東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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36・幻想郷 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ

「ぶっ――げほっ、ごほっ!」

「アリスっ」

「アリスさん!?」

 

 あまりの光景に呆然としていた咲夜と妖夢だったが、妖夢に背負われたアリスが咳き込み血を吐き出した事で意識を取り戻す。

 アリスの使用した魔法は、その絶大な効果に見合った魔力とそれ以上の負担を肉体に要求する。例え発動が一瞬だったとはいえ、重傷を負った身で繰り出して吐血で済んでいる方がむしろ幸運だった。

 しかも、アリスが解き放ったのは王家に残された間違った解釈の伝承から組み立てられたという未完成版である。自身の負傷を考え制御のし易い方を選んでいなければ、被害の規模は今回の比ではなかっただろう。

 

「ごめんなさい……妖夢……服に、血が……」

「どうでも良いです! そんな事!」

 

 背から降ろされ、近くの竹へと身体を預けられたアリスの見当外れの謝罪に、妖夢は耐え切れずに大きな怒鳴り声を上げてしまう。

 悲しいすれ違いだった。

 実際にはアリスの内面は結構余裕があり、「これは、お詫びと称して長年温めて来た「妖夢しまむりあん計画」を成就させる好機なのでは」などという下らない皮算用をしている妄想が伝わらない件も含めて、悲しいすれ違いである。

 

「バカね、こんな無茶をして」

「平気よ、咲夜……皆で死ぬよりはマシでしょう?」

「アリスさんっ」

 

 本来は、自分の犯した失態を取り払った魔法使いに感謝すべきなのに、妖夢は自己犠牲に近いアリスの行為を咎めたくて仕方がなかった。

 こうなるべきは自分だった。

 なのに、彼女にその役目を肩代わりさせてしまったのは、全て己の未熟さ故。

 

 また――また私は、何も出来ないのか。

 刀を振り、戦うしか能のない私が……その戦いの中でさえ、何も成せる事がないというのか……

 

 ボロボロになったアリスの姿を見る妖夢の心に、深く苦い悔恨が押し寄せる。

 幾ら拳を握っても、切れるほどに奥歯を噛み締めても、目の前の現実は何も変わりはしない。

 

「――それじゃあ、行くわ」

 

 咲夜の冷めた宣言に、妖夢は理不尽な怒りと知りながら彼女を睨んでしまう。

 

「こんな状態のアリスさんを、貴女は捨て置くと言うのですか!?」

「異変はまだ終わっていないわ。主謀者の住処らしき場所も見えた――早くアリスを助けたいのなら、急いで全ての敵を切り潰せば良い。そうでしょう?」

「ですが――っ」

「良いの……行って」

「アリスさんっ」

 

 解る。解ってしまう。

 今の状況で、我侭を言っているのは自分なのだと。

 守るばかりでは異変は終わらない。誰に頼る気もない咲夜の判断は正しく、その誰かに期待してしまう思考がただの甘えに他ならないという事を。

 そして、先程の二人が報復に戻って来る可能性がある以上、重荷であるアリスの居ない場で戦う方がこちらとしても利に繋がる。

 アリス自身が動けなくとも、彼女の人形は健在だ。

 転送により壊れた人形を新しいものと入れ替え、すでに彼女を守るべく武器を構えてその周囲に漂っている。最低限ではあるが、自衛にも問題はない。

 

 ――幽々子様……申し訳ありません。

 

「――私は、この場に残ります」

 

 これもまた、間違った判断なのだろう。主の安否を放り、知人を選ぶ従者が正しいとはとても思えない。

 

 でも……それでも……

 

 一度目蓋を閉じ、そして開いた妖夢の両目には再び力強い光が戻っていた。

 断ち切れない迷いの中にあっても、役目を定めた剣士が守るべき者の前に布陣する。

 

「そう、だったらアリスは任せたわよ」

「はい。魂魄の名と、この命に懸けまして」

「どれだけ命を張るのが好きなのよ……」

 

 妖夢の答えに若干呆れながら、時を止めたのだろう咲夜の姿が忽然と消失する。

 

「ごめんなさい……」

「良いのです。私が決めて、そうしたいと願ったのですから」

 

 こずえの音に耳を傾け、ただ佇んでいた時間は五分と経っていないだろう。

 現れた気配は一つ。さきほど仕掛けた来た二人の内、兎の耳を付けた長身長髪の少女の方だ。

 仲間を呼んだ様子もなく、どうやら敵側の人員はそれほど多くもないらしい。

 

「――名乗りましょう。私は白玉楼が剣術指南、魂魄妖夢と申します」

 

 背負った刀の柄に手を掛け、守るべき者を背にゆっくりと構えを取りながら、倒すべき敵を見据える妖夢。

 

「――鈴仙・優曇華院・イナバよ」

 

 後に、両者の運命を狂わせる決定的な出会いが月明かりの下で果たされた。

 兎が狂い、剣士が惑う。月の魔力に促され、幻想の(いくさ)が今始まる。

 

 

 

 

 

 

 時を少しだけ巻き戻し、鈴仙たちを追いかけた魔理沙は当然の如く彼女たちからの奇襲を受けていた。

 鈴仙の弾丸を模した弾幕が、竹林の中を駆ける魔理沙を徐々に追い詰めていく。

 普通の魔法使いの方に余裕がない事もあり、二人の勝負は終始鈴仙の優勢で進んでいた。

 竹林という障害物の入り組んだこの場所も、速さを重視する魔理沙にとっての不利を助長する。逆に、鈴仙の方は数多ある竹や岩を盾として獲物からの有利を確実に奪っていく。

 銃兵の弾幕は大量に振り撒く見せ弾で隠蔽し、その内の数発が本命として相手の急所へと最短で突き進む。

 

「ちっ、くそっ!――ぎっ!」

 

 避けた先を見越して繰り出された一つの弾丸が右のこめかみを強く掠め、血を撒きながら旋回し地面へと墜落する魔理沙。

 

「殺しはしないわ――ただし、これからの一生は松葉杖と車椅子に頼って生活するのね」

 

 冷徹に、冷淡に。鈴仙は弾幕ごっこという遊戯を楽しむ必要性をまるで感じていない。

 地上すれすれで停止した「的」に向けて、彼女の指で作られた銃口が一切のブレなく静止する。

 これで、小生意気な魔法使い共々この下らない戦いも終わり――になるはずだった。

 

「――うどんげ! 避けなさい!」

「え? ――きゃあぁぁぁっ!?」

 

 二人の戦闘を眺めながら、隙あらば魔理沙に仕掛けようとしていた永琳の言葉に半ば無意識で反応した直後、壮絶な振動と激震が彼女の正面を通り過ぎた。

 身の内から恐怖を呼び起こすほどの黒く強大な波動は、触れるもの全てを巻き込み一直線に駆け抜けていく。

 

「――っ!? 姫様!」

 

 この時、鈴仙は出会って初めて己の師が悲鳴を発する場面に立ち会っていた。

 出来上がった果てまで続く通路の先には、自分たちの家である永遠亭までもが無残に引き裂かれた状態で見えているのだ。

 永琳はそのまま、永遠亭へ向けて全力で飛翔を開始する。鈴仙への指示を飛ばす余裕すらないらしく、しかし命令がなくとも彼女の部下は己のやるべき仕事を理解していた。

 黒の波長――あの一撃の魔力は間違いなく先程仕留めた人形を使う魔法使いによるものだ。あの死に掛けの身体で良くぞここまでやれるものだが、ものには限度というものがある。

 

 ――彼女は、殺しておいた方が良いわね。

 

 元より、鈴仙にとって地上の民への感情は兎や猿などの動物と同列だ。軍人として食料の現地調達すら訓練して来た彼女にとって、それらを殺す事に忌避感を抱くほどの動物愛護精神は残されていない。

 ルール違反への罰は仕方なく受けるつもりだが、それも程度の軽いものであるとしか認識していなかった。

 

「おぉあぁぁぁぁぁぁっ!」

「ちっ、穢れた類人猿が……」

 

 黒い光の走破によって、一拍開いた余裕により咆哮を上げて突進して来た魔理沙に対し、鈴仙はそう吐き捨てながら己の能力を全開で使用する。

 

「貴女は一生――ここで迷っていなさい!」

「が、があぁ!?」

 

 赤色に染まった兎の瞳を見た瞬間、魔理沙の両目が一瞬で充血し同じ赤色となって低い絶叫を上げた。

 「狂気を操る程度の能力」。その実態は、周囲や対象の波長を操る事により幻覚を発生させ精神を惑わす波の力。

 

「あぁァァぁぁアアぁぁァぁぁああアァぁッ!」

 

 恋符 『マスタースパーク』――

 

 脳を直接攪拌するような強烈な波長を叩き込まれた魔理沙は、それでも喉から音を振り絞って八卦炉に魔力を灯し自身の墜落を無視してその魔力波を撃ち出した。

 照準も何もあったものではない、苦しみながら回転するその身からただがむしゃらに放たれる熱の波動は、偶然と必然をもって見下し続ける月兎へと届く。

 仕留めたと判断し、完全に油断して振り向いてしまっていた鈴仙はその一撃を避けられない。

 

「な!? ぐうぅっ」

 

 当たったのは、左腕の肘から上。直撃ではないが、熱波の勢いは確かに敵の身を焼きその肌へと火傷の跡を強く刻む。

 

「ぐ……くそっ。感情だけで動くような、ずぶの素人に……っ」

 

 戦闘に支障はないほどとはいえ、肉体とプライドを傷付けられた鈴仙が忌々しそうに吐き捨てる。

 

「……」

 

 見れば、受身も取れずに地面へと落ちた魔法使いは動いていなかった。気絶したのか、身動きが出来ないほどの酩酊感に耐えているのかは解らないが、もう仕掛けて来る可能性はないだろう。

 とどめを刺そうかと逡巡し、外部との余計な摩擦を嫌った鈴仙は半死人を無視してもう一人の魔法使いが居るだろう黒の閃光によって作られた道を、来た道を戻る形で直進する。

 辿り着いた竹林の開けた場所には、人形たちに囲まれ竹を背にうずくまった魔法使いと、彼女を守るようにその間へと立つ白髪の剣士が待っていた。

 

「――名乗りましょう。私は白玉楼が剣術指南、魂魄妖夢と申します」

「――鈴仙・優曇華院・イナバよ。役柄は……薬師見習い」

 

 礼儀正しい剣士の名乗りに、鈴仙もまた構えを取りながら素直に答えた。役柄については自分でも曖昧なので、少しだけ言葉に詰まってしまったが問題はない。

 

「可憐で、それでいて力強いお名前ですね。とても良くお似合いだと思います」

「新手の命乞い?」

「本心ですよ。ただ、貴女への怒りを静める為の時間稼ぎが含まれている事は否定しません」

 

 鈴仙は、会話を続けながら妖夢の仕草をつぶさに観察していた。

 適度に訓練された、しかし実戦の錬度をそれほど感じないたたずまい。敵との対話を試みるほどに甘く、仲間の命が懸かっているにも関わらず待ち伏せからの不意打ちを捨て正面からの決闘にこだわる正直者(おばかさん)

 妖夢への総評を、元軍人は「新人(ルーキー)」という簡潔な一言で片付けた。

 

「一度だけ警告してあげる。私の任務に、貴女の殺害は含まれていないの。今すぐ逃げ出して今後一生この場所へ近づかないと誓うのなら、一度だけ見逃してあげるわ」

「引けません。私は、この方をお守りすると決めたのです」

「そう。だったら――」

 

 鈴仙が見せ付けるように掲げたのは、二枚のスペルカード。

 彼女は、妖夢と対峙した時からこの少女に対し強い嫌悪感を抱いていた。自分とは違う汚れの少ない真っ直ぐな瞳に、嫉妬したと言い替えても良い。

 だから、鈴仙はこの「新人(ルーキー)」の剣士を汚そうと考えた。黒い愉悦を下敷きに、正面から叩き潰して理不尽な世の中というものを教授してやろうと思い立ったのだ。

 そこには、魔理沙から受けた屈辱の溜飲を下げようという身勝手な当て付けも多分に含まれている。

 

「ルールの上で貴女を下し、己の無力を嘆く貴女の前で護衛対象の脳髄が弾ける場面を見せ付けてあげる!」

 

 鈴仙の瞳が赤く染まると同時に、彼女を中心としてまったく同じ恰好をした複数の分身が出現する。姿形だけでなく、服が破れ火傷を負った場所すら全て遜色がない。

 

「これは……っ」

「理解出来るかしら? 波長によって位相を乱し、魂の一部を分け別つ事で発生したこの六人全員が私自身よ」

 

 最初に居た本人を含め、総勢で七体の鈴仙が散開し地上で立ったまま背負った剣の柄を握る妖夢を取り囲む。

 

 

「「理解出来ないでしょう?」」

 

 散らばった鈴仙たち(・・)の口から、同じタイミングで同じ言葉が発せられる。それは反響を伴って多方面の角度から相手の耳を打ち、それだけで対象の感覚をゆるやかに狂わせていく。

 

「「穢れを背負った無知で無学な地上の民如きには、一生掛けても解らない――」」

 

 鈴仙の心は、地上へと落ちていながら未だ月に置かれたままだ。自身もまた「地上の民」となったという事実から、彼女は目を逸らし続けていた。

 

「「月の兎の瞳によって、未来永劫狂い果てなさい!」」

 

 最初に仕掛けたのは二体。左右から挟み込む形で、二人の鈴仙が連続で弾幕を撃ち出しながら妖夢へ向けて落下していく。

 

「ふー……ふっ!」

 

 妖夢の背負った一刀は、妖怪の鍛えた楼観剣。彼女の背丈にも近い長刀を身体の捻りに合わせて器用に抜き放つと、右側の鈴仙へ向けて高速の足捌きで接近する。

 

「ぜあぁっ!」

 

 一部の弾幕を回避した後、かなり遠い射程の状態で下から逆袈裟に繰り出された斬撃は、そのまま白刃の勢いを留める事なく直線の弾幕を一閃として放つ。

 鈴仙は、その一撃を回避しない。必要がないからだ。

 両断された幻影は僅かな振動だけを残し、そのまま虚空へと消失する。しかし、ほとんど間を置かない時間で別の場所から別の鈴仙が出現し、事態を振り出しへと戻してしまう。

 勝負を決めるには、本体を切るしかない。だが、入り乱れた鈴仙たちは最早どれが本体かも解らなくなってしまっている。

 

「ふん、精々振り回され――あ……?」

 

 そのまま全員で攻勢に出ようとした鈴仙たちだったが、その一人の心臓を通る形で唐突に白刃が出現していた。

 

「――っ」

 

 二人目(・・・)の妖夢だ。更にその妖夢が投擲した一刀が飛び、もう一体の鈴仙の眉間を突き刺す。

 

「こいつっ!」

 

 二体の分身が消され、鼻白む別の鈴仙が高速の弾丸を放った。

 そこから更に一体、腰の一刀を振るった斬撃によって月兎の首を飛ばした妖夢の頭部が撃ち抜かれ――その全身から色が抜けて崩れ去り、半透明の白い球体に尻尾が付いたような不思議な物体へと変化して泳いで行く。

 

「――確かに、理屈は理解出来ませんでしたし数の上ではこちらの負けですが、実体を伴った幻影ならば私も出せます」

 

 その球体とは、常日頃妖夢の傍を飛ぶ彼女の半霊だった。

 鈴仙の数が七へと戻り、仕切り直しとなった場で妖夢が更に腰の一刀を抜き放つ。

 迷いを断ち切る白楼剣。二刀一刃を持って、半人半霊の少女は魂魄家に伝わる本来の型へと構えを変えていく。

 

「貴女の弾丸は私に届きます。私の刃は貴女に届きます――どちらが上かを語るのは、この勝負に決着が付いてからです」

 

 見据える妖夢の目は、どこまでも真っ直ぐに鈴仙を捉えていた。見つめ返す事が、苦痛に感じるほどに。

 

「――生意気よ、民間人」

 

 それでも敗北を嫌い視線を合わせ続ける鈴仙が、忌々し気に口を開く。

 動かない七色の人形遣いを背後に、両者の勝負はまだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

 

「――なんて事っ!」

 

 大変珍しい事だろう紫の悲鳴は、同じ竹林に居る薬師が上げたものとほぼ同時だった。

 その原因は、駆け抜けていった黒の波動に対して――ではなく、その波動が行き着いた先である幻想郷を覆うこの世界の要、博麗大結界の損傷を感知したからだ。

 

「藍!」

「――御前に」

 

 呼んで応えるまでの間は、いつ何時であろうと存在しない。紫の呼び掛けに、上空に開いたスキマを通り賢者の従者が着地する。

 

「今すぐ大結界を修復するわ! 補助を!」

「御意――橙!」

 

 紫が足早に消えた後、続いて呼び出されるのは式の式。

 

「――むぎゃっ」

 

 しかし、今度の猫は普通に寝ていたらしく地上から僅かに浮いた場所から背を向けて地面へと落ち、喉から変な声を絞り出してしまう。

 

「ふ、ふぇっ!? すみましぇん! 寝てましぇん! お呼びでございましゅるか、藍しゃま!」

「――橙」

「は、はいっ」

 

 慌てふためく従者へと、主はもう一度だけ固い口調でその名を呼ぶ。呼ばれた黒猫は、肩を震わせながら即座にその場で正座の姿勢を取った。

 はっきり目を開けて居住まいを正した橙に、藍は改めて広い袖の内に両腕を通し口を開く。

 

「私はこれより、紫様と共に行く。お前は霊夢に付き、この異変が結末に至るまでの仔細を見届けろ」

「はいっ!」

「決して突出せず、己の安全を最優先で行動しろ。霊夢に任せておけば、大抵の事態は問題ないだろう」

「はいっ!」

「――それと、これほどの規模の異変に気付いていなかった件に関しては後で話がある。覚えておけ」

「う゛――はい……」

 

 尊敬する主からの指示に元気良く返事をしていた橙だったが、最後に痛い所を突かれ呻いた後に小さく頷き、スキマに消えていく藍を見送る。

 

「はぁっ……子守りって、巫女の役目に含まれるのかしらね」

「ふっふーん」

 

 勝手に役目を押し付けられ霊夢が辟易と溜息を吐くが、橙はそれに対し下がった気分を上げようと鼻を鳴らして胸を反らす。

 

「藍様の言い付けはちゃんと守るし、鍛練だって毎日してるから足手纏いにはならないよーだ!」

 

 博麗の巫女と言えど、人間は人間。しかも小さい頃からの知り合いという事もあり、橙は霊夢に気安く接していた。

 

「ふんふんふふーん――ふにゃあ!?」

 

 そんな意気揚々と足を踏み出していく橙へと、十歩も歩かない内に仕掛けられた罠が作動し土と竹槍の塊りが振り下ろされる。

 

「足手纏いが……なんですって?」

「な、なんなのここぉ!?」

 

 霊夢の張った結界によって受け止められ、目の前で止まった凶悪な刃の群れに涙目で怯える橙。

 

「れ、れいむぅ。やっぱり離れないでっ、絶対離れないでねっ、ねっ?」

「……はぁっ」

 

 一転し、すっかり尻尾と耳を縮こまらせてしまった幼い妖猫に服の裾を掴まれ、霊夢は改めて深い溜息を吐く。

 霊夢に限って言うならば、この手の罠に対する対応は全て同じだ。即ち――結界で退けるの一択。

 落とし穴の上に敷き、飛び来る矢を弾き、竹槍を停止させる。途中から対処が面倒になったのか、切れた罠の糸を結界で繋ぎ作動させる事すら未然に防ぐ。

 

「霊夢! 動くと撃つ!」

 

 そうして、なんの危なげもなく進んでいた霊夢たちの後ろ――彼女たちの通り始めたこの一本道を作ったのだろう方向から、突然大声で巫女の名を呼ぶ者が現れた。

 

「間違えたな――撃つと動くだ。今すぐ動く」

「魔理沙? 私たちは今忙しいんだから、邪魔すると怪我するよ……って、もう凄い怪我してるじゃない!」

 

 振り返って霊夢の言葉を代弁しようとした橙は、そこに居た少女の身なりを見た途端挑発的な態度を改めて顔中で心配を表し始める。

 瞳は充血し、こめかみからは血が流れ、右の肩口には折れて刺さった一本の矢。靴の脱げてしまっている左足からも血が溢れ、汚れた帽子に血で濡れた衣服。

 箒を杖に立っているのがやっとの彼女は、見ていられないほどの満身創痍でそこに立っていた。

 

「今すぐ手当てしないと!」

「うるせぇっ」

「……っ」

 

 慌てて近寄ろうとした橙を、魔理沙は頑なな口調と目付きで押し留める。

 

「酷いざまだろ? 保護者様とちょっとばかりはぐれただけで、弱っちい私はこんなもんさ」

 

 力なく自嘲する魔理沙に、橙はどう触れて良いか解らず二の句が告げられない。

 

「それでも、アリスは約束を守ったんだ。今度は私の番なんだよ……っ」

 

 足を踏み出すだけで激痛が発生しているだろう今の魔理沙を支えているのは、何にも勝る執念だ。

 どこまで落ちようと譲ってはならない、己の定めた絶対の一線。彼女が立っているのは、正にその真上だった。

 

「私が……私が異変を解決しなけりゃいけないんだ……私がこの異変を解決するんだ……っ」

「橙、藍に言われたでしょう。下がっていなさい」

「で、でもぉ……」

「すぐに終わるわ」

 

 始めた所で、勝負にすらならないのは明白だ。しかし、霊夢は目尻を下げて瞳を潤ませる橙を手で押し退けてでも、魔理沙の前へと立ち塞がる。

 

「どけよ、霊夢……どいてくれっ」

「――来なさい」

 

 魔理沙の弾幕ごっこの腕前は、時に霊夢をも凌駕する。彼女ほど、幻想郷に新しく出来たルールを体現する者は居ないだろう。

 スペルカードは、各々を体現する想念の結晶。その心が、精神が、輝きを持つほどに力を発揮する分野だ。直情的であり感情の振り幅が大きい魔理沙だからこそ、最高潮となれば太陽にも匹敵する熱と光を持って他者を圧倒する。

 しかし、今の彼女にはその輝きが失われていた。怒りに目を曇らせ、憎しみに心を浸し、吐き出す言葉からは明るさが失われている。

 万全の状態であったとしても、今の魔理沙に勝ち目はないだろう。怪我の有無が問題ではないのだ。

 普通の少女の「強さ」は、そこにはない。だから、彼女は勝てない。

 八卦炉を構え、うわ言のように繰り返す魔理沙にも、霊夢はまるで心動いた様子もなく空を飛翔し裾から札を取り出す。

 巫女の役目は、妖怪退治と異変の解決。そして、その障害となるもの全てを排除する事。

 

「どぉけぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

「悪いわね――癇癪を起こした子供に道を譲ってあげれるほど、私の肩に押し付けられてるものは軽くないのよ」

 

 どこまでも平坦に、彼女は魔理沙の怒号を受け流す。そこには巫女としての役目以外、何一つすら乗せられてはいない。

 

「……バカ」

 

 もしも何か一つが乗っているのだとすれば――それはきっと、博麗の巫女としてではなく一人の少女としてその胸に宿る、雫のような「何か」だった。

 

 

 

 

 

 

 竹林の中で一際高い竹の頂点。

 一帯に散らばらせた動物型のイナバたちから送られて来る報告に耳を傾け、まとめ役として座るてゐが直線を切り裂く波動の傷跡に冷や汗を流しながら苦笑いを漏らしていた。

 

「あーあーあーあー。こっちが先に仕掛けたとはいえ、酷い返しもあったもんだね」

 

 何よりも心配なのは、この惨事にこちらの将軍がどういう反応を示しているかだ。もし万が一正気を失うほどに激怒していた場合、てゐを含めた竹林に住まう全ての兎たちは幻想郷との決戦を起こす覚悟を決めなければならない。

 そんな面倒事を回避する為にも、てゐは耳に取り付けた小型の器具――遠方との会話を可能とする装置を触りお目当ての人物へと交信を繋ぐ。

 

「えーと、これで良いのかな?――あー、あー。お師匠、聞こえる?」

『――えぇ、聞こえているわ』

 

 相手から聞こえる若干くぐもった声には、それほど激しい感情は感じない。その事に軽く安堵しつつ、てゐは彼女が今最も必要としているだろう情報を説明し出す。

 

「今から永遠亭に駆け込んでも、姫様は居ないよ」

『どういう事?』

「そのまんま。私たちが出て行った後、姫様もフラッと出掛けたってさ。今イナバが一匹付いてて、無事だって報告が来たんだ」

 

 永琳の懸念は、これで解消された。永遠亭が被った被害の規模などは、姫の安否に比べれば瑣末に過ぎる小事でしかない。

 

「どうも、何時もの場所に行ってるみたいだね。元々今日が満月だったし、今も満月みたいな夜だから来るんじゃないかって」

『あの方は……』

 

 通話越しからも、永琳が疼痛を感じて額を指で押さえているのが解る。姫の奔放さに、従者は何時も振り回されてばかりなのだ。

 

「永琳――冷静かい?」

『えぇ、大丈夫よ。問題ないわ』

「そりゃあ良かった。それじゃあ、もう一件の方も報告だね」

 

 わざわざ名前で呼んでまで確認したてゐは、内心で胸を撫で下ろしながら次の報告へと移る。

 

「竹林中を飛んでた小型の人形たちが、別々の場所で穴を掘って埋まり始めてる。あの魔法使い、まだ何か仕掛けて来るつもりだ」

 

 本来、一番に報告しようとしていたのはこちらの件だ。飛び回っていた人形たちが、ある時から別の行動を取り始めた。

 操っているのだろう本人は重傷らしいが、その重傷の身でここまでの被害を出してくれたのだ。全ての楽観は、捨てておいた方が良いだろう。

 

「小さいくせに頑丈でさ、一体壊すのでもかなり時間が掛かったんだ。私や鈴仙ならいけるだろうけど、普通のイナバたちじゃ多分手に余るね」

『そう』

「――どうする?」

『姫様の安全を最優先よ』

「りょーかい」

 

 望んだ通りの選択を即決してくれた永琳に、てゐは今度こそ危機は越えたと笑みを深めた。

 

『台座である地上の術が一部破壊されて、月からの通路を歪める術の完成にもう少しだけ時間が掛かりそうなの。人形の破壊は可能な限りで構わないから、今は侵入者たちの永遠亭への到達を防いでちょうだい』

「あいよ」

『人形遣いには鈴仙が行ったわ。彼女すら退けるようなら、今は敵対よりも懐柔を選んだ方が良いでしょうね。殺すのは、また別の機会にすれば良い事だし』

「相手さんが応じるかい?」

『応じさせるわ』

 

 全ては姫の為に。彼女の益となるのであれば、それこそなんでもしてのけるのがこの従者だ。

 必要ならば、彼女は鈴仙やてゐ、果ては自分にまで全ての責任を負わせ敵側に差し出す事もいとわない絶対の忠誠心がある。

 逆を言えば、主人である輝夜の不利となりそうな事柄に関して永琳は絶対に動こうとしない。

 あの魔法使いの危険度が、姫に届く事は示されたのだ。更なる被害を覚悟で殺害するよりも、今回のような反撃を許さないより確実な手段を確立するまで時期を待つ。

 時間は、それこそ相手が死ぬまで永遠にあるのだから。

 

「おっと、早速一人来た。とりあえず、出来る限りはやっておくよ」

『こちらもメイドと交戦に入るわ。お互い、命があったらまた会いましょう』

「おいおい、それは皮肉が過ぎるんじゃないかい?」

 

 絶対に死なない相手からの激励を受け、通信を切った妖兎が地面へと落ちていく。自由落下に任せてかなりの速度で大地へと到達したてゐは、足を軽く屈伸させただけで音もなくその場へと着地を果たす。

 

「ちょいとごめんよ。この先が今工事中なんでね、悪いけど迂回してくれないかい」

「あらあらまぁ。龍料理と薬膳を探していたら、兎料理がご登場ねぇ」

 

 ふわふらと、ふわふわと。それこそそのまま消えてしまいそうなほどに儚く虚ろな雰囲気を持ちながら、それでいて確固とした存在感を放つ亡霊。

 てゐは、立ち振る舞いから彼女が自分たちの姫と近しい身分、もしくは同等の扱いを受けている立場であると即座に理解する。

 

「あー、そのー、お姫様? さっきも言ったけどさ、ここから先は危ないから通せないんだ」

 

 嘘は言っていない。相手であれ自分であれ、どちらにとっても危険があるのは確かだ。

 

「えぇ、聞いたわ。でも、それより思い付いた事があるの」

 

 亡霊の姫が奏でる透き通った声を聞き、謎の感覚がてゐに押し寄せ足下から耳の先に至るまで全身の肌と毛がぞわぞわと逆立っていく。

 

 ヤバイ。

 この女――ヤバイッ。

 

 元が動物という事もあり、てゐの勘は良く当たる。今回もまた、悪い方向で大当たりだった。

 

「お鍋って、美味しいじゃない?」

「うん、まぁ、具材にもよるね」

「最近涼しさに寒さが混じって来ているから、きっとぽかぽか温まれそうじゃない?」

「あぁ、そうだね」

「それでね――貴女を見ていたら、お鍋が食べたくなっちゃったの」

「――っ」

 

 楽しげに笑う亡霊の目を見た瞬間、てゐは何も考えられぬまま大きく跳んで間合いを開いていた。

 ここに来て、妖獣はようやく自分に起こった感情の名前を理解する。

 恐怖――それも、圧倒的な捕食者から逃れられない間合いで狙いを付けられた時に感じる、絶望にも近い死の予感。

 

 コイツ――私を食う気だっ。

 

 冗談めかしているが、そこに一切の冗談は含まれていない。この亡霊は本気でてゐを食すべき「肉」と見なし、本気で食卓に並べる気なのだ。

 

「うふふ、今日は新鮮なお肉で兎鍋ね」

「年季の入った年寄り肉だ。硬くて食えたもんじゃないさっ」

「安心して、私は食べ物に好き嫌いをしない主義なの。噛みごたえのあるお肉も、大好きよ」

 

 蝶が舞う。獣の本能が死を知らせる、美しい無数の蝶が。

 所詮この世は弱肉強食。強い者が食い、弱い者が食われるのが道理だ。

 だが、本当の意味で「食われる」覚悟をしている者が、果たしてこの世にどれだけ居るというのか。

 

「お師匠――この展開を読んでたんなら、先に教えておいておくれよっ」

 

 通信は切れているので、相手に届く事のない悪態は好きなだけ吐ける。だが、それはなんの気休めにすらなってはくれない。

 

「お待ちになって、兎さん」

「待てと言われて、待つバカは居ないさっ!」

 

 兎が逃げて、亡霊が追う。一方だけが一方的に命を賭けさせられた弾幕ごっこは、哀れな兎の悲哀を飲み込んで開始の合図が振り下ろされた。

 

 




スターク「訴訟も辞さない」

断っておきますが、私はSではありません。

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