夜の闇が更に増し始めた頃、空からポツポツと大粒の雨が降り出して来た。
「魅惑の妖精」亭に居た客達も雨が激しくなる前にと次々と勘定を済ませて出て行ってしまった。先程まで大盛況だった店の中に残った客は数人程度になってしまい、賑やかな雰囲気は一変して静かな物へと変わった。
「嫌な雨ね。これじゃあ客足が止まっちゃうわ」
指名を入れてくれていた客が帰ってしまって手持ち無沙汰になったジェシカが、同じく相手をしていた客が帰ってしまったルイズの横で呟いた。
「やっぱり雨の日はお客さんが少ないの?」
一人呟くジェシカにルイズが声を掛ける。
「そうね。まぁ雨宿り代わりに入って何も注文されないくらいなら来ない方が良いけど。雨が降るとみんな家へと急ぐ人が多いからね」
退屈そうに爪を弄りながら喋るジェシカにルイズはふぅん、と小さく呟きながら店内を見回した。
まばらになってしまった客達を相手にする数人の少女達を見ていると、何時もの忙しさが無くなって何処か寂しさを感じさせた。
「なぁ、ルイズちゃん。カズマが何処行ったか知らねぇか?」
暇になった厨房から男が一人出てくると、ルイズに話し掛けた。
「カズマ? 厨房で働いているんじゃないの?」
「いや、それがよぉ……今日はあまり忙しくないからちょっと休憩に行かせたんだよ。そしたら戻って来ねぇし、真面目に働く奴だったからサボるとも考えられなくてな」
「お部屋かな? ちょっと見てくるわ」
男の話に頷いたルイズはジェシカに許可を貰って屋根裏部屋まで向かう。
屋根裏部屋には誰も居なかったが、予備の服が一枚無くなっていた。更には使った事のない筈の化粧道具が出されて使われた跡があり、高級そうなドレスが一枚、無造作に床に転がっている。
「これって……姫様の?」
ドレスを持ち上げると、嗅ぎ覚えのある香水の残り香がルイズの鼻をくすぐった。
何か、自分の知らない所で何かが起きている。
ルイズは屋根裏部屋を飛び出して裏口から外へと出た。
徐々に激しさを増す雨の中で城の兵士達が怒号を上げながら通りを走り回っている。その中の一人に近寄ったルイズは呼び止めた。
「ちょっと、一体何があったの?」
兵士はキャミソール姿のルイズを見るなり煩そうに手を振った。
「酒場女風情を相手にしている暇はない! とっとと店に戻れ!」
「お待ちなさい」
ルイズはキャミソールに着けていた小さなポーチからアンリエッタからの書簡を取り出して突き付ける。貴族とバレた日から常に持つ様にしていたのだ。
「私は姿こそこんなですが、陛下直属の女官です」
兵士は書簡とルイズを交互に見てから青ざめながら直立した。
「し、ししし、失礼致しましたぁ!」
「良いから、話してちょうだい」
兵士は周りを気にする様に見回した後、小声で話し始めた。
「じ、実はシャン・ド・マルス練兵場の視察の帰りに、陛下がお消えになられまして」
「まさか……また「レコン・キスタ」が?」
「わかりません。賊はどの様に陛下を拐かしたのか……馬車の中から忽然と消えたのです。まるで霞の様に」
「その時陛下の警護は誰が?」
「新設の銃士隊です」
「ありがとう。所で、馬はないの?」
兵士は首を傾げながら頷いた。
ルイズは苛立った様に溜め息を漏らした後、書簡をポーチにしまうなり王宮へ向かって駆け出した。
カズマ……一体今、何処に居るの!?
激しくなる雨が身体を濡らすのも構わず、ルイズは街を駆けた。
馬を走らせていたアニエスはリッシュモンが住む大きな屋敷の前で止まった。
馬から降りて忌々しげに屋敷を見回した後、アニエスは門を叩いて大声で来訪を告げた。すると門に付いていた窓が開き、カンカラを持った小生が顔を出した。
「どなたですか?」
「女王陛下の銃士隊、アニエスが参ったとリッシュモン殿にお伝え下さい」
「……こんな時間にですか?」
訝しげに話す小生にアニエスは今が零時を回り始めたのを思い出した。
「火急の要件です。是非とも取り次ぎ願いたいとお伝え下さい」
小生は面倒臭そうに奥へと消え、暫くすると門の閂を外して開いた。
馬の手綱を小生に預けたアニエスは屋敷の中へと入っていった。
暖炉のある居間に通されて暫くすると、寝間着姿のリッシュモンが現れた。
「火急の要件と聞いたが、私の眠りを妨げるに値する物なのだろうな?」
剣を下ろしたアニエスに皮肉たっぷりに言うリッシュモン。
「女王陛下が、お消えになりました」
瞬間、リッシュモンの眉がピクンと動いた。
「拐かされた、と言うことか?」
「現在調査中です」
「なるほど、それは大事件だ。しかし、誘拐騒ぎはこの前起きたばかりではないか。またアルビオンの陰謀かね?」
「調査中です」
「調査中、ねぇ。全く、君達軍人や警察からはその言葉以外出てこんのかね? 当直の護衛の隊は? まさかこれも調査中かね?」
「我等、銃士隊でございます」
リッシュモンは呆れた様にアニエスを見ながら溜め息を漏らした。
「全く、君達は無能である事を証明する為に新設されたのかね? だから陛下に申したのだ。剣や銃なぞ所詮は魔法の前では玩具に過ぎん。平民が寄って集った所で、メイジ一人にも敵わぬ」
アニエスは表情を変えずにジッとリッシュモンを見つめた。
「戒厳令の許可を。街道と港の封鎖許可を頂戴したく存じます」
リッシュモンは杖を振るってペンを手元に寄せて掴むと羊皮紙にサラサラと何かを書いてアニエスに手渡した。
「全力で陛下を探し出せ。見つからぬ場合は……分かっておるな?」
「はっ。この命で償いを」
アニエスは一瞬憎悪を込めた視線でリッシュモンを見た後、退出していった。
アニエスが部屋から出たのを見送ると、リッシュモンは急いだ様子で羊皮紙に何かをしたためた。
「リッシュモン様」
ノックの後、使用人の男が一人が部屋を入って来たのを見てリッシュモンは眉をひそめた。
「今は忙しい。要件なら後にしろ」
それだけ言って再び視線を羊皮紙に戻しペンを走らせ続けるリッシュモンに、使用人の男はそっと近付き囁いた。
「例の者、始末しました」
その言葉に、リッシュモンのペンを動かす手が止まった。
「そうか……。それで? 奴は何を喋った?」
「残念ながら、命尽きるまで口を開かず」
「ふん、口が軽い割には、一応硬さも持っていたという事か。まぁ、良かろう。可愛がってやったと言うのに、主を裏切る者等不要だ。死体は?」
「念の為身元が分からぬ様、顔は潰しました」
「ならば適当に捨てておけ。但し、服は多少まともな物……ふむ、商売女の様な格好にさせろ。客とのイザコザと周りも見るだろうからな」
リッシュモンの指示に頷いた使用人の男は一礼してから部屋を出て行った。
邪魔の居なくなった部屋の中で、リッシュモンは目を血走らせながらペンを走らせ続けた。
屋敷の外へ出たアニエスは小生から馬を受け取り、鞍嚢の中から黒いローブを取り出して鎖帷子の上から羽織り、フードを被った。
拳銃を二丁取り出すと、火薬が雨で濡れぬ様に弾を込めてからベルトへとたばさむ。最新の火打石式拳銃である。
剣の鯉口を切って完全に戦支度が整った所で馬に跨ると、チクトンネ街の方から走ってきた少女がアニエスに駆け寄ってきた。白かったであろうキャミソールは泥と雨で汚れ、足は裸足だ。桃色の髪が頬と額にぺったりとくっ付いている。
「そこの貴女! お願い! 馬を貸してちょうだい! 急いでるの!」
突然現れ馬を要求してきた少女を訝しげに見た後、アニエスは手綱をしっかりと握った。
「断る。私も急ぎの用があるのでな」
馬を走らせようとするアニエスの前に、その少女は立ちはだかった。
「退け。もう一度言うが私も急ぎの用がある。お前の様な商売女の相手をしている暇はない」
少女はアニエスの言葉を聞くなりポーチから書簡を取り出して突き出した。
「私は陛下直属の女官よ! 警察権を行使する権利があるわ! 貴女の馬を陛下の名において接収します! 直ちに下馬なさい!」
「陛下の女官?」
その言葉に、アニエスは少女の顔をマジマジと見た。
格好こそ商売女の物ではあるが、雨で濡れた顔には気品が感じられた。
「ならば、名乗られよ。杖こそ持たぬが此方も貴族だ」
アニエスの言葉にその少女、ルイズは書簡をポーチに仕舞って胸を張った。
「陛下直属の女官、ド・ラ・ヴァリエール」
ラ・ヴァリエール。その名前には聞き覚えがあった。
「ほう、では貴女が……」
「私を知っているの?」
「お噂はかねがね。お会い出来て光栄至極。馬を貸す訳には参らぬが、事情を説明致そう。さぁ、お手を」
アニエスが差し出した手をしっかりと掴み、ルイズはアニエスの後ろへと跨った。
「貴女、何者なの?」
後ろからアニエスに問いかけながら、ルイズは頬と額に張り付いた髪を指先で払った。
「陛下の銃士隊。私は隊長のアニエスと申す」
ルイズは先程の兵士との会話から出た「銃士隊」と言う言葉に激昂した。
「あんた達何やってたのよ! 陛下をみすみす拐われるなんて! まさか護衛中に寝てたんじゃないでしょうね!?」
「だから事情を説明すると言ったろう?とにかく、陛下はご無事だ」
「な、何ですって!?」
アニエスは馬に拍車を入れた。
雨が降りしきる夜の闇の中へと二人は消えていった。
雨も強くなり、深夜だった事もあって桐生とアンリエッタは安宿へと入った。
一番安い部屋を選びはしたが、最悪の部屋だった。
ベッドのシーツは湿り気を帯びており、まともに掃除されてない床の所々にはキノコが生えている。ランプは煤だらけで真っ黒だ。
「安いとは言え、金を取っていい部屋じゃねぇな」
眉を潜めながら言う桐生が振り返ると、アンリエッタが自分の肩を強く抱きながら震えていた。
「……どうした? 具合でも悪いのか?」
心配しながら駆け寄る桐生に、アンリエッタは青ざめた表情で首を振った。
「ご、ごめんなさい。雨が……」
「雨?」
「雨が……怖いのです」
アンリエッタの言葉に、桐生はウェールズと戦ったあの夜を思い出した。
愛していた男の死。それを目の当たりにするには、アンリエッタは幼過ぎた。
桐生は無言のままアンリエッタをベッドまで連れて乗ると、アンリエッタの肩を優しく抱いた。
「カズマ、さん……」
「……あんたは俺が買った女だ。暫くこうさせて貰う。今何が起きてもアンリエッタという女王には関係ない。今此処に居るのは……アンという俺が買った女だからな」
桐生はそれだけ言うと薄汚れた天井を見上げながら優しくアンリエッタの頭を撫でた。
「……うっ、うう……!」
桐生に抱き額を胸元に押し当てたアンリエッタは声を押し殺しながら、身体を震わて涙を流した。あの日から人前で涙を流す事を止めた少女の瞳からは、大粒の涙がまるで外の雨の様にベッドのシーツへと溢れ落ちていった。
桐生はただ黙ってアンリエッタの頭を撫で続けた。
どれだけ時間が経っただろうか。外の雨が小雨に変わりだした頃、アンリエッタは漸く落ち着いたらしく顔を上げた。頬は涙で濡れて塗ったファンデーションが溶けてしまっている。
「申し訳ありません、カズマさん……不甲斐ない姿を見せてしまって。また貴方に助けられました」
「また?」
「はい。あの夜……操られたウェールズ様に私が自制を忘れてしまった中、貴方は私を止めて下さいました。貴方は言いましたね。「言い訳と決意の区別もつかないガキが、一丁前に愛を語るな」と」
「……ああ」
「それでも、私は自分を止められなかった。貴方を、本気で殺そうとした。それでも貴方は、私を命懸けで止めてくれた」
桐生は黙ったまま、アンリエッタの顔を見つめた。
「あの時、実は私はホッとしていたんです」
「どういう事だ?」
「私も分かっていました。私の隣に立っているのが本当のウェールズ様ではないと。私はきっと……心の何処かで誰かに言って欲しかったんだと思います。私が間違っていると」
アンリエッタは切なそうに溜め息を漏らしながら言った後、桐生の瞳を見つめた。
「ですから、お願いです。私がもしまた何か愚かな事をしそうになった時は……私の命を奪ってでも止めて下さいませんか?」
「何だと?」
「本当は……ルイズにお願いしたいんですが、あの子は優しいから。だから代りに、貴方が……」
「お断りだ。餓鬼の命を奪う趣味はねぇ」
強くキッパリと言う桐生に、アンリエッタは言葉を詰まらせた。
「もしその時、俺が傍にいたら……また止めてやる。例え命に代えてもな」
そう言いながらアンリエッタから離れて立ち上がった桐生の背中に、アンリエッタは小さく頭を下げた。
その時、突然乱暴にドアが叩かれた。
「開けろ! 王軍の巡邏の者だ! 犯罪者が逃げた為順繰りに宿を回っている! ドアを開けろ!」
桐生とアンリエッタは互いに顔を見合わせた。
「私を探しているに違いありません」
「……仕方ねぇ」
桐生はそう言うと、アンリエッタに近付いて耳元で囁いた。
「ベッドに横になっててくれ」
「……どうするのです?」
「やり過ごす為に演技するさ。絶対にこっちを見るな。良いな?」
アンリエッタは頷くとベッドに壁に顔を向けた状態でベッドに横になった。
桐生はそれを見送った後、ジャケットとシャツを脱いで乱暴にアンリエッタの側へと投げ捨てて、上半身裸の状態でドアを開いた。
ドアの前には兵士の二人が立っていた。
「さっさと開けないか!中を」
「おい……」
早速中を確認しようとした兵士にドスの利いた声を出しながら桐生が立ちはだかる。
兵士達は中へと意識が行っていたが桐生の体格を見て思わず後ずさった。歴戦の戦士を感じさせる身体から並大抵の戦力では敵わない事が兵士の本能に呼びかけ始めた。
「人がお楽しみの最中に邪魔するってのはどういう了見だ?」
「だ、だから言ったろう!? 今は逃げた犯罪者を」
「生憎、此処に居るのは俺と、俺が買った商売女しか居ないんだがな。まさかお前等……人の楽しみを奪っておいてタダで帰ろうなんて思っちゃいねぇだろうな?」
拳を盛大に鳴らしながら凄む桐生に、兵士達は互いに顔を見合わせて生唾を飲み込む。
「せっかくこれからって時に邪魔しやがって……見ろ。女も茶々が入って気が萎えちまったじゃねぇか」
中には入れないながらも横になっているアンリエッタを兵士達に見せる桐生。
側から見れば確かに不貞腐れて壁に向きながら寝ている様にも見えなくもない。
「今ならこれからのお楽しみを邪魔しないでくれるなら、なかった事にしてやるよ。但し、これ以上邪魔するってんなら五体満足じゃ帰せなくなるが……どうする?」
桐生の最終確認に兵士達もこれ以上関わりたくなくなったらしく背を向けて歩き出した。
「くそったれ、こっちは仕事でやってんだっつうのに……」
「まぁまぁ、ピエール。終わったら一杯やろうぜ」
ブツブツ文句を言いながら廊下から消えた兵士達に桐生は小さく溜め息を漏らした。
「カズマさん……」
背後から聞こえたアンリエッタの声に桐生が振り返る。
アンリエッタはベッドの上で身体を此方に向けながら上体を起こしていた。
「何とか上手くいったぞ。もう兵士は来ないだろう」
桐生が微笑み掛けながらベッドへ近づきシャツを取ろうとすると、その手をアンリエッタが優しく掴んだ。
「カズマさん、その……背中のドラゴンは?」
アンリエッタは少し戸惑いがちに尋ねた。聞いて良いのかどうかを心配する様に。
シエスタ同様、やはり自分の背中に刺青、此方ではタトゥーになるんだろうが、それが入っているのは意外らしい。
「これは、俺の元の世界で入れた刺青ってやつだ。こっちではタトゥーと言うんだったな」
「あの……もし宜しければ、少し見させて貰っても宜しいですか?」
シエスタと同じ申し出をして来たアンリエッタに暫く黙ったままだった桐生は、ゆっくりと背中を向けた。
「不思議な姿のドラゴンですね……。このドラゴンは、何という名前なんですか?」
「応龍だ」
「オウ、リュウ?」
「俺の居た世界に伝わる伝説の龍だ。四龍と呼ばれる四匹の龍の長と言われている」
「何故その、オウリュウ? のタトゥーを?」
「この絵を描いてくれた人に、俺に相応しいと言われてな。もしかしたら……あの人は、俺の未来を予見していたのかもしれない」
桐生の呟きに、アンリエッタは小首を傾げた。
伝説では、応龍は仕えていた黄帝の敵である軍勢を破る為に大嵐を起こして勝利を掴んだ。しかし、それが原因で「神でありながら人を殺めた」として南方へと隠棲する事となってしまった。
以前シエスタが、応龍が自分に似ていると話していたのはあの日、「親殺し」の烙印を背負って組から離れた自分と応龍の伝説が似ているからなのかもしれない。
桐生はそろそろとばかりにシャツを着ようと振り返ってジャケットに手を伸ばそうとするも、アンリエッタは再び桐生の手を掴み握り締めた。まるで愛しい人の手を掴む様に。
訝しげにアンリエッタを見ると、桐生の手を掴んだまま立ち上がり、少し背伸びをして唇を重ねた。
突然の事に驚いた桐生はアンリエッタを少し無理矢理離すと、真っ直ぐに瞳を見つめた。
「何の真似だ?」
「……恋人は、いらっしゃいますか?」
「質問の答えになっていない」
「もしいないのなら……今夜だけで良いのです。私を、恋人の様に扱って下さいまし……」
そう言いながらアンリエッタは桐生の身体に抱き付いた。シャツ越しの胸の柔らかい感触が伝わり、漂う高貴な香水の香りが桐生の鼻をくすぐる。
桐生は暫く黙っていたが、ゆっくりと自分の身体を抱き締めるアンリエッタの手を解かせた。
「……何故、抱いて下さらないの?」
「俺は弱った女に付け入る様な真似はしない」
「貴方は先程仰ったじゃありませんか。此処で何が起きても女王には関係ないと。今の私は……アンとして貴方を求めているのです」
「確かに言ったな。そして、それもあんたの本心だろう。だが、あんたが求めてるのは俺じゃない。ウェールズの、愛する男の代りだ。それが分かった上であんたを抱く訳にはいかない。俺は、誰かの代わりにはなれない」
そう言って桐生はシャツとジャケットを乱暴に着ると、ベッドへと腰掛けた。
アンリエッタはそんな桐生を見つめた後、同じ様にベッドに腰掛けて首を振った。
「……ごめんなさい。はしたない女だと思わないで下さい。女王だ、聖女だと持ち上げられても私も一人の女。誰かの温もりが欲しくなる時があるのです」
桐生は黙ったまま、しかし肯定の意を込めて頷いた。
「そろそろ、話してくれないか? 一体、何が目的でこんな事をしている? みんなしてあんたを一生懸命に探している。そして、あんたは必死になって身分を隠して平民に紛れる為に身体を張っている。気まぐれで飛び出した訳じゃないのは分かっている。だが、未だに目的が見えない。あんたは何をしようとしているんだ?」
「……そうですね。そろそろ、キチンと話さなければなりませんね」
アンリエッタは小さく頷いて呟いた。その声には、先程まで弱々しさはなく、威厳のある物になっていた。
「実は、キツネ狩りをしておりますの」
「キツネ狩り?」
「ええ。キツネは利口なのはご存知ですか? 犬をけしかけても、勢子が追い立てても、決して容易にはその尻尾を掴ませたりはしません。ですから、罠を仕掛けたという訳です」
「罠、だと?」
「ええ。そしてその罠の餌は私。明日になれば、キツネは餌を取る為に躍起になって巣穴から飛び出す筈です。そして、巣穴から飛び出した所を捕らえるのが、今回の目的です」
桐生は顎に手を当てて考え込んだ後、アンリエッタへ顔を向けた。
「そのキツネってのは……一体何者なんだ?」
「アルビオンへの内通者の事です」
アニエスとルイズは馬に跨ったまま、リッシュモンの家の側の路地で息を潜めていた。雨は小雨に変わりはしたが、夏らしくない冷気が辺りに漂う。
アニエスはルイズの身体に自分が着ていたマントを羽織らせた。
「それで、事情っていうのは何?」
「一言で言うなら、ネズミ捕りだ」
「ネズミ捕り?」
「そうだ。王国の穀倉を食い荒らすばかりか、主人の喉笛まで噛み切ろうとする不遜なネズミを狩ろうとしている」
アニエスの説明にイマイチ事態を把握出来ないルイズは首を傾げた。
「もっと詳しく説明してちょうだい」
「悪いが今はそれしか言えない。……しっ! 来たぞ」
リッシュモンの屋敷から先程の年若い小生が出てきた。カンカラを持ちながら辺りを見回した小生は一度引っ込むと、馬を連れて再び現れた。
小生は馬へと跨ると、カンカラを持ったまま馬を走らせた。
アニエスはそのカンカラの灯りを目印に小生の後を追って馬を走らせる。
「ちょっと、あの子がそのネズミなの?」
ルイズが尋ねるが、アニエスは答えない。真っ直ぐに小生の持つ灯りを見据えて馬を走らせている。
小生の馬は住宅街を抜け、夜の妖しい彩りが濃くなった繁華街へと向かって行った。辺りは未だ女王を探す捜索隊と酔っ払いで溢れている。
チクトンネ街を抜け、更に奥へ進んだ所で小生の馬は路地へと入って行った。
アニエスは向かいの路地へ入り馬からルイズと共に降りると、息を殺して小生が出て来るのを待った。
すぐさま何処かに馬を預けたらしい小生が路地から出て来て、何処かへと小走りに向かい始めた。アニエスとルイズも直ぐに後を追う。
すると小生は少し離れた場所にあった宿へと入って行った。アニエスに促されるまま、ルイズは一緒に宿の中へと入る。
「ちょっと、一体何が起こってるの?」
疑問ばかりが浮かんで再度問い掛けるもアニエスは答えない。
少しごった返しているロビーを人を掻き分けて進みながら階段で二階に登る小生を見つけ、ルイズの抗議の声も聞かずに手を引いてアニエスが追いかける。
階段の踊り場から小生が入った部屋を確認すると、二人は暫し待ち人となった。
不意に、アニエスがルイズに耳打ちする。
「マントを脱いで私にしなだれかかれ。商売女の様に振る舞うんだ」
訳も分からないままルイズはマントを脱いでアニエスに寄りかかった。
アニエスの短い金髪はボーイッシュな雰囲気を周りに与え、ルイズは汚れながらもキャミソール姿だった為、端から見れば二人はいちゃつく騎士と商売女にしか見えない。
「そのまま自然にしていろ」
声こそ女ではあるが、凛々しい顔立ちから中性的な美青年に見えるアニエスに思わずルイズの頬が赤く染まる。
小生が部屋から出て来た瞬間、アニエスは咄嗟にルイズを強く抱き寄せ唇を重ねた。
突然の事で驚いたルイズが必死に抵抗するも、アニエスの力には敵わない。
小生は階段を降りる際にチラッと二人を一瞥したが、直ぐに視線を逸らした。いちゃつく騎士と商売女のキス。宿の中では珍しくもない。
小生が宿から出て行ったのを見送ると、やっとアニエスはルイズを解放した。
「い、いきなり何するのよ!」
「安心しろ。私は別に同性愛の趣味はない」
「私だってそうよ!」
怒りに声を荒げるルイズを無視して、アニエスが先程小生が出て来た部屋のドアへとなるべく音を立てずに近づいて行く。
「さっきの子はいいの?」
「あいつは飼い主に頼まれた使いに過ぎない」
小声でルイズと話したアニエスは扉に耳を澄ませた後、ルイズの耳に顔を近付ける。
「お前はメイジだろう? この扉を吹き飛ばせないか?」
「そんな荒っぽい事して良いの?」
「鍵が掛かってる筈だからな。ガチャガチャやってる間に逃げられたら意味がない」
ルイズは太腿のベルトに差していた杖を引き抜くとゆっくり深呼吸し、意識を集中させて小さく「虚無」の呪文を唱えると杖を振り下ろした。
発動した「エクスプロージョン」がドアを吹き飛ばしたのと同時に、アニエスが剣を引き抜いて中へと入る。
部屋の中では商人風の男がベッドに入ろうとしていた所だった。メイジらしく、手には杖がある。
男はそれなりの使い手らしく、入ってきたアニエスにも動じず呪文を唱えて杖を振るって突風を起こし鎧に包まれた身体を壁へ叩き付けた。
更に止めとばかりに呪文を口にするが、それをルイズが阻む。
男の顔の前で「エクスプロージョン」を発動し、衝撃に顔を押さえながら吹き飛ぶ男にアニエスは立ち上がって駆け寄った。
痛みに耐えながら床に転がった杖を取ろうとする男の腕を容赦なく踏付け、悲鳴が上がるのも構わずにそのまま体重を込めて何度も踏付けて腕をへし折った。
「動くな!」
剣の刃をを首に押し当てながら捕縛用の縄を腰から取って男の身体を縛り上げると、ベッドのシーツを引きちぎって猿轡にするアニエス。すると騒動から野次馬となった宿の客達が部屋を覗きに来た。
「騒ぐな! 指名手配の犯罪者を捕まえただけだ!」
アニエスの剣幕に、客達は一斉に散らばった。
アニエスは小生が男に渡したと思われる手紙を取って中身を確認すると笑みを浮かべた。そのまま部屋の戸棚や男のポケット等を調べて出て来た手紙を纏めると、一枚ずつ読み始めた。
「で、こいつ何なの?」
事の成り行きを見守っていたルイズが縛られた男を顎でしゃくりながらアニエスに問い掛ける。
「アルビオンのネズミだ。商人のなりをしてトリステインに潜伏し、情報をアルビオンへ流していた」
「つまり敵の間諜って事? お手柄じゃない!」
「残念だが、まだ解決した訳じゃない。親ネズミが残っているんでな」
アニエスは一枚の紙を手に取るとジッと見つめた。それは建物の見取り図であった。何やら幾つかの箇所に赤い丸が書き込まれていた。
「なるほど、劇場で密会を行っていた訳か。木の葉を隠すなら森に、人なら人混みの中にと言う訳だな。確かに密会をしても目立たない、良い場所ではある」
アニエスは男の猿轡を乱暴に取ると、睨み付けて見下した。
「先程小生から受け取った手紙には、「明日、例の場所で」と書かれている。その「例の場所」とはこの劇場の事だな? どうなんだ?」
男は不貞腐れた様な顔でそっぽを向いて口を閉ざす。
アニエスはそんな男に微笑を浮かべた。
「貴族の誇りに掛けて言わぬ、と申すか。なるほど、見上げた物だな」
アニエスの表情が冷たい笑みへと変わると、抜き身のままだった剣が胡座をかいている男の太腿へ深く突き刺さった。
ルイズがその光景に顔を歪めながら目を背けたのと同時に、男の口から痛みによる悲鳴が上がる。瞬間、開かれた男の口の中へアニエスが引き抜いた銃の銃口を捩じ込んだ。
「私は銃の扱いには慣れているが、完璧主義なんでな。当たらないかもしれない弾を撃つ様な真似はしたくない。だが、これなら大丈夫だ。このまま引き金を引けば、間違いなく貴様を殺せる」
男の怯えた視線を受けながら、アニエスは冷たい笑みを浮かべたままカチリと撃鉄を起こす。
「二つ数える内に選べ。恥を忍んで生きるか、誇りに死ぬか……最後に与えられた貴様の自由だ。生きたいのなら、そのまま頷け」
震えてガチガチと歯が硬い銃身を叩く音が響く中、男は何度も小さく頷いた。