドもそれに倣って考え事をすることにした。

 

 考え事その一。それは今も胸元に光る白い宝珠である。

 セシルに聞いてみたところ彼女にも当てはなく、ますますわからなくなってしまった。

 確か最初に気づいたのはクロスベルに向かう列車の中だったか。あの時のことは記憶に曖昧で詳細がわからない。寝ていた自分が起きたらあった、というのが今のロイドの認識だが、しかし寝る前になかったのかと問われれば即答できなかった。

 確か変な夢を見たはずだが、妙にリアルなそれのせいで前後不覚になってしまったのだろうか。今ではその夢さえも思い出せない。

 

 考え事その二。これの正体はさておき、クロスベルに入ってからのロイドは既視感に溢れている。

 特務支援課の三人についてはそのようなことはなく、しかしリーシャ・ワジに関しては出会った瞬間にそれを覚えた。この二人の共通項と言えば事件によって関わったことがある、というくらいでしかない。

 この二人だけならば偶然が重なっただけだと思うが、何故か時間を置いて現れている人物もいた。

 エリィとノエルの二人。この二人にも一瞬の既視を感じてしまった時がある。それが一体どのようなものだったのかはもう思い出せない。何かが聞こえたような気もするし、聞こえなかった気もする。

 

 それぐらいの僅かなものなので気にしなくてもいいかもしれないが、エリィに至ってはとあるイメージすら浮かんできていた。

 コンビクラフト。銀との戦いで九死に一生を得た最後の鍵の一つ。あの時はその前日、二人で会話した時に生じたイメージが土壇場で浮かんできて、そして後方のエリィの行動が手に取るようにわかった。

 あの後もう一度やろうとしてもできなかったが、グレードを落として現在コンビクラフトとして登録している。

 あのイメージがどこから来たのか、今まで共にしてきた中で無意識に編み出した妄想なのか。考えても答えは出ない。

 

 

「――おや、君は」

 

 

 そんな時、声が聞こえてロイドは振り向いた。坂の上にいるのは白衣を着た青い髪の人物。見覚えがあった。

「確かウルスラ病院の――」

「うん、医者をやらせてもらっているよ」

 にこやかに近づいてきたその男性はヨアヒム・ギュンターと名乗り、薬学を担当しているウルスラ病院の医師だった。

「ギュンター先生はどのような用事で?」

「ちょっと教会を見に来ていてね、その帰りなんだよ」

 ヨアヒムでいいよ、と朗らかに言った彼は不意に目を細めてロイドをじっと見つめる。その茶色の瞳にロイドは戸惑い、僅かに身を引いた。

「あの、何か……」

「いやね、実は僕は釣公師団の団員なんだよ」

「え、そうなんですか?」

「うん、実は君に声をかけたのは釣りをしていたからなんだ。ちょっと興味が湧いてさ」

 ははは、と笑う彼は楽しそうだ。釣公師団に入っているというほどだ、よほどの釣り好きなのだろう。

 

「しかしなんだな、下手だね君は」

 いきなりの直球にロイドの目が点になった。ヨアヒムはふむふむと頷きながらあれこれと見ている。

「ノービスロッドか、初心者用のものだね。餌も練り団子。始めたばかりかな?」

「ええ、昔はそれなりにやってたんですけど……」

 顔が引きつらないようにしながら答えるロイドにヨアヒムは白衣のポケットから透明な箱を取り出した。中は仕切りがあり二つの物体が蠢いている。

「そんな君にこのアカムシとイクラをあげよう」

「…………」

 白衣に何故と思ったが口にしないロイド、そのまま黙って受け取った。

「釣りは経験と感性がものを言う。頑張ってくれたまえ」

 手を上げて去っていくヨアヒム、ロイドはそれをぼんやりと眺めていた。

 

 

 太公望はかつて、釣りと称して河辺に座っていた。そんな彼の元に一人の人物がやってくる。それを見た太公望はしかし声をかけない。

 するとやってきたその男性が言った。

「釣れますか?」

 太公望は振り向き、驚きもしない確信した様子で――

「大物がかかったようだのう」

 太公望の元に現れたのは殷と言う国の四方の一つ、西を束ねる諸侯だった。太公望はその後新たな王になりうる人物を待っていたのである。

 

 釣りをしていたロイドの元に現れた医師ヨアヒム・ギュンター。

 彼がその話の通りの大物であるのかどうか、それは今のロイドにはわからなかった。

 

 

 

 

 

 

「――あ、そこはあまり釣れない場所で有名なんだよ。知っていたかい?」

「は?」

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 ゲンテン工房――じゃなかった、オーバルストアゲンテンの技術者ウェンディはロイドの親友であり幼馴染である。彼女はロイドを男として意識しないほどの小さな頃からの知り合いだ。

 そしてもう一人、ベーカリーのモルジュで見習いパン職人として働いているオスカーもまた彼女の幼馴染である。オスカーとロイドの共通点を尋ねるとウェンディは決まってため息を吐き、そして心底呆れたようにこう答えるのだ。

 

 好意に鈍感なところ、と。

 

 

 

 

 モルジュのパンを贔屓にしている特務支援課と、彼らに試作品を渡して試行錯誤しているモルジュの関係は実に良好だ。オスカーとロイドの男の友情というだけでなく何より美味しいというのがエリィとティオに評判なわけだが、そんなわけで支援課がその戦いに巻き込まれるのは当然と言えば当然だった。

 

「捜索パン勝負?」

「創作よ、ロイド」

 素ボケをかますロイドの脳内を瞬時に読み取るエリィ、彼女がおかしいのかロイドがおかしいのかはわからない。

「そうなんだよ、ベネットのやつが聞かなくてな」

 わっかんないなぁ、とぼやくのは緑のシャツに白いエプロン、黒髪短髪のオスカーである。優しげで無邪気な笑顔が女性客を虜にしていることに気づかない変わった青年だ。

 何でもクロスベルタイムズの記事でモルジュのおすすめを取り上げるそうである。それ自体は喜ばしいことに違いはないが、問題はどれを薦めるかである。

 マスターは未来ある若者の味を知って欲しいと不参加、そしてその期待に対して柳に風といったようなオスカーはとある商品を候補に挙げた。そしてそれに猛反対したのがマスターの一人娘のベネットである。

 

「つまりそのベネットちゃんが、自分のパンのが美味しい! つって揉めたんだろ?」

 ランディが興味津々な様子で割り込む。女性の話にシフトしたことは自然な流れのはずだがティオはジト目で彼を見ている。

「いや、俺はベネットのパンを推したんだよ」

「え?」

「いや、こないだ食ったやつがうまくてな! こりゃ今のモルジュ一番の出来だろうって、そう言ったらベネットのやつ怒り狂ってな」

 ほんとわからんよなぁ、とオスカー。支援課も首を傾げる事態である。

「あれ、そういえばどんな用件だったんだっけ」

「創作パンで勝負するので来てくださいって話よ。というか貴方なんか劣化してない?」

 驚き半分呆れ半分のエリィの言葉をさらっと受け流し、とにかくモルジュに行こうと促すロイド。彼は幼馴染が関わると精神年齢が下がる傾向にあった。

 

 

 西通りのモルジュ、そこには仁王立ちしたベネットが待っていた。緑がかった長い髪、パンに入らないようにするためか前髪を残さず横に流している。切れ長の目は勝気な印象を与え、事実そのとおりである。ちなみに服はオスカーと同じ、つまりモルジュの制服である。

「ちょっとオスカーっ、あなたどこ行ってたのよっ!」

「勝負するって言ったのはベネットじゃないかよ、ロイドらに判断してもらおうぜ」

「……あなたの知り合いじゃない」

「あ、安心してください。判定は正直に行いますから」

 エリィがフォローし、ベネットは腕を組んで納得した。

 ティオが今回の騒動の原因を聞きだす。ベネットは不機嫌さを増しながら呻いた。

「……現時点ではオスカーのが人気も商品採用も多いのに、こいつときたら私のパンをおいしいおいしい、じゃあこれにしようって。そんなこと信じるわけないでしょーがッ!」

 うがー、と空に吼えるベネット。ティオは複雑な感情を理解してそっと瞳を閉じた。

 

「だ、そうです」

「うーん、こいつほど正直なやつはいないと思うんだけど」

 顎に手を当て不思議がるロイド。お前が言うな、という視線が突き刺さる。

「ま、とにかく勝負で全て水に流して決まるってことだ。やりゃあいいじゃねぇか」

 ランディの鶴の一声、これが開始の合図だった。

 ちなみに支援課はパンの審査及び、何故かお助けキャラ扱いで時々勝負に挟みこまれるらしい。何故だ。

 

 

 舞台はモルジュの前の屋外で行われるため、そこには多くの見物客がいた。

「では始め」

 ツァイトの咆哮で勝負が始まる。制限時間はとくになし、それはお互い失敗しないかららしい。

 思い思いに作業を進める二人。ベネットは額の汗を拭いながら鬼気迫る表情で、オスカーは鼻歌を奏でながら楽しげに作業している。

 そして、ベネットがパンに入れる素材をボウルにあけた時、激闘が始まった。

 

 

 

 イメージするのは、庭の球。

 

 

 

 

「――そのボウル、消えるぜ?」

「え?」

 オスカーの謎の一言、ベネットの思考は固まった。そして瞬間、自身の手元のそれを見て驚愕する。

「ばかな――ッ!?」

 素材が――チョコチップが浮いていた。作業台から浮いていたのだ。

「嘘、こんなことって――」

「いや待て! あれを見ろ!」

 ランディの言葉にオスカーを除く全員が同一方向を見る。そこには魔導杖を差し出す形で固まっているティオ。

「あいつホロウスフィア使いやがったッ!」

「くく、驚いたかベネット」

「でも意味ないわよね」

 エリィが核心を述べた。

 

「ならば――!」

 ベネットがパン生地を空中に放り投げる。その軌跡に全員の目が釘付けにされた。

 放物線を描いてベネットの前に舞い降りようとする生地、それを彼女は右手を振りかぶり一瞬で叩き付けた。生地の重さでは考えられない重たい音が響く。パン粉を巻き上げて降り立ったパン生地は、しかし既に完成形に至っていた。

 そう、捻れていたのである。

「つ、ツイストサー――ぶ!?」

 思わず出た言葉を強引に手で止められたロイド、その手の持ち主エリィはそんな彼を見てため息を吐いた。

「でもあの一瞬でできるのは素直にすごいわね……」

 既に事態の収束を諦めているエリィ、彼女は支援課でありながら第三者の立場にいた。

 

 さて、白熱する勝負だが、実際のところ焼き上げる為のオーブンはモルジュ店内にあるので最後の工程は見ることができない。つまりはそれまでに如何に大衆を惹きつけるか、勝負はそこにあるのである。

 いや、観客の多くは勝負に関係ないのだが。

「やるな、ベネット」

 オスカーが笑う。観客の半数が黄色の歓声を上げた。ベネットはその笑みに対して一瞬の逡巡の後笑う。最後に勝つのは私だと、瞳で宣言していた。

「二人とももうすぐ焼きに入るわね」

「ああ、だがベネットさんは大事なことを忘れている」

 ロイドの言葉が耳に入ったのか、ベネットが顔を上げる。ロイドは不敵に笑ってオスカーを見た。しなやかな右手の動きに合わせて左手も踊る。まるで指揮者のようだ。

「オスカーは、左利きだよ」

「くっ、まさかそんな――ッ!」

「いやだから意味ないでしょ? ないでしょう?」

 必死な言葉もむなしく、まるで自分こそが異端なのかとも思ってしまう。

 

 それはないわね……

 

 それはない。

 

 

 ベネットは焦っていた。まさかオスカーが左利きだったなんて、知っていたはずなのに失念していた。

 手を抜かれていたのか、そんな考えが頭を過ぎり、しかしそれを振り払った。

 オスカーはそんなことはしない。誰が今まで一番近くで見てきたというのか。彼女の知る彼はパンに対しては真摯で情熱的だ、手を抜くなんてありえない。

 なればこそ、この勝負は負ける。パン屋の一人娘は、未だ彼の背中を捉えていないのだ。

「くやしい」

 漏れた心の内、それを拾ったのは多くの人の渦の中のたった一人だった。

 

「なら、それを感じなくなるように頑張ればいいだろ」

 どこからか聞こえてきた言葉、それにひどく心を打たれ、いつの間にか諦めていた自分に気づいた。

 くやしい。

 今度は彼に対してではなく、いつの間にか負けていた自分に対するものだった。

「エリィさん!」

「え?」

「あなたの感覚、借りるわ!」

「え? え? 何、何なの?」

 ベネットとエリィの体を白い光が包み込む。それはまるで二体一対、信頼しあった二者が持つ完全なる調和。

「シンクロした!?」

「一方的にですが……」

 驚愕するロイドにティオがぼやくも事実は変わらない。巻き込まれたエリィの感覚を手に入れたベネットは、生地に残された細かな情報すら感じ取る。そこに高速の手入れを行った彼女はそのままオーブンの下へと走っていった。

 残されたのは哀愁漂うエリィである。

「ふふ。やるな、ベネット」

 オスカーはそんな背中を見つめて静かに笑った。

 

 

 

 

 出来上がった二つのパン。先にオスカーが説明をし、そしてベネットの番となる。

 彼女は手の甲を見せるように顔の前で立て、角度良く曲がった指の隙間から瞳を覗かせた。それは最高峰の眼力(インサイト)の証明である。ゆっくりと手を戻し、言った。

 

「――ベネット驚嘆(ベネットワンダフル)

 

「か、完成させやがった……」

 ランディが戦慄する。彼が何を以ってそう言ったのかは定かではない。

 

 

 

 

 

 続く(嘘)

 

 

 


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