空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない 作:白山羊クーエン
眼前に広がるのはクロスベルの名物として君臨している劇団が、その威光を堂々と揮っている狂喜と情熱の聖なる劇場。
掲示板に揚げられていた依頼の一つを終了させたエステル・ブライトは入り口脇にある大きな宣伝画を眺めていた。
アルカンシェル。観劇こそしたことはないが、クロスベルにいるとそのフレーズを聞かないなどということはなく、つい先日もそれを聞いたばかりである。
聞くところによると、およそ考えられる限りの心の揺さぶりが含まれているらしい。悪い評価を聞いたことはないくらいなのだから、万人に認められるさぞ素晴らしいものなのだろう。
そんな集団なのだから多分に漏れず彼女も興味津々、というわけではない。
素晴らしいことはわかる。多くの人々が心を揺り動かされ、口から飛び出す言葉は賞賛の嵐。だが黙って何かを見るということはエステルの趣味嗜好とは少々外れている。インドアではなくアウトドアな彼女は自分で何かをしたいタイプなのだ。
だから彼女がアルカンシェルの世界を捉えて離さないのは劇自体に興味があるわけではないのだ。いや、彼女自身過去に劇を繰り広げたことがあるので気にならないというのは厳密には嘘だが、それでも今回はその中身に関心があるわけではない。
それは先に述べた、先日アルカンシェルという言葉を耳に放った彼の発言によるものなのである。
「おまたせ、エステル」
微動だにしないエステルの横からアイスクリームを二つ持ってきたのは相棒であるヨシュア・ブライトである。アルカンシェルのある歓楽街の食の名物といえば、屋台ランキングでトップを維持し続けているアイスクリーム。
休憩時間くらいは甘いものが食べたいと言ったエステルに苦笑しながらそれを買ってきたところである彼は、せっかくの献上品に反応しないエステルに疑問を持つ。
「エステル?」
「あ、ヨシュア」
「アイス、買ってきたよ」
「あ、りがとう」
釈然としない態度のエステルにヨシュアは首を傾げながらアイスを渡す。そして彼女の立つ隣へと移動したところで、あぁと呟いた。
「――アルカンシェルだね」
「うん」
「ロイドが言っていた、レンを見た場所だっけ」
「うん」
「……君のアイス、食べていいかい」
「うん……だめよっ!?」
慌ててアイスをかっ込むエステルは、それ特有の頭痛に襲われてしかめっ面をする。それをヨシュアは笑い、アイスを口に含む。
「なんならちょっと訪ねてみる?」
「ううん、いいわ。だってレンに会っても、今の私じゃ逃げられちゃうもの」
そう言って笑いかけるエステルの顔はヨシュアにしかわからない悲しみを帯びていた。
ヨシュアはその顔をなんとかしてあげたいと、今までの調査で判明していることを話し出す。
「レンの両親は北西の住宅街に住んでいるようだね。貿易商のハロルド・ヘイワースさん、その妻ソフィアさん。そして、息子のコリン君」
アイスを含み、溶かす。冷たくシャリシャリした、甘い食感。
「周囲の印象は概ね好評。堅実で温情に満ちた商売、近所で料理教室を開く社交性。コリン君も平凡な小さな男の子だ」
「………………でも、レンは」
「そうだね、だから確かめるんだろ?」
エステルはヨシュアの目を見る。そこには至上の信頼が含まれており、エステルは小さく頷き、空を見上げた。
「――そうよー、まずはそこからっ。あの子の全てを知って、それで迎えに行くんだからっ!」
やるぞー、と両手を掲げ気合を入れるエステルにヨシュアは微笑む。彼の好きなエステルの姿だった。
「さ、仕事に戻りましょ!」
アイスを食べ終えたエステルにヨシュアは頷くが、彼の手にはまだアイスが残っている。エステルはニヤリと笑い、ヨシュアはやれやれと首を振ってそれを差し出す。
「ありがとヨシュアっ」
「全く、お腹を壊しても知らないよ?」
「だーいじぶだいじぶ。私お腹は強いからっ」
ペロペロとアイスをなめるエステルにヨシュアは優しい瞳を向ける。なんだかんだでエステルのそうした態度や行動に救われていることを理解している彼は、それ故に彼女が愛おしい。
そんな二人は傍目から見ればバカップルのようなそれだが、その空間を壊すように、二人の正面の扉が開く。
「え?」
二人は同時にそちらを見やり、出てきた少女に注目する。フードのついたオレンジの上着に黄緑と山吹のホットパンツのいでたちは、彼女の恵まれた体つきがよくわかる服装だ。
しかし二人が注視したのは、彼女の肩にかかるくらいの髪。白いリボンが映えるその髪は、エステルとヨシュアの探している少女のそれよりは暗い色であるものの、説明するならばそれとしか言えない色である。
「紫の、髪……?」
「……うん、紫の髪だね」
二人の呟きが聞こえたのか、劇場から出てきた少女はエステルとヨシュアに目を向ける。
「あの……?」
「うぇっ、あ、えと――」
「すみません、聞こえてましたか?」
慌てるエステルと異なり落ち着いた声で話すヨシュアに少女はいえと否定し、しかしどうにも不思議な表情をしている。ヨシュアはそれに気づいたものの、気づかない振りをして続けた。
「実は僕たちが探している子が貴女と同じ髪の色でしたので、少々驚いてしまったんです」
「あ、そうだったんですか」
「そうそう、そうなのっ。ごめんなさい、無遠慮に見つめて」
「あ、いえっ、気にしないで下さいっ」
ぺこりと頭を下げるエステルに慌てる少女、それはなんとも注目を集める催しだったようで、気づけば周囲の視線が向けられている。
「エステル」
「あ、あはは……」
「えと、あの……」
「そういえばどこかに出かけるところだったんですよね?」
「あ、はい。ちょっと市役所のほうに」
エステルはそれを聞いて破顔した。
「じゃあそこまで一緒していいかな?」
***
行政区は歓楽街と隣り合わせの区画であるため、その道程はわずかほどでしかない。しかし持ち前の明るさと人懐っこさで少女の承諾を得たエステルは、ヨシュアを置いて少女の隣に並んで話している。置いていかれたヨシュアは親しそうに話すエステルとちょっぴり引いている少女の姿を後ろで眺めていた。
「私はエステル、エステル・ブライト。あなたは?」
「私は、リーシャ・マオっていいます」
「年は? 見た感じ同じくらいだと思うんだけど」
「17です。エステルさん、は――」
「あ、じゃあ私の一個下ねっ。私18だから」
年上だとわかり少し嬉しそうなエステルに、後ろから口撃が放たれる。
「落ち着きは年下みたいだけどね」
噛み付くように振り向いて威嚇するエステル、涼しい顔のヨシュア。
「うっさいわね! で、後ろのがヨシュア」
「初めまして、ヨシュア・ブライトです――――ごめんね、エステルはこんなだからさ」
「あはは、羨ましいです。明るくて」
「ありがと、でもリーシャは――あ、リーシャって呼んでいいかな?」
首肯するリーシャにエステルは笑いかけ、
「リーシャのその落ち着いた感じは羨ましいかな。私落ち着きがないとこがあって……さっきのヨシュアの言葉を認めたわけじゃないけどねっ」
認めているじゃないか、とはヨシュアは言わない。彼はあまり話す気がないらしく、ただ黙って後ろに控えている。
「ふふ、でも私のは落ち着きとかそういうんじゃないと思います。ただこういう性格なだけで」
「だから、そういうところがいいんだってば。あ、そういえばリーシャはアルカンシェルの団員なの?」
リーシャとの邂逅はアルカンシェルの劇場前、しかも彼女がそこから出てきたからだ。今更な質問にリーシャは淀みなくイエスと答え、エステルのテンションがますます高まる。
「私アルカンシェルの劇は見たことないけど、すごいんでしょ? 見てみたいなぁ」
その言葉はリーシャの琴線に触れたのか、彼女の笑みが深くなった。まるで宝物を自慢するかのような、そんな稚気すら思わせる。
「凄いですよ。本当に、凄い。一度見たら、きっと虜になっちゃうと思います。私もそうでしたから」
「あ、じゃあリーシャは劇に感動して入ったのね」
頭を振るリーシャにエステルは首を傾げた。彼女にはそれ以外の入団理由がわからなかった。すると後ろからヨシュアが口を挟む。
「――じゃあスカウトされたんだね」
「スカウト?」
「……えぇ、そうです」
同意するリーシャは何故か苦笑を漏らし、その理由を話す。
「公開練習というのがあってたまたま見ていたんですが、そうしたらイリアさんが強引に……結局私は今こうしてアルカンシェルにいます」
強引に入れられたというリーシャはその件を嬉しそうに話している。まぁ結果がいいならいいかとエステルは考えることをやめた。
「そっか、良かったねリーシャ」
「はい、そうですね。よかったです」
そうこうする内に市庁舎にまで辿り着く。エステルとヨシュアは再び並び、ひとまずの別れに落ち着こうと話し出す。
「それじゃあね、リーシャ!」
「またどこかで。困ったことがあったら気軽にギルドに来てほしい」
「ギルド……お二人は遊撃士だったんですかっ!?」
ヨシュアの言葉の一単語を復唱し、リーシャは驚く。二人は職業をリーシャに話していなかった。
「あ、言ってなかったっけ? そうよ、この前クロスベルに来たばかりなの」
「そう、だったんですか……」
「なので、お気軽にどうぞ」
リーシャは微笑み、頷いた。
彼女が市庁舎の扉を潜り中に消えていくまで見送った後、二人はギルドへと戻ることにする。見晴らしのいい港湾区を通ろうとしたエステルは、しかしヨシュアに止められて中央広場への道を進んだ。
「ヨシュアー、どうしてこっちに?」
「……杞憂ならいいんだけどね」
首を傾げるエステルに笑い返した後、話を逸らすようにヨシュアは言う。
「――すごいね、リーシャは」
「そうね、なんか武術でもやってるのかなぁ?」
ヨシュアは急に立ち止まり、エステルは足を止めて振り向く。ちょうど中央広場に差し掛かるところだった。
「……そうだね。エステルはどこで気づいたの?」
んー、と考え、エステルは歩き方、と答えた。
「なんかヨシュアと似てたのよね、リーシャの歩き方。静かな感じ。まぁ性格も大人しかったけど」
「――――」
ヨシュアも同感だが、しかし彼が気づいたのはもっと早い。
歓楽街は旅行者も多いし、娯楽施設も集中しているのでクロスベル市の中でも人通りが多いほうだ。そしてその人気スポットの一つであるアルカンシェルの前にいたのは二人だけではない。おそらく常連であろう人間もおり、当然のように声援を送っていた。
その中で、エステルの小さな言葉に耳ざとく反応した。それが自身の名前ならば騒々しい中でも確かに聞き取ることはできる。
しかし身体的特徴の一つでしかないそれは五感を絶えず鋭敏に張り巡らせていなければできない芸当だ。その時点では、アルカンシェルという劇団の超人的感覚であるという考えで相殺できる。
しかし、ヨシュアは移動の間ずっとリーシャの後ろを取っていた。その歩行が自身と酷似していることにも気づいた。すると頭の中で一つの仮説が思い浮かぶ。
だが彼女がエステルと話している間の挙動は自然そのものだった。背後を取られていることに気づく様子もない。これが擬態ならば見抜く自信はあったが、ヨシュアの全感覚はそれが嘘でないことを認めていた。
そのアンバランスさ、それこそがヨシュアの頭を支配する言葉である。
「――行こう、エステル」
「うん、リーシャともまた会えるだろうし、その時は何やってるか聞かないとね」
時間なかったし、と意気込むエステルをヨシュアは眩しそうに見る。全く以って凄いな、とヨシュアは眼前の日輪を眺めていた。
市庁舎を出たリーシャは、視界に広がるクロスベルの地を漠然と眺める。その見つめる先は東の方角と言われている。
「………………」
彼女が何を思ってそうしているのかは定かでない。ただ明らかなのは、彼女の思考の大半を占めるのは先に会った二人の遊撃士だ。僅かな時間しか共にいなかったのに太陽のように心が温かくなる少女と、それを見守る静かな月のような青年。
「エステルさんと、ヨシュアさん。遊撃士のお二人……」
東通りの遊撃士協会。二人は気軽に訪ねてほしいと言っていたが、クロスベルの遊撃士が多忙であることは知っている。それでもあの太陽に触れると思わず相談したくなるのが不思議だ。
二人は、強い。何よりもその在り方が強く輝いている。
故に、リーシャは彼らに相談することはないだろう。多忙だから、有名だからと理由をつけて、肝心なことは話もしないだろう。
だがそれは、彼女が感じている彼女自身の本質による判断なのかもしれなかった。
クロスベルに来て抱いてしまった彼女の矛盾によるものなのかもしれなかった。
「――さ、イリアさんのところに行かなくちゃ」
風が吹く。
彼女の前髪を後ろへと流し、目を細めさせる。
西から東へ、まるで彼らに向かって吹いているかのような風を切って、リーシャ・マオは歩き出す。自分の居場所であるアルカンシェルへ、自分を見つけた女性のところへ。
彼女が今全力を尽くす場所はその劇団であり、死力を尽くすのは次の舞台なのだから。
これは、リーシャが特務支援課を訪れる前日の話である。