東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

79 / 119
77・魔神が生まれなかった日

 

 「彼女」については、未だに理解出来ていない部分の方が多い。

 神と人。元々の起源そのものが異なる為に仕方のない部分はあるのだろうが、「彼女」の思考や価値観は私にとって難解であり、同時に興味深いものだった。

 昼も夜もない場所で延々と暇を持て余しているとはいえ、しばらくすればおのずと日々を過ごす上での習慣というものが生まれるものだ。

 そんな閉ざされた平穏の中で、「彼女」は決まって私が修業を始めたり、何かに集中している時に限って顔を見せた。恐らく、狙ってやっていたのだろう。

 そうして何をするのかと言えば、互いの過去を語ったり平凡な話題を繰り返したりと、まるで中身のない四方山話を続けて飽きれば勝手に去って行くのだ。

 迷惑とまでは言わないが、相手の意図を測りかねていたのは事実だ。

 そして、身動きの取れない私にとってその一時は確かな救いでもあった。

 出会いが唐突であれば、別れもまた唐突だ。

 冗談染みた別れの挨拶とたった一つの口約束だけを残して、「彼女」は私の前から姿を消して二度と現れる事はなかった。

 詳しい理由は聞いていない。ただ、彼女は一言「足跡は残した。だから満足だ」と語っていた。

 「彼女」は神で、全能で、寿命や死とは無縁の存在でありながら、己の終焉を受け入れていた。

 私が何も理解出来ないまま、「彼女」は泡が弾けるように僅かな余韻だけを残して居なくなってしまった。

 「彼女」の居ない暗闇は、今までよりももっと寂しく感じられた。

 「彼女」が消えた理由を、知る者は居ない。それどころか、「彼女」の事を知る者すら、この世界には存在しなくなってしまった。

 私を除いて――否。正確には、私と()()()()を除いて。

 自慢話に聞かされた、「彼女」の残した足跡の一つ。

 対峙する時が待ち遠しくもあり、「彼女」との約束を思い出して陰鬱にも感じられる。

 船が来る。感じられる気配は三つ。

 そして、遠くに離れた場所にもう一つ。

 

 あぁ、やはり。

 やはり貴女は、選択肢を誤るのですね。

 全てを理解してなお苦難と郷愁の道を望むのであれば、私は貴女へと試練を与えねばなりません。

 

 理解しているはずだ。それが、決して報われる事のない茨の道であると。

 「彼女」は決して、貴女にそんな道を歩く事を望んではいないと。

 あの母にして、娘あり。

 「彼女」は、妙な部分で自分のこだわった意見を貫こうとする頑なところがあった。

 そんな「彼女」の「娘」であるのなら、あえて間違った選択肢を進もうとする姿勢も頷ける。

 「彼女」が何を望んでいるのか。何故、このような無謀を課すのか。

 唯一解るのは、殺しても死にそうになかったあの魔界の神様は、本当にもう何処にも居ないのだという重く虚しい事実だけだった。

 

 

 

 

 

 

 霊夢に敗れたぬえが墜落したのは、何処とも知れぬ林の中だった。

 幾つかの枝を折りながら地面へと叩き付けられ、その激痛に呻く。

 

「ぐっ、ぎ……っ」

 

 歯を食いしばり、痛みを無視して肩口に刺さった針を強引に抜こうとするが、妖怪を縛り縫い止める退魔の一撃は一寸すらも動かす事が出来ない。

 

「ちくしょう……ちくしょう……っ」

 

 悔しさと、惨めさ、情けなさと。痛みを伴った感情のうねりが、涙となって少女の頬を伝っていく。

 何も出来なかった。ただの足止めすらこなせぬまま無様に叩き落され、あの忌々しい巫女を追う事すら許されない。

 針が抜けなければ妖気が戻らず、妖気が戻らなければ空を飛べない。

 こうして泣き崩れる時間すら惜しいというのに、今のぬえは天空へ浮かぶ箱舟に関わる資格を失っていた。

 

「お、居たいた。随分と派手に落ちたね」

 

 そんな泣きじゃくる少女の前に、地面に溢れる枯れ葉を踏み鳴らしながら場違いなほどほがらかな声で喋る誰かがやって来る。

 それは、冬だというのに白地のシャツと札柄のズボンだけという肌寒い格好をした、長い白髪の女性だった。ズボンのポケットに両手を突っ込み、倒れたままのぬえを薄く笑うような表情で見下ろす。

 

「だ、誰だ貴様」

「健康マニアの焼き鳥屋だよ。誰かに呼ばれた気がしてね。まぁ、呼んだのはあんたじゃないみたいだけど」

 

 名乗りを拒否した白髪の少女は、ぬえから懐疑の視線を向けられながらまるで気にした様子もなくさらりと答え、退魔の針が刺さった彼女の肩口へと視線を移す。

 

「あぁ、なるほど。お前さん、あの巫女にやられたのか。災難だったね、あの娘は妖怪に容赦しないから」

「な、何をする気だっ」

「自分じゃ抜けないんでしょ? だから私が抜いてあげるよ。私がここに呼ばれたのは、多分その為なんだろうし」

「いぎっ、ぐっ」

 

 相手から答えを聞くよりも早く、現れた女はぬえの身体に刺さった針を大した抵抗もなく引き抜いていく。

 妖怪にとっては強固な封印であっても、その他の種族――特に人間にとってはまったく意味をなさないのだ。

 

「お前……人間、なのか?」

「おいおい、なんで問い掛け口調なのさ。見ての通り、正真正銘生粋の人間だよ。まぁ、生きてく途中で変な混ぜ物が入っちゃったけどね」

 

 妖怪を恐れぬ白髪の少女は、ぬえの質問に自嘲気味に苦笑しながら最後の針を引き抜く。

 

「そんなに血は出てないようだけど、傷口を一度焼いておくかい?」

「ぐっ。そこまではしなくて、良い」

 

 やはり、見た目と言動の通りまっとうな人間ではないらしい。

 人差し指の先から小さな炎を出現させる女性の申し入れを断り、ぬえは自分の肩に手を置いてゆっくりと立ち上がる。

 

「……」

 

 あれだけ抵抗しても無意味だった退魔の封印から、出会ったばかりの他人の手によってあっさりと解放された。

 偶然にしては出来過ぎている展開に、どう反応して良いのか解らず戸惑いを浮かべるぬえ。

 しかし、今はそんな事を気にしている時間すら惜しいと、妖気を用いて別の場所に落ちていた三叉槍を手元へと引き寄せ地面を蹴り上げて空へと浮かぶ。

 

「お礼なんて、言わないからな」

「ただのおせっかいさ、必要ないよ」

 

 素直ではない捨て台詞を吐き、そそくさと飛び去っていくぬえを地に足を付けたままの人間が見送る。

 

「――うーん。おせっかいついでに、一応言っておこうか」

 

 一人になった白髪の少女――妹紅は、しばらく経った後で頭を掻きながらポツリと呟く。

 自分しか居ない場所で、まるで誰かに語り掛けるように言葉を紡ぐ。

 

「なんのつもりかは知らないけど、あんまり好き勝手にし過ぎると手痛いしっぺ返しを食らう事になるから、気を付けた方が良いよ。経験者からの忠告だ」

 

 独り言ではない。彼女は、そこに「誰か」が居ると確信を持って喋っていた。

 

「ま、参考にするかどうかは好きに決めなよ。それじゃあね」

 

 しかし、その正体を暴こうとはしない。不滅を生きる少女には、所詮全てが些事でしかないのだ。

 他人に利用されようと、何者かに操られようと、結局その相手は自分より先に死ぬのだから。

 

『あの人、誰も居ないのに一人で喋ってる。変なの』

 

 誰にも認識される事なく過ごし続けた少女には、不死者の忠告が自分へ向けてのメッセージであると理解する事が出来ない。

 姉とペットと友人以外の誰が語り掛けたとしても、孤独の少女には届かない。

 今までは、それで良かった。

 だが、これからもそれが許されるとは限らない。

 勘だけで察した者、違和感を覚えた者、その姿をしかと見た者。今まで誰にも気付かれなかった少女に、気付く者が現れ始めた。

 妹紅の言う通り、彼女は余りに好き勝手にやり過ぎたのだ。

 誰かの後ろで、誰かの隣で。ただ物事を眺めるだけだった少女が傍観者で居られなくなるその時は、案外近くまで来ているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 意外と言ってはなんだが、「界」を渡る道を作るのは一瞬の出来事だった。

 完成した聖輦船の進路の先にある時空へと宝塔により生み出された「門」である時空への風穴が開き、私たちは遂に魔界という異世界へと足を進める。

 

「霊夢さーん! この異変は、私がアリスさんと一緒に解決して来ますのでご安心をー!」

 

 突入の直前、ぬえと思われる背中から謎の触手っぽい羽の生えた少女から足止めを受けている霊夢へと、早苗が大きな声で呼び掛けて手を振る。

 幻術なのか、多数の分身を生み出したぬえの猛攻を回避しつつ霊夢が早苗と私へと視線を向け、僅かに眉をひそめた後何も言わずに正面へと戻す。

 会話も難しいほど霊夢に余裕がないようには見えないが、何故か微妙に不機嫌な面持ちでこちらとお喋りする気はないらしい。

 

「ふふふ、悔しさの余り声も出ませんか。これは、私が幻想郷の素敵な風祝(かぜはふり)と呼ばれる日もそう遠くはないかもしれませんね!」

「突入します」

 

 恐らく違うだろうポジティブ過ぎる感想を漏らす早苗を尻目に、星が真面目な表情で聖輦船を操作し「門」の向こう側へと抜けて行く。

 

「「封気結界呪(ウィンディ・シールド)」」

 

 保険として、突入の直前で風の結界を生み出し早苗と私を包む。

 距離が離れているというのもあるが、星には宝塔の力があるしナズーリンはそんな頼もしい毘沙門天代理の傍なので、無理に範囲を広げる必要はないだろう。

 

「な、なんですか、これっ」

 

 目の前に映る別世の光景に、戸惑いの声を漏らす早苗。

 色取りどりの宝石が輝く岩肌の洞窟に見えたかと思えば、次の瞬間には果てまで続く海原のような水面へと変わり、更に次の瞬間には何かの生物の体内を思わせるグロテスクな肉の通路へと変わる。

 空間そのものが歪み、視覚を通して映るものを延々と狂わせ続ける。

 隣に居る早苗の姿すら、急に近くなったり遠くなったりモザイクが掛かったりと、まるで視界が安定しない。

 双方の世界の境界という部分も大きいのだろうが、どうやら魔界とは幻想郷よりも強く「精神世界面(アストラル・サイド)」に比重を置いている世界らしい。

 つまり、この光景は私自身の心の乱れや魔界への心象が、そのまま映像として流れ込んで来ているのだ。

 私以上に動揺している早苗の視界は、更に酷い事になっているに違いない。このままでは、彼女の精神が危ない。

 

「早苗、私の手を握りなさい」

「は、はい」

「目を閉じて、何度か大きく深呼吸をするの」

 

 はい、ご一緒に。

 ヒッヒッフー、ヒッヒッフー。

 

「はい。すぅー、ふぅー、すぅー、ふぅー」

「十分に落ち着いたら、握っているこの手に意識を集中しながら私を見なさい」

 

 私もまた両目を閉じ、呼吸を整え、触れている早苗の手の平へと集中する。

 手の平から腕へ、腕から肩へ。そして、その全身の輪郭へと意識を向けていく。

 

「ぁ……」

 

 再び目を開いた時、そこには不安な表情で私の手を強く握る早苗の姿が近くにあった。

 周囲の光景は、ただの暗闇となっていた。聖輦船の輝き以外、何も映されてはいない。

 これも、本当に暗闇がそこにあるのではなく、私の「この先に何があるか解らない」という想いを映像として転写しているに過ぎない。

 私から手を離す彼女の方も、どうやらある程度視覚を取り戻したらしくほっと安堵の溜息を吐いている。

 

「ありがとうございます、アリスさん。情けなくも取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

「良いのよ、不安なのは私も同じだもの。一緒に居てくれて心強いわ」

 

 近くに知り合いが居れば、それだけで自分が孤独ではないという安心感を得る事が出来る。

 しかし、早苗には悪いがここからは私だけ別行動を取る必要があるようだ。

 

「ナズーリン、申し訳ないけれど少し離れるわ。後で合流するつもりだから、貴女たちの大切な人を助け出せたら少しだけ待ってて貰えるかしら」

「おいっ」

 

 アイ・キャン・フラーイ!

 

 賢将から答えを聞くよりも早く、私は風の結界を解除するとトランクを片手に船体の端へと残った手を置き、そのまま無造作に飛び降りる。

 このまま進めば、聖輦船は必ず目的地へ到着するだろう。早苗と聖の弾幕勝負を見れないのは少々残念だが、勝っても負けても天真爛漫な風祝(かぜはふり)に危険はない。

 よって、私は自分の目的を優先する事にする。

 なんとなくだが、理解出来る。

 この土地は精神の力に比重を置く場所であり、物理的な距離は余り意味をなさない。

 つまり、辿り着くのではない。目的地を目指し一歩を踏み出した時点で、もう辿()()()()()()()のだ。

 そして、私もまたこの土地で辿り着くべき場所がある。

 空を飛ぶまでもなく、私は地面へと到着を果たしていた。着地への衝撃はなく、最初からそこに立っていたような不思議な違和感だけが残される。

 月も太陽もない、真っ暗な空。砂利ばかりの地面の所々に光を放つ色取りどりの宝石のような石が散乱している為、自前で灯りを生み出す必要はなさそうだ。

 そして、今の私の目の前にそびえ立っているのは、廃棄された古い洋風の城跡だった。

 外壁の一部が崩れ、柱やその他の装飾品にも好き勝手に植物のつるが巻き付いている。錆び腐った庭園の柵は大半が脱落し、玄関の扉は片方が倒れ城内の荒れ果てた有り様を覗かせていた。

 本当にこういう姿なのか、私がそう望んでいるからこういう風に見えているのか。

 どちらなのかは私にも解らないが、ただ一つだけはっきりとしている事がある。

 ここは、終わった場所だ。

 例え何が残されていたとしても、この場所そのものにもう価値はない。

 

「お邪魔します」

 

 勝手知ったる他人の家と、私は荒廃した庭園を抜け城の中へと挨拶一つで侵入する。

 上海と蓬莱を飛ばし、一人と二体で軽く探索を行っただけでその場所は簡単に見つける事が出来た。

 それは、一階部分の一角に作られた大きな工房。

 光沢を放つほどに磨かれた、白地の床。

 半壊した作業台、古ぼけた木椅子、床へと散らばる歯車、糸、ネジなどの部品。

 そして――

 

「……」

 

 作業台の隣に設置された土台へと吊るされているのは、一体の人形だった。

 蜂蜜を溶かしたような、肩口近くまで伸びる金色の髪。

 色褪せとは無縁の白い肌、華奢な手足。フリルの付いたカチューシャ、青のワンピース。

 そう。それは間違いなく、「アリス・マーガトロイド」の人形だった。

 私の傍を飛ぶ上海と蓬莱よりも作りは甘く、球体の関節や繋ぎ目の線などがまるで隠せていない稚拙な出来栄えだ。

 本当にこういう姿なのか、私がそう望んでいるからこういう風に見えているのか。

 

「ようやく――ようやく、ここまで来れたわ」

「……」

 

 返事はない。

 何故なら、この人形には私と違い魂は入っていないから。

 だが、それでも良かった。

 この娘という存在が、その証明となった。私は、ここに「帰って」来たのだ。

 そして、ようやくここから「始まる」。

 終わりと決別の意味を込めて、私はその言葉を口にする。

 

「ただいま」

 

 誰も応えてくれない、一人ぼっちの城の中。

 長い――本当に長い旅路の果てに、私は確かに生まれた場所へと帰郷を果たしていた。

 

「――、――」

 

 不意に口から漏れるのは、とある神への鎮魂歌(ユカウラ)

 仮面の王へと捧ぐ、遥か昔より紡がれ続けた祈りと救いを求める子守唄。

 

 もう、会えないのかな。

 もう、この世界には居ないのかな。

 

 それでも私は知りたいのだ。それでも私は会いたいのだ。

 だから、ここまでやって来た。

 答えがなくても構わない。何も得られなくても構わない。

 ただ一言、「彼女」と言葉を交わせるのであれば私にはそれで充分だった。

 しかし、恐らくそれは叶わない。

 そして、魔本の中で出会った「彼女」の性格を考えれば、このまま何事もなく帰して貰える可能性は皆無だろう。

 あの時のように、嬉々として用意された余興が始まるはずだ。

 それは、「彼女」と戯れる事の出来る残り少ない手段の一つでもあった。

 だからこそ、私はあえてここで待つのだ。

 上海と蓬莱を私の左右に据え、持って来たトランクを開き自宅から転送した人形たちを使って作業を開始する。

 私自身は木椅子に座り、糸を操りながら静かにその時を待つ。

 

 さぁ、戦争を始めようか。

 

 「彼女」の残滓は、私に幸せになれと願ってくれた。

 そして、過去を追うなとも忠告をくれた。

 私は、その警告を無視してここに居る。

 彼女は呆れるだろうか、それとも喜ぶだろうか。

 どちらにせよ、ここから生きて帰れるかどうかは、これから始まる試練という名の舞台を私が見事に演じきれるかどうかに掛かっていた。

 

 

 

 

 

 

 唐突にアリスが姿を消した後も、聖輦船は動きを止める事なく目的の地へと進み続ける。

 

「星さん、後どれくらいで到着するのでしょう」

「恐らくもうすぐですよ、早苗さん。聖の封印を解く鍵である宝塔と聖輦船の力を用いたのですから、彼女を封じた場所へ「門」は開いたはずです」

 

 アリスの考察は正しく、今彼女たちの訪れている魔界という土地にとって「距離」という概念の価値はかなり低い。

 それでも辿り着けないのであれば、それはここに居る誰かが心の何処かで目的地への到着を拒んでいるからに他ならない。

 或いは、その時が訪れるのを恐れる余り、無意識にこうして少しだけ時が過ぎる事を望んでいるのか。

 

「でも、アリスさんは大丈夫でしょうか。何か、この魔界という場所に思うところのあるような様子でしたが」

「ふんっ、好きにさせておけば良いさ」

 

 不安そうに船体の下を覗き込む早苗とは対象的に、ナズーリンが憮然とした表情で鼻を鳴らす。

 異変の審判役だとのたまっておきながら、魔界へ突入した途端別行動を取られたのだ。あの人形遣いの言葉がただの方便だったと解っていたとしても、やはり腹が立つのを抑える事は出来ない様子だった。

 

「ご主人、いよいよだ。準備は良いかい?」

「えぇ、私は大丈夫です」

 

 宝塔から手を離す事なく、進路の先である無明の闇を見据え続ける毘沙門天の代理は、真剣な表情を崩さない。それは、悪く捉えれば余り余裕のない表情であるとも言えるだろう。

 胸の奥に抱えているのは、再会への恐怖か、解放への不安か。

 しばらく渡航を続けていた飛翔船の輝きが、ようやく地表にある何かの影を捉えた。

 

「お二人とも、あれを見て下さい!」

 

 最初に気が付いたのは、下を見下ろし続けていた早苗だった。

 それなりの高度からでも把握出来るほど、見る角度によって色を変える巨大な結晶がそこにはあった。

 その結晶の中央には、人影のような何かの姿もうっすらと確認出来る。

 

「でかした、早苗。ご主人、見つけたぞ! 船を下ろしてくれ!」

「はいっ」

 

 星の操作によって聖輦船が速度と高度を下げ、結晶以外は何もない荒涼とした大地へと着陸していく。

 空は相変わらず闇ばかりがおおい、地面には宝石のような光る石を混ぜた砂利ばかりの荒野。

 草木一つ存在しない、虚しいばかりの大地へと降り立った三人が見るのは、結晶の中で仏像のように合掌の姿勢のまま直立不動を貫く若い女性だった。

 聖白蓮。遥か昔に封印された高僧は、封印されたその時から何一つ変わらぬ姿でこの地に存在し続けていた。

 救うべき者の目の前に辿り着いた星たちの取るべき行動は、たった一つだ。

 三人の中で、星が結晶へと一歩だけ近づき左手に持つ宝塔を高々と掲げる。

 

「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」

 

 彼女の口から流れる呪文は、神仏からの加護を得る為に唱えられる祈りの言葉である真言。

 代理であるが故に、星の毘沙門天としての能力はかの御仏の一部でしかない。つまりこれは、自分自身から力を借りるという反則にも近い力技だ。

 

「宝塔よ! 我が意に従い、今こそその力をここに示せ!」

 

 輝きを放ち続けるこの世で一つの仏具から、視界全てをおおうほどに強い極光が溢れ出す。

 あらゆる不浄を滅し、穢れと邪気を払う救いの光。

 しかし、長く続いたその神々しい閃光が収まった後、残されたのは未だ変わらず結晶の中へと捕らわれ続ける聖者の姿だった。

 

「な、何故……っ」

「どういう……事だ……っ」

「あれ? 失敗ですか?」

 

 のんきなのは、漠然としか事情を知らない早苗だけだ。

 星は地に崩れんばかりに動揺し、ナズーリンは眉をしかめてあり得ない光景を睨みつける。

 十全となった飛倉と、封印の際に使用した宝塔。そして、使用者はこの地上でそれらの仏具を最も使いこなせる毘沙門天。

 これ以上ないほどに完璧な条件が揃えられた現状、失敗する要素など皆無のはずだった。

 だが、現実は非情にも封印を示す結晶に罅割れ一つ起こってはいない。

 

『星……ナズーリン……聞こえますか』

「聖!」

 

 反響を伴う雑音に混じり、三人とは異なる女性の声がその場へと響く。

 星の反応から、その声の主が結晶の中で祈り続ける仏僧である事は間違いないだろう。

 

『こんな所まで来てしまって、本当に困った娘たち。私は、貴女たちを守れればそれで良かったのに』

「ようやく、ようやくここまで来ました。ようやく、貴女を助けられるところまで……なのに……何故……っ」

 

 悲しさと、困惑と、隠し切れない嬉しさを込めてしみじみと語る聖へ、救出を阻む結晶へと手の平を添えた星が打ちひしがれた声を絞り出す。

 

『星、聞きなさい』

 

 聖は語る。星やナズーリンたちの知らない、その後に起こった出来事を。

 封印された魔界という地で、一体何があったのかを。

 

『私は、飛倉と宝塔の力によって魔界へと封じられました。そして、その後にこの魔界でもう一つの封印が掛けられたのです』

「もう、一つ?」

『例え二つの仏具による封印が解けたとしても、その封印が私をこの地へと縛り続けています』

 

 宝塔の持つ浄化の力に勝る封印など、早々出来るものではない。

 出来るとすれば、それは毘沙門天と同じかそれ以上の力を持つ神仏の類にしか不可能な所業だろう。

 

『この封印を解く「鍵」の名は、アリス・マーガトロイド』

「「っ!?」」

「えぇ!?」

 

 唐突に語られたその名に、星とナズーリンは言葉もなく目を見開き、早苗は大声を上げて仰天する。

 

『私に封印を施し、彼女を「鍵」とした方は別に居ます。そして、その方は彼女が貴女たちと共に魔界へと現れる事も予期していました』

「聖、教えて下さい。魔界で施されたという、その封印を解除する方法を」

『この封印は、魔界を維持する為の人柱の役割も同時に担っています。つまり、解除するには私とは別にこの役目を背負う人材が必要となります――この意味が、解りますね。星』

 

 その生贄が誰であるかを、あえて語る必要はない。

 大切な者を救う為に、別の誰かを犠牲にする。その所業を、貴女は許容出来るのか。

 言外にそう告げる聖に対し、しばしの沈黙の後、星は顔を上げて静かにその答えを口に出す。

 

「私が、それで貴女を救えるのであれば」

 

 悲壮にも近い決意を込める星の顔は、早苗やナズーリンの位置からでは見る事が出来ない。

 

「星さん、待って――きゃっ!」

 

 制止を掛けた早苗の声も虚しく、伸ばされた手を振り払い毘沙門天の代理が高速で大地を疾駆していく。

 恐らく、聖を救う鍵と呼ばれたアリスの下へと向かったのだろう。

 スペルカード・ルールは適用されない、異郷の地。

 刺客として放たれた大虎が、人形遣いへと迫る。

 誰かの思惑と、ほんの少しの偶然が伴ったその戦いを止められる者はいない。

 砂塵を上げて星が去った後、次に動いたのは当然理不尽な理由により襲われる事となったアリスの友人である早苗だ。

 しかし、彼女が駆け出そうとした瞬間今度はナズーリンが両手を広げて立ち塞がる。

 

「どいてください。でなければ、加減は出来ません」

「頼む。少しだけで良い、時間をくれ」

「二度は言いません」

 

 そして、不穏となった空気に拍車を掛けるように、更に事態は動く。

 

「――へ?」

 

 早苗は、その光景を見て阿呆のようにぽかんと大口を開けてしまう。

 崩れるでも、破壊されるでもなく、音もなく聖を捕えていた結晶が消滅したのだ。

 

「あぁ。幾星霜振りに肌へと感じる風は、魔界の微風といえど心地の良いものですね」

 

 星の努力虚しく封印され続けていたはずの聖人が、どういう訳か自力で脱出しその長髪に手を添えて微笑んでいる。

 早苗とナズーリンの理解が追いつくまでに、数秒以上を要したのは言うまでもない。

 

「やはりか。貴女があのような事を言い出すなど、気でも狂ったのではないかと疑ったぞ。どういう事か説明して貰おうか、聖」

 

 動物の性分の名残か、両足を軽く曲げ飛び掛る寸前の姿勢で強く聖を睨みつけるナズーリン。

 封印されていた彼女の言には、恐らくまだ語られていない部分があるのだ。しかし、かつての弟子を騙してまでアリスを襲撃させる理由が見えて来ない。

 

「ふふっ。貴女も相変わらずね、ナズーリン。前にも言いましたが、あんまり眉間に皺を寄せていると折角の可愛いお顔が台無しですよ」

「大きなお世話だよ」

 

 まるで、日常でのやり取りのように笑い掛けられ、自分の怒気を軽く流された妖獣が苦虫を噛み潰した表情で鼻白む。

 

「貴女は、お二人を騙したんですか!?」

「いいえ。星は全てを理解した上で、アリスさんを襲撃しているはずです。あの娘はとても聡明で、そして優秀ですから」

 

 怒鳴り付ける早苗にも、聖の態度は崩れない。

 優しく、大らかに。しかし、大木を彷彿とさせるほどに彼女の精神は他者の感情で一切揺らぐ事はない。

 

「「未来を目指しているならば「試せ」、過去に縛られ続けているならば「砕け」」。彼女がこの魔界という土地に訪れる事そのものが、試練への引き金――そして恐らく、アリスさんもまた全てを理解をした上であえて苦難の道を選ばれた」

 

 ゆるゆると首を振り、憂いを示す聖。

 救いを求める者に、救いの御手を。しかし、救いを求めぬまま己の定めた道を愚直に進むと決めてしまった者には、一体何を差し出せば良いのか。

 

「これは、「彼女」から託されたたった一つの願い。虚ろで希薄なる人型(ひとがた)を、真なる完成へと導く為に必要な試練の一つなのです」

「訳の解らない言い訳は結構です。どんな理由があれ、人を騙すのは悪い事です!」

「えぇ、そうですね。本当に、私はなんと罪深いのでしょうか」

 

 封じられていた聖女は、己の不徳を全て承知していた。

 

「それでも、「彼女」が我が子へと試練を望むのであれば、私はその願いを叶えます。滅びを前に生かされた者として。何より、「彼女」の友人として」

 

 彼女は、本来必要のない争いの火種を撒いた事を悔いているのだ。

 しかし、約束は約束。役目を果たす者が一人しか居ないのであれば、その責から逃れる事は出来ない。

 埒が明かないと袖口からお払い棒と何枚かの霊符を取り出した早苗の前に、再度ナズーリンが割り込んで来る。

 小さな賢将の視線が捉えているのは、風祝(かぜはふり)ではなく救うべき対象だったはずの破戒僧。

 

「ナズーリンさんっ?」

「行きたまえ。引き止めて済まなかったね。ここから先は、身内同士の問題だ」

 

 振り返る事なく、早苗への謝罪を口にするナズーリン。

 混迷する状況にあって、彼女はかつての同胞を敵だと定めたのだ。

 

「良かった」

 

 早苗が走り去った後、聖は本心からの優しい笑みをナズーリンへと向ける。

 

「あんな事があったのですもの、貴女たちが人間という種そのものへ憎しみを抱えていないか少しだけ不安でしたが、どうやら杞憂だったようですね」

「あぁ、人間は愚かだよ。醜く、汚く、それでいてずる賢い――貴女のようにね、聖。まったく、本当に嫌になるよ」

 

 ナズーリンが取り出したのは、四枚のスペルカード。

 事情は知らないが、恐らく長らく封印されていたはずの高僧は、なんらかの手段により幻想郷を含む地上の動向をある程度把握しているらしい。

 ならばと、賢将はこの魔住職と対峙して最も勝率が高くなる勝負を挑んだのだ。

 応じる必要のない宣言に応じ、聖もまた四枚のスペルカードを出現させる。

 

「再会の抱擁は、少々激しくなりそうですね」

「ふんっ。折角だ、その栄えある一番手はご主人の為に取っておきたまえ!」

 

 棒符 『ビジーロッド』――

 

 怒声と共に、一枚目の札が開く。

 異郷にて繰り広げられる、観客の居ない御伽の遊戯が始まる。

 争いは、何も生まない。

 しかし、それでも争いは止まらない。

 得るものがなくとも、求めるものが手に入らなくとも。

 過去との決別の為、友との約束の為、分からず屋への憤怒を込めて。

 互いの意地と命を掛けた闘争が、魔界という謎多き土地にて次々と花開く。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。