ゼロの龍   作:九頭龍

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夏休み


第32話

 今日も大地を焼かんばかりに熱い光を降り注がせる太陽が空に高く上がっている昼、トリステイン魔法学園にも夏休みが訪れた。

 午前の授業で今学期の締め括りとし、本格的な夏休みとなる明日に備えて帰郷する者への配慮として、午後は荷造りや仲間への挨拶への自由時間となった。

 終業の鐘が鳴って三十分程。殆どの学生達が今学期最後の昼食を楽しんでいる中、ルイズの部屋では二人の少女が睨み合っていた。

 一人は部屋の主でもあるルイズ。何時ものブラウスにスカート姿でループタイとマントを外した状態で腕を組んで目の前の少女を睨んでいる。胸元に垂らされた桐生からのプレゼントであるネックレスの翡翠色の石が、時折窓の外の陽の光に反射して神秘的な輝きを放つ。

 もう一人はシエスタだ。何時ものメイド服ではなく、草色のブラウスにブラウンのスカートと言った普段着だ。メイド服ではあまりわからない、そこそこに豊満な乳房がブラウスのお陰か主張をしている。以前メイド仲間から言われた、「脱いだら凄い」の体型は伊達ではない。

 事の発端はこうだ。授業が終わったルイズは桐生と昼食へ向かおうと部屋へと向かった。桐生には部屋の掃除をお願いしていたので、居るだろうと思って部屋の扉を開けると、そこには桐生ではなくシエスタが立っていた。

 シエスタ曰く、どうやら桐生はコルベールに呼ばれて会いに行っているらしい。なのでルイズは桐生を迎えに行こうとした所、シエスタに呼び止められた。

 シエスタはどうやらこの夏休みを利用して桐生をタルブの村へ招待しに来たらしい。しかし、桐生はルイズの断りなしには行けないとだけ伝えてコルベールの元へと行ってしまったようだ。だからシエスタはルイズに、桐生がタルブの村に行ける様に許可して欲しいと言って来た。

 その瞬間から、ルイズの機嫌はよろしくない。桐生が他の女性と一緒に出掛ける等許せない。

 

「……で?」

 

 話を聞いておきながら少しドスの利いた、ヤクザの様な声でルイズがシエスタに問い掛ける。

 

「ですから、カズマさんにも休日は必要だと思うんです。いっつもいっつも部屋の掃除やら洗濯やらさせられているカズマさんをタルブの村に招待して、普段の仕事に対する労いをしたいんですよ。」

 

 普段のシエスタならルイズに、貴族に対してこの様な強気な態度等取れない。しかし、恋する少女はその愛する男を勝ち取る為なら強気にも、小悪魔にも、大胆にもなれるのだ。

 

「何であんたの村にあいつを呼ぶ必要があんのよ? だいたいそんなの、あんたのご両親だって許さないんじゃないの? 娘がまた男を連れて来るなんて……要らない誤解を招くだけじゃない。」

 

「そんな事ありませんよ。私の父も母もカズマさんの事を凄く気に入ってくれてるんですよ。きっと歓迎してくれる筈です。それに……誤解してくれるなら私は好都合ですし。」

 

「あぁ?」

 

 シエスタの一言に只ならぬ感情を感じて更にドスの利いた声と目付きでシエスタを睨み付けるルイズ。今なら神室町でもチンケなチンピラくらいなら目だけで圧せそうな勢いである。

 しかし、シエスタは動じない。僅かながら何処か勝ち誇った様な笑みが口元に浮かんでいる。

 

「何よ、それ……どう言う意味よ?」

 

「いえ、別に? ただ、カズマさんがもし私と一緒になって村で住んでくれたらきっと一生懸命働いて頑張ってくれるんだろうなぁって。何処かの誰かさんみたいに突然クビにする様な人も居ないでしょうし?」

 

「なっ!?」

 

 ルイズが思わず声を上げる。ずっと心の奥で気にしていた事を突かれて組んでいた腕も離れてしまう。

 

「あ、あ、あんた……!」

 

「え? どうしたんですか? 嫌だなぁ……私、ミス・ヴァリエールの事だなんて一言も言ってないですよ? ただまぁ……あんな良い人をクビにするなんて理解出来ないな〜、とね? あ、もちろんこれもミス・ヴァリエールに対してじゃないですよ? まさか、ねぇ? 平民の私が貴族の方に対してそんな事……ねぇ?」

 

「こ、この……!」

 

 ルイズの身体がプルプルと震え始め、見えないオーラの様な物が部屋の中に充満する。今ここに居る二人の少女は、見方によっては龍虎が睨み合っている様に見える者もいるかもしれない。

 今にも取っ組み合いが始まりそうな雰囲気の中、開かれた窓から一羽のフクロウが入って来た。二人の視線を受けながらフクロウは迷わずルイズの左肩にとまり、羽で頭をペシペシと叩いて来る。

 

「痛っ! な、何なのよ、このフクロウは!?」

 

 痛みを訴えるルイズがフクロウに顔を向けると、嘴で書簡を咥えているのが見える。ルイズは書簡を手に取ると、押されている花押に表情を変えて書簡を開いた。

 

「何ですか、そのフクロウ?」

 

 ルイズの表情の変化から毒気が抜かれた様に何時もの表情で首を傾げながら問い掛けるシエスタ。

 ルイズは首を振って書簡を閉じると、シエスタに顔を向けた。

 

「シエスタ……悪いけど、カズマの事は今は諦めてちょうだい。王宮からの呼び出しが入ったわ。この一件は、私とカズマでやらなくてはならないの」

 

 ルイズの表情から深刻さを感じたシエスタは仕方なしに口をつぐんだ。

 目的を達成したフクロウが窓から飛び出すのを見送ったルイズはそのままコルベールの所にいる桐生を呼びに行こうとしてドアノブに手を掛けた所で、再びシエスタに向き直った。

 

「言っとくけど、カズマは私の使い魔なのよ。あんたに、ううん、他の誰かにだって、絶対に渡しはしないわ」

 

 言いたい事を言って少し満足したルイズがドアを開いて出て行こうとするのを、シエスタの言葉がそれを阻んだ。

 

「……使い魔だから、ですか。ミス・ヴァリエール、貴女は思っていた以上に弱虫なんですね」

 

「何ですって?」

 

 聞き捨てならない一言にルイズがシエスタを睨み付ける。

 しかし、そんなルイズの視線にもシエスタは動じない。ルイズとは違う、真っ直ぐな目でその視線を見つめ返す。

 

「使い魔だから、主人だから。そんなの自分の気持ちを隠す為の言い訳じゃないですか。素直にカズマさんの事を好きって言う勇気がないだけでしょう?」

 

「……随分知った様な口を利くじゃない」

 

「私は貴女と違って自分に素直なんです。それに……貴女には言ってませんでしたけど、私は一度カズマさんに告白しているんですよ」

 

「っ!」

 

 シエスタの言葉に言葉を詰まらせながら狼狽するルイズ。そんな話、桐生から聞いていない。

 シエスタはそんなルイズに構わず寂しげな笑みを浮かべて見せた。

 

「結果は……見ての通り、振られちゃいました。あの人には帰る場所がある。それを理由に断られてしまいました」

 

 ルイズの胸の中が酷くざわめいた。ホッとした気持ちもあるが、何処かシエスタを羨ましく思う部分もある。

 自分は、本当に桐生の事が好きなんだろうか。ワルドの時の様な、ただの憧れに過ぎないのか。それとも、常に側に居てくれる桐生への安心感が彼を離したくない理由になっているのだろうか。

 しかし、桐生の側に居る時、桐生と手を繋いだ時、桐生に抱き締められた時、感じるあの胸の高まりはワルドの時とは違う温かさを秘めている。

 

「でも、私はカズマさんを諦めた訳じゃありません。カズマさんが私を選んでくれなかったのは、私が嫌いと言う理由じゃないからです。だからミス・ヴァリエール……この際だからはっきりと宣言します」

 

 自分の気持ちの確認に気を取られていたルイズの思考はシエスタの声によって覚まされた。

 シエスタは胸元に手を当てながら穏やかな表情でルイズを見つめた。

 

「私はカズマさんに身も心も捧げる覚悟は出来ています。もし、カズマさんの心が貴女から離れたと思ったら……私は遠慮なく貴女からカズマさんを奪います」

 

 シエスタの戦線布告にルイズの中で炎が燃え上がる。

 私からカズマを奪う? そんな事……させる訳ないでしょ!

 

「上等よ。出来るもんならやってみなさい。私は誰にもカズマを渡す気なんてないんだから」

 

 ドアを閉めてコルベールの元へと向かうルイズ。その足取りは心なしか焦りを感じさせる物があった。

 一人ルイズの部屋に残ったシエスタは小さな溜め息を漏らして俯いた。

 

「あ〜あ、やっぱり駄目かぁ。カズマさんと一緒に私の家でお茶でも飲みたかったのになぁ」

 

 心底残念そうに呟いたシエスタはそっとルイズの部屋から出て行った。

 

 

 共に昼食を終えた桐生とコルベールは、研究所の外で紅茶を飲んでいた。

 強い陽射しを遮る様に周りに生えた木々の葉が作る影のお陰でそんなに暑さを感じない。時折吹く熱を含んだ風は都会のベタついた物とは違って爽やかで心地良い。

 

「そんな事が……」

 

 コルベールは紅茶の入ったカップを机に置くと驚いた様に声を漏らした。

 桐生はこの間のアンリエッタの救出劇について話していた。もちろんルイズが「虚無」の使い手である事は伏せておいた。

 コルベールはまだルイズが「虚無」の使い手である事は分かっていない。授業でもルイズは未だに失敗が多い為、幸か不幸かそれがカモフラージュとなってみんな「ゼロ」のルイズと呼び今まで通りの日々を送っている。その「虚無(ゼロ)」の本当の意味もわからぬまま。

 コルベールは信頼出来る男だが、今はまだルイズの事を話すのは控えておいた。何処に目があり、耳があるかわからない。少なくともこの学園の中では話すのを止めておいた。最も、研究熱心なコルベールの事だ。いずれは自分の「ガンダールヴ」の力からルイズの本当の力に気付くだろう。

 

「「レコン・キスタ」……噂には聞いていましたが、まさか死者までも操るとは。何と業の深い」

 

「ああ。たまたま魔法が切れたから良かった物の、正直危なかったぜ。上か、それともその側近かはわからないが……とんでもねぇクズ野郎がいるのは間違いないな。人の心を弄ぶ様な真似しやがって……!」

 

 今でも耳に残る、アンリエッタの泣き声。言葉では表せない程の悲しみを味わうには若すぎる少女の声は、桐生の心に怒りの炎を灯させる。

 気付かぬ内にカップを持つ手に力が入り、ピシリとカップの取っ手にヒビが入って慌てて机に置いた。

 

「ミス・ヴァリエールも此度の戦争に?」

 

「形はどうあれ、アンリエッタを「レコン・キスタ」から取り戻したのはルイズだ。一応内密にとはなっているが、王宮であいつの活躍は少なくとも広がっているだろう。恐らく……参加は免れないだろうな。何よりルイズがやる気になっている」

 

 桐生は複雑そうな表情でそっとカップを掴むと、中の紅茶を一気に飲み干した。コルベールがお代わりを勧める様にポットを掲げて見せるが、桐生は小さく首を振って断った。

 

「カズマ殿は……ミス・ヴァリエールが戦争に参加するのを良しとするのですか?」

 

 コルベールは怪訝そうな表情で桐生を見つめながら問い掛ける。

桐生はコルベールの目から視線を外して少し考え込む様に黙ると、小さな溜め息を漏らしながら首を振った。

 

「出来るならルイズには戦争に参加して欲しくない。あいつや子供達の手を汚させない様にするべきだと思う。それに戦争なんてない方が良いに決まってる。あれほど下らねぇ事なんてないからな。だが、俺自身は「レコン・キスタ」が許せねぇ。出来るなら今回の首謀者を一発ぶっ飛ばしてやりてぇよ」

 

 桐生は握り拳を作ると吐き出す様にコルベールに答える。

 コルベールはそんな桐生を見て安心した様な、困った様な複雑な表情を浮かべながら紅茶を呷った。

 

「……少し、安心しました。カズマ殿が戦争を良しとしない人で良かった。戦争はどんな形でも良かった物なんてありはしません。そして同時に……絶対の悪も善も、戦争には存在しないと思います」

 

 桐生はコルベールを静かな眼差しで見つめた。まるでコルベールの真意を問い掛ける様に。

 コルベールはそんな桐生を見つめ返し、少し間を置いてから口を開いた。

 

「私は戦争に善悪等存在するとは思っていません。それぞれの思想、それぞれの大義、それぞれの理由を掲げて戦争は起こります。我々の正義は相手にとって悪であり、時としては相手の悪が世間からは正義と見られる場合もあります。私もあの日……罪を犯した日は正しい事をしたと思った。しかし、結果は決して許されない事をしてしまった」

 

 コルベールは桐生から視線を逸らして苦しそうに顔を歪めながら言葉を紡ぐ。そして重々しく首を振ってから悲しげな笑みを浮かべて見せた。

 

「もちろん私も戦争は決して正しい事だとは思ってません。しかし、大切な物を奪い合う形になってしまう以上、お互いが「自分が正しかった」とは決して言えないと思うのですよ。だから私は、復讐もまた誰かを殺める為には正しい理由だと思うのです」

 

「コルベールさん、あんた……」

 

 コルベールの表情、言葉から何か思い詰めている物を感じた桐生が問い掛け様とした所、

 

「カズマぁっ!」

 

 後ろから聞き覚えのある声が掛けられて其方へと振り返る桐生。

 見ると少し先から桃色の髪を揺らしながら此方へ走って来るルイズの姿が見えた。心なしか何処か焦っている様にも見える。

 

「おやおや……ご主人のお出ましですな、カズマ殿。今日は昼食だけでなく食後の茶まで付き合って頂いてありがとうございました。つまらない話を聞かせてしまいましたね」

 

「いや……そんな事はねぇさ」

 

 桐生は苦笑を浮かべながら立ち上がり、此方に向かって来るルイズを出迎えた。

 ルイズはまずコルベールに向かってぺこりと頭を下げた。

 

「すみません、ミスタ・コルベール。ちょっとカズマに用がありますのでこの辺でお暇させて貰います」

 

「いやいや、構わないよ。私も主人である君に断りもなくカズマ殿をお借りして済まなかったね」

 

「おいおい、俺は物じゃねぇぞ?」

 

 三人で小さく笑うと、ルイズは桐生の手を引いて女子寮へと向かって行った。

 空になったカップを片付けながら、ルイズに連れて行かれる桐生をコルベールは見送った。

 

「……願わくば、貴方とミス・ヴァリエールが復讐の螺旋に囚われぬ事を」

 

 誰にも届かぬ程小さく呟いたその言葉は、夏の風に紛れ掻き消えた。

 

 

 ルイズは女子寮へ戻って自分の部屋のドアノブに手を掛けると一瞬身体を強張らせた。

 先程のシエスタとのやり取りが脳裏に浮かぶ。彼女はまだ部屋に居るんだろうか。

 桐生が首を傾げながら此方を見ているのに気付いたルイズは意を決した様に扉を開く。中には既に誰も居らず、見慣れた部屋が拡がっていた。

 思わずホッとしながら部屋の扉を閉めると、ルイズと桐生は向かい合って席に着く。そしてルイズは桐生に先程のフクロウが咥えていた書簡を手渡した。

 桐生はそれを受け取って取り敢えず開いて中を見てみたが、相変わらず絵文字にしか見えない此方の世界の文字に眉をひそめる。なんて書いてあるのかさっぱりわからない。

 

「すまんがルイズ、俺にはこっちの文字はわからない。なんて書いてあるんだ?」

 

「ああ、そう言えばそうだったわね。この書簡にはね、姫様からの指令が書かれているの」

 

「指令って事は、おまえに任せたい仕事があるって事か」

 

「どうやらそうみたい。あの事件で凄く落ち込まれていたみたいだけど……何時までも悲しみに沈んではおられないみたいで、ちょっとホッとしたわ」

 

 ルイズは小さな笑みを浮かべると書簡に書かれている事を説明し始めた。

 どうやらアルビオンは潰れた艦隊が再建されるまではまともな侵攻を諦め、不正規な攻撃を仕掛けてくる。マザリーニ筆頭の元、王宮の大臣達はそう予想しているらしい。街中で暴動や反乱を扇動し、卑怯な方法でトリステインを内部から壊していく……そんな事をされては堪らない。そんな事態に陥らない様に、アンリエッタ達は街の治安維持を強化する方針にした事が書かれているらしい。

 

「なるほどな。トリステインも本格化な防衛活動を始める訳か。だが、それとお前に何の関係があるんだ?」

 

「姫様は私に身分を隠しての情報収集を依頼して来たのよ。何処かに暴動を計画している輩がいないか、街ではどんな噂が流れているか、それを調査する様に指示が書かれているわ」

 

「要はスパイって奴か」

 

「すぱい? 何それ?」

 

「俺の居た世界ではそうやって情報を集めて来る奴をそう呼んでたんだよ。そうした事を仕事にする探偵って言うのも居たな」

 

「ふ〜ん……まぁともかく、所謂間諜って奴ね。」

 

 そう言ったルイズの顔はどこか不満そうである。

 

「どうかしたか?」

 

「だってこんなの地味じゃない。情報収集なんて」

 

「いや、情報収集も大切な仕事だと思うぞ? 戦争の中では、時に些細な情報が黄金以上の価値になる時もある。だが、同時に紛い物の情報も多い。その中から真実を見つけるのは簡単な事じゃない。あのお姫様はお前を信じているからこそ、その仕事をお前に託したんじゃないか?」

 

 ルイズは書簡をジッと見つめた後、小さく頷いてから先を読み始めた。

 どうやらアンリエッタはルイズにトリステニアの宿屋に下宿して、身分を隠しながら花売り等して平民達の間で流れている情報を集めて欲しいとの事らしい。書簡の中には任務に必要とされる経費を払い戻す為の手形も同封されていた。

 ルイズは溜め息を漏らしながら昨晩帰郷の為に用意した、部屋の隅に置かれている鞄達を見つめた。

 

「せっかく実家に帰る為の準備までしたのにね」

 

「だったら、この任務を断るか?」

 

「そうはいかないわ」

 

 桐生の一言にルイズは強く首を振ってから小さな鞄を取って、必要最低限の衣類や小物を詰めて準備をし出した。

 

「私は姫様直属の女官よ。任されたからには必ずこなして見せるわ。どんな仕事であってもね」

 

 小さな鞄に荷造りを終えたルイズは桐生に振り返るとにっと笑って見せた。

 そんなルイズを見て、桐生も小さな笑みを返した。

 桐生とルイズは女子寮から外へ出ると、トリスタニアに向けて出発した。しかし、身分を隠さなければならないと言う条件の為、学園の馬は使えず、馬車も使えない。仕方なしに徒歩で向かう。

 容赦なく真夏の太陽が照り付ける街道を二人は歩いた。トリスタニアまでは、歩きとなれば二日はかかる。

 

「あっつ……」

 

 日除けの帽子を被っているルイズが額に浮かぶ汗を手で拭いながら呟いた。

 桐生もジャケットを脱いでシャツの袖を捲くって少しでも涼を取ろうと努力するが、憎らしい程元気な太陽は二人に日差しをサンサンと降り掛けて来る。

 ルイズはギロリと太陽を睨み付けた。

 

「こんなに暑いなんて……いっそ太陽を消してしまいたいわ」

 

「馬鹿言うな。太陽のお陰で俺達は飯を食えてるんだぞ」

 

「でもこの暑さ、堪んないわ」

 

「…………まあな」

 

 身体中から汗を流し服に染みが出来て行く中、二人はまだまだ先の長い街道を歩きながらぼやいた。

 

 

 昼食を終えた学生達が自分達の部屋へと戻る中、今日もギーシュは鍛錬に精を出していた。

 男子寮の隅に生えた木の下で、上半身裸の格好で手製のサンドバックに拳を叩き付ける。砂の詰まった重々しい感触に拳が痛みを訴えるが、最初の頃に比べたら大分楽になって来た。

 継続は力なり、と言う言葉が体現した様に、ギーシュの体格は少しずつだが変わって来ていた。弱々しかった腕は筋肉が付いてやや太くなり、痩せていた身体は幾分逞しさを感じさせる様になった。

 左、右とサンドバックに拳を叩き付けた後、一歩間を置いてからハイキックへと繋げる。

 ギーシュは以前、桐生から教わった戦い方のスタイルを必死になって会得しようとしていた。

 ある日、筋肉が付き始めたギーシュの身体を見た桐生は今使っている手製のサンドバックを一緒に作ってからこう言った。

 

「筋肉は付いてきたが、お前は線が細い方だ。拳に力を込めて打ち込むのはまだまだ上手く行かないだろう。だが、代わりに足腰のフットワークは軽い。ならば一撃で相手を沈めるより、何発も確実に当ててダメージを蓄積させるスタイルの方が良いだろう」

 

 そう言って桐生が教えてくれたのは、彼が若い頃に扱っていたと言う格闘スタイルの一つ、「ラッシュスタイル」であった。

 一撃一撃は重くない物の、変幻自在の拳と蹴りの連携は相手を翻弄し、素早い攻撃が体力を削るスタイルである。

 ギーシュはサンドバックを真っ直ぐ見つめながら、思い付く限りの拳と蹴りを織り交ぜた攻撃を繰り出し続ける。

 

「しっ! しっ! ふっ、うわっ!?」

 

 数発拳をサンドバックに叩き込んでから思いっ切り蹴ろうとした瞬間、砂に足を取られて情けなくも転んでしまう。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

 仰向けに大の字で寝転んだ状態で荒い呼吸を繰り返すギーシュ。暑さと運動に身体から湧き出る汗が肌を伝って流れていく感触はまるで蟻にたかられている様で気持ち悪い。

 

「…………ひっ!?」

 

 身体を起こして立ち上がろうとした瞬間、首筋に冷たい何かを押し当てられて情けない声を漏らしてから、ギーシュが慌てて振り返る。

 其処には水の入った瓶を持ったモンモランシーが立っていた。

 

「こんな暑い日にまでトレーニングなんかしなくて良いでしょうに。ほら、お水。ちゃんと水分も取らなきゃ倒れちゃうわよ?」

 

 呆れた様に言いながら持っていた瓶をギーシュに差し出すモンモランシー。どうやら首筋に感じた冷たい感触はこれが原因らしい。

 

「ありがとう、モンモランシー。……はぁっ! 生き返るなぁっ!」

 

 差し出された瓶の蓋を開けて一気に水を飲み干したギーシュは堪らなそうに顔をしかめて声を上げる。

 モンモランシーは埃と汗にまみれたギーシュの身体を少し顔を赤らめながら眺めた。

 流石にまだベッドは共にした事が無いので彼の裸をまじまじと見た事はないが、今までのギーシュとは明らかに違う体型になっている。どちらかと言うと頼りなかったあの身体が、よくもこうも逞しく見える物になった物だ。

 ふと、モンモランシーの目に空になった瓶を持つギーシュの手が目に入った。

 

「ちょっと、ギーシュ」

 

 モンモランシーはその手を取ってまじまじと見つめた。

 学園の使用人達が使う少し厚手で硬い布を使って作られたサンドバックに、ギーシュの拳は皮が擦り剥けて血が滲んでいた。

 

「駄目じゃない、ちゃんと治療しなきゃ」

 

「このぐらいなんて事ないよ。唾でもつけとけば治るさ」

 

「駄目、ちょっとジッとしてなさい」

 

 軽く言うギーシュを無視して杖を取り出したモンモランシーは、小さく呪文を唱えてギーシュの拳に杖を振るう。

 すると、ギーシュの血が滲んでいた傷に幾つもの泡が覆い被さり、泡が消えると少し跡を残しながらも傷口が塞がった。

 

「ギーシュ……強くなろうとするのを止める気はないわ。それは貴方の決めた事だし、誰かが文句を言う資格も無いと思うし。でもね……」

 

 モンモランシーは傷の癒えたギーシュの手を包む様に握ると、ギーシュの瞳を見つめた。そんなモンモランシーに、ギーシュの心臓がドキッと跳ね上がる。

 

「可能な限りで良い。お願いだから、無茶はしないで。貴方が傷付いたら、悲しむ人が居るのを忘れないで」

 

 自分の事を心から心配している……モンモランシーの視線が、言葉が、表情がそれを物語っていた。

 ギーシュはモンモランシーが堪らなく愛おしくなった。今すぐ抱き締め、その唇を奪いたい衝動が身体を駆け巡る。

 しかし、ギーシュの中の何かがそれを遮った。

 今の僕は、まだモンモランシーに相応しくない。

 それが正しい判断かどうかはわからない。ただギーシュは、モンモランシーに優しく微笑みかけた。

 

「ありがとう、モンモランシー。君がそう言ってくれるだけで、僕はとても心強く感じるよ。……約束する。絶対に無茶はしないよ」

 

 そう言ってモンモランシーの手からするりと自分の手を引いたギーシュは身体を伸ばしてから頬を掻いた。

 

「その、モンモランシー。良かったらこれから一緒にお茶でもどうかな? もちろん水を浴びて身体を綺麗にしてからだけど」

 

 照れ臭そうに言うギーシュに一瞬キョトンとした後、モンモランシーはくすりと笑って頷いた。

 

「ええ、良いわ。なら、早く身体を綺麗にして着替えて来てね」

 

「よし、わかった!」

 

 嬉しそうに笑いながら走るギーシュを見送ると、モンモランシーは小さな溜め息を漏らして微笑みを浮かべた。

 

「私がお茶に誘おうと思ったのに。なんか、悔しいな」

 

 そう口にしながら空を眺めるモンモランシーの顔は、何処か嬉しそうに見えた。


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