我輩は猫である。
名前は橙。
幻想郷最強の妖怪である八雲紫様に従える最強の妖獣、八雲藍様の眷属です。
厳しくも優しい、あの素晴らしいご主人様のお傍に近づけるよう、立派な式神を目指して今日も頑張っていきたいと思っております。
「……あふぅっ」
元々は、山中の休憩所だった場所を改修したマヨヒガという屋敷の一室で、私は布団から這い出て大きく伸びをします。
今の私は、人型の形状を取っています。これは、藍様から与えられた修行の一環で、寝ている間も意識的に人型を保つ事で変化の性能を向上させるのが目的なのだそうです。
今の所、三日に一回は元の黒猫の姿に戻ってしまっていますが、どうやら今日は成功ですね。
これは、幸先の良い朝です。
「むにゃむにゃ……」
朝には少し弱いので、ふらふらと少し危うい足取りで土間に行き、水桶に汲んでおいた水で顔をパシャパシャと洗って眠気を覚まします。
水は苦手ですが、この程度なら問題はありません。
家中の障子を開け、上り始めた太陽の光と朝の澄んだ空気を身体一杯に取り込みます。
「んー! 今日も良い天気!」
次の季節の到来はまだ先でしょうが、それでも僅かな陽気を感じて顔が綻びます。
藍様は、余り表情を変える方ではないのですが、その分私に笑い掛けて下さった時の喜びは格別です。
それで、「頑張ったな、橙」などと言って頭を撫でて下されば、もう言う事はありません。
あの時の藍様は、綺麗だったなぁ~。
「にふふ~」
一度だけあった当時の事を思い出し、嬉しさが溢れて表情がだらけてしまっているのが解ります。
数多の獣の中から、私を選んで下さったのは限りない名誉。藍様の期待に応える為にも、いずれ頂く事になるかもしれない「八雲」の名に恥ぬ妖獣となる事が、せめてものご恩返しとなるでしょう。
身支度を整え、マヨヒガの広い庭に移った私は、そこに張られた一枚の結界の前で正座します。
この結界は、藍様の張られた私専用の結界で、藍様と紫様のご自宅に通ずる唯一の手段です。
他の方は認識出来ず、出来たとしても通る事の出来ない仕組みとなっています。強引に入ろうとすれば、それこそ異次元の彼方まで飛ばされてしまうのだとか。
そして、私がこの結界に入る為には二つの試練を乗り越えねばなりません。
朝一番の日課として与えられた、「智」と「力」の試練。
これを突破しない限り、今日一日藍様と紫様に会う事は叶わず、ご挨拶をする事さえ許されなくなります。
そして、試練の七度の失敗――七日の内に試練を一度でも越える事が出来なければ、私の身体に憑けられた式が離れ、更には記憶さえも引き剥がされてただの獣へと戻されるのです。
大好きなあの方々を、永遠に忘れてしまう。それは、とてもとても嫌な事です。
日々是精進。惰弱な者に、あの方々の後ろを追う資格はありません。
「――お願いします」
『第一問。七百八十六足す百七は?』
「八百九十三」
『正解』
まずは「智」。
男性とも女性とも付かない声で出される問題に、正座したままの状態で私が答えます。
結界から出題される問いは、算術である事が大半です。
なぜならば、式神の術に必要な要素がそこに全て込められているのですから。
「一足す一は二となる」。これこそが、式術の基本にして真理。藍様はそう仰られていました。
無限にも続く膨大な計算式を構築し、そこから読み記される「解」こそが術者の意思となる存在を生み出します。
『第二問。二十九掛ける十五は?』
「えと……四百三十五!」
『正解』
藍様からそうしろと厳命されているわけではありませんが、戦闘などの緊急時になれば式を紙や地面に書く余裕はありません。なので、この試練は出来る限り暗算で解けるよう頑張ります。
一度の「智」の試練で失敗が許されるのは二度。慣れたとはいえ、緊張感はなくなりません。
恐らく、毎度藍様が考えて下さっているのだろう設問を、素早く確実に解いていきます。
『――第十問。半径八センチ、高さ二十四センチの円錐があり、上部半径四センチ、高さ十二センチの場所から切り取られた下部の体積を求めよ』
「にゃ、にゃ!?」
最後の問題。それは、習った公式を応用した私の苦手な図形問題。
今まで全ての問題に正解してはいるので、この問題を解けなくても失格にはなりません。
しかし、そんな優しさに甘えているようでは、藍様の式としては失格です。
「えと、円錐全部の体積が八掛け八に高さを掛けて……えーとぉ」
『制限時間――六十、五十九、五十八――』
「ま、待って! 待ってぇ! えと、んと――ふにゃぅぅぅ……」
地面に図形を描き、必死で頭を捻る私に結界が容赦のない追撃を仕掛けて来ます。
急かされてしまい、頭の中が焦りでこんがらがって上手く計算が出来ません。
藍様は、時々酷く意地悪です。
『不正解――十問中九問正解』
「にゃうぅぅぅ……」
結局、最後まで答える事が出来ず、私は耳を垂らしてうつむいてしまいます。
たったあれだけの事で集中力を乱してしまうとは、正に未熟の証。まだまだ、私には精進が足りません。
ダメだなぁ、私。
とはいえ、最後の問題は失敗しましたが、一応一つ目の試練は合格です。
続いては第二の試練。「力」の試練が始まります。
立ち上がって構えた私の前に、結界の奥から誰かが進み出て来ました。
今日のお相手は、目の覚めるような金髪をした人形のような綺麗な女性。青のワンピースがとても似合う、恐ろしい魔法使い。
青服と赤服の人形と傍へと飛ばす、アリス・マーガトロイドさん――を模した式神が、ご本人と同じく感情の抜け落ちた表情でこちらを見据えて来ます。
今は良い関係でも、この地に住まう実力者たちは曲者揃い。何時その牙が「八雲」に、幻想郷に突き立てられるか解らない。
藍様は、私にそうした事態が発生した時でも冷静さを失わないよう、私の知人や幻想郷の実力者を模した式と戦わせる事を、試練として与えて下さっているのでしょう。
藍様が見聞きした能力をそのままに、式として私の前に立ち塞がるアリスさん。
試練として、私が勝てる程度の力しか持ってはいないのでしょうが、そんなものは気休めに過ぎません。
どんな相手であろうと、油断は禁物です。
「参ります!」
妖気を牙と爪に乗せ、四肢を地面に付けて臨戦態勢を取る私に、アリスさんの式神は背後から幾つもの召喚魔法陣を出現させ、十体以上の人形たちを展開して布陣を敷きます。
たった一人による軍隊――その圧倒的な物量を前にして、私の中に僅かな恐怖が首をもたげます。
もしも、あの方が本当に私たちの敵となったその時、私は一体、どれだけ追い縋る事が出来るのでしょうか。
今の私に、その問いを答える術はありませんでした。
◇
第二の試練に何とか合格し、傷の手当を終えた私は、現れたスキマを抜けた先にあるお家の庭に辿り着くと、朝の挨拶をするべくお二人を探しに縁側を上ります。
紫様はまだ冬眠されているでしょうから、探すのは藍様です。今の時間帯なら、恐らく朝ご飯の支度を終えて自室で読書でもされているはずです。
「――認められんな」
そう思い、藍様の自室まで行った私の耳に、主人である方の硬く重々しい声が聞こえて来ました。
「それは、こちらの台詞よ」
対面に座っているのか、同じ部屋からもう一人の声がします。
記憶違いでなければ、今朝私が頑張って倒した式神のご本人――アリス・マーガトロイドさんの声です。
私であれば、竦んで何も言えなくなってしまうような藍様の強い口調にも、何ら臆す事なく言葉を返しています。
「このような案、通せると本気で思っているのか。この線引きを超える事は、まかりならん」
「私にも、意地というものがあるわ。このラインは、絶対に譲れない」
「お前の才覚は、私も少なからず認めてはいる。だが、それとこれとは別問題だ」
「えぇ、価値観の違いは重々承知よ。だけど、だからこそ私は私の考えを押し通らせて貰うわ」
「引けんか、どうあっても」
「お互いに――ね」
なにやら、交渉のようなものを行っているのでしょうか。
会話の内容は良く解りませんが、とても友好的な雰囲気ではありません。
チリチリと肌に当たるような空気を感じ、私は障子の前で身動きが取れなくなってしまいます。
ひれ伏してしまいたくなるほどの威圧感を放つ藍様を前に、ここまで決然と言葉を交わせるアリスさん。
あの方は、本当に凄い。
「――ん? 橙か」
「は、はひっ」
気配を読まれたのか、突然藍様に声を掛けられ思わず変な声で返事をしてしまいます。
「すまんが、まだ少し時間が掛かりそうでな。今日の朝食は、一人で取ってくれ」
「構わないわ。お互い、一度時間を空けて頭を冷やしましょう」
「そうか――そうだな。ならばお前も共に来い、朝食はまだだろう?」
「ありがとう。それじゃあ、ご相伴に預からせて貰うわ」
切り替えの早さも、お二人ならではです。
険悪にも思えた空気が一瞬で霧散し、お二人とも何事もなかったかのように障子を開けてこちらに来ました。
「おはようございます! 藍様! アリスさんも、おはようございます!」
「あぁ、おはよう」
「おはよう、橙」
大きく頭を下げる私に、藍様は言葉のみの挨拶を下さり、アリスさんは私の頭を軽く撫でてから朝食の準備に向かいます。
慌てて後を追いますが、火の番をしていた人型の式神を片付ける以外、私に出来る事など何もありませんでした。
藍様の手際と、アリスさんの人形を使った手数。
申し合わせた訳でもないのに、お二人の動きは無駄がなさ過ぎて、私はそのお手伝いすらままなりません。
「ここは良いから、食べる前に手洗いとうがいをして来い」
「はい……うぅ」
藍様に言われ、私はしぶしぶとその場を後にします。
この中で、一番下であるはずの私がお二人の手を煩わせるとは……
「「「いただきます」」」
自己嫌悪に陥っていても、朝食は始まります。
白米と、油揚げと豆腐のお味噌汁、塩鮭の焼き身、鰹節の乗った冷ややっこ、キュウリと白菜のお漬物。
アリスさんが来るのは予定の内だったのか、それぞれに配られた品の量が少ないという事もなく、畳の上に置かれた机に並べられています。
藍様は位の高い妖獣、アリスさんは魔法使いという種族なので、本当ならば食事の必要はありません。それでも、お二人は私に気を使って一緒に食卓を囲って下さいます。
「ふー、ふー――あちちっ」
妖怪へと変化した事で、猫舌やアレルギーの類は克服されています。ですが、やはり熱いものは苦手です。
「温かい味ね」
「年の功だ。まだ、お前には負けんさ」
猫背気味にお味噌汁と格闘する私とは違い、お二人は背筋をピンと伸ばした綺麗な姿勢のまま箸を動かします。
食事の取り方一つとっても、この差です。
届かないお二人には、尊敬の念ばかりが浮かびます。
「紫は?」
「今年は本来冬眠の必要な時期に異変があり、諸々の根回しなどで無理に起きられて疲労が溜まったのだろう。普段であれば浅い覚醒を何度か行われるのだが、泥のように眠られている」
「そう」
「お陰で、寝起きの気紛れで悪戯を仕掛けられる事もないので、仕事が捗って仕方がないがな――む、今のは失言だったな」
「貴女も大変ね……どうして、紫の式になんてなったの?」
「運命だ。そうとしか言えん」
お二人は、どこか似ている気がします。
お優しく、時に厳しく、聡明で何を飾らずとも凛とした立ち姿が映える、理知的な佇まい。
「「ずずっ」」
「くすっ」
まったく同じ拍子で緑茶の入った湯飲みを傾けるお二人に、思わず笑ってしまいます。
私も何時か、お二人のような素敵な大人の女性になれるでしょうか。
「ん? どうした、突然笑い出して」
「い、いえ。お二人とも、素敵だなぁって」
「随分と唐突だな。おためごかしで褒めても、修行や試練に手抜きなどしないぞ」
「素直に褒めているのよ。素直に受け取りなさい」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
「くすくすっ」
あぁ、本当に素敵な方々だなぁ。
こんなにも素晴らしい目標を目指せる私は、間違いなく果報者なのでしょう。
アリスさんの加わった、何時もより少しだけ明るい朝食で、私は笑いながらそんな事を考えていました。
◇
時刻は、太陽が真上から西日になろうかという頃合い。
わざわざ、朝一番から藍に呼び出されて始まった彼女との交渉もようやくまとまったので、私は帰り道として開けられたスキマの中を上下左右も解らないまま一人テクテクと歩いていた。
まったく、あの頑固者め。
頭が固いとは思ってたけど、あそこまでとは……
まぁ、お互いのギリギリまで譲歩を引き出せた分、今回はこちらの勝ちとしておくべきか。
先程まで居た紫の家は、実は幻想郷内でもトップシークレットの場所であり、私もその正確な位置を知らない。
訪れる時はスキマを通り、帰りもスキマだ。した事はないが、あの家の外は空間が歪曲しているっぽいので、無理に出ようとしても結局はスキマで送られるのと大差のない結果になるだろう。
或いは、幻想郷の外に放り出されるか――おぉ、くわばらくわばら。
幻想郷の創始者である紫には、味方も多いが敵も多い。その上に、本人が敵を作るのを楽しんでいる節もあるから余計に性質が悪い。
寝込みを襲われてどうにかなるたまではないのだが、その一人ひとりを一々相手にするのも面倒なので、最も襲撃し易い自分の家を隠しているのだと考えられる。
それと、もう一つの理由は自分の胡散臭さを助長させる為の、その一環として。
時として、私の中にある原作知識が武器になるように、自分の情報を相手に何も与えないというのも、情報戦では十分な武器になり得るのだ。
文屋で鼻の利く烏天狗辺りなら何か掴んでいるかもしれないが、藪を突いてヤマタノオロチを出す気はない。
そんな、適当な考察などをしつつスキマを抜ければ、山中らしき風景の中に建てられた割と大きな長屋の庭へと出て来れた。
弾幕ごっこも余裕で出来そうな広さの庭には、沢山の野良猫たちがのんびりとだらけている。
ここが、橙が猫たちを使役する為に奮闘している場所である、マヨヒガだ。
伝承では、この屋敷へと迷い込んだ人間が室内から何かを持ち出した場合、その者には幸福がもたらされると言われているのだが、私にはどう見てもただの長屋にしか見えない。
山の中であるはずなのに、この空間だけが切り離されたかのように木々が生えておらず、異変の時は屋敷の内部が迷宮化したとも聞いているので、隠された機能が色々とあるのだろう。
「せいれーつっ! 整列だってばーっ!」
そんな、ある種の陸の孤島と化したマヨヒガの庭では、先に帰っていた橙が必死に他の猫たちへと威勢良く鳴いていた。
肝心の猫たちは完全に眼中にないご様子らしく、時折反応する子も明らかに橙をあしらう素振りで従う気配など欠片も見えない。
良く見れば、橙以外の猫たちの中にも尻尾が二股に分かれかけている者が何匹か確認出来るので、普通の猫よりは知恵者が多いのかもしれない。
「ねーみんなー、言う事聞いてよー。わぷっ、顔舐めないで――ひゃっ、尻尾で遊んじゃ駄目だよ――あ、こら、マタタビは後で上げるからっ――もー、にゃー!」
チェン、テラカワユス。
凄いな。藍は、こんな可愛い生き物に厳しい修行を付けながらあの自制心を保ってるんだ。
私なら、一分で陥落して甘やかすと確信出来るね。
「むー――ぁ……」
橙の奮闘劇を無言で眺めながらほっこりしていると、不貞腐れていた彼女が私に気付いた。
「お、お恥ずかしい所をお見せしました……」
「頑張っているわね」
「……恐縮です」
ふむ――橙に用事があったから出口をここに設定して貰ったんだけど、後回しにしてちょっとお手伝いをしてあげよう。
先程のやり取りから見ても、橙自身の頑張りが空回りしている印象を受ける。
自前で作った人形を動かす私とは違い、最初から意思を持つ者を従えようというのだ。その難度は、推して知るべしである。
努力に結果が伴わないというのは、中々に辛い事だ。
しかし、周りが全てをお膳立てしても、本人の身に糧とならなければ意味がない。
それでも、これぐらいの助力ならば藍も許してくれるだろう。
私では、いまいち良いアドバイスなどが出来そうにないので、ここは先日から私の右腕に巻かれたリストバンドの効果をお目に掛ける事にする。
地霊殿で起こった一件に対する謝罪の証として渡されたもので、その漆黒の素材は皮に近く、防水の為か光を当てれば僅かに光沢が見えた。
これには、とある式が込められているのだ。
「――来なさい」
ブラックキャットかもーん!
「――にゃっはぁ! お呼びかいお姉さん!? 何でもするから何でも言ってよ!」
リストバンドに私の魔力を込めると、地面に開いたスキマから勢い良く火車の少女が飛び出して来た。
ん? 今何でもって――
「どんな理由があっても、女の子が「何でも」なんて他人に口にしては駄目よ」
「はーい」
出て来たお燐の頭を撫でながら、彼女の発言をたしなめておく。
これが、あの事件で私が得た権利。
腕輪の力を使えば、私はどこであってもお燐を召喚出来るようになった。しかも、帰る時は自分の足で帰らせるという割と鬼畜仕様だ。
相手の都合もあるだろうと考え、用事があって手が離せない時は一度だけ呼び掛けを拒否出来るよう式を調節し直して貰ったりもしたが、この状態のお燐は基本的に私の命令に逆らう事が出来ない。
某反逆の黒仮面のように、こちらの意図を無視した形で願いが叶えられても問題なので、渡された後何度もお燐を呼び付け、術に込められた「命令」の線引きも細かに確認を取っている。
「橙、この娘はお燐。地底に住む火車の妖怪よ」
「は、初めまして!」
「こっちの娘は橙。貴女の式を憑けたあの九尾の式神の――まぁ、一番弟子といったところかしら」
「へぇ、あの狐様ってこういう娘が好みだったのかい? 同じ猫同士、仲良くしようじゃないか」
私を介した自己紹介によって、挨拶し合う二人。
地底の猫事情は知らないし、途轍もなく安直な考えだが、お燐の方が妖気が高く面倒見も良さそうなので、橙と知り合わせておいて損はないだろう。
「お燐、橙はここに居る猫たちを従えたいと思っているの。貴女の知っている技術や知識があれば、出来る範囲で手助けをしてあげられないかしら」
これは、命令ではなくお願い。「~しろ」などという断定の口調であり、かつ同時にリストバンドに魔力を流さない限り式の効果は発揮されない。
つくづく、こちらの性格を熟知した権利だと感心してしまう。
単なる思いつきなので、断られても特に困る事はない。それならそれで、お燐と橙を遊ばせつつ自分の用事を済ませるだけだ。
「ふーん――うん、良いよ。お姉さんのお願い事だし、私も協力するよ」
「あ、ありがとうございます! アリスさん! お燐さん!」
「別段、どっちが偉いって訳でもないんだ。お燐で良いし、行儀だって気にしないでよ」
腰に手を当てながら、相変わらず人懐っこい笑顔で橙に答えるお燐。
どうやら、二人を会わせたのは正解だったようだ。
善は急げと、お燐は猫たちを相手に実演を披露してあげるらしい。
適当に歩を進めた後、猫たちがある程度まとまっている場所の前に立つお燐。
「見てなよ――に゛ゃ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「ふしーっ!」
「にゃーっ!」
「ふーっ!」
爪先立ちして見下ろしながら、全力で咆哮を上げるお燐に対し、身の危険を感じた猫たちも即座に背中を丸めて威嚇を返す。
こう着状態がしばらく続き、次第にお燐の気迫が他の猫たちを圧倒していく。
そして、遂に敗北を認め大人しくなった猫たちは、指示を待つかのようにお燐を見上げだした。
「ほら、整列しな」
「ふあぁぁぁぁぁぁっ」
両手を叩いて命令するお燐に従い、粛々と移動を開始する猫たち。
それを見ていた橙の目に、驚きと尊敬が入り混じった星が瞬き、口から言葉にならない感動の声がこぼれた。
「当たり前だけどね、獣ってのは自分より強い奴に従うもんさ。こうやってこっちが格上だって事を解らせりゃ、とりあえずは言う事を聞いてくれるだろうよ」
流石は、火事とケンカが大盛況の地底出身。強引な力技が、これほど似合う少女も珍しい。
あ、ごめん。
地上にも霊夢とかフランとか、結構普通に居るわ。
萃香が一番似合いそうだけど、彼女は幼女枠だから除外だね。
「に、にゃ~っ」
「違う違う。もっと背筋を丸めて、腹の底から振り絞るんだよ」
「にゃーっ!」
「そうそう、その調子だよ」
二匹の猫が特訓を開始したので、マヨヒガの庭で手頃な岩に腰掛けた私は、転送魔法を使って家から肩幅ほどのデッサン帳と数種類のペンを引っ張り出した。
この転送魔法、一見何でも取り出せる非常に便利な魔法に見えるだろうが、見た目ほど万能な訳ではない。
転送するものにはあらかじめ魔法による「印」を付けておく必要があるのだが、Aの印はAの魔法陣でしか取り出せず、Bの印もまたBしか取り出せない。全てにAの印を付けるとそれらが一斉に呼び出せたりもするが、それでも覚えておける数には限りがある。
呼んだものが、覚えていたものと違った時のあの何とも言えない気恥ずかしさは、そう何度も味わうものではない。
よって、今の私の記憶力では精々日常用で十個、緊急用で十個を設定して使い回すのが限界だったりする。
まぁ、そんな小話は脇に置くとして、私は一人空いた時間を使って洋服のデッサンを描き始めた。
私の服は、依頼で作製する事もしばしばだが、自分なりのプレゼントとして幻想郷の少女たちに渡す場合も多い。
奇をてらったものばかりでなく、普段着として彼女たちの魅力を精一杯引き出せる一着を考えるこの時間は、何百という服を作り続けた今でも色褪せる事のない有意義な趣味の時間だ。
服飾十年以上のキャリアは、伊達ではない。太さの違うペンを使い分け、筆の乗るまま一気に線画を描き上げていく。
今回は、季節感を出して桜色で攻めるか。上着は掛けボタンを増やしてオリエンタルな感じにして……うーむ。
「にゃあぁぁぁぁぁぁっ! ――あ、来たっ。来たよお燐っ」
「おぉ、やったじゃないか。一歩前進だね」
あーでもないこーでもないと、何枚もの紙に描いては捲っていく私の前で、とうとう橙に一匹の猫が反応した。
お燐の時のように一斉にではなく、その動作も単に懐いた猫のように擦り寄っているだけだが、文字通り舐められていた時よりは随分と大きな前進だ。
「お、お座り! わぁっ」
「喜び過ぎだよ、橙。でもまぁ、これで少しは目標に目処が付いたんじゃないかい?」
「うん! ありがとう、お燐!」
やはり、友情とは素晴らしいものである。
喜びから、両目に涙を溜めて何度も掴んだお燐の両手を上下に振る橙を見ながら、巡り会わせた私も優しい気持ちを胸に抱く。
こちらの作業も終わり、橙への用事もつつがなく終わったので、それからしばらくは初の部下となった白猫と三人一匹で戯れに興じる。
「クツシタ、お手!」
「なー」
「犬じゃないんだから……でも、何でそんな名前にしたんだい?」
「この子、他は白いのに前足二つの足首だけ黒いでしょ? それが靴下みたいだから付けたの!」
「可愛い名前ね。きっとこの子も喜んでるわ」
「そ、そうですか? えへへっ」
やだ、この娘ネーミングセンスあるわー。
中二病ネームしか付けられない連中に、聞かせてやりたいほどの純朴さだよ。
誰とは言わないし、あれはあれで恰好良いんだけどね。
橙とお燐とクツシタが遊び倒すのを眺め、空が夕焼けになった頃合いで、私はそろそろおいとましようと腰を持ち上げた。
「そろそろ行きましょうか」
「はいよ。橙、またね」
「はいっ。お二人とも、今日は本当にありがとうございました!」
「うなー」
彼女たちと別れ、お燐と一緒に見送られながら山を降っていく。
マヨヒガの開けた空間から木々の茂る山道へと入った途端、木の幹や草原に隠れ監視役だろう白狼天狗が一、二、三、四……烏天狗まで一人居るとは、少々驚きだ。
気配はないが、抑えた妖気は
でもこれ、警戒され過ぎじゃね?
私、何かしたっけ。
文とか、にとりとか、山の組織の妖怪とも結構仲良くやってるつもりなんだけどなぁ。
頭の中で首を捻ってみるが、とんと理由が思い浮かばない。
それでも、手や口を出して来ないところを見るに、どうやらこのまま大人しく山を去るなら見逃して貰えるらしい。
「――これで、良かったのかい?」
そんな中、先程までとは調子を変えて、私の隣を歩くお燐はうつむき加減でポツリと呟いた。
「えぇ、貴女は罰を受けているわ」
「違う。こんなの全然罰じゃないよ」
「罰は罰よ。紫が決めて、さとりが応じ、私が納得した貴女に課せられた罰。それで何も間違いではないわ」
「それじゃあ、お姉さんだけが悲しいじゃないか!」
何時の間にか、両手を握り締めているお燐の声には、やりきれない響きが強く込められている。
「あたい、知ってるよ。この首輪の式は、とっても強い呪いなんだろう? 今のあたいは、お姉さんの命令には絶対に逆らえない。例え、それがさとり様やお空を殺せって命令でも」
さとりの入れ知恵だろうか。彼女も、中々に残酷な事を教えるものだ。
私が、理由もなくそんな命令はしないと解っているだろうに。
藍がお燐に憑けた式は、本人の意識を残したまま肉体の操作だけを式神が代行するという、極めて強制力の高い呪縛だ。
道具の説明を受けた時、私では荷が重いと思えてしまったほどに。
「あたいは火車だ。
それこそ、魂が宿りそうだったほどに、か。
私は、次第に語調を強めるお燐に顔を向けず、立ち止まった彼女の隣で空を見上げる。
「あたいだったら、さとり様やこいし様、お空があんな目に遭わされたら絶対にソイツを許さないっ。喉笛を噛み千切って、ぐちゃぐちゃにして、怨霊にした後永遠にこき使っても物足りやしない!」
この娘は、おそらく今言った状況を想像し、自分と私を重ね過ぎてしまっているのだろう。
強い欲望には抗えない妖怪という身にあって、お燐は私に行った行為を反省し、悔いてくれている。
だったら、言う通りにさとりを殺して来いと命令すれば、きっとこの娘は全力で抵抗するはずだ。
心のままに動き、語る。この娘は、本当に裏表のない娘らしい。
あの捻くれ者が飼い主で、よくぞここまで純粋な娘が育つものだと感心してしまう。
それとも、捻くれている性根の奥には、この娘のように素直な部分がまだ少しは残っているのだろうか。
「なのにっ。どうして――どうしてお姉さんは、あたいを許したりなんてしたのさっ?」
「――憎しみは、何も実らせないわ」
途方もない闘争と歳月の果てに、因縁を持つ怨敵へと大妖が告げた万感の一言。
気絶したお燐に対し、刃を振り下ろし掛けた私が言って良い台詞ではないだろうが、それでも今のお燐にはそう伝えたい。
憎しみがないと言えば嘘になる。怒りがないと言えば嘘になる。
だが、その感情に縛られ、流され、お燐を虐げて良いとは思わない。
例えそれが、感情の薄さという私の欠陥から来た結論なのだとしても。
実らせないものを無理に振り撒いても、止まらない連鎖が虚しく繰り返されるだけだ。
私は、あの時止まる事が出来た。それで十分だし、それ以降はもう必要ない。
未練や悔恨から後ろを向いても、そこで立ち止まってはいけないのだ。前を向いて、上を向いて――同じ場所に留まるだけ、下に居るあの娘たちに足を置き続ける事になるから。
「償いたいというのなら、罰とは別に貴女が自分で償いなさい」
あれから時間が経過し、私にとってあの娘たちの死に鎮魂を捧げ続ける事と、お燐が罪を償う事はもう別の事柄に分けられてしまっている。
お燐が罰を受けた時点で、私の復讐は終わったのだ。
そして、一生を掛けて償えと言うには、妖怪の生は余りに膨大過ぎる。
千年憎み続ける事は出来るだろうが、千年贖罪を強要する事はきっと出来ない。よしんば出来たとしても、それはもう別の何かに変わってしまっているだろう。
「他人から与えられた罰が終わっても、貴女の罪が消えてなくなる訳ではないわ。贖罪とは、自分の意思で行うからこそ意味があるのよ」
「贖罪……自分で、償う……」
私の言葉を反芻するお燐。
本来、この娘の咎はルールを破ったというその一点だけでしかない。
私を襲った事やあの娘たちを殺した事は、むしろ恐れられるべき妖怪として正しい行為だからだ。
だが、それでも彼女が償いたいと想ってくれるのなら、私はそれを受け入れたい。
「後は、貴女次第ね」
「……難しいよ」
何時か今の記憶が風化し、風化した事すら忘れてしまうまで、私はあの娘たちの鎮魂を続けるだろう。
しかし、そんな私の我が侭にお燐を付き合わせる気はないし、強要する気も毛頭ない。
罪も、咎も、お燐が自分の意思で理解し、そして背負うからこそ価値を持つのだから。
「そうね。でも、時間はあるわ。ゆっくりで良いから、解るように努力をなさい」
「……うん」
ひとしきり頭を撫で続ければ、何時も通りの元気な表情とまではいかないものの、ようやくお燐が顔を上げてくれた。
さて、暗い話はおしまいだ。
お燐を落ち込んだまま帰したとあっては、後でさとりから小言を言われてしまう。
元々、堅苦しい説教などは私のキャラではないのだ。美少女を愛でる趣味はあっても、虐めて楽しむ趣味はない。
巫女さんとか、神さんとか、適任ならば幾らでも居るので、またお燐が悩みだしたら今度はそちらにお願いしてみよう。
「さっきは、橙を助けてくれてありがとう。ご褒美に、人里で何か美味しいものでも奢ってあげるわ」
「ほんとうかい!? だったら、大通りで見掛けたお好み焼き屋に行こうよ! 大盛りご飯と一緒で食べたいからさ!」
「お燐は大阪妖怪ね」
「おおさか?」
「気にしないで。甘いものが大丈夫なら、ついでに最近出来たクレープ屋にも寄ってみましょうか」
食べ物で釣るのは卑怯だが、ここは勘弁して欲しい。
落ち込んでいる時ほど、美味しいご飯は元気の活力だ。
近々収入も入る事だし、ここは一つ財布の紐を弛めてお燐と人里の店を冷やかして回ろうではないか。
「ふふっ、やっぱりお姉さんは素敵だねぇ。死体になったら、絶対運んであげるからね」
「口説き文句としても零点ね。今の所死ぬつもりはないし、貴女に運ばれるつもりもないわ」
やはり、お燐は私の死体を諦めていないらしい。直接危害を加える気はもうなさそうだが、それが逆にその本気度を示しているようにも思えてしまう。
「そんな事言わずにさぁ。ねぇ、良いじゃないさ、お姉えさぁん」
「駄目よ。諦めなさい」
いっその事、クリリンかアナンダの如く空中で爆散する最期を想定しておくべきか、などとおバカな事を考えつつ、猫撫で声で擦り寄ってくるお燐をあやす。
許す、許さない――今はどちらも選べない。だから、どちらも選ばない。
罪には罰を、咎には責を。
この娘の償いの道に、どうか赦しがあらん事を。
夕焼け空の下、私たちは終始じゃれ合いながら、妖怪の山を降っていった。
◇
追記。
後日、あの日と同じく日の出頃から八雲家にお邪魔していた私は、藍が橙に包装した紙袋を渡す場面に立ち会っていた。
袋の中身は、橙の新しい洋服と帽子だ。
洋服は私、帽子は藍の手作りである。
あの日の相談事は、日頃から頑張る橙に贈り物がしたいので、春用の洋服を作って欲しいというものだったのだ。
導師服を模した、桜色で長袖の薄手服に、紺のストライプ柄をした膝丈よりやや上のミニスカート。そして、黒の長いニーソックス。
感極まって泣き出してしまった橙に、対処が解らず僅かに動揺している藍の姿が、とても新鮮だった。
師も、弟子も、お互い素晴らしい人物と出会えたものだ。
早速着替えてくれた橙を、
その後、皆に自慢しようと橙が八雲家を去ると、私と藍で再びあの時の論争が勃発した。
即ち、橙に履かせるスカートの長さについてだ。
スカートの丈は膝より下であり、その清純さを力強く説く藍に対し、膝より上にラインを敷く事で脚線美を強調し、そこで生まれる絶対領域の素晴らしさを切々と語る私。
譲らない両者の主張は、本日も真っ向から対立したまま無為に時間だけが過ぎ去っていく。
互いの想いと意地をぶつけ合い、議論を白熱させながら同時に歩み寄れる新しい道を模索する私たち。
幻想郷は、本日もすこぶる平和だった。
ここに、知的そうな美人が二人ほど居るじゃろ?
どっちもザンネンなんじゃ……
お燐はこんな感じになりました。
もうちょっと厳しくしたかったのですが……酷い目に合わされる役は、責任を持ってアリスが引き継ぎますのでご安心を!
さて、次はリグルかみすちーか――めーぱちぇでバトル物とかも良いかもしれませんね。