"みんなで起こした、奇跡だよ"――魔法少女まどか☆マギカ×オルフェノク――   作:ありがとうございました。

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久々の更新となります。今回は基本的に追加要素は少なく、以前投稿していた内容の中から気になった表現を修正した程度です。
基本的にアニメ版1話を踏襲するストーリー展開となりますが、楽しんでいただければ幸いです。


第2幕『とっても大切な人たちだよ』

 その夢の中で、あたしは人々を守る正義の戦士だった。

 武器である伝説の宝剣を振り回して、悪い怪物どもを切り払う。その刃の一振りで、数多の人々の命を救っていた。純白のマントをはためかせて、蠢く闇を眩い光で切り裂く。まさに希望の象徴だった。

 その姿を、誰もが憧れの眼差しで見つめてくれていた。パパも、ママも、まどかも、仁美も、あかりも、

 

 

 ――そして、"あいつ"も。

 

 

 みんなが、あたしの活躍で幸せな生活を送れることに感謝してくれていた。むず痒かったけれど、悪い気持ちではなかった。 むしろ、それが嬉しかった。

 皆、あたしが戦い続けることで幸福な毎日を送ることができていたのだ。皆の日々を守り続けられることがあたしの誇りだった。

 

 でも。

 

 傷つき、苦しみ、必死に戦っているあたし自身には、いつになっても幸福はやってこなかった。

 あたしは幸せを与えるだけだった。

 あたしには何も返って来なかった。

 

 

 いつの間にか、あたしは自分がひとりぼっちになっているのに気がついた。誰もがあたしが幸せを守ることが当然だと思い、あたしに意識を向けることなく、あたしの幸せを享受するようになっていた。

 

 それどころか、誰もあたしを見るのを避けていた。必死に戦う自らの姿は、皆には恐怖しか与えなかった。

 みんながあたしから離れていった。

 

 

 仁美が。あかりが。まどかが。

 

 

 

 それに、"あいつ"が。

 

 

 

 みんなみんな、離れていった。

 離れていって、しまった。

 

 

 

 それでもあたしは戦った。戦い続けた。みんなを守ら"なければならない"と思ったからだ。

 

 あたしは、とある怪物と戦った。

 その敵は、強大だった。何度も胸を貫かれそうになり、何度も頭を吹き飛ばされそうになった。何度も足が千切れそうになり、何度も腕がもぎ取られそうになった。

 痛かった。苦しかった。悲しかった。苦しかった。嫌だった。苦しかった。

 ――痛みを無視して。

 ――心を止めて。

 長い長い、とてつもなく長い戦いを経て、あたしはついにその敵を討ち倒した。

 

 

 討ち倒した、はずだった。

 

 

 

 ――あれ?

 なんだか、違和感を感じる。

 視界が、高い。

 まるでビルの屋上にでも立っているようだ。

 体が、重い。

 まるで重厚な鎧を纏っているようだ。

 不快な怪物の声が、聞こえる。

 視界に、怪物は一体も残っていないのに。

 手から、剣が離れない。

 まるで体の一部になってしまったようだ。

 無理矢理剣を引きはがそうとして、空いている自らの右手を見てみる。

 

 それは。

 それは。

 鈍色の鱗に覆われた、それは。

 

 自分の手では、なかった。

 

 もっと歪で、もっと醜い、怪物のような手。

 

 ――嘘だ。

 そう思って、そう自分に信じ込ませて、奇妙に重い頭を傾けて、自らの身体を見る。

 

 首の後ろまで大きく広がる、大きな極彩色の襟。ピンク色の、ぼろ布のようなマント。足の代わりに伸びた、不格好で醜い尾鰭。スピーカーのように変化した口からは、怨嗟の哀訴が絶え間なく漏れ出てくる。

 

 ――嘘だ。

 

 

 あたしは、いつの間にかさっき倒したはずの"敵"の姿になり果てていた。

 

 

 

 「うわあああああああっ!!」

 悲鳴じみた絶叫とともに、美樹さやかは目を覚ました。全身にびっしょりと汗をかき、パジャマが気持ち悪いほど肌に張り付いていた。荒い息も整えずに、さっと周りを見回してみる。

 いつも通りの、さやかの部屋だ。

 自分の体、をなで回してみる。

 淡い青のショートカットの髪も、低い鼻も、やっとダイエットに成功して少しやせた体も、最近膨らみはじめた胸も、ある程度筋肉がついているからとはいえ、少々太さがコンプレックスだった足も、ちゃんと美樹さやかのものだ。

 ここまで確認して、彼女はやっと安堵の一息をつくと、枕元においてある熊の時計へ視線を投げる。

 午前6時。いつも起きる時間よりは少しばかり早いが、健康的な朝の起床時間としては申し分ない時間だ。それ以前に、あんな夢を見てしまったのだから、これから二度寝は出来そうにないが。早起きは三文の得という諺を思い出して、さやかは朝の準備を始ることにした。

 「なんか、すっごいリアルな夢だったなあ……」

 汗でびっしょりと濡れたパジャマから着替えながらも、いまだにバクバクと激しい鼓動を続ける心臓を押さえながら、さやかは先ほどの夢を思い出す。

 

 みんなの幸せのために、必死に戦っていたら、

 誰もを幸せにするためだったのに、

 なぜか、自分だけは幸せになれなくて。

 そしで、いつしか友達も離れていって。

 "あいつ"までもがいなくなっていて。

 

 気がついたら、身も心もバケモノになっていた。

 

 

 ――でも、そうなのかな?

 

 

 ――本当に、それだけなのかな?

 

 

 

 ぶんぶんと頭を振って、脳裏に立ち込める暗雲を振り払う。それから着替えを中断して、さやかは立ち上がった。部屋の隅にある、小さなCDラックに歩み寄る。サティ、ラヴェル、ドビュッシー、レスピーギ。そこにはおおよそさやかの趣味のイメージとは異なる、バロック期を始めとした様々な時代のクラシックのCDが並んでいた。

 少しの間悩んだあと、さやかはそのうちの1枚、グノーの『アヴェ・マリア』のCDを手に取る。

 そして、小さく呟いた。

 「恭介(きょうすけ)……」

 

 

 

 

 母親の作っておいてくれた朝御飯をゆっくり食べてから家を出ても、まだ7時だった。学校に着くのが早すぎても仕方ないので、さやかはゆっくりと見滝原公園への道を歩いてゆく。

 見滝原市でも中心部にある旧蒼樹市付近は、景観が美しいことで全国的にも有名だ。見滝原市の誕生と同時にこちらに本社を移してきた、スマートブレイン・ホールディングスの一部門、スマートブレイン・テクノロジーの最先端科学技術が生かされた街づくりは、自然との共存を可能にした近未来都市といった様相を示している。

 このある意味実験都市といえるこの街づくり運動は市民の大きな関心を集めた。まだきちんとした検証が足りない、というような反対意見も多かったが、結局この都市開発は今や工業地帯である旧玄虚村を除いて見滝原市ほぼ全域に施された。 さやかの通学路のほぼ真ん中にあるこの見滝原公園は、そんな見滝原市の中でも特に景観が美しく、夜の公園は美しい公園も相まって見滝原一のデートスポットとなる。さやかも、いつの日にか憧れの彼氏と訪れて、彼のヴァイオリンでも聞いてみたいと思っていた。 だが、通学中にここで待ち合わせるのは愛しの彼とではない。というかまださやかは告白もしていないし、第一今の"あいつ"とでは彼女の夢も叶えられない。よって待ち合わせているのは――

 「あら、さやかさん!今日は早いですわねー?」

 「さやか、おはよっ!」

 「おーっす、おはよ!仁美、あかり!」

 志筑仁美が、こちらへ駆けてくる。隣には南あかりの姿も見えた。

 「おっ?おやおや、あかりがこんなに早いなんて珍しいじゃーん。まさか、昨日の癖がついちゃったとかぁ?」

 「あはは、まあ、そんなもんかなー」

 頭に手を当てながら笑っているあかりだが、実は彼女、集合の遅刻常習犯なのである。いつの間にか指定時刻までに来なかったら先に行ってよい、という暗黙の了解ができていたほどの重度な遅刻魔だった。さやかのグループの集合時間は少し早めなので、学校そのものに遅刻することは少ないのだが。

 「じゃ、後はまどかだけだね」

 「そうですわね」

 「いやー、まさかボクがまどかを待つ立場になるなんてね……。なんか変な感じ……って?」

 うーん、と伸びをしていたあかりの動きが止まる。

 「ん?あれって……」

 「噂すれば陰、ですわね」

 仁美が振り返ると、早くも並木の奥で揺れるピンク色の髪の毛が見えた。

 「おーはよーっ」

 元気よく片手を振りながら、いつも通り見滝原中学校の制服に身を包んだまどかが駆けてくる。

 「おーはよっ!」

 「おはようございます」

 「まどか、おそーいっ」

 と、さやかの視線がまどかの頭に移る。

 「おっ?昨日のリボン、ピンクにしたんだ」

 まどかは、昨日通学路で切れてしまった黒いリボンの代わりに、濃いピンクの新しいリボンをつけてきていた。それは、どちらかといえば地味が好みなまどかにしてはなかなか華やかなものだ。

 「昨日のリボン……?」

 あかりが問いかける。

 「そういえば、あかりさんはいらっしゃらなかったですものね」

 「ほらほら、あかりは来れなかったけどさ、あたしたち、昨日はまどかの新しいリボン買いに行ったじゃん。そのとき買ったのがそのピンクのリボン、ってわけ」

 「黄色も買っていらっしゃいましたけれど、そちらにしたんですわね」

 3人の注目が集まる。それに少し顔を赤らめながら、まどかははにかんだ。

 「ママがさ、こっちの方がいいって。……派手すぎない?」

 「そんなことないよー!すっごく似合ってるよ?今度からボクもリボンつけてみようかな」

 「リボンって……あかりとかあたしの髪型じゃ縛れないわよ?」

 「むりやり縛ればよくない?それに、頭に巻くような付け方もあるしさ」

 「あたしそういうの好きじゃないわー。やっぱりまどかみたいにかわいく結ばないとね!」

 さやかが後ろからまどかに抱きつく。

 「もぅ、さやかちゃんったら……」

 「おうおう、まどかはかわいいのう」

 「はいはいそこ、イチャイチャ禁止ー。もう結構時間過ぎちゃってるよー」

 呆れ顔であかりが微笑む。

 「あら、本当ですわ。全員揃ったわけですし、参りましょうか」

 「うん、そうだね。さやかちゃんたちもいこっ?」

 まどかはするりとさやかの腕から抜けると、にこにこと笑いながら走り出す。

 春の朝の、爽やかな日差しが眩しい。公園の並木と地面のタイル、そして道の両脇を流れる透き通った水路は皆優しい色合いをしており、少女たちの幸せなひとときを暖かく包み込んでいる。

 

 「そういえば、仁美ちゃん」

 思い出したようにまどかが口を開く。

 「なんですの?」

 「ママが言ってたんだけどね、やっぱり告白をラブレターなんかでする男はろくな奴じゃないって」

 「へぇ、さすがまどかママだね、一言一言がマジかっこいい」

 「ほんっと。それに美人だし、いわゆる出来る女って感じだよね。ボクもあんな大人になりたいなぁ」

 あかりが少し遠い目をする。なんとまどかの母、鹿目絢子さんはいまや会社の重鎮、社長だって夢ではないのだそうだ。

 「私にもそこまできっぱり割り切れる強さが欲しいですわ……昨日のこと、まだ心が痛みますもの」

 昨日のこととは、もちろんのかの告白のことである。あかりは、最終的にまたしても交際を断ったことを聞いていた。

 「あーあ、羨ましいなぁ。でもボクならきっぱり断っちゃいそうだし、そんな優しいところも人気の理由なのかもね」

 「えー、あかりがー?ないわー。あかりがラブレターなんて貰ったら、真っ赤になってフリーズしてそうだけどなー」

 「うっさい」

 ぺちん、とさやかの額を叩くあかり。

 「優しいだなんて……。それならまどかさんのほうがよっぽど優しいと思いますのに」

 聞き手に徹していたまどかは、急に話を振られてビクッと跳ね上がった。

 「ふぇっ!?わたし!?やだな、わたしなんかぜんぜん優しくなんてないよ。それに、わたしって地味だしね……えへへ」

 その言葉に、さやかは何かに気づいたような笑みを浮かべる。

 少し、いやらしい笑みを。

 「ほうほう、だからまどたんはまずかわいいピンクのリボンからイメチェンスタートと」

 「ち、違うよぉ!さっき言ったでしょ、これはママが――」

 「もしかして、詢子さんからモテる秘訣でも教えてもらったんじゃないのぉ?ずるいぞ、ボクにも教えてよぉー」

 「な、なんだとぉ!?それはけしからぁん!」

 「そ、そんなの教えてもらってないよ!?」

 「まどかがモテモテなんてさやかちゃん嫉妬しちゃうぞー?ダメダメ、まどかはあたしの嫁になるんだから!」

 まどかは慌てて暴走しはじめたあかりとさやかから逃げだそうとする。だが、友達同士の咄嗟の結束は固い。簡単に回り込まれて、挟み撃ちにされてしまった。

 「あかり、まどか抑えて」

 「りょーかいっ!」

 「えっ!?ちょっとあかりちゃ――」

 あかりに捕らえられ、無防備になったまどかの脇腹にさやかは手を伸ばし、

 「浮気したまどかには、笑いのツボの刑だ!そいやっ!」

 「さやかちゃん、手をわきわきさせるののどこが笑いのツボ――あひゃひゃひゃひゃひゃ」

 「ヘイ、カモン!ボクにモテテクカモン!」

 「はひぃ!」

 「何が『はいー!』なのかな?やっぱり浮気目論んでるんだなぁ!?」

 「あはは、ち、ちがっ、さやかちゃ、あはははははは!」

 

 

 

 「……コホン」

 

 

 仁美の小さな咳払いに、3人は一斉に動きを止める。場所はいつの間にやら校門の前。まどかたちは登校する見滝原中の生徒全員のまえではしゃいでいたというわけだ。クスクスという笑い声が広がり、こちらに不愉快な視線を向ける生徒もいる。

 「あ、えっ……と……?」

 「ねえあかり、こういうときは……?」

 「…………」

 「…………」

 ――こくり。

 

 「すたーとあっぷ!」

 「とらいある!」

 「え、ちょっと!」

 「あかりちゃん!?さやかちゃん!?待ってよぉ!」

 

 

 

 平凡で純粋な少女たちが、穏やかな日の光の下を駆けてゆく。

 

 

 

 既に、失われているものがあるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 授業開始前のショートホームルーム。見滝原中学校1年C組では、担任の早乙女先生が生徒たちを相手に熱弁を振るっていた。

 「み、な、さ、ん、はッ!!シャツの上にパーカーを着るときッ!!前のッ!!チャックをッ!!閉めますかッ!!閉めませんかッ!!はいッ!!な・か・ざ・わ・くんッ!!」

 ビシッとでも音がしそうなほど鋭く、指示棒で1人の男子生徒を指名する。不幸にも荒ぶっている早乙女先生に指名されてしまったのは、一番前の真ん中という目立つ席に座る中沢佑二くん。哀れな彼は、急な無茶振りに盛大に引きながらも、なんとか口を開く。

 「え……えっと……どっちでもいいと思います……」

 「そ の と お り ッ!!」

 早乙女和子先生(女性/担当教科:英語/年齢:3〇歳)が吠えた。その闇を切り裂き光をもたらすがごとき迫力に、中沢くんは大きくのけぞってしまう。

 「チャックをッ!!閉めるかッ!!閉めないかのッ!!違いくらいでっ!!女のッ!!魅力がッ!!変わるなんてのはっ!!大・間・違・いですっ!!」

 その勢いのまま、早乙女先生は指示棒を真っ二つに折ってしまった。哀れ使用期間3日の指示棒、哀れ弁償させられる早乙女先生の懐事情。

 ちなみに、この謎の怒・怒・怒の灼熱コンボに囚われているのは、中沢君のみである。ほかの生徒たちは互いに「ついに来たか」「今回は続いた方じゃね?」「やっぱりだめだったんだね」だのと囁きあっている。

 つまり、この2年C組でこんな出来事は日常茶飯事なのである。だいたい2ヶ月に1回ペースで発生する、恒例行事。

 

 『早乙女先生の失恋大暴走』。

 つまり、またもや恋人と破局した早乙女先生が、生徒たちに当たり散らし、慰められているだけに過ぎない。

 散々喚き散らした挙げ句、最後には『男子はそんな男になるな』『女子はそんな男と交際するな』という決まり文句で終焉を迎える。その内容は決して的外れではないのだが、実に細かく面倒くさい。そして、大抵はその程度の不快感は呑み込めるだろうと思える内容なのだった。

 ――「まず女子は、チャックの明け閉め程度でだらしないだの色気がないだの文句をつけるような細かい男性とは交際しないことッ!それから、男子は絶対にパーカーのチャックの開け閉め程度に文句をつけるような小さく卑小で矮小な男には絶対にならないようにっ!!わかりましたねッ!?」

 早乙女先生は一息でそこまで言い切ると、やっと荒くなった息を整えるために一息ついた。

 「はぁ、やっと終わったね……」

 「やっぱ、しばらく空いた後にくると疲れるわぁ」

 「そうだね、さやかちゃん……」

 その中で、真ん中の列の後ろ側に座っているさやかとまどかも、二人で苦笑いを交わしていた。その前の席に座る仁美も、二人に同意をするように首をすくめた。

 

 やがて、コホン、と咳払いをして早乙女先生はざわつきだした教室を鎮める。

 そして、先程までのいらつき度合いはどこへやら、満面の笑みで口を開いたのだった。

 

 

 「さ、重要な話も終わったことですし、皆さんにこれから――転校生を、紹介します」

 

 

 

 

 

 

 「……いや、明らかにそっちの方が重要っしょ」

 最近早乙女先生の専属ツッコミ役になりつつあるさやかが、小さく呟いた。

 

 

 

 

 ――転校生。

 まどかは、話を聞く前から、その響きに少なからず憧れを抱いていた。彼女は生まれも育ちも見滝原――生まれたのは旧蒼樹市だが、この辺り一帯は昔からそう呼ばれている――であり、もちろん転校などはしたことがなかった上に、いかなる偶然か、小学生時代から今に至るまで、自らのクラスに転校生というものが来たためしがなかったのである。鹿目まどかにとって、自分のクラスに転校生という存在が来るのは、生まれてこのかた初めての出来事なのだった。

 ――転校生、かぁ。いったい、どんな人なんだろう……。

 ――友達に、なれるかな?

 

 

 そんなふわふわとした感情をぼんやりと浮かべながら、まどかは教室の入り口へ目をやった。

 「それでは、"暁美(あけみ)さん"、入ってちょうだい」

 早乙女先生の朗らかな指示。それに従って、転校生が教室に足を踏み入れた。

 

 

 

 その刹那。

 

 

 

 ――ぇ……うそっ……?

 まどかは、絶句した。

 

 

 

 

 

 

 

 その少女は、美しかった。

 

 滴る瀧のように艶やかに流れ落ちる、長く煌めいた黒い髪。その繊細な美しさを崩さず、僅かに彩りを添えるがごとく被せられた、黒いカチューシャ。肌は抜けるように白く、二重瞼を備えた瞳は、聡明な輝きを秘めた深いアメシスト色だった。すっと細く高い鼻に、薄くあっさりとした色合いの、引き締められた唇。顔立ちこそクラスメイトと同じくあどけなさを残してはいるものの、まどかが今まで出会ってきたいかなる中学生よりも、"美人"という言葉が似つかわしく思えた。

 そして何よりも、その大人びた雰囲気が彼女の美しさの源であった。それは単に整った顔立ちのみならず、中高生特有の浮わつきを一切感じさせない、どこか憂いに満ちた表情に由来するものがあったのは間違いないだろう。

 

 

 

 そして、まどかはその全てに覚えがあった。

 

 

 ――でも、そんな……っ。

 

 

 彼女が教室へ歩みを進める。全く物怖じとは無縁の態度であるのにも関わらず、高慢な印象も一切感じさせない。彼女にあるのは高潔さと――どこか凍りついたような、仮面じみた目線だった。

 

 

 ――間違いない。彼女は。

 

 

 そのまま、少女は教室の中央へと進み、電子黒板の前で歩みを止める。

 

 

 ――夢の中で、逢った――。

 

 

 そして、小さく一礼した。

 

 

 

 ――「はじめまして」

 

 

 まっすぐで透き通った、そして無機質な声色。それはどこか、無菌室のような印象を与えた。どこまでも清純で、どこまでも真っ白で――そして、どこまでも人工的だ。一本調子でも、抑揚がないわけでもないのにも関わらず、生命体としての生の感情が、その声色からは欠如しているように感じてならなかった。

 

 

 

 ――「暁美(あけみ)ほむら、です。よろしくお願いします」

 

 

 

  ――ううん、ちがう。

 だが、まどかはその少女――暁美ほむらの、その表情を正面から見たとき、その視線を見据えたとき、その声色を聞き取ったとき、自らの考えを否定した。否、否定せざるを得なかった。肯定することができなかった。

 あの少女は、あの漆黒の姿は、夢の中で出逢ったあの少女は、もっと感情に溢れてはいなかったか。果たして、ここまでに自らの感情を覆い隠していただろうか。違う。あの、破滅した街での、あまりに一方的で絶望的な戦いの中で、蹂躙の中で、かの乙女はこんなに冷たい目をしていただろうか。

 違う。

 夢の中の少女は、その儚げな美貌をを悲哀と苦痛と後悔に歪ませていた。そして、その奥には、誰かを命に代えても守ろうとするような、むしろ望んで自らの命を投げ出すような、自己犠牲的にも思えるほどの、確固たる強い意志が刻み込まれていたのではなかったか。だからこそ、あの夢の中で、あの夜の中で、まどかは心からあの少女を助けたいと思ったのではなかったか。

 

 だが、暁美ほむらは違う。

 "転校生"という周囲の人間をだれも知らない立場にありながら、その簡素すぎる挨拶には、その冷静すぎる口調には、恐ろしいほどまでに、「他人への興味」というものが感じ取られなかった。その挨拶のあとにした小さな会釈ですら、あまりにとってつけたように不自然で、他者に"感情を伝える"という、その行動が果たすべき本来の目的を果たしていなかった。

 もし、あの夢の少女が暁美ほむらであったのだとしたら、たとえまどかがその手を差し伸べたとしても、手痛く拒絶しただろう。それどころか、助けようとさえさせてくれないだろう。

 それほどまでに、暁美ほむらが漂わせる"孤独"のオーラは深かった。彼女の闇色の瞳は、何者をも映していないようにすら見えた。

 あまりにも強く硬い心の殻を持ち、自分だけの時間(せかい)に閉じ籠ってしまうような――。

 

 

 

 

 

 「っ……あ、暁美さん?」

 暁美ほむらは返事をしない。振り向きもしない。早乙女先生が白板上に書きかけていた名前を完成させると、再び何を見るでもなくまっすぐに前へ向き直った。

 「と、というわけで、C組にも新しい仲間が増えました。みんな仲良くしてあげてくださいね……」

 暁美ほむらの簡素に過ぎる自己紹介に困惑を隠せない早乙女先生は、どこかぎこちなくホームルームを纏めた。無表情のまま示された自分の席にバッグを持っていってしまう暁美ほむらに、少しだけバラバラと拍手が起こる。クラスメイトの誰もが戸惑いを隠せずにいるのが手に取るように分かった。まどか自身も大きく戸惑いながらも、周りと同じように拍手をした。ぺちぺちという音が、空しく教室内を駆ける。

 

 

 ――か、変わった娘、なのかな……。

 ――ちょっと、友達になるのは、難しそう……。

 そんな雰囲気がクラス全体に漂い始めた時だった。自分の席についた暁美ほむらが、何故か、真っ直ぐにまどかの方へ振り向いたのだ。長く艶やかな黒髪が、風にたなびく反物のようにふわりと円を描いて宙を舞う。胸の奥まで射通すような鋭く冷たい視線を向けたまま、暁美ほむらは、ただまどかのことをまっすぐに見つめてくる。

 ――えっ?

 まどかはつい、小さく驚きの声を上げてしまった。なぜ彼女は自分を見つめてくるのだろう。もしかすると、あの夢のせいで、教室へ入ってきてから、彼女のことをずっと見つめて続けてしまったからだろうか。それとも、30人近いこのクラスの中で、偶然、何らかの理由で鹿目まどかという一人の少女に興味を抱いたからなのだろうか。だが、暁美ほむらの瞳からは、何も読み取ることはできない。無表情で無感情で――どこか、作り物めいている。今まどかに判断できることといえば、転校生・暁美ほむらがじっと見つめているのは、この教室で初めて出会った、今まで面識のないはずの、なんの取り柄も特徴もない平凡な少女、鹿目まどかであることだけだった。

 視線が、まどかに突き刺さる。

 「ぅぅ……」

 その鋭さに耐えられず、ついにまどかはつい目を逸らせてしまった。

 だが、そんなまどかのことを、暁美ほむらは、ずっと見つめ続けていた。まどかもその視線を感じてしまうがゆえに、顔を上げられない。少しずつ周りの生徒の注目が自分と暁美ほむらに集まってくるのがわかった。それでも、暁美ほむらは視線はぶれることはない。

 

 

 暁美ほむらはただひたすらに、鹿目まどかだけを見つめていた。

 

 

 

 「……えっと、暁美さん?授業はじめるけど、いいかな?」

 しびれを切らした早乙女先生がそう言うまで、暁美ほむらはずっと、鹿目まどかを見つめ続けた。

 表情はぴくりとも動かしていなかったのにも関わらず――まどかは、その瞳の奥で、暗黒が寂しげに揺らめくのを、確かに見たような気がした。

 

 

 

 

 

 「ほぇー、そんなことあったんだ」

 そんな、騒動とも呼べぬような小さな出来事を経て、1時間目の授業が終わった10分の休み時間。まどかの周りにはさやか、仁美といういつものメンバーが集まっていた。休み時間ということで、あかりもF組からやってきている。一応、校則には所属していないクラスへの侵入は禁止という旨の記述があるのだが、既に有名無実と化しているのだった。現に、あかりの他にも数人の他クラスの生徒たちが堂々とC組に居座っていた。

 そんな中、四人組の中心にいるさやかが、女の子同士の雑談にありがちなだらだらとした口調で会話を続ける。

 「そうだよー、あたしもうさ、びっくりしちゃってさー。まどか、あんた転校生の生き別れの妹かなんかじゃないの?」

 「そ、そんなことあるわけないよ……」

 まどかの眉毛がハの字に下がる。口調こそはにかんでいるようだったが、その表情は完全に困りきったものだ。

 「でもなぁ。話を聞いた限りだと、ボクもその転校生とまどかが無関係だとは思えないよー」

 あかりがまどかの机に頬杖をつく。その視線が向かうのは、当然ながら転校生・暁美ほむらの座席である。

 「それにしても、やはり転校生ですわね……。あんなに皆さんに囲まれておりますもの」

 「あれが噂の転校生かぁ……。綺麗な娘だねぇ」

 暁美ほむらの周りには、6、7人の女子が固まって群がっていた。まるで最新鋭のロボットの展示会でも催されているかのように、誰もが好奇心を剥き出しにして彼女の周りに集っているのである。それぞれが口々に「前の学校はどんなところだったの?」「部活には入ってたの?」「かわいいカチューシャだね。どこで売ってるの?」などと話しかけているが、当の暁美ほむらは、一言二言呟いて会釈するだけで会話には加わっていないが、少女立ちはそれだけで満足のようだった。

 「あんだけ質問責めにされて、よくあんなにクールでいられるわよね……。あたしだったらちょっとイラッとしちゃうかも」

 「萎縮しちゃってるようにも見えないもんねぇ。会釈はしてるけど、周りには無関心っぽい」

 さやかとあかりが、口々に勝手な暁美ほむら分析を述べる。

 「暁美さんって、やっぱり不思議な雰囲気の方ですわね……」

 「ホント、訳わかんないよね……」

 まどかはため息をついて、ついに机に突っ伏してしまった。

 「それでいて、まどかには熱い視線を向けるんだもんねぇ」

 「私、暁美さんの考えていることがまるでわかりませんわ……」

 「あたし、ああいうのちょっと苦手……かも」

 「うぇ?ボクは好きだけどなあ。ああいう素っ気ないタイプって、意外と優しいもんだよ?例えばさ――」

 と、そこであかりは言葉に詰まってしまった。

 

 

 

 ――例えば、誰だ?

 ボクは今、誰を例に出そうとした?

 普段は素っ気ないけれど、本当は優しくて、忘れた宿題をよく見せてくれた。確か、クラスの一番前の席に――いや違う。あそこは島田さんの席だ。島田さんは社交性溢れるスポーツ少女で、素っ気ないタイプとは正反対のはずだ。けれど、やはり何かを忘れている気がする。確か、島田ケイさんの席にの隣に……違う、なにを考えているんだ。島田夏美さんだ。"ケイ"などという名前ではない。そもそも、そんな名前の知り合いはいない。あれ、ケイ……?なぜだか、言い慣れた名前であるような気がする。どこかで聞いたような……?どこかで、何度も何度も口にしたような……?

 

 

 

 「うわ……、転校生こっちくるよ……」

 あからさまに苦手意識を隠せていないさやかの呟きに、あかりは我に返った。見ると、暁美ほむらが真っ直ぐこちらを目指してくる。彼女の透き通った瞳が見つめているのは、聞いた通りまどかのみだった。

 「うっ……」

 暁美ほむらは無言の圧力で行く手にいたさやかと仁美を避けさせると、真っ直ぐまどかの正面に立った。

 「ふぇっ、な、なに……?」

 彼女の射るような視線に、まどかは身をすくませる。

 「鹿目まどかさん――確か、貴女がこのクラスの保険委員よね?ごめんなさい、初めてのクラスで少し緊張してしまって、気分が悪くなってしまったの。保健室に連れて行ってもらえるかしら?」

 そう告げる暁美ほむらの話し方ははっきりしたもので、どう見ても気分が悪そうには見えなかった。仮病でも使って授業をサボるつもりなのだろうか。だが、もしそのような意図があるのだとしたら、もう少しは具合悪そうに演技をするものではなかろうか。こんな態度で言われたところで、端から見れば嘘をついているようにしか見えないはずだ。それとも、表情に出ていないだけで、実際に具合が悪いのだろうか。どうにも彼女の意図が解らなかった。

 だが、実際暁美ほむらは保健室に行きたいと言っている。それだけは事実で、揺るぎはしないことだった。感情の消えた絶対零度の視線に射すくめられたまどかには、問いかける勇気すらも出すことはかなわなかった。

 「ぇあっ、うん、わかった。えっと、保健室はこっち……」

 まどかはびくりとして立ち上がると、ぎすぎすとした堅い動作で暁美ほむらに外を指し示した。まどかがおずおずと立ち上がると、エスコートされるように暁美ほむらもその後ろへと並ぶ。

 「なんだ、あいつ……」

 奇妙な転校生を伴って教室を出てゆく親友の背中を見つめながら、さやかが不機嫌そうに呟いた。

 

 

 

 

 

 見滝原中学校の教室は、壁面すべてが透明な特殊樹脂で作られている。常に"見られている"という意識を持ち、「生徒全員が真剣に授業へと参加できるように」という考え方を元に、某有名インテリアデザイナーを招いて設計されたものである。この壁には目隠しが必要なときは一瞬で樹脂が濁るというスマートブレイン・ケミストリーの最新技術も投入されており、外部から来た見学者に向けてスマートブレイン・ホールディングスの技術力を示す、一種のショールームとしての役目をも併せ持っている。なお、各生徒の学習机も、本来は電動式のただの板であり、普段は床面に収納されている。生徒が出席したことが確認されると、飛行機のフラップのように跳ね上がった板が机に変形するというシステムのため、出席しているか否かが一瞬で判別できるのである。見滝原中学校には他にもたくさんの最新技術が投入されており、完璧な学習環境が整っているのだ。

 だが、ここで重要なのは、先述の透明な壁のために、廊下での様子は全て教室から丸見えだという点である。すると、噂の転校生を連れて歩いているまどかは、当然転校生と一緒に注目の的となる。全く気にしていない暁美ほむら本人はよいのだが、まどかはどちらかと言えば人の目が気になるタイプである。

 よって、暁美ほむらを保健室に案内する途中のまどかは、自分の周りに集まる視線のためにどうにもならない居心地の悪さを感じていた。昔から発表をするのは苦手で、いつも萎縮してしまうまどかである。こんなに一度に視線を集められて、落ち着いていられるはずがないのだった。しかも、一緒にいる暁美ほむらは自分に並々ならぬ興味を抱いているようであり、押し黙ったまま背後から突き刺さってくる鋭い視線がそれをさらに助長する。

 ついにこの空気に耐えられなくなったまどかは暁美ほむらへと話しかけてみることにした。

 「あの……さ、暁美さん――」

 「"ほむら"でいいわ」

 正直、まどかにとってその言葉は意外だった。彼女は今まで、いかにも自分自身の世界を構築し、他者を排斥するような雰囲気を纏っていたのだ。そんな彼女が、まさか自分の言葉を遮ってまで、自らのことを名前で呼ぶように言ってくるとは。しかもそれはなかなかに柔らかい口調であったため、ぶっきらぼうな言葉ながらも、不快感は全く感じなかった。

 とはいえ、出鼻をくじかれてしまったのは事実である。そこから会話を進展させることができず、再び2人とも押し黙ってしまう。沈黙が互いの間に影を落としたまま、E組の前を通り過ぎた。

 保健室はC組の教室からはそこそこ遠い位置にある。F組を通り過ぎるまで廊下をずっと歩き、渡り廊下を渡って特別教室棟へ。入ってすぐにある階段を1回まで下りると右手に保健室があるのだが、この渡り廊下がなかなかに長いのだ。大きな窓から差し込む日差しが心地よく、生徒の憩いの場となっており、まどかもここが大好きだった。

だが、今のまどかにとっては居心地の悪いことこの上ない。

 ちょうど、その渡り廊下の中程を通り過ぎたところだった。不意に、背後から聞こえる足音が止まったのである。

 「ほむら、ちゃん――?」

 不思議に思って振り返ったまどかを、真っ直ぐな視線が射貫いた。開け放たれたままの窓から柔らかな風が吹き込み、暁美ほむらの長く艶やかな黒髪をふわりと浮き上がらせる。

 

 

 そして彼女は、口を開いた。

 

 

 

 

 「鹿目まどか――貴女は、自分の人生が、自分の未来が、尊いと思う?

 「家族を、大切にしてる?」

 「――友達は?」

 

 

 

 あまりにも唐突な質問だった。転校生を保健室へ案内しているというこのシチュエーションでは、100パーセント聞かれる可能性などない質問。日常的な学校での友達の会話としてもまず存在し得ない、あまりにもスケールが大きく、現実離れした質問。まるで何かの覚悟を問うような、大袈裟な問いかけだった。普通ならば、冗談として捉える類いの質問だろう。

 だが一方で、暁美ほむらがそんな冗談を言う人間ではないということは、まだ出会って1時間と少ししか過ぎていないまどかにも手に取るように分かることだった。

 

 ――恐らく、暁美ほむらはこの質問に、本気で答えて欲しがっている。

 そして、それを聞くためだけにここに来たのだろうかという考えすら、まどかの脳内に浮かび上がってくるほどに、彼女の表情は真剣そのものだった。

 

 ――解る。

 ――彼女は。

 ――暁美ほむらは、他の誰でもない、鹿目まどかにという一人の少女に、この問いかけに答えて欲しいのだろう。

 

 「えっと、ええっとね……」

 

 だからこそ、真面目に答えよう。

 よく考えてから、ちゃんと答えよう。

 どんな意図で聞いてきたのかは分からないけれど、真摯にこの質問に答えよう。

 そう、思った。

 

 

 「大切――だよ。家族も、友達のみんなも、先生だって――みんなみんな大好きで、とっても大切な人たちだよ」

 「本当?」

 「嘘じゃ、ないよ。嘘なわけ、ないよ。そう、ほむらちゃんだって、そうでしょ?友達が、家族が、みんなのことが、大切でしょ?」

 

 

 

 その刹那、まどかは初めて、暁美ほむらの表情が僅かに変化する瞬間を見たような気がした。だが、それがどんな表情だったのかさえ認識する暇もなく、本当に変化したのか確信を持てる暇すらなく、その表情はまた、元の無表情へと戻ってしまった。そして、彼女は答える。

 

 

 「――そう」

 

 

 ただ、その一言のみを。それは、まどかの質問の回答としては成立しないものだ。つまり、暗黙に、暁美ほむらはまどかの問いかけに答えたくないと言っているということだった。そして、暁美ほむらは、その感情の宿らない冷たい口調のまま、更に言葉を紡ぐ。

 

 

 

 「もし、あなたの言ったことが本当ならば、"今とは違う自分"に――そんなものになろうだなんて、絶対に思わないことね」

 

 

 冷たく言い放つ。

 

 

 

 ――さもなければ、すべてを失うことになる。

 

 

 

 

 

 それが何を意味するのかなど、まどかには解らなかった。解るはずもなかった。"今とは違う自分"――それが何を指すのかさえ、全くといっていいほど解らなかった。

 だから、答えられない。

 なんと返答してよいか、解らない。

 まどかの身体が硬直する。

 

 

 柔らかな春風の吹きすさぶ渡り廊下で、二人の少女は無言のまま、視線を交わし続けた。

 

 

 ――だが。

 暁美ほむらの伝えたいことが何一つとして解らないまどかにも、たった一つだけ、解ることがある。伝わったことがある。

 

 

 暁美ほむらが、鹿目まどかに向かって発した言葉。

 

 

 それは――。

 間違いなく、それは――、

 

 

 

 

 まどかへの、警告だ。

 

 

 

 

 

 

 「ここまででいいわ。案内してくれてありがとう」

 暁美ほむらは、沈黙を断ち切るように口を開く。そして未だに硬直したままのまどかに対してきびすを返すと、広い渡り廊下に靴音を響かせて、保健室の方へ歩き出した。そのまま、真っ直ぐ渡り廊下を歩いてゆく。だが、それでもまどかは中程で立ち止まったままだった。

 両手でスカートの裾を強く握りしめたまま、まどかはずっとそこに立ち尽くしていた。

 

 理由は解らなかったが、その両腕は、微かに震えていた。

 

 

 

 

 

 

 やがて、暁美ほむらが階段の方へ曲がると、もはやまどかの姿は、背後には見えなくなっていた。彼女は何か問いかけたいような様子だではあったが、結局暁美ほむらを引き留めることはなかった。

 

 

 

 暁美ほむらは、何かに耐えるように唇を噛み締めながら、俯いて階段を下りてゆく。誰も見咎めるものはいなかったが、この学校の中で暁美ほむらが初めて明確に表情を歪めた瞬間だった。

 

 向かう先は、保健室。

 そのために階段を中程まで降りた、そのときだった。

 「あっ、転校生だよね?どうしたの、こんな所で?保健室行ったんじゃなかったの?」

 不意に、何者かに声をかけられた。

 「こちらに来たばかりで緊張しすぎて、少し気分が迷ってしまったの。鹿目さんに最後まで案内して貰えばよかったわ。こっちに保健室があるのよね」

 ほむらは先程クラスメイトに囲まれていたときと同じように、彼女にしては愛想良く僅かに微笑みを作って答える。その顔からは、既に先ほどの辛そうなな表情は微塵もなくなっていた。

 

 

 彼女は、再び自らの心を隠す仮面を身につけたのだ。

 

 

 「もしかして、途中で断っちゃったの?まどかなら、ちゃんと頼れば案内してくれたはずだよ?それはボクが保証する」

 「そうね、次からはそうするわ。でも、ここまで歩いただけでも、ずいぶん気分が――」

 愛想笑いを浮かべて答えながら、暁美ほむらは話しかけてきた少女の顔を見る。

 

 

 

 ――そのときのほむらの表情をまどかが見ていたら、飛び上がるほど驚いただろう。

 

 話しかけてきた相手――南あかりの顔を見た瞬間に、彼女の顔に浮かんだのは、本物の驚愕だった。震えた唇が、音を発さずに「どうして」とだけ動く。

 「え?何かあった?」

 呑気に問いかけてくるあかりの両肩をほむらはがっちりと掴み、問いかける。既に、仮面はいとも簡単に砕け散っていた。

 「どうして――何故、あなたがここにいるのっ!?そんな、だって、あなたは、あなたは、既に――ッ!」

 「ひゃぁっ!?」

 一方で、鬼気迫るようなほむらの剣幕ににあかりも驚いて大声を上げる。慌てて両手で肩に置かれたほむらの手をはずすと、  「え、な、何!?ボクなんかした!?」

 「そんな、あなたは……。だって、昨日、私、確かに……確かに……っ」

 じりじりと後ずさりながら、暁美ほむらは誰にも聞こえないような、とても小さな声で呟く。

 

 

 

 ――あなたは昨日、魔女に。

 ――魔女に、殺されたはずなのに……っ!

 

 

 

 

 暁美ほむらは踵を返すと、飛び降りるように階段を降りてゆく。まるで、恐ろしいものから逃げるように。鬼か、怪物か、幽霊か。そんな理解を越えた存在から逃れるように、彼女はあかりの前から逃げ出した。

 「ええっ!?な、何っ!?なんて言ったの!?ねえ、ちょっと、待ってよ!」

 慌ててあかりは声をかけたが、その甲斐もなく、暁美ほむらは走り去ってしまった。

 

 

 

 「うーん、やっぱり変な娘なのかな……噂の転校生」

 頭をぽりぽりと掻きながら、あかりが小さくごちた。

 

 

 

 「だいいち――」

 

 

 

 

 

 

 ――確認しよう。

 先程、ほむらは『殺されたはず』のあかりを見て動揺した。だが、そのあかりに引き離されることで、彼女は僅かに落ち着きを取り戻しつつあった。そして、自分が話している内容の危険性に気がついた。信じてもらえない可能性の方が圧倒的に高いが、一般人の前で"あの世界"の話をするのはまずい。そう思ったほむらは、なんとか最後の呟きを他の誰にも聞こえない音量まで制限した。

 

 

 

 普通の人間なら、誰にも聞こえない音量まで。

 

 

 ぽかんと1人残されたあかりは、そのままだらりと壁により掛かる。ほむらの足音がやがて聞こえなくなる頃、彼女は不思議そうに口を開いた。

 

 

 

 

 

 「だいいち、"魔女に殺された"って、いったいどういう意味なんだろう……?」

 

 

 

 

 

 少女たちはまだ知らない。自らの体に、人知を越えた力が宿っていることを。

 

 未だ、それは噛み合わない。だが、確かに、少女たちを乗せた運命の歯車は、少しずつだが、動き始めたのだ。

 

 

 だが、まだ噛み合わない。

 

 

 

 それを合わせるのは、『繋ぐ力』を持つ、かの少女の役目なのだから。

 

 

 

 

 「危なかったわね。でも、もう大丈夫』

 




いかがでしたでしょうか。
プライベートが非常に多忙であるなか少しずつ修正を進めていっておりましたが、ここで一度一区切りとして投稿ができて、なんだか達成感を感じております次第です。
次回の更新日も、やはり未定とさせていただきます。こんな立場の人間ですので、優先すべきことが山積しているのです。ですが、未完にて終わらせるつもりは毛頭ございませんので、どうか追いかけ続けていただければ幸いです。

それでは、また次回、貴方がこの小説を読んでくださることを願って。


明暗

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