どうやら私は、愉悦部員には向かないようです。
何故、どうして――
天子の心は、そんな無意味な言葉で埋め尽くされていた。
訳が解らない。
意味が解らない。
一体何をされたのか。自分の身に起こった理不尽を、何一つ把握出来ない。
「かっ、ぐ、ぎ……っ」
痛い、痛い、痛い。
久しく忘れていた「痛み」という感覚が、意識が飛びかねないほど強烈に全身を蹂躙している。
病気を知らぬはずの天人が、なす
仙果の実を食し続ける事で獲得した、鋼鉄すら超える堅牢な肉体から鼻血が止まらない。
私は、挑まれる立場だったはずだ。断じて、挑む立場ではなかった。
今までもずっと、これからもずっと。
地上から健気に攻め来る者共と戯れ、折を見て敗北を演出してやる。
それだけで終わる、ただの遊戯だったはずじゃないか。
ならば何故、私はこうして無様に地面へ這いつくばっている。
「立たないの?」
二つの瞳が、傍に控える人形たちと共に天子を見下ろす。
ガラス玉でも詰め込んだような、温度も意思も感じられない冷たい眼球。
蜂蜜を溶かしたような金髪を風になびかせ、地上の人形遣いは最強を自負していた世間知らずの少女へと現実を突き付ける。
「早く私を止めないと、本当に天界が滅ぶかもしれないわよ」
人形遣いの右手で、小瓶が揺れる。
小瓶の中身は、銀の砂粒。天人にさえ通用した、おぞましい魔女の毒薬。
「あ……ぁ……が……っ」
やめろっ。
これは、私とお前の戦いだ。
倒すのは、私だけで良いはずだ。
何故、無関係な天人を巻き込む。
「貴女が始めた戦争よ。
「――っ」
何故も何もない。地上に災厄の種を撃ち込んだのは天子であり、人形遣いは正当な権利としてその仕返しを行うだけだ。
やられたから、やり返す。単純な理屈であり、そこに異論を挟む余地はない。
相手の首筋に刃を突き付けておいて、今更本気ではなかったと誤魔化したところで、一体誰が信じるというのか。
その恐ろしい宣言に、地を這う少女の顔が恐怖に染まる。
まともに言葉すら発する事が出来ず、天子はただ喉から音を絞り出しながら小瓶へと届かぬ手を伸ばす。
救いを求める愚者を
「喜べ少女。君の望みは、ようやく叶う」
まるで、天界が滅びの間際に晒されたこの状況を、天子自身が願っていたかのように。
違うっ。
私は、そんなつもりで異変を始めた訳じゃない。
殺すつもりなんてなかったのに、ただの遊びだったはずなのに。
何故、どうして――こんな事になってしまったの。
刺激を求めていた事は認めよう。
昨日とは違う今日を願っていた事も認めよう。
だが、こんな絶望を望んではいなかった。
失った時は戻らない。起こした事実はくつがえらない。
何を恨むのもお門違い。
少女の罪が、金髪の人形という罰の形を持って眼前へと晒されている。
「命を懸けなさい。或いは、この身に届くかもしれないわよ」
指一本動かす事すら困難な今の天子では、戦いと呼べる動きすら難しい。
それでもなお、涙と鼻血を垂れ流す哀れな天人へと人形遣いは無情に告げる。
安寧に浸る事のみが許された惰性と苦痛の日々とは違う、魂を燃やさねば即座に死が待つたった二人の戦場。
そんな、ただ相手を殺戮する事のみを突き詰めた本物の殺し合いの場に居ながら、それでも天子は今、間違いなく天人へと至って初めて己の「生」を心から実感していた。
◇
博麗神社の倒壊は、瞬く間に幻想郷の全土へと伝わっていた。
幻想郷にとって必要な施設だったという点もあるだろうが、何よりそこに住む霊夢の助けになろうと各所から大勢の者たちが集うのにさして時間は必要なかった。
「神社の瓦礫は、出来れば石材や木材みたいに素材ごとに分けながら撤去して。大結界に関係のありそうな物品が出て来た場合は、最優先で霊夢へ持って行ってちょうだい」
「「はいよー」」
大量の小鬼に分裂した萃香たちへと、的確に指示を出す鈴仙。
月人であり、地上の者を見下す傾向にある彼女は、萃香に敬語やへりくだった態度を用いる事をしない。
勿論、萃香が持つ意味不明なまでの実力を理解していない訳ではない。
鈴仙がかしこまった態度を取る際の基準は、その者が要人であるか否かだ。
その点で言えば、山の四天王を辞した今の萃香は地位という点だけで見ると、なんの要職でもない一般市民と変わらない。
よって、鈴仙は当然のように萃香を「異常な実力を持つ一般市民」として扱っているのだ。
「はむ、はむ。粗方は片付いて来たな。まぁ、これだけ人数がいりゃあ当然か」
仮設置された休憩所で、魔理沙が神社の跡地を見ながらおにぎりを噛み締める。撤去作業の休憩に合わせた、遅めの朝食だ。
食材の提供は、神社の食糧難を見込んで自宅や近所から持って来た早苗と妖夢だ。
今は
神社への来訪者のほとんどは、食事の必要のない妖怪や人外ばかりである。
だが、早苗に言わせればそんな事は関係なく、「炊き出しを行う」という行為そのものに意味があるのだそうだ。
曰く、「喪失の最中にある霊夢さんに、暖かな食事と私たちが傍にあるという事を強く示さねばなりません」との事らしい。
「ほんと、今代の巫女は変人と強者に好かれ易いのが幸いしたねぇ。誰も寄せ付けないような偏屈な気質だったら、片付けはもっと苦労しただろうよ」
「おい、死神。サボるにしても場所考えろよ」
魔理沙と同じ皿のおにぎりを摘まんでいるのは、張りぼての鎌を隣に置く三途の川の船頭、小野塚小町。
職務怠慢である事で有名な死神がこの場に居る理由は、問うまでもないだろう。
だが、作業を手伝うでもなく休憩所でタダ飯を食うだけの女に、文句を言うくらいは許されるはずだ。
「たはは、手厳しいね。でも、悪いがこっちも地上で待機を言い渡されてる身だ。「疲れて仕事が出来ませんでした」なんて言い訳を、四季様にしたくないんだよ」
「あ? 神社の倒壊は、あの世の連中が絡んでるのか?」
「違う違う。だから、そんな目でこっちを見なさんな」
どんな事情や都合があったとしても、大事な友人の自宅を破壊したのであれば、容赦はしない。
そんな魔理沙からの剣呑な視線を、小町は箸休めに緑茶をすすりながら受け流す。
「気付いてるかい? 今朝方から、幻想郷全体の気質が揺らいでる事に」
「気質ってのは良く解らんが、普段と違う魔力の流れをしてるってのはなんとなく肌で感じてる」
「おっと、流石は人間。彼岸での騒動の時は、暴れるだけで満足してたのに。成長したねぇ」
「うるさい。余計なお世話だぜ」
悠久の時の中を無限に生きる者と、限られた時の中を閃光の如く駆け抜ける者。
両者の違いを垣間見た死神の笑みに、人間の魔法使いはばつが悪そうに帽子のつばを下げる。
「気質は即ち幽霊さ。もうしばらく異変が続けば各々に合った特定の気質が集中して、そいつの周りの天気が勝手に変化するようになるだろうさ」
「へぇ」
「簡単に言えば、死後の姿が判るって事だい。お前さんの気質は霧雨だね」
「名前と一緒だな」
「霧雨は薄く、暗く、目立たないが、優しさを持ってる」
「へぁ? あ、て、照れるな」
「決して主役にはなり得ない幽霊になるだろう。成仏も転生も出来ず、ただひたすら彼岸で裁かれるのを待ち続ける幽霊に」
「……他の奴は?」
自分自身ほど、自分の事は解らないものだ。
小町の言葉の成否を判断する為に、魔理沙はこの場に集う別の者を指定してみる。
「博麗の巫女は快晴。有害な日光も地上の生気も全て素通り。昼は暑く、夜は冷える。曲がった事をしないが、融通も利かないし、無慈悲で優しさの欠片もない。まっすぐにしか生きられないあの娘と、ほどほど以上に付き合うのは相当に骨だろうよ。頑張りな」
「死神も認める堅物か、流石だな。次だ」
「紅魔館の女中は曇天。華やかさも豊かさも無いが、有害な光を避ける根っから器用な気質だ。それが仇にもなり易いから、あんまり頼り過ぎないようにね」
「アイツに頼った事なんて、一度もないぜ。次」
「白玉楼の半人前は蒼天。活動の象徴にして空虚。心にぽっかりと穴の空いた幽霊になるかもねぇ。自分に対して虚無感を抱いてるせいで他人との距離を掴むのが苦手だろうから、変な道に間違って進まないよう気に掛けてあげると良い」
「……他人の生き様なんて知るかよ。次」
「永遠亭の兵隊さんは風。世渡りが上手ではあるが、反面心の病にも冒され易い。とはいえ、雲や雨の気配はないからある程度迷いは晴れてるってところかな。本心を晒す事が恥だなんて思ってるだろうから、仲良くしたいんなら正面からぶち当たっていくのが一番の近道だろうね」
「さっきからなんなんだよ!? お前は私のかあちゃんか!」
気質の評価の最後に付け加えられる余計な一言に、ついに魔理沙は顔を真っ赤にしながら立ち上がり怒鳴り散らす。
これではまるで、皆と仲良くしたくて助言を頼んだように聞こえてしまうではないか。
「どれだけ捻くれ者の振りをしても、あんたの気質は「霧雨」だよ。本命は、あの人形遣いなんだろ?」
「っ!?」
図星である。
小町の能力は、「距離を操る程度の能力」。
物理的な距離も、心の距離も、彼女の前では意味をなさない。
魔理沙が幾ら嘘や誤魔化しで距離を離そうとしても、小町は本質を違える事なく正確に読み取ってしまうのだ。
「あの娘の気質は、雹だ。雹は、空へと舞い上がった水たちが自らの重さを支えられなくなり、氷塊として落ちて来る天気――」
他の娘への評価とは違い、僅かに語るべきかを逡巡した小町は、それでも瞳を閉じてアリスの気質の本質を告げる。
「即ち、高みを目指し続けるが故に頂に留まる事が出来ず、地へと落とされ砕ける事が定められた愚者の気質」
「小町?」
「その一瞬がどんなに尊く見えたとしても、気質の近いお前さんは特にあの娘に「気」を付けた方が良い。下手に流されると、一緒に心中するはめになるよ」
それは、死神の本心から告げられた本気の警告だった。
小町の忠告をしばらく自分の頭で吟味した後、魔理沙は再びどすんと小町の隣に座り直す。
「私は、私のやりたいようにやるだけさ」
「そうかい」
「そうだよ」
「……そうかい」
小町は、それ以上同じ話題を続けようとはしなかった。
忠告は忠告。聞き入れるも無視するも相手次第であり、死神の少女もそれ以上踏み込むつもりはない。
自分を曲げない。口にするは易く、成し遂げるのはなんと難しい事か。
「異変に関わるつもりかい?」
「今度はなんだよ。当たり前じゃないか」
「だったら、急いだ方が良い。そろそろ博麗の巫女も動き出すだろうし、何より、もう時間がない」
「は? どういう意味だ?」
小町が見据えるのは、妖怪の山の上空。
「もう、とっくの昔に大将戦は始まってるって話だよ」
山に掛かる雲の色は、普段と変わらぬ白色からほとんどが緋色へと変わり果てていた。しかも、雲の勢いは周囲へ向けて徐々に広がりを始めている。
小町にとって、音や光の距離さえ意味はない。世界を隔てでもしない限り、この死神の知覚は届き得るのだ。
なんの事はない。閻魔からの密命を受けた従順なる部下は、この場に居ながら言い渡された仕事をしっかりとこなしていた。
九尾の狐が、船頭の死神が、図書館の魔女が。それぞれの思惑を胸に、一つの勝負を観測している。
被害の規模は建物一つ、郷全土での派手な変化も未だ遠い。
それでも、死神の読み通りであれば異変と呼ばれる騒動の幕が引かれる時間は、もう幾ばくも残されていないらしかった。
◇
紅魔館の図書館にて、不良天人が間違いなく今回の異変の首謀者である事が断定された。
友人の魔女と友人になった天の遣いにお礼を言い、現在私は妖怪の山の遥か上空へ向けて「
空に結界の裂け目があるとはいえ、完全に別世界の冥界とは違う。天界は、同じ幻想郷の天空に座す浮島だ。
知識としては知っていても、実際に天界へ足を踏み入れるのは初めてな私である。
不思議パワーで空に浮かぶ島とか、ファンタジー好き垂涎の観光名所ですやん。今からワクワクが止まらねぇ!
なんてね。今回は事情が事情だから、観光を楽しむ余裕なんてないんだよなぁ。
テラ悲しす。
霊夢は大丈夫だろうか。
不意に、そんな思いが浮かんで来る。
片付けを途中で抜け出す形になってしまったが、魔理沙に続き咲夜、レミリア、慧音に萃香と、私が離れる前でもすでに十分な面子は揃っていた。
だが、霊夢の呟きを聞いてしまった私は、それでも、と思ってしまうのだ。
こんな下らない事など止めて、あの娘の傍に居てあげた方が良いのではないか。
私の行為に、意味などないのではないか。
ただ、「アリス」となって初めて衝動のままに動けた自分に、酔っているだけなのではないか。
それでも、私は霊夢に約束したのだ。怒りを飲み込んだあの娘の代わりに、私が首謀者へ罰を下すと。
今更もやもやと悩みながら白亜の雲海を抜けた先で、最初に私の目に飛び込んで来たのは巨大な岩肌だった。
これほど不思議な光景は、早々あるまい。
石でもない、岩でもない。なんの誇張もなく、「島」が空へと浮遊している。
何処までも蒼い空間に浮かぶ、壮大で雄大な浮き島たち。
幻想の意味を、その価値を、その身一つで体現した空の大地。
何時か時間を作って、この景色を描きたい。
小波で止まる私の心でさえそう思えてしまうほどの、見る者を魅了する景色がそこにはあった。
岩の断崖を垂直に昇りきり、島の地表部分に着地する。
沢山の浮島の中でひと際高度の低いその島に、探し人は居た。
「随分早かったわね、あんたが一番手?」
陽炎の剣を地面に突き立て、挑発的な笑みを私に向ける天の一族。比那名居天子。
「博麗神社を攻撃したのは、貴女ね」
「えぇ、間違いないわ。私こそが、この変事の発端にして元凶よ」
暴君という点ではレミリアと伍するふんぞり具合で、偉そうに自分の所業を認める天子。
「それじゃあ、私が貴方を倒せば地震は収まるのね」
「どうかしらね。そこまでは私は保証出来ない」
「止まらないの?」
「私は、地上の生き物の気質を緋色の雲に変え、天気を変えようとしているわ。その緋色の雲が、地震を引き起こす」
知っている。だから、もうここに来る前に手は打ってある。
天子の反応を見るに、もう自分の策が崩されている事には気付いていないらしい。これは嬉しい情報だ。
私が頼ったのは、月の薬師にして宇宙最高の術師。八意永琳。
地上全てが巻き込まれる災害の予兆を、彼女が把握していないはずがない。
博麗神社にやって来た咲夜に伝言を頼み、いの一番に永遠亭へ情報を伝えて助力を乞うようお願いしてある。
月姫に迫る危険に対処するのだ。幾ら実力があっても術者としては劣るだろう天子を欺きつつ、神社に撃ち込まれた
「その地震に気付いた者が私のもとまで来てくれれば、それで良いの。手始めに神社に地震を起こしてみたわ。それで巫女が来るかと思ったけれど……まぁ、誰でも良いわね。暇つぶしにはなるし」
嬉々として語る天人の言葉を右から左へと聞き流しながら、私は体内の魔力を練り上げ戦闘の準備を開始する。
後顧の憂いはない。
話し合いで終えようとも思わない。
その上で、相手はあの紫でさえも警戒する最強の天人。
「この後、何処にどういう地震が起きるか判らないけど、そんなのどうでも良いわ。ここは宙に浮いているんだから」
「貴女は、自分の行動でどれだけ地上の者たちが苦しむか、想像しなかったの?」
「良いじゃない、貴女たちばかりずるいわ。私だって、人間や妖怪達と遊びたいの」
「退治されたいから騒動を起こすなんて、とんだお子様ね」
「そうよ、される為に私は準備したんだから。さあ、有頂天の境地で全ての魔法をさらけ出せ!」
この娘は、単に飢えているだけだ。
他人との繋がり、親からの愛情。そんな、大多数の者にとっては当たり前の日常を欲している幼子に過ぎない。
だが、彼女は許されない事をした。決して許してはならない罪を、彼女は犯した。
ならば、私も容赦はしない。手段を選ぶつもりもない。
スペルカード・ルールも、幻想郷の掟も、今この時のみ全てを忘れる。
ルール違反への罰は、終わった後で幾らでも受けよう。そこまでしてでも、私はこの娘に勝ちたいのだから。
「来なさい」
転送魔法で天の大地へと呼び込むのは、外見の異なる四つの人形。
長い顎鬚を持ち、先が長い帽子を被った男性の老人。パンタローネ。
帽子と手に持ったリュート、左目から右目に移された二つの瞳が特徴の楽師。アルレッキーノ。
仮面とターバンを付けた、紅一点の踊り子。コロンビーヌ
大きく黒い長つば帽子を被った、中年の男性。ドットーレ。
魔法の糸を繋げ、一斉に動かす。
「へぇ、お遊戯会にしちゃあ上等ね」
緋想の剣を引き抜き、しかし、構える事なく人形たちの打撃を受け入れる天子。
天人は、天界にある仙果の実を食し続ける事で鋼鉄に勝る肉体を得る。生半可な攻撃など、回避する必要すらないのだ。
それが、致命的な失敗だとも知らずに。
四体の人形が、ほぼ同時に天子の顔面を殴り飛ばす。
私にとって、人形は刃にして杖だ。天子へ触れた人形を介し、私はとある呪文を発動させる。
仕込みは終わった。これでもう、私の勝利はほぼ確定したと言って良い。
「ちょっとぉ、やる気あるの? こんなへなちょこパンチ食らっでも゛……え゛?」
吹き飛び、止まり、私を挑発しようとした天子の言葉は、最後まで続かなかった。
無敵のはずの肉体から、鋼であるはずの身体から、大量の血が流れている。
「あ……ぇ゛……?」
地に落ちる自分の鼻血を眺め、天子は理解が及ばないのかしばらく隙だらけで放心していた。
そして、
「あ……が……ぎひ……っ」
剣から手を放し、喉を押さえ、驚愕に染まる顔を青ざめさせ、天人が悶え苦しむ。
「ぜひっ……ぜひっ……ぜひっ……」
独特の呼吸音が、空へと溶ける。
「ルールを説明するわ、比那名居天子」
未だ混乱の極みにある天子へと、私は構わず説明を開始する。
知ってどうなるものでもない。知られて困る事もない。
「今、貴女が発症した病気の名前は、「他者の副交感神経系優位状態認識における生理機能影響症」――通称は、ゾナハ病」
会話の最中にこっそり使った空の小瓶と、スカートの裏地に仕込んだもう一つの小瓶を取り出し、銀色の粉――正確には、粉よりも小さな超微細虫型人形アポリオンの群れを見せつける。
天子の体内に侵入し、恐ろしい
「それは、他者を笑わせないと死んでしまう病気なの」
「ぞんな゛……ぜひっ……ふざげだ病気なんで……っ」
「信じる信じないは貴女の自由。言ったでしょう? 「ルールを説明する」って」
私の呼び出した人形たちが登場する物語にて、猛威を振るった架空の
鈴蘭畑の毒人形。「毒を操る程度の能力」を持つメディスン・メランコリーへ私自ら知識を与え、そして生み出された最悪の毒が天人を蝕む。
発作を起こすと、激しい呼吸困難と痛みを感じるこの症状を緩和する手段は、たったの一つ。
それは、他者を笑わせる事。
結末の見えた、単純な出来レースだ。
この場に居るのは、私と天子の二人のみ。つまり、天子が笑わせる相手は、笑う事の出来ない私以外に存在しない。
笑わない人形を笑わせようと奮闘した彼の物語の人形たちと同じ行為を、私は天子へと求めているのだ。
「私が笑えば、貴女の勝ちよ。次の発作が始まる前に、私の首を刎ねるくらいは余裕でしょうから。そして、私が笑わなければ――天人に通用したこの毒をどうするか、解るわね?」
「……っ!」
最早、言葉にもならないのだろう。
呼吸困難の苦しみから流れる涙をそのままに、限界まで見開らかれた天子の両目が私を映す。
勿論、割と嘘である。
通常、天人に毒は通用しないし、硬過ぎて怪我もしない。
それでも天子が鼻血を流しながらゾナハ病を発症した秘密は、接触した人形を介して発動させた呪文にある。
その呪文は、対象の体力を代償に自己治癒能力を限界まで高める「
本来は、名前の通り治癒を与える癒しの呪文の効果を、代償をそのままに反転させた呪いにも等しい邪法だ。
つまり今、天子の身体は「身体を治す」働きが「傷を作る」働きに入れ替わっている状態なのだ。
その効果たるや、ファンタジーでは有名なトロールを相手に小さな礫石をめり込ませただけで、北斗神拳を食らったモブのように「ひでぶ」させるほどだ。
病気とは無縁のはずの天人がゾナハ病を発症したのも、「
傷が付かないからこそ、今の天子は傷を作る。
毒が効かないからこそ、今の天子は毒を食らう。
頑丈で絶対に傷付かない、天人だからこそ行える禁じ手だ。
その上、ゾナハ病は本来対人間用に作られた病気だ。
人間か、人間と神経構造が大きく変化していない生物でなければ、まともに通用はしないだろう。
対象を選ぶ戦術だが、その対象に天子が含まれていた事が彼女の不幸である。
「貴女の敗因は、たったひとつよ」
てめーの敗因は、たったひとつだぜ。
天子が地上を滅ぼすつもりがなかったように、私もまた天界を滅ぼすつもりはない。
先入観を餌に天界の住人を人質に取ったのは、幻想郷に迷惑を掛けた意趣返しと、彼女から「逃げる」という選択肢を奪う為だ。
「たったひとつの、単純な答え」
たったひとつの、単純な答えだ。
天子は異変の元凶で、退治するべきラスボスで、絶対に死なないモルモット。
つまり、無抵抗に近い最強を相手にどれだけ「実験」しても問題のない状況に、今の私は居る訳だ。
こんな貴重な機会は、二度と巡りはしないだろう。試したい事は、それこそ幾らでもある。
さぁ、全ての準備は整った。
自制を外し、自重を外し、我を忘れた振りをして、あらゆる非道と外道を試そう。
「人間」である事を忘れた私は、小波しか起きない壊れた心を持つ本当の私は、一体何処まで非情になれるのか。
その答えを、その恐ろしさを、きっと目の前の
「貴女は私を怒らせた」
てめーはおれを怒らせた。
「ひ、ぃ……っ」
威勢を失い、怯えた表情で後ずさる天界きっての問題児へと、私は愛しい人形たちと共に真正面から宣戦布告を突き付けた。
注意・サブタイトルにネタバレが含まれています。