"みんなで起こした、奇跡だよ"――魔法少女まどか☆マギカ×オルフェノク――   作:ありがとうございました。

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第1章:現実と夢想の境界線
第1幕『いっしょに、いこうよ』


 雀がさえずりながら空を飛び、背景の空は雲一つ無いほど清々しい快晴。空は抜けるように青く、街路樹の周りに舞うアゲハチョウの黄が、新緑と鮮やかなコントラストを見せる。

 街と自然が美しく溶け合う街、見滝原(みたきはら)市。その中心部にある一件のマンションのとある一室にも、そんな美しい朝が訪れた。

 昨日の夜寝る前に開けておいた窓から柔らかな風が吹き込み、ふわりとカーテンが揺れた。その隙間から漏れた朝日が、その部屋で眠る1人の少女の頬をなでる。

 灰色ががったベリーショートの髪型と美しくも気の強そうな顔立ちは、彼女に美少女というよりは美少年といった印象を与えている。だが可愛らしい水玉模様のパジャマのチョイスや部屋に並べられたぬいぐるみや少女マンガの類は、間違いなく年頃の女の子のものだ。

 「っ……?」

 まぶたが僅かに震え、その少女――(みなみ)あかりは薄く目をあけた。

 大きなあくびをしながら伸びをする。眠い目をこすりながら、あかりはパジャマに包まれた自分の体を無理矢理ベッドから引きずり出した。

 「んっ、と……」

 まだ視界が薄ぼんやりとしたままの目で、部屋の隅にかかっている時計を見る。

 現在時刻、午前七時。

 彼女の中学の登校時刻、午前八時。

 

 登校時刻まで、あと60分。

 普段、朝の準備にかかる時間、40分。

 学校までは徒歩で20分弱。

 つまり。

 

 「ね、寝すぎたっ!?」

 彼女の意識は、一瞬で完全に覚醒した。

 今からでは友人との待ち合わせには間に合わないこと必至。だが、遅刻だけはするわけにはいかない。

全力で部屋を飛び出しすとトイレの隣にあるの洗面所へ飛び込む。対して広くもない脱衣場を突っ切り、半ばぶつかるように洗面台に立つと、がしりと洗面台のバルブを掴む。蛇口の設定を『シャワー』に設定。顔面に向けて吹き付ける。顔面に冷たい冷水が襲いかかり、汚れと共に最後の眠気の残滓を洗い流してゆく。

 ――よし、洗顔終了っと!

 洗面所を出ながらパジャマを脱いで洗濯機に投げ込み、白いパンツとハーフトップという下着だけの格好で台所へと駆け込む。

 洗濯は基本的に朝にやっているのだが、今日は帰ってから済ませることにする。

 台所には、"寝坊用に"と軽い食べ物を積んである棚がある。そこから八枚切りの食パンとバターを取り、パンをトースターへと挿入。タイマーを一分に設定する。

 それが、タイムアタック開始の合図だ。

 全力で走って寝室へ戻ると、クローゼットから自分の中学校である見滝原中学校の制服を取り出す。白いワイシャツと、黒い下地に白と赤のラインが走ったプリーツスカートだ。素早く上のワイシャツを羽織り、スカートを履く。そこで、スカートを前後逆に履いていることに気がつく。

 あかりはスカートをくるりと回し、ホックを前に持ってくると、しっかりと留める。先ほど制服をクローゼットから取るときに床に落とした、学校指定の真っ赤なリボンを拾って、頭からかぶる。こんな時のために、輪っかにして縛っておいてあったのだ。リボンの両端を引っ張って長さと調節すると、軽く捻って角度を整える。そしてすかさず胸ポケットに手を突っ込み、人工皮革のザラザラとした感触を確認する。生徒手帳もきちんと身に付けてある。

 更に、クローゼットからクリーム色の上着を取り出す。肩にパッドが入っていたり、手首や裾にフリルがあしらわれていたりと、中々に可愛らしいデザインのものだ。当然、見滝原中学校の制服である。厚目の生地が皺だらけになるのも気にせずに頭から被る。身嗜みはこれで完了した。

 壁際に置いてあるスクールバッグをむんずと掴むと、再び台所へと駆ける。学校の準備は前日からきちんと済ませておく癖が効を奏した。

 台所にはトーストの香ばしい香りが漂っている。食パンは既に焼き上がり、しかも猫舌なあかりでもすぐ食べられる程度の温度になるまで冷めているだろう。何度も遅刻寸前になっているうちに見つけた、ぴったりの時間にセットしておいたのだから。あかりがパンをくわえようとすると、ふと隣に置いておいたバターが視界に入った。彼女はバターが塗ってあるトーストの方が好きなのだが、塗って食べている時間はない。名残惜しそうに見つめながらも、諦めて台所を後にした。

 台所からわずか3メートルも離れていない玄関のドアだが、あかりがそこに到着したときには、すでにパンを4分の1程度食べ終わっていた。少し苦しいが、残りを無理矢理口の中へと押し込む。そして靴箱の上に置いてある家の鍵を取り、指定の茶色いローファーを履いて、家から飛び出す。もちろん、鍵をかけるのも忘れずに。

 マンションの廊下を全力で走る。すぐにエレベータホールが見えてきたが、エレベータを待つ時間も勿体ないので、すぐとなりの階段のドアを開けた。素早く階段をかけ降りる。1階に着くとエントランスホールを駆け抜け、入り口の自動ドアから外へ飛び出した。

 ――今何分だろう……間に合うかな……っ!?

 

 

 

 

 

 結論だけ書けば、そこまで急ぐ必要はなかったということになる。

 学校へ全力で走っている途中、通学路にある公園の時計が指していた時刻は、7時10分だったのだ。

 どうやら、あかりは朝の用意を10分で済ませてしまったようである。彼女が住んでいる見滝原中学校の特殊寮――という名のマンション――から中学校までは徒歩20分弱しかかからない。授業開始時感までには、まだまだ余裕がある計算になる。第一、まだ待ち合わせの友人すら来ていない。

 普段は朝の準備に30分くらいかかるものだから、つい焦ってしまった。だがよく考えてみれば、今日は朝の洗濯を省略し、洗顔も簡略化し、更に朝食も素早く済ませたのだ。いつもの半分の時間以下で準備が完了してしまたとしても、何らおかしなところはない。

 とりあえず立ち止まり、乱れた息を整える。落ち着いてくると、仕方なく諦めたバターのことが思い出されてきた。

 「だったら、バター塗っとけばよかったかなあ……」

 あかりは肩を落とす。

 と、そんな彼女の背中に、能天気で明るい声がかけられた。

 「あーかりっ。なーにへこんでんの?」

 振り返ると、あかりの後ろに、同じ見滝原中学校の制服に身を包んだ女の子が立っていた。青――というよりは水色に近い髪をアシメのショートカットにし、顔に人懐こそうないたずらっぽい笑みを浮かべている。

 「あ、さやか!おはよーっ」

 彼女は美樹(みき)さやか。クラスこそ異なるが、あかりの同級生で親友の1人である。少々お調子者で怒りっぽいのが欠点ではあるが、スボーツ万能成績"下位"で、明るく正義感が強く、近くにいると楽しいムードメーカーである。ちなみに現在某少年に絶賛恋愛中である事実も添えておかねばなるまい。

 「いや、あのね……。朝、寝坊したと思って、滅茶苦茶焦って準備したんだ。そのとき、急いでたからトーストにバターを塗るのを諦めたんだんだけど――」

 「はあはあ、だいたい読めましたぞー。おぬし、思いの外早く準備ができちゃって、だったらバター塗っとけばよかったかなあ、って、後悔してんじゃないのかい?」

 「ま、まあ、そんなとこかな」

 「ダメだなぁ、あかりは。ちゃんと時計は見なくちゃ。時間においてかれちゃうぞ?」

 「あれー?昨日のテストで、『時計を見てなかったから配分を間違った、だから解けなかったわけじゃない!』って力説してたのはどの口だっけ?」

 「はっはー。何を隠そう、それはこのさやかちゃんの口だ!」

 ふふん、と胸を張ってみせるさやか。

「いやさやかちゃん、ほんとに聞いてる訳じゃないよ……」

 と、さやかの後ろからあきれたような声がした。優しくて可愛らしいけれど、少し自信なさげなその声の主は、

 「おっ、まどかもおはよっ!さやかがいたからさ、いるだろうなーとは思ってたけどね」

 「ごめんね、挨拶しそびれちゃって。おはよう、あかりちゃん」

 えへへ、とはにかむまどか。頭の両側で縛ってある明るいピンク色の髪がふわりと揺れた。

 鹿目(かなめ)まどか。彼女もまた見滝原中学校の生徒だ。さやかと同じクラスで、彼女と同じくあかりの親友の1人。少々夢見がちで、そのせいで周りとズレることがあるのが玉に瑕だが、心優しく穏やかで、人を和ませる柔らかな雰囲気を持つ可愛い女の子だ。 ちなみに彼女の母親は近所では有名なバリバリのキャリアウーマンである。そのため、鹿目家自体も近所での認知度はそこそこ高い。

 「ホント仲良いよね、まどかとさやかって。なんて言うか、いつも一緒にいる感じ。さやかがいたら絶対まどかがいるし、まどかがいたら絶対さやかがいる、みたいな」

 「そ、そんなに仲良いかな、わたしたち」

 そう言ってまどかが頭をかいていると、脇の下からにゅっ、と二本の手が現れた。その手、すなわちさやかの手はそのまままどかの腰をつかむと、こちょこちょとくすぐり始めた。

 たまらずまどかが笑い始める。

 「ちょっ……やめてよさやかちゃ……あはははは……!」

 「なーに言ってんのよあかり。まどかがあたしの嫁だからに決まってんでしょ!!何度言っても分からない奴はこうしてやる!!」

 「あはははさやかちゃん、やめっ……はははは!」

 爽やかな朝の日差しの中で楽しそうにじゃれあうまどかとさやか。あかりは目を細めて、そんな2人をほほえましそうに眺めていた。

 と、あかりがふと何かに気がついたようにまどかの方を見る。彼女の髪の毛に、なにか違和感を感じたのだ。よく見ると、彼女の髪を縛っている場所から7、8本、毛羽立った糸が解れているのを発見した。

 「ちょっとまどか、なんかリボン切れそうだよ!?」

 「えっ?えっ!?」

 慌ててまどかは頭を触る。確かに、右のお下げを縛っている黒いリボンの真ん中に幾つもの裂け目が入り、今にも切れそうになっていた。

 「ふえっ、お気に入りだったのに……」 まどかはリボンを外すと改めて眺め、がっくりと肩を落とした。

 「そのリボン、いつから使ってたんだっけ?」

 「小学校の二年生。誕生日プレゼントにもらったリボンのセットの最後の一本だったの。あーあ、このリボンともお別れだね……」

 千切れそうなリボンをすりすりと撫でながら、まどかは答える。

 「そんな前からだったんだ……。確かにすごく大事そうにしてたけど」

 あかりは小学六年生の時にとある事故で両親を亡くし、今は奨学金を貰うことで見滝原中学校の寮――と言っても普通のマンションのワンフロアを生徒用に中学校側が借りているだけのもので、今の入居者はあかりの他に三年生が2人だけだ――に住んでいる身である。彼女が見滝原に移ってきたのは中学校に入るときからなので、昔から幼なじみだったまどかとさやかの2人と比べると、2人との付き合いは短い。実際、彼女は2人と知り合ってからまだ半年も経っていなかった。

 だが、心優しいまどかと、明るくて気さくなさやかとはすぐに打ち解けられたため、新学期を迎える頃にはすでに端から見ると3人とも昔からの友達だったように見えるほど親密になっていた。

 「まあまあまどか、そんなに落ち込まなくてもいいじゃん。今日の放課後、一緒に新しいリボン買いにいこ?」

 「うん……そうだね、さやかちゃん」

 さやかはまどかの肩をぽんと叩く。

 「……でも、体育の時間までに何かで髪を縛っとかないと。あかりちゃん、ゴム持ってない?」

 「ごめんね、ボクは小さい頃からずっとショートカットだから買ったことすらないんだ」

 あかりが苦笑いする。

 「じゃあさやかちゃ――」

 「ごめん、あたしも持ってない」

 さやかもまた、申し訳なさそうに手を合わせる。

 不幸なことに、まどかの近くにいる2人は両方ともヘアゴムを持っていなかった。どうしよう、とまどかは頭を抱えてしまった。今日の体育の授業はマラソンなのだ。セミロングだとはいえ、髪は縛らないと邪魔になるのだ。

 誰か持っていないか考えていると、あかりはいつもならこのグループにいるはずの人物がいないことに気がついた。

 「あれ?そういやさ、仁美(ひとみ)はまだかな?仁美ならたぶん持ってるはずだけど」

 志筑(しづき)仁美。ここにはいないが、彼女もまたまどかたち仲良しグループの一員である。緑色でウェーブのかかった髪が特徴で、頭が良く容姿端麗、性格もよい才色兼備を体現したような少女だ。欠点といえば、まどか以上の夢想家で、しかもその妄想が危険な方向へ走りがちだということくらいだろうか。

 特に学習成績の優秀さは群を抜いており、マイペースなあかり、少々アホなさやか、天然なまどかというこの仲良しグループの残り3人が成績を平均程度キープできるのは彼女の存在が大きい。それでもまどか以外の二人はすれすれのコースを辿ってはいるが。

 あかりの問いかけに、仁美と同じクラスのまどかが答える。

 「仁美ちゃん、今日は日直だから早く行くって言ってたよ。でも確かに仁美ちゃんなら持ってそう。学校に着いたら聞いてみようかな」

 「ほんっと、仁美って真面目だよなぁ。日直なんてさぼっちゃえばいいのに」

 「ダメだよさやかちゃん、お仕事はちゃんとしないと」

 「そうだぞさやか、そうしないとまた早乙女(さおとめ)先生から延々と元カレ話を聞かされるぞ」

 「うげっ、それはやだな……」

 早乙女和子(かずこ)先生。まどかとさやか、仁美のクラスの担任教師のことである。わかりやすくておもしろい授業に定評があり、生徒にも人気な先生である。だがどうやら色恋沙汰は散々のようで、新しい男性を見つけてきては数週間付き合って別れる、という生活を延々と続けている。現在はアパレル系企業の男性と付き合っているが、恐らくタイムリミットは近いだろう。

 以前、さやかは一巡目の日直を見事にサボタージュし、早乙女先生に説教を食らったことがある。序盤こそ真面目なお説教だったが、中盤から恋愛方面の愚痴にシフトしていったという。やっと終わったときに思い返してみると恋愛関連の愚痴が総会話時間の実に九割を占めていたらしい。

 「ホント、あのときのことを思い出すと……はぁ」

 ため息をつくさやかである。

 

 「――ってあかりちゃん!さやかちゃん!」 と、まどかが不意に大きな声をあげた。

 「どうしたの、まどか……?」

 「どうしたのじゃないよあかりちゃん!さやかちゃんも!時計時計!」

 「ふぇ?時計――って、ええっ!?」

 さやかが公園の時計を見てオーバーなほど飛び上がる。だが、一般的な学生なら誰でも彼女の気持ちも分からなくもないだろう。なぜならこうやって仲良く話しているうちに、登校時間が僅か数分後まで迫ってきていたのだから。

 「ふえっ!?どうしよう……」

 「どうしようもこうしようもないよ!とにかく急がないと!」

 半ば転ぶようにして走り出すあかり、さやか、そしてまどか。

 今日も、南あかりの毎日はは平和である。

 

 

 

 

 

 

 今日までは。

 

 

 

 

 

 

 私立見滝原中学校は、ちょうど見滝原市の中心に建っている私立の中学校だ。

 市と同じ名前を冠しているが、見滝原市自体5年前に蒼樹市、玄虚村、支棒町、新房町が合併してできた新しい市であり、公立中学校はそれぞれ旧市町村名を冠している。

 この見滝原市初となる私立の中学校は、"進歩し続ける社会に適応し、未来を牽引してゆく人間を育てる"を教育理念に掲げ、同見滝原市に本社を構える複合巨大企業、"スマートブレイン・ホールディングス"が中心となり設立された。そのハイレベルな教育と最新設備の整った教育環境もさながら、スマートブレイン・ホールディングスが設定した"生存遺児奨学制度"により、開校直後にして一躍全国の目を引くこととなった。

 "生存遺児奨学制度"とは大きな事件や事故などで両親を失った子供たちを引き取り、無料で教育し、寮という形で家まで与えるという前代未聞の制度である。 適合条件が厳しい――子供自身も事件や災害に遭遇し、九死に一生を得ていること、など――ため、現在適応されて通っている生徒はたったの5名であるが、その制度は大きく社会で評価された。

 

 火事で身寄りを失った南あかりは、その数少ない生徒の一人であった。

 

 

 

 「お、おはよ……」

 あかりは興奮した犬のように息を切らせて、2年F組の扉をくぐった。

 見滝原中学校2年E組、彼女のクラスである。ちなみに鹿目まどかと美樹さやかは隣の隣のクラス、C組だ。

 「ちょっとあかり、大丈夫?」

 「あ、ケイ、ありが、と……」

 学校までの全力失踪で疲れ果てた彼女の姿を見て、一番前に座っている一人の少女、里見(さとみ)ケイが心配そうに声をかけた。

 ケイはあかりのクラスで一番の仲良しである。緩やかにカーブ描くボブカットという容姿とは裏腹に、真面目で実直なお嬢様系統の生徒であり、立ち位置はむしろ仁美に近い。性格はむしろ真逆であるが。なお、成績は入学から今までぶれることなく学年1位だという。

 あかりは今日の朝の出来事を大まかに伝えると、ケイは大きくため息をついた。

 

 「バカね」

 

 「にべもないっ!?」

 「だってそうじゃない。せっかく早く家を出たのに、立ち話でぎりぎりになるなんて。話なら学校でできるでしょ」

 腕組みをして呆れ顔をする。ケイの欠点は、思考回路が教師陣、しかも厳格な教師と同じだということだ。

 「そういうもんじゃ……」

 「そういうもんよ。ところであかり、あなた何か忘れてない?」

 ビシリと指をあかりに向ける。

 「やだなぁ、昨日の夜きちんとそろえたから忘れ物なんて」

 「homework」

 ケイがなめらかな発音で呟く。彼女はイギリスからの帰国子女である。彼女の実家は隣の日溜市にある大病院だが、小学校時代は教育のために母親の実家であるイギリスのマンチェスターで過ごしていたのだそうだ。

 「あ、今日の分忘れてた……」

 「やっぱり忘れていたのね……ほら」

 ケイがため息をついて何かを差し出す。見間違えるはずもない。今日の宿題のノートである。

 「提出は昼休みよ。それまでにはきちんとやっておきなさいね」

 「へへ、いつも悪いねー」

 はにかみながら、あかりはノートを受けとる。

 「ほんっと。次はちゃんとやってきなさいよ」

 「…………たぶん」

 「次からはやめようかしら」

 「次からはきちんとやってきます」

 「なら、仕方ないわね」

 ケイは色々と愚痴りながらも、結局は優しく世話を焼いてくれることをあかりは知っている。いつも迷惑をかけてばかりなので、いつか恩返しをしてあげたいとも思っていた。

 なお、ケイは自分の発言が矛盾していることに気づいていないようである。次回あかりがきちんと宿題をやってくれば別にケイは自分の宿題を見せる必要はない。

 「ほらほら、チャイムが鳴るわよ」

 「はーい」

 ケイに促されてあかりが席に着くと同時にチャイムが鳴り響き、担任教師が入ってくる。

 朝学習のプリントを無視し、あかりは宿題写しに取りかかった。

 

 

 

 

 

 

 「ねえねえ、明日まどか達のクラスに転校生が来る、ってほんと?」

 午前中の授業を終え、昼休みに校舎の屋上で持ってきたコンビニ弁当をつつきながら、あかりは口を開いた。

 メンバーはあかり、まどか、さやか、仁美。あかりのみクラスが別だが、いつも一緒に昼食をとる仲良し四人組だ。残念ながら、ケイはこのグループの一員ではないのでここにはいない。

 あかりの問いかけに答えたのは、まどかではなくさやかだった。

 「そうそう。まあ、厳密に言えば復学、っていった方が近いのかな?新学期の時点で転校はしてきてたんだけど、心臓の病気で今まで通えてなかったんだって。最近になって調子がよくなって通えるようになったから戻ってくるんだってさ」

 そう言いながら、さやかは卵焼きを口に放りこむ。

 「へぇ、どんな子なのかなあ。ボクとしてはやっぱりカッコイい男の子がいいんだけど」

 隣の隣のクラスながら、あかりは転校生に興味津々だ。普通の転校生ならここまで気にもならないだろうが、事前に名簿に名前があったらしい(中性的な名前で性別までは分からないらしい)のと、その転校生がとても美形だという噂のお陰で、E組まで話題が伝わってきていたのである。

 「どちらにしろ、いい子だとうれしいですわね」

 このお嬢様口調の台詞は仁美のもの。彼女はあかりと比較するとそこまで気にしていない様子だ。明らかに浮いている重箱弁当をお上品に摘まみながら、仁美は微笑む。

 「けれど、出来るならば女の子の方が嬉しいですけれど」

 「なんで?」

 「だって……これ以上手紙をいただくようになっても困りますし」

 「仁美め、自慢か自慢かー?」

 さやかが肘を使って迫りながらはやし立てる。

 仁美は、その上品な佇まいと決して悪くないスタイル、そして何よりもおっとりとした性格から、男子生徒にかなり人気が高いのだ。ラブレターなら3日に1通なんて日常茶飯事。先週は特にすさまじく、月曜日から金曜日までの5日間でなんと6通もの手紙をもらっていた。最近は女子からさえ手紙が来て困っているという。

 「実際頂いてみると困るのですわよ……。どうやってお断りしようかと考えたり。せっかく手紙をくださったのに、傷つけるわけにはいきませんわ」

 持つ者である仁美本人は本気で悩んでいるようだが、持たざる者である他3人には理解し得ぬ悩みである。

 「贅沢な悩みだよね……」

 「えへへへ、そうだね……わたしも一通くらい貰ってみたいな、らぶれたぁ」 あかりとまどかが、羨望の眼差しを仁美へ向ける。まどかに至っては台詞の最期にハートマークが付きそうなくらいにまで顔が蕩けていた。

 別に同姓に興味はないが、あかりからすればまどかもさやかも十分かわいらしく魅力的だと思うのだが。

 ボーイッシュな見た目のあかりは、異性から告白されたことなどはないが同性からならある、という嬉しいのか判断しかねる経験をしたことがある。そのため、前述の仁美の同性告白の件では彼女の経験がかなり生かされた。最近では、もはや開き直って仁美へのアドバンテージにしようかなどと考え始めている。

 なお、一人称が"ボク"である、という点もそれに拍車をかけているのだが、彼女はそれに気づいていない。

 

 「いいなぁ、仁美は……」

 さやかが若干真剣味の混じった声で呟く。どうやら"彼"との関係は全く持って変化していないようだ。

 「ですけれど……ん?」

 仁美が何かに気がついたように振り返る。屋上の入り口で、そこそこ顔の整った男子がこちらを伺っていた。あれはあかりと同じクラスの松岡……だろうか。。よく見ると、ピンク色の便箋を持っている。隠すように持っているところを見るとどうやら、いや間違いなくラブレターであろう。

 「仁美、呼んでるよー?行ってきなよ」

 「あ、はい、行って参りますわ」

 そう言うと仁美は慌てて立ち上がり、屋上の入り口へ向かって駆けていってしまった。困る困るなどと言いながら、すっかり手慣れたものである。松岡は仁美をつれて、まどかたちの見えないところへ連れて行った。

 「あーあ、羨ましいなあ」

 「分からないこともないけどね。なにせ仁美は運動以外は何でもこいの完璧人間だからなぁ」

 「運動なら何でも来いなんだけどなぁ……。あたし」

 「運動に関してはさやかは凄いよね、確かに。100メートル走クラス一位だって?」

 「女子の中では、だけど。男子も入れると3位だし。それに勉強は――うん」

 「わたしはどっちも普通だしなあ……。わたしもさやかちゃんみたいに何か取り柄がほしいよ」

 「ボクもそうだなぁ。特技って言っても特にないし――」

 その時、軽快なメロディがあかりの言葉を遮った。校内放送である。内容は保険委員と福祉委員の召集だった。残念なことに、まどかは保険委員、さやかは福祉委員なので、それぞれ指示された場所に集まらねばならなかった。

 「悪い、あたしたちも……」

 「集まんなきゃ……」

 委員会に所属していないあかりが、頭をぽりぽりと掻く。

 「ま、仕方ないよね。委員会だし。仁美が戻ってきたら伝えとくよ」

 話しているうちに食べ終わった弁当を片づけると、2人はそれぞれの集合場所へ駆けていった。

 結局、昼休み中に仁美は戻らず、委員会の集まりも終了ぎりぎりまでかかったため、話の続きをすることは敵わなかった。

 

 

 

 

 

 

 豪勢なチャイムと共に、本日最後の6時間目の数学の授業が終わりを告げる。それに併せて、あかりも夢の世界から帰ってきた。いつも、というわけではないが、眠くなってしまうものは仕方がないのである。授業中に先生に気づかれず、恥をかかなかったのはよかったが、完全に今日の授業を聞きそびれていた。

 だが彼女は焦らない。あかりには成績優秀な強い味方がいるのだ。里見ケイである彼女に聞けば、愚痴りながらも丁寧に教えてくれるだろう。今日は掃除当番でもないし、後は帰るだけだ。ならば彼女にゆっくり教えて貰っても問題はないだろう。

 そう決めると、早速あかりはケイの机へ歩いてゆく。

 「ねぇ、ケイ。さっきの授業のことなんだけどさ、ボクつい寝ちゃって――?」

 だが、当のケイは未だ自分の机から離れようともせず、ぶつぶつと何事か呟いていた。

 「そんな……何で?おかしい、私は頑張ったのに……頑張った?本当かしら?でも私は……いや……でも……」

 怪訝に思ったあかりがケイの机へと駆け寄る。少し遠慮がちに声をかけた。

 「ケイ……?聞こえてる?ケイ?」

 「でも……それにしても……こんな――?」

 どうしたのだろう。ケイの様子がおかしい。彼女が掴んでいるのは何かのプリントである。それを信じられないような目で見つめ、何事か呟いているのだ。

 「ねぇ、ケイってば!」

 「ひゃっ!?」

 側であかりが大きな声を出すと、やっとケイは顔を上げた。だが、一瞬驚きに染まった表情は、すぐに浮かない表情へと戻ってしまう。

 「ねえ、どうしたの?なにか考え込んでいたみたいだけど」

 「あ、うん、気にしないで」

 ケイは力なく微笑む。更に問いただそうとするあかりを右手で制して、彼女はにっこりと笑った。

 「それで、何?」

 「えっと……」

 ケイの目が問いかけないでほしいと訴えていた。あかりはどうにか訊きたい気持ちを押さえて、遠慮がちに元来言うつもりだった台詞を告げる。

 「あの、さ、ボク、6時間目の数学、まるまる寝ちゃってさ、」

 「教えて、ってこと?はぁ、全く……。いいわよ。今日やったのは等比数列の――」

 その後は、いつも通りのケイだった。いつも通り、途中でふざけるあかりに呆れながらも真摯に教えてくれた。さらに言えば、いつもより丁寧に教えてくれたような気がしなくもなかったが。時々こっそりとケイの顔を覗きこんでも、彼女は小さく微笑をたたえているだけだった。毎度彼女が浮かべている、呆れたような笑顔。

 どこかもの悲しさを感じてしまったのを、あかりは錯覚だと自分に言い聞かせた。

 

 

 「――と、ここまでが今日やった分よ」

 「ありがと。ホント、ありがとね」

 「はぁ……あなた、ホントに悪いと思ってるのかしら」

 ケイ先生の補修(教科:数学)が終わった頃には、教室には2人のほかには誰もいなくなっていた。部活のある生徒はそれぞれの部活に、帰宅部の生徒はもう帰ったのだろう。

 まどかとさやか、仁美にはすでに買い物につき合えないことを話しておいた。早く終わったら行くかも、とは言ってあるが、どこに行くかという肝心な部分を聞き忘れたので合流のしようがない。明日謝らなければならないだろう。

 

 ならば、せっかくケイと一緒にいるのだから、

 「ケイ、駅まで送ってくよ」

 「いいわよ、別に。まだ暗くもないし」

 ケイはさっさと自分の席に戻り、帰りの準備を始めてしまう。あかりはすかさず追いかけ、ケイの背中に抱きついた。

 「ねぇねぇ!一緒に行こうよ!ボクも連れて行ってよ!ねぇねぇ!」

 底抜けに明るく振る舞う。いつも通りのケイを見るために。何も心配しないでいいことを、いつも通りのケイらしい反応を見るために。

 だが、ケイは急にバッグに筆箱を入れようとしていた手を止め、

 

 「まあ、いいわ」

 

 ――そう、呟いた。

 「――え?」

 「いいわ。駅まで一緒に行きましょ」

 

 やはり、今日のケイはどこかがおかしい気がした。いつもだったらあかりの誘いを拒絶し、勝手に帰ってしまうはずなのに。そしてそういうお決まりの展開を期待して、あかりも話しかけていたのに。

 何かが、あったのだ。

 

 「ほら、早く準備して」

 「え、あ、うん」

 

 あかりはそそくさと準備を終わらせ、ケイと一緒に教室を出た。

 前を歩くケイの背中が、あかりにはなぜか少し寂しげに見えていた。

 そんな背中を、あかりは見たことがなかった。

 

 

 

 

 

 見滝原東駅は市の東部にある工業地帯の近くにある。緑が美しい見滝原市だが、この地域だけはよどんだ灰色に沈み、仕事関係の人か、もしくはそれこそ駅へ向かう人しか近づかない。もっとも、数多くの路線が通る見滝原駅と違い余り電車の本数も少ないこちらは、絶対的な利用者数自体が圧倒的に少なくもあるが。

 しかも黄昏時というこの時期は多くの煙突や工場の影が長く延びて道路を覆い、陰気さをさらに強めている。鋭い角のような煙突や身を潜めた蜘蛛のような工場、大蛇のように地を這うパイプたち。それらは皆廃棄され錆に覆い隠され、怪物じみた影を落としていた。

 「……ねぇ」

 あかりの前を歩いているケイが口を開いた。学校を出てから初めての発言だった。

 「……今日のテスト……どうだった……?」

 今日のショートホームルームで返された数学のテストのことだろうか。それ以外には思いつかなかった。

 「赤点だよ赤点。最低点記録更新しちゃったよ!まあ、それでもさやかには勝ったけどね」

 あかりは無理に明るく答えた。自慢げに答えた。それは自慢することではないと、そうたしなめてもらうために。

 

 だが。

 

 「私は……2位……だった……」

 帰ってきたのは暗いことこの上ないケイの声だった。聞いたことがないほど沈んだ、深淵の底から聞こえるような、そんな声。

 分からない。確かに彼女はずっと学年1位だったが、1つ落ちるくらいでなぜそこまで落ち込むのだろう。彼女は真面目な性格だが、決してプライドの高い少女ではない。順位が下がったのならば、「私の努力が足りなかったんだ」といっそう奮起して学習に打ち込みそうな印象を抱いていた。

だが、今のケイはそんな様子は微塵も見せない。むしろプライドがズタズタに切り裂かれたような表情で、なにか重要なものを失ってしまったような表情で、あかりを見つめている。理解が及ばなかった。

しかし、とにかく今はケイを元気づけなければ。そう自分に言い聞かせて、あかりは底抜けに明るく言葉を繋ぐ。

 「ほ、ほら!まどかもダメだったって言ってたし、あの仁美ですら合格ぎりぎりだった、って言ってたし!今回のは難しかったんだよ、きっと!」

 あかりは頭の中でまどかと仁美に謝りながらそう答える。ケイを元気づけるためなのだ。きっと2人も分かってくれるだろう。ついでに心の中で一言、先程さらりと点数を明かしてしまったさやかにも詫びを入れる。

 そしてあかりはケイに駆け寄ると、肩をぽん、と叩いた。

 「大丈夫、ケイなら次はリベンジできるって!」

 

 「……次?」

 

 その言葉に反応して、ケイがゆっくり頭を上げる。輝きの薄れた彼女の目に光を灯さんと、あかりは声をかけ続ける。

 「そうだよ!次、頑張れば――」

 

 「次が、ないのよっ!」

 

 ケイが、声を荒げて振り返った。その両瞳には、夕陽に照らされた大粒のトパーズ色の涙が輝いている。そこに、驚いた表情を浮かべたあかりの顔が映りこんだ。

 「次は……ないのよっ……!」

 ケイの両肩が、小さく震えていた。

 あかりの知らないケイだった。ケイはいつも自信に満ちあふれていて、とても冷静だった。かつてあかりが大きな失敗をしたときも、小声で愚痴を漏らしながらも、落ち着いて対処法を考えてくれた。決して無感情な少女ではなかったが、彼女がここまで感情を爆発させるのを、今まであかりは見たことがなかった。

 「テストで1番以外とっちゃったから……。だから、わたしにはもう、次はないのよ……!」

 「落ち着いて、ケイ。どういうことなの?ボクで良かったら相談に乗るから」

 「う……うん……」

 あかりが両手で彼女の手を取ると、ようやくケイは大きく息を吐いて、落ち着きを取り戻した。

 「誰にも話す気はなかったけど。そうね……あかりだけには話しておこうかしら」

 早くも闇の帳に包まれ始めた空を、ゆっくりと見上げる。

 そして、ケイは呟いた。

 

 ――別に、だからといってどうなるわけでもないし。

 

 

 

 

 

 

 「て、転校!?」

 「そう。転校」

 あかりが上げた大声にも動ずることはなく、ケイは淡々と頷いた。

 今、あかりとケイの二人が話しているのは、工業地帯の中にある小さな廃工場だ。ケイによるとここは彼女の"隠れ家"であるらしい。1人で居たくなったときなどは、帰り道にここへ寄り道し、暫く何もしないで過ごしてから帰ることもあったそうだ。

 「でも、なんで!?」

 「成績が……振るわないからよ」

 唇を噛み締めて、ケイはそう答えた。

 「振るわないだなんて……。ボクはそんなこと思わないけど……」

 納得できない様子で、あかりはそう漏らした。否、ケイの答えを聞いて、そう考えるのはあかりだけではないだろう。勉強については、ケイは成績だけではなく努力でも間違いなく1位であるだろうし、それはもはや彼女の学年では常識と化していた。実際、あかりはケイがテストで1位をとれなかったと聞いて耳を疑った程である。

 「両親が許さないのよ。特にあの母親から見たら、こんな中学なんて低レベルもいいところなの」

 そう言ってケイが口にした大学名は、日本人どころか世界中の誰もが知っているような、海外の某超有名大学だった。その大学を卒業したこと自体が、彼女の母親が世界でも有数の秀才であることを示してしまう、そんなレベルの大学を、である。

 「そんな母から見たら、見滝原中のテストなんて、ダントツ1位を取って当然なのよ」

 ケイの声色に呆れが混ざり始める。それと同時に微かな慟哭も。

 「それで、ね。こんな、低レベルな、ところで、さ、勉強してても何にもならないから、って、独りで海外留学、するように、言われたのよ。行ったこともない、外国に、独りで、よ……?」

 体の震えが、更に大きくなる。

 「でも、私は、見滝原中に、ね、通いたいって、言ったの」

 大きく鼻を啜り上げる。

 「何とか、条件を、守れば、許して、もらえる、ところまで、こじつけた」

 ずっと下を向いていたケイが、パッと顔を上げる。

 「交換、条件は、ずっと、1位に、居続けること。でも、私、私、2位になっちゃった」

 

 そのまま彼女はあかりに抱きつくと、ついに大きな声を上げて泣き始めた。

 「いやだよ……っ。私、ここ……離れたくないよ……」

 「ケイ……」

 あかりは、余りに突然すぎる出来事に困惑していた。急に家の事情を話し出されても訳が分からない。ケイが海外に留学させられてしまうと聞いても、実感が沸いてこない。彼女が理解していたのはごく僅か――ケイはテストでずっと1番を取り続けていなければならなかったこと。それがうまくいかなかったら、ここを離れなければならない約束があったこと。そして今日、その約束を破ってしまったこと。そのために、ここを離れねばならなくなったこと。ケイはそれをとても嫌がっていること。

 

 そして、そんなことを知ったところで、あかりにできることは何もないということだ。

 

 込み上げる無力感に、あかりは唇を噛みしめた。

 そういえば、ケイは"あの後"、見滝原にやってきてから、初めてできた友達だった。当時は誰も知り合いがおらず、また、なかなかうまく地域に馴染めなかった。そんな中で、唯一すぐにできた友達が、イギリス帰りであったために同じく独りぼっちだった、ケイだったのである。性格も正反対で趣味も全く違うのに、なぜここまで仲良くなれたのか。それは、あかりにも分からなかった。しかし、もしかしたら、独りぼっちだったこと自体が、2人を引き寄せたのかもしれない。

 そんなケイが、自分から離れていこうとしている。

 引き離されようとしている。

 

 ――嫌だ。

 

 ――そんなの、絶対に嫌だ。

 

 そう思い、一際強くケイを抱きしめようとしたとき――。

 

 

 

 

 不意に、ケイの体の力が抜けた。

 

 彼女の体は、必死に掴もうとするあかりの腕をすり抜けて、地面に倒れこんだ。どさり、と砂袋を落としたような鈍い音が響く。

 「ケイ!?」

 あかりは慌ててかがみ込むと、ケイを助け起こす。顔から倒れ込んだように見えたが、幸い特に大きな傷は見当たらない。あかりは肩を撫で下ろした。だが、一点、唯一そこだけは強く衝突してしまったのか、ケイの額には、小さな痣ができていた。

 

 何かの王冠のように、歪な紋章のように、邪悪な刻印のように、繊細で、どこか不気味な模様の痣が。

 

 「ケイ!?大丈夫!?」

 目を閉じたままのケイに必死に呼び掛けると、彼女は小さく瞼を震わせて、ゆっくりと目を開いた。

 「あ……かり……?」

 「そう、ボクだよ!南あかり!」

 「……ふふ、ちょっと、くらっときちゃったみたいね……」

 弱々しく微笑む。

 「でも、大丈夫だから……」

 ケイはあかりの手から放れ、ふらつきながらも立ち上がった。そのままあかりに背を向け、廃ビルの階段を上ってゆく。

 「ねえ、どこ行くの!?」

 慌てて彼女を追いかけながら、あかりもまた、階段を上る。

 ケイの背中が、踊るように揺れた。

 ローファーが床を打ち、無機質な音が響く。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 「ねえ、あかり?」

 ケイが奇妙なほど明るい声で話しかけてきた。どこか妖艶で、どこか無邪気な声。それは何気ない言葉であるはずなのに、何故かどろりとあかりの心の中に流れ込んでくる。頭に、心に、直接、言葉が、響く。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 「……私、いいことを思いついたの」

 

 優しく、ねっとりと絡み付くような言葉。砂糖を入れすぎた菓子のような、濃縮した蜂蜜のような、気味の悪い甘さがあかりを包み込んでゆく。あまりの違和感に耳を塞ぐが、ケイの言葉はそれを無視して心の中へ忍び込む。自分の心の中に、どす黒い何かがたまってゆく、そんな感覚。甘くて、黒くて、甘くて、重くて、甘い。

 それが、心地よい。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 「あかり、2人でパパもママも近づけない場所に行けばいいのよ。行ってしまえばいいのよ。もっと幸せな場所へ」

 

 恐い。怖い。何かがおかしい。ケイの言動はあまりにも不自然だ。優しく話しかけるような口調が、胸の中の障壁を無視して直接心に響いてくる。恐い。おかしい。恐い。怖くて、恐くて、怖いから、もっと、ずっと、聞いていたい。彼女の言葉を、聞いていたい。

 "幸せな場所"と言う言葉が、脳裏にこびりついて離れない。今の生活は、幸せなはず。もう、今は、辛くなんて、ない。独りぼっちに、震えていたのは、ずっと、昔。今は、幸せ。あかりは、そう自分に言い聞かせる。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 「さっきね、ちょうどいい場所を見つけたのよ?」

 

 

 戻った方が、いい。引き返した方が、いい。理性がそう告げるも、魅入られたように足の動きが止まらない。決断できない。こんなに恐いのに、前に進みたい。上に上りたい。ついていきたい。離れたくない。一緒にいたい。

 ケイと一緒にいたい。

 ケイと離れたくない。

 ケイについていきたい。

 

 

 ――"ちょうどいい、場所"?そんな場所が、あるの?この世界より、素敵な場所?

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 「美しい薔薇の園なのよ。口ひげの庭師さんが教えてくれたの。血のように赤い薔薇が咲き乱れて、鞭のような蔓があちこちを這っているの。ちくりと生えた棘が、私たちを薔薇と同じように、真っ赤に染めてくれるのよ……?」

 

 進みたい。

 上りたい。

 行きたい。

 見てみたい。

 美しい、薔薇園?

 いったい、どんなところなんだろう。

 

 

 

 少なくとも

 こんな世界よりは

 美しいよね?

 

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 もちろんよ……?

 どんな世界よりも美しい場所へ、私は行くの。

 あかりも、一緒に行きましょうよ。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 行きたい。

 

 

 コツ、コツ。

 

 

 いきたい。

 

 

 骨、骨。

 

 

 逝きたい。

 

 

 屋上の扉が、開く。美しい夕焼けが、薔薇のように赤い夕焼けが、血のように赤い夕焼けが、屋上を、照らす。

 

 赤い夕陽が、呼んでいる。

 

 

 ケイのことを。

 そして、あかりのことを呼んでいる。

 

 

 ――ねえケイ、あっちにあるの……?あっちに、薔薇園があるの?

 

 

 ――そうよ。このまま、まっすぐ。

 

 

 ――まっすぐ?

 

 

 ――そう、まっすぐよ。そのままフェンスを越えて、

 

 

 

 ――ここから、飛び降りればいいのよ。

 

 

 

 ――その先に、美しい世界が、待っているの。

 

 

 

 ――ねえ、ボクも行きたいな。

 

 

 

 ――こんな、世界からは、さよならして。

 

 

 

 ――こんな……世界、だなんて。

 

 

 

 ――だから……。

 

 

 

 ――ボクも、ついて行って、いい?

 

 

 

 ――もちろんよ。大歓迎。

 

 

 

 ――ありがと、ケイ。

 

 

 

 ――じゃあ。

 

 

 

 あかりは微笑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――いっしょに、逝こうよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 

 

 ボクなんて、大嫌いだ。

 

 

 

 

 

 

 ――あれ?

 

 見滝原市の工業地帯にある、とある廃ビルの入口で、南あかりは目を覚ました。

 

 ――星?月?

 

 ――夜、だ。

 

 ――なんで、ボクはこんなところで寝ているんだろう。

 

 ――服は……制服だ。大丈夫、バッグもある。

 

 あかりは慌ててバッグを拾うと、中から自分の携帯を取り出す。それはスマートブレイン・ネットワーク製の最新機種。あかりがその機種を選ぶきっかけとなったのは、デザインと強度。あかりは結構ものの扱いが雑なため、先代の携帯を傷だらけにしてしまった経験がある。だからこそ、3階から落としても傷1つつかないというこの携帯を選んだのだ。

 だが。

 なぜか、携帯の画面の裏側に、まるで何かにぶつかったようなヒビが大きく走っていた。不思議に思いながらも、あかりは二つ折り式の携帯を開く。幸い、ディスプレイは何ともなかった。

 

 そのディスプレイに表示された時刻を見て、愕然とする。

 「あっ、もう7時だ!急いで帰らないと洗濯が……って、あれ?」

 あかりが眉を潜める。

 ディスプレイに表示された待ち受け画面には、時刻のほかに『不在着信』が表示されていた。

 「誰からだろう……?」

 携帯を操作して、着信履歴を表示する。1番上に表示されている名前は、

 「里見……ケイ……」

 

 

 

 

 

 

 「誰……だっけ?」

 

 

 

 

 

 

 あかりは首を傾げる。

 「あっ、そんなことしてる暇ない!お洗濯しなきゃいけないし、ご飯も!」

 "そんなことよりも重要なこと"に気がつくと、慌ててあかりは廃ビルから駆け出す。幸い、しばらく走っていると知っている道に出ることができた。ここから家までは、30分といったところだろうか。バスにでも乗りたい気分だが、生憎奨学金は生活費に殆どが消えてしまっている。残りは趣味に使いたい。

 「そういえば夕食の材料あるかな?スーパー、寄っていこうかな?」

 まるで寄り道をして遅くなってしまったかのように、あかりは笑顔で夜の街を駆けてゆく。

 

 

 

 一瞬、自らの瞳に、鈍い銀色の光が宿ったのにも気づかずに。

 彼女の袖口から、微かに灰が零れたことにも気づかずに。

 

 

 

 

 南あかりは走ってゆく。

 

 日もすっかり落ちた夜の工場地帯。

 

 あかりを照らす光は、何もない。

 

 

 

 

 

 「まさか……この時間軸に戻って来て始めて見る景色が、魔女の"殺し"だなんて」

 あかりが倒れていた廃ビルに隣接する、煙突の先。

 1人の少女が、そう溢した。

 「幸先悪いわね。本当に」

 背中まで伸び、途中で2つに分かれるその髪は、夜の闇に溶けてしまいそうなくらいに黒く、黒く。

 まるで制服を少女趣味にアレンジしたようなデザインの服もまた、黒が豊富に用いられている。

 「あの魔女は倒してもよいでしょうけれど、この時間軸になれるまでは迂闊な戦闘は避けた方が良さそうね」

 左腕に巻いてあるのは、砂時計の意匠が描かれた、円形で銀色の(バックラー)

 少女は、もう片方の腕で愛しそうににそれを撫でる。

 バックラーを撫でている、その手の甲で、何かが輝いた。

 それは月の光を反射する、美しい紫色の宝珠。

 「いいわ。いいのよ。別に」

 彼女は今も廃ビルに転がっているであろう"2人の"少女の顔を思い出し、唇を噛みしめる。

 「いいの。別に」

 自分に言い聞かせるように、何度もつぶやく。

 「私は、あの子を」

 少女は凛と顔を上げる。月光に照らされたのは、美しさを持ちながらまだあどけなさが残る顔。その表情は、悲壮感と強い決意という仮面によって強く固められていた。

 少女の靴が煙突の先を蹴る。たったそれだけで、まるで魔法を使ったように彼女の体は数メートルも飛び上がった。

 「あの子を救うためになら、すべてを犠牲にするって決めたから」

 

 漆黒の闇を跳ぶのは、

 

 ある"決意"に心を閉ざした少女。

 

 幾度失敗しようとも繰り返し、繰り返し。

 

 幾度も同じ場所に立ってきた、

 

 "魔法"の力を宿す"少女"。

 

 

 

 

 『魔法少女』、暁美ほむら。

 

 

 

 

 

 

 

 交わした約束は、忘れない。

 どんな闇をも、振り払って見せる。

 だが、振り返れども仲間はおらず。

 優しく包んでくれるのは、孤独に凍った心だけ。

 無くした未来は未だ微塵も見ることはできず。

 溢れ出す不安の影を、裂いた数はいざ知らず。

 何もかもが歪んだ世界で、信じられるのは自分だけ。

 

 

 

 ――それでも、少女は歩みを止めなかった。

 

 

 

 噛み合うはずのない歯車が噛み合い、

 物語は僅かに歪みを見せ始める。

 塵が積もれば山となるように、その歪みは少しずつ、少女の定めを変えてゆく。

 

 

 至る結末は、如何なるものか。

 

 

 この闇を照らすのは、

 蛍のようにか弱い、明かりだけ。




これで今回の更新分は最後となります。

第1話はまどか☆マギカ本編第1話の前日に起こった出来事として描いております。
原作を知っている方ならば分かるだろうネタなども挟んでみましたが、いかがでしたでしょうか。

次回の更新日は未定ですが、余りお待たせしないよう努力しますので、どうか見捨てないでいただければと思います。

それでは、また次回、貴方がこの小説を読んでくださることを願って。


明暗

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