ゼロの龍   作:九頭龍

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街女


第36話

 トリステイン王宮の通路の石床をかつこつと音を立てて歩く一人の女騎士がいた。

 板金で保護された鎖帷子を見に纏い、百合の紋章が描かれたサーコートをその上に羽織っているその騎士の短く整った金髪の下にある、澄み切った青い眼は迷いのない光が伺える。

 行き交う貴族や親衛隊のメイジ達はその騎士をすれ違い様に立ち止まっては訝しげに眺め、目を丸くした。

 騎士が腰からぶら下げているのは杖ではなく、細く長い剣だからである。

 

「ちっ。卑しい平民の女風情が、宮廷の通路を我が物顔で闊歩しおって」

 

「何故あの様な粉挽き屋の女にシュヴァリエの称号を……。お若い陛下は気でも狂ったか?」

 

「聞いた所によりますと、あの女は新教徒らしいですぞ。おお、汚らわしい……他国から我が国の品位を疑われかねん」

 

 騎士は所々から投げかけられるあからさまな中傷や視線には目もくれず、堂々と通路を歩み進めてアンリエッタの執務室へと向かった。

 王家の紋章が描かれたドアの前に控えた、魔法衛士隊隊員へアンリエッタとの対談の許可を申し込む。

 

「陛下は今、会談の最中だ。お引き取り願おうか」

 

「アニエスが参った、そう陛下にお伝え下さい。私は何時如何なる時でもご機嫌を伺える許可を頂いていますので」

 

 此方を見下す態度を露骨に出しながら冷たく言った隊員はその騎士、アニエスの言葉に苦い顔をすると執務室へと入り、戻ってくると入室の許可を与えた。

 アニエスが中に入ると、アンリエッタは高等法院のリッシュモンと会談をしているのが見えた。

 高等法院とは、王国の司法を司る機関である。ここには特権階級の揉め事、裁判が持ち込まれる。劇場で行われる文学作品や音楽の検閲、更には平民の生活に関わる市場等を取り締まるのだ。その政策を巡っては、行政を担う王政府との対立も珍しくない。

 アニエスの入室に気付いたアンリエッタは口端に微笑を浮かべると、リッシュモンに会談の打ち切りを伝えた。

 

「国民が税率の引き上げを快く思わないのはわかっています。しかし、今は非常事態なのです。国民に理解をして貰える様に、我々王族が働いて示しを見せなければなりません。国民もきっと、我々が真摯に働いていれば理解してくれる筈です」

 

「……仕方ありますまい。何よりも陛下がお決めなさった事。では、私はこれで」

 

 リッシュモンは深い溜め息を漏らしてからそう口にすると、アンリエッタに深く頭を垂れて扉の脇に立つアニエスにも目をくれず退室して行った。

 アニエスは椅子に座るアンリエッタの御前へまかり出ると、跪いて一礼した。

 

「アニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン、参上仕りました」

 

 アンリエッタは優しい微笑みを浮かべながら顔を上げる様にアニエスに促した。

 

「貴女が来てくれたという事は、調査は済んだのですね?」

 

「はっ。此方に」

 

 アニエスは懐から書簡を取り出すと、アンリエッタへと捧げた。アンリエッタはその書簡を受けてると、早速とばかりに開いて中身を確認する。

 そこには、アンリエッタがアニエスに依頼した、あの忌まわしき夜の調査の報告が書かれていた。あの日現れたアルビオンからの誘拐者、偽りの命を与えられ、人形として蘇ったウェールズが誰の手引きで侵入出来たかが書かれていた。

 

「手引きをした者がいる……そう取って宜しいのですね?」

 

「正確には、王宮を出る際に「すぐに戻る故閂を閉めるな」と念を押して命じ、出掛けた者が一名」

 

「そしてその入れ違いに、私をかどわそうとした一味が入って来た」

 

 苦しそうに呟くアンリエッタに、アニエスは頷いた。

 

「僅か五分の事です、陛下」

 

「それだけなら偶然で済まされる問題でしょう。しかし、貴女が調べてくれたこのお金は……説明がつきませんね」

 

 調査書には、その男が己の地位を確固たる物にする為にばら撒いた莫大な裏金の額も書かれていた。

 

「およそ七万エキュー……こんな大金、彼の年金で賄える物ではありません」

 

「然りに」

 

 アンリエッタの言葉にアニエスが同意を表す。

 

「その人物の屋敷に奉公する使用人に金を掴ませて得た情報ですが、アルビオン訛りを色濃く残す客人が増えたとの事です」

 

「その使用人を此処へ。更なる情報を提供して貰いましょう」

 

「残念ながら、昨日より連絡が取れません。恐らく……感づかれ、消されたかと」

 

「……昔の人は良い事を言ったわ。獅子身中の虫。まさにこの事ね」

 

 アンリエッタは深い溜め息を漏らしながら書簡を閉じた。

 

「「レコン・キスタ」は国境を超えた貴族の連盟と聞きます」

 

「彼には信念等ありません。お金でしょう。理想よりも黄金が好きな男。彼はお金でこの国を、そして私を売ろうとしたのです」

 

 押し黙ったアニエスにアンリエッタは椅子から立ち上がって近付くと、優しくその肩に手を這わせた。

 

「ご苦労様でした。貴女は本当に良くやってくれた。お礼を申し上げます」

 

 アニエスは首を振ってからサーコートの紋章を見つめた。百合をあしらった紋章……王家の印だ。

 

「私は陛下にこの身を捧げております。陛下は卑しき身分の私に姓と地位をお与え下さいました。私こそ、改めてお礼を申し上げさせて頂きたく思います」

 

「何を言うのです。貴女は先のタルブの戦で、貴族に劣らぬ戦果を上げたのです。貴女を貴族にする事に意義等ある筈もありません」

 

「勿体無いお言葉です、陛下」

 

 アニエスは瞳を閉じながら深く頭を下げた。

アンリエッタはそんなアニエスを優しく見つめながら頬を撫で再び頭を上げさせる。

 

「宮廷では苦労をなさってるようですね、アニエス?」

 

「生まれが生まれでございますから。未だに「ラ・ミラン(粉挽き屋)」と嘲笑されるのも、仕方なき事と思っております」

 

「生まれと魂の高潔さには何も関係ないと言うのに。どうしてこう貴族には、私を含め馬鹿な人が多いのかしら」

 

「陛下、御身を卑下してはなりませぬ」

 

「いいえ、アニエス。私も馬鹿だったのよ。私が唯一信頼する友人の……使い魔さんに言われたわ。「言い訳と決意の区別もつかない子供」だと。彼の言う通りだった。私は、王族としても人としても、まだまだ未熟である事を改めて思い知ったわ。未熟である以上、私もまだ貴女を嘲笑する馬鹿な人達と同類なのよ」

 

 自嘲気味に笑いながらも、アンリエッタの瞳には優しい輝きが秘められていた。

 

「例の男……お裁きになりますか?」

 

「……証拠が足りません。これで犯罪を立証するのは難しいでしょう」

 

 アニエスはそれならば、と低い声で言葉を紡いだ。

 

「陛下が新設された、この私めが率いる「銃士隊」にお任せ頂きますよう」

 

 ワルドの裏切り、タルブの戦、この前の誘拐事件でトリステインを守る魔法衛士隊はボロボロになってしまっていた。現在では、グリフォン隊を引き入れたマンティコア隊のみである。

 そこでアンリエッタが新たな兵隊として作り上げたのが、アニエス率いる「銃士隊」だ。人手不足から隊員は平民、更にはアンリエッタが女であるが故に身辺保護をしやすい女性のみで結成されている。銃士隊と名前の通り、魔法の代わりに最新のマスケット銃と剣によって戦う部隊だ。

 隊長が貴族でない事で他の隊との折衝や任務に支障をきたさない為、アニエスは特例で貴族の称号、「シュヴァリエ」と姓を名乗る権利が与えられた。

 しかし、アンリエッタはこれを特例にするつもりはない。これからも優秀な平民が現れ、戦果を上げれば誰でも「シュヴァリエ」の称号を与えるつもりでいた。

 あの忌まわしき夜の一件以来、アンリエッタはルイズ以外のメイジがどうにも信用出来なくなっていた。

 

「私共は宮廷の方々が申す様に卑しき身分の生まれ。卑しき者らしく、闇から闇へと葬る術も覚悟も持ち合わせております」

 

 アンリエッタは首を振って見せた。

 

「貴女こそ、そう自分を、自分の仲間を卑下するのをおやめなさい。貴女は私が認めた近衛騎士隊の隊長です。近衛の隊長と言えば規範は違えど、格で言えば元帥にさえ匹敵するのですよ?」

 

 アニエスは言葉を詰まらせた。

 

「誇りを持ちなさい。胸を張って歩きなさい。品位等後から付くものです。生まれた時から品位を持っている人間等居ません」

 

「……御意」

 

「貴女は計画通り、あの男の行動を張りなさい。私の読みが正しければ、明日に犯人であれば尻尾を出す筈です。その場所を突き止め、フクロウで報せなさい」

 

「……泳がすおつもりで?」

 

「まさか。私はあの夜に関わった者を、誰一人許しません。人も国も……絶対に」

 

 静かだが、瞳に強い憎悪の炎を灯すアンリエッタに、アニエスは一礼して退室した。

 アニエスは心からアンリエッタに感謝していた。自分に貴族の位と姓と、復讐のチャンスを与えてくれたから。

 

 

 ルイズが貴族とバレてから数日後の「魅惑の妖精」亭で、今日も桐生は皿を洗っていた。

 ルイズは指名こそまだ貰えないながらも、それなりに仕事をこなしてチップも貰える様になっていた。

 皿を洗いながら、桐生はここ数日のルイズの様子を思い返していた。

 ここ最近のルイズは少し変わったと思う。それも良い方に。今までは小馬鹿にしていた平民に対しても態度を改める様になったし、ジェシカを含めた店の女の子とも仕事終わりには談笑したり、貴族と平民の化粧の違いや流行り物の話に花を咲かせる事があった。

 我が子の成長を見守る父親の様に、桐生の口元には自然と笑みが浮かんでいた。

 

「おう、カズマ。皿洗いが随分上手くなったじゃねぇか」

 

 厨房で働いている男が出来立ての料理を出しながら、ジェシカ直伝の洗い方で綺麗になって積み重ねられた皿を眺めて笑顔で桐生に話し掛けた。

 

「しっかし、そんな何時までも冷てぇ水に手ぇ突っ込んでたらふやけっちまうな。ちょっと休憩して来いよ」

 

「良いのか?」

 

「ああ。今日は酒の注文ばっかで調理は少ないしな。代わりにやっとくからよ」

 

「なら、言葉に甘えるとしよう。悪いな」

 

 桐生は男に礼を言って洗剤にまみれた手を拭うと、煙草を吸おうとポケットに手を入れて裏口のドアを開いて外に出た。

 瞬間、何処からか走って来た黒いローブに身を包んだ女が桐生と出合い頭にぶつかった。

 女は思いっきり尻餅をついて痛みを耐える様に声を漏らす。桐生は慌てて女を引き起こした。

 

「す、すまん。大丈夫か?」

 

「だ、大丈夫です、ごめんなさい。あの、この辺に「魅惑の妖精」亭というお店があると聞いたんですが……ご存知ですか?」

 

 引き起こされた女は小さく頷くと、抑えた様な小声で桐生に尋ねた。

 

「それならここだが……」

 

 答えながら、桐生はその女の声に聞き覚えがある気がした。女の方もそうだったらしく、顔を隠していたローブの裾をそっと持ち上げて桐生を見上げた。

 そのローブの中にあった顔はーー

 

「あんたは、アンリエッタか? 何故此処に?」

 

 桐生の問い掛けにしっ! とアンリエッタは漏らすと、桐生の背に隠れる様に回り込んだ。

 すると、表通りから兵士達が鎧をガシャガシャと鳴らして走り回りながら怒声を上げているのが見えた。

 

「此処には居ない! あっちを探せ!」

 

「事が起きてからでは遅い! 何としても見つけ出すのだ!」

 

 どうやら余り穏やかな状況では無いらしい。

 アンリエッタは再びフードを深く被った。

 

「カズマさん、何処か身を隠せる場所はありませんか?」

 

 切羽詰まった様に言うアンリエッタを少し見つめてから、桐生はその小さな手を優しく掴んだ。

 

「この店で俺とルイズが厄介になってる屋根裏部屋がある。其処へ行こう」

 

 

 店の人間に見つからぬ様に注意しながら、桐生はアンリエッタを屋根裏部屋へと招き入れた。

 アンリエッタはローブを脱ぐと、ホッとした様に息を漏らしてからベッドに腰掛けた。

 

「とりあえず、一安心ですわ」

 

「悪いが俺はそうでもないな。一体何があった?」

 

「ちょっと城を抜け出して来たのですけど……騒ぎになってしまった様ね」

 

「当たり前だ。この間誘拐されかけたばかりだろう」

 

 まるで叱られた子供の様にアンリエッタは押し黙りながら肩を落とした。

 

「あんたはもうこの国の王なんだろう?こんな勝手な事が許される身ではないと思うんだか?」

 

「仕方がないのです。大事な用があった物ですから……ルイズが此処で働いているのは、報告で聞いておりましたが、直ぐに貴方に会えて良かった」

 

「とにかくルイズを呼んでくる。ちょっと待っててくれ」

 

 桐生が屋根裏部屋から出て行こうとすると、アンリエッタはベッドから立ち上がって駆け寄り桐生の腕を掴んで引き止めた。

 

「いけません」

 

「何故だ?」

 

「ルイズには、話さないで頂きたいのです」

 

「……ルイズに会いに来たんじゃないのか?」

 

「違います。私は、貴方に用があるのです」

 

 桐生はとりあえずアンリエッタを再びベッドに座る様に促してから椅子に腰掛けて腕を組んだ。

 

「どういう事だ? 俺に一体何の用だ?」

 

「明日までで良いのです。私を護衛して下さいまし」

 

「……何が何だかさっぱりわからねぇ。どうして俺なんだ? あんたの周りには強い兵士や魔法使いがいるだろう?」

 

「今日明日、私は平民に紛れなければなりません。また、宮廷の誰にもその事を知られてはならないのです。そうなると……貴方しか思いつきませんでした」

 

「……本当に他に誰も居ないのか?」

 

「ええ。貴方はご存知ないかもしれませんが、私は宮廷では独りぼっちなのです。若くして女王に即位した私を快く思わない輩も居りますし。それに……」

 

 そこでアンリエッタは口を閉じると、ドレスの裾を強く握り締めて俯きながら搾り出す様に呟いた。

 

「……裏切り者も、おります故」

 

 桐生はワルドの事を思い出しながらアンリエッタを見つめた。僅かに身体を震わせながら俯く王女は余りにも脆く、余りにも儚げに見えた。

 暫くの沈黙の後、桐生は深い溜め息を漏らしてから頷いた。

 

「良いだろう、他ならぬ王女様の頼みだ。引き受けよう」

 

「本当、ですか? ありがとうございます!」

 

「但し、条件がある」

 

 顔を上げて瞳を輝かせるアンリエッタに桐生は人差し指を立てて見せながら真剣な表情で言った。

 

「どんな目的があるかは知らないが……本当にヤバイと思ったら、無理矢理にでもあんたを連れて引き返すからな。王女だからじゃない。俺は目の前で女が傷付くとわかってまで危ない橋を渡る気はない。それだけは覚えておいてくれ」

 

 アンリエッタは暫く黙って桐生の顔を見つめた後、頷いた。

 

「よし、約束だ」

 

「では、出発致しましょう。この辺も安全ではありませんから」

 

「行くって……何処かアテはあるのか?」

 

「いえ。ですが街を出る訳にはいきませんから。とりあえず、着替えたいのですけど……」

 

 アンリエッタは自分の身を包むドレスを見つめた。白い、清楚な作りのドレスはローブで何とか隠れはするものの目立って仕方ない。

 

「一応数枚、ルイズが平民に化ける為に買った服ならあるんだが……」

 

 桐生と選んで買った服だけではやや不満だったルイズが、更に数枚服を購入していたのを思い出して鞄を見た。

 

「では、それを貸して下さいまし」

 

 桐生は鞄から適当に服を取り出すとアンリエッタに差し出した。

 服を受け取ったアンリエッタは桐生に背を向けるなり、無遠慮にドレスを脱ぎ始めた。

 桐生は咄嗟に顔を背けながら、初めてルイズに着替えをさせられた時の事を思い出した。年頃の娘なんだからもう少し恥じらいを持って欲しい……桐生は心の中で呟いた。

 

「シャツが……少しキツイですわね」

 

 ルイズの体型に合わせて買ったシャツは見事にアンリエッタにはサイズ違いだった。留められたボタンが今には弾き飛びそうな程にアンリエッタの胸がサイズの違いを強調している。見立て的に、胸のサイズはシエスタ以上、キュルケ未満と言った所だろうか。

 

「おい……それで外を歩くのか?」

 

 服を渡したのは自分ではある物の、桐生は訝しげにアンリエッタを見ながら言った。女の子にこんな格好をさせてると遥に誤解されたら怒られるじゃ済まない気がする。

 

「ですが、これなら逆に目立たないでしょう。これで良しとしましょう」

 

 アンリエッタはそう言って上から二つ、ボタンを外す。するとサイズ違いから胸の谷間を強調する様なスタイルになった。

 男からすれば目のやり場にやや困るが、王女らしさは幾らか消えて夜の街の女を演出出来ている。

 

「さ、行きましょう」

 

「ちょっと待て。それじゃあまだバレバレだぞ」

 

「えっ? そうでしょうか?」

 

 早速出発と意気込みを見せたアンリエッタに桐生が待ったをかける。

 確かに服装が変わって雰囲気は幾らか変わったが、髪や顔立ちからはそこらの者とは違う気品と上品さが醸し出ている。ましてやアンリエッタは王女だ。街にも顔は広く知られているだろうし、兵士達なら見間違う筈などない。

 

「髪型と……多少は化粧をした方がいいな」

 

「そうですか……では、やって下さいまし」

 

「えっ? 俺がか?」

 

「最近の平民の流行り等は知りませんし……お願いします」

 

 そう言ってアンリエッタは桐生に背を向けて椅子に腰掛けた。

 桐生は溜め息をつきながらアンリエッタの髪を弄り、ルイズ同様にアンリエッタも世間知らずなのだなと思った。

 「アサガオ」で綾子や理緒奈の髪を弄ってあげた時の経験を活かして髪型をポニーテールにし、化粧は薄めに施した。

 化粧品はルイズに店に出るならと桐生が買って来た物だが、ルイズは天性の美貌で勝負すると言い切って一回も使っていない。

 

「……ま、こんな物か」

 

 化粧を終えた桐生は手鏡を渡すと、アンリエッタは鏡に映る普段とは違う自分の顔にニヤニヤし始めた。

 

「ふふっ、これなら街女に見えますわね」

 

 アンリエッタは何処か嬉しそうに呟くと、椅子から立ち上がってその場でくるりと回って見せた。

 確かに、端から見たら陽気な街女に見えなくもない。我ながら完璧な出来だなと桐生は一人満足していた。

 準備が整った二人はこっそりと裏口から外に出る。夜空に輝く星々と二つの月が照らす中、少し温めの夜風が二人の頬を撫でた。

 ふと、路地に向かって歩きながらルイズに言っておかなくて良いのか、勝手に仕事場から抜けて良いのか、一瞬考えたが心の隅へそっと押し出した。

 今回はアンリエッタからの直々の依頼だ。一応ルイズにはそれで納得して貰えるだろう。

 路地に回ると、辺りには女王の失踪から厳戒態勢が引かれていた。チクトンネ街の出口には衛兵が検問を行っているのが見える。

 

「こりゃあ、抜けるのは簡単じゃ無さそうだな」

 

 桐生はあの、忌まわしいミレニアムタワーの出来事の後を思い出しながら呟いた。

 目の前で凶弾の雨を浴びて倒れた柏木を抱き抱え、その血で服を濡らしたが為に警察に追われた、あの夜を。

 アンリエッタも門の様子から息を飲んで頷いた。

 

「さて、どうするか」

 

「……私に考えがあります。お耳を……」

 

 アンリエッタは小声で桐生の耳元で何やら囁くと、桐生は一瞬眉をひそめたが、静かに頷いた。

 アンリエッタが桐生の腕に抱き着き、二人で寄り添いながら門へと近付いていく。

 

「待たれよ」

 

門の目の前まで来ると、検問をしていた兵士が二人の足を止めた。

 

「おいおい……一体何事だ? ここは何時から通るのに許可がいるようになったんだ?」

 

「……詳しくは言えないが、非常事態なのだ。悪いが二人とも顔を良く見せて貰おう」

 

 兵士はそう言って桐生の顔をチラッと見てから、アンリエッタへと顔を向ける。

 アンリエッタは怯えた様に桐生に擦り付きながら身を捩らせた。

 

「ん? 貴女は……いや、しかし……」

 

 兵士がアンリエッタの顔をマジマジと見始めると、桐生がアンリエッタの肩を強く抱き寄せた。

 

「おい、こいつは今夜俺の相手をするんだ。横取りは止めてくれないか?」

 

「あ、相手?」

 

 兵士は桐生とアンリエッタを交互に眺めながら口をパクパクと動かした。

 

「そうだ。高い金を払って買った女だ。せっかくお楽しみが待ってるっての邪魔するとは……野暮な野郎だぜ。何なら、お前にも女を紹介して貰える場所を教えてやろうか?」

 

「ぶ、無礼な! 私はその様な商売女等に金を使う気はない! 目障りだ! とっとと行けっ!」

 

 兵士は顔を赤らめながら声を荒げると顎をしゃくって二人に早く通る様に促した。

 桐生とアンリエッタはそのまま門を潜り、寄り添いながら歩き続ける。

 

「……やれやれ。あいつ、姫様を商売女扱いしやがった。後で知ったら気絶しかねないぜ」

 

 桐生が小さく呆れた様に漏らすと、大通りに出るなりアンリエッタが身体を小さく震わせて笑い始めた。

 

「どうした?」

 

「いえ、ちょっと可笑しくって。は〜……ドキドキしたぁ。でも愉快ですわね。こうして粗末な服を着て、髪型を変えて、軽く化粧をして……今さっきまで女王だった女が商売女に変わってしまうのですから」

 

 本当に楽しそうに笑うアンリエッタは今までルイズと共に会った時とは違い、年相応の少女の顔をしていた。

 

「おいおい、幾ら何でもそれは言い過ぎだ。より近い人間が見たら、あんたがアンリエッタだとすぐに」

 

「しっ!」

 

「えっ?」

 

「カズマさん、今はその名前を口にしないで下さい。何処に耳があるかわかりません。そうですね……短く縮めて、「アン」とお呼び下さいまし」

 

「アン……か」

 

「はい。今此処に居るのは、貴方に買われた商売女……アンです」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて囁くアンリエッタに、桐生も釣られてか自然と笑みが浮かんで来た。

 

「わかった、アン。それじゃあ暫く、側に居て貰うぜ」

 

「はい、カズマさん」

 

 アンリエッタは桐生の手に自分の指を絡めながら頷いた。

 

 

 トリスタニアの街の一角に、薄汚れた小さな宿屋があった。木造のその宿は所々が腐り、看板は文字が読めない程に雨風に削られてしまっている。

 所々穴の空いた扉を開くと、小さなランプに照らされた受付のカウンター越しに酒瓶を持ちながら本を読んでる小太りで髭面の男が座っていた。

 男はチラッと入って来た客を見る。

 夜風と共に入ってきたのは茶色いローブに顔を包み、身体を茶色いマントに包んだ人物だ。身体のラインから、女であるらしい。

 

「宿なら他を当たんな。生憎今日も満室だぜ。宿賃も払わねぇ虫共でな」

 

 男は酒瓶を持ってグビッと呷ると、派手にゲップをして見せながら言って再び自然を本へと移した。

 ローブの人物はそんな男に意を介した様子もなく近付くと、エキュー金貨を一枚受付のカウンターに置いた。

 

「赤い月と青い月が交わる部屋を……」

 

 ローブの人物から発せられたその声は、若さを伺わせる女性の物だった。

 男はその言葉に視線を再びローブの人物に向けると、金貨を受け取って鉄製の鍵を手渡した。

 

「月の交わりが行われるのは綺麗な場所とは限らねぇ。馬鹿な奴等に混じりたければ行きな」

 

 男はそれだけ言うと、また本へと視線を移して酒瓶を呷る。

 ローブの人物はそのまま狭い廊下の先にあるトイレへと入ると、唯一の便器の中へ手を差し入れて、底にある鍵穴に鍵を突き入れて回す。そして横から便器を押すと、ゆっくりと動いて地下へと通じる石造りの階段が現れた。

 ローブの人物は階段を降りていくと、後ろで便器が戻される音が響く。

 階段を暫く降りて鉄製の扉が現れ、飾り気の無いノブを掴んで開く。

 扉の先では宿のそのボロい外見とは裏腹に、薄い灯りが照らす広い酒場が広がっていた。

 酒瓶が幾つも並べられたバックバーの前で黒肌な体格の良い男達が酒を注いだり客と話し合っている。部屋の中には幾つもの丸テーブルが並び、それぞれには人相の悪い男達や派手なドレスや卑猥な衣類で歩く女達が酒を呑みながら話し合ったり、カードを楽しんだりしている。

 犯罪者御用達の裏酒場、「ストゥルティ」。トリスタニアの闇の全てが集まると言っても過言ではない秘密の酒場だ。此処には犯罪人、指名手配者、脱獄囚等あらゆる種類の人間が入り混じっている。

 ローブの人物は迷いなく奥のテーブルを目指して足を進める。

 目的のテーブルには三人の人物が腰掛けていた。三人共仮面を被り、黒い仮面の人物はだらしなく椅子に寄り掛かり、鉛色の仮面の人物は腕を組んでいる。白い仮面の人物はまるで寝ているかの様に項垂れている。「トライデント」だ。

 ローブの人物がテーブルに来ると黒い仮面の人物、レイヴンが姿勢を正して自分の前の椅子に掛ける様に促した。

 

「どうも、初めまして。依頼の話があると聞いたので待ってたよ」

 

 まるで友達に接するかの様に話すレイヴンにローブの人物は戸惑った様に身を捩ったが、言われるままに椅子に腰掛けた。

 

「早速だけど、依頼の内容を。僕達もあんまりこの街には居られないんでね」

 

 レイヴンが言うと、ローブの人物は少し俯いてから口を開いた。

 

「「ダングルテールの虐殺」……ご存知ですか?」

 

「ああ、知ってるよ」

 

 ローブの人物の問いにレイヴンは頷いた。

 「ダングルテールの虐殺」とは、二十年前にダングルテールという村で国家の転覆を図った異教徒の平民達が殺された事件の事である。企てを実行される前に災いの芽を摘むと言う名目で行われたその異教徒狩りはまさに虐殺の名の通り、女子供も殺されたとの事だ。

 

「私は、あの村の生き残りの一人です。私は、私達は国家の転覆なんて考えてなかった。なのに、突然汚名を着せられ、有無も言わさず殺された……!」

 

 ローブの隙間から涙をテーブルに零しながら話す相手に、レイヴンはさほど興味も無さそうに頭を掻きながら聞いていた。

 

「ずっと、調べて来ました。一体誰があの虐殺を考案したのか。トリステイン王家の側近に奴隷として近付き、あの虐殺の考案者を漸く突き止めたのです。その男を……殺して下さい!」

 

 ローブの人物は乱暴に懐から出した皮袋をテーブルに投げ付けると、開かれた口からコロコロとエキュー金貨が転がった。

 転がって来た金貨を摘み上げ、指先で弄ぶ様に回転させながらレイヴンが頷いた。

 

「お引き受けしましょう。それで、その男の名は?」

 

 問い掛けながらピンッとレイヴンが指先で弾いた金貨を隣に座るオーガが掴み取る。

 ローブの人物は顔を上げてレイヴンを見つめた。ローブの中、薄暗い隙間から覗く瞳には憎悪の炎が宿っていた。

 

「トリステイン高等法院、リッシュモン……!」


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