ゼロの龍   作:九頭龍

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解雇宣告


第20話

 ルイズは魔法学園の東にある、「アウストリ」の広場のベンチに腰掛けて、「始祖の祈祷書」をパラパラと捲っていた。どんなにページを捲っても、目に写るのは黄ばんだ白いページばかり。そんな空白のページを見ながら、アンリエッタの式に相応しい詔を考えた。

 が、なかなか思う様な言葉が思い浮かばない。と言うより、先程から必死に考え様としても、気が散ってしまうのだ。

 「始祖の祈祷書」を手に切な気に溜め息を漏らすルイズの姿は、まるで一枚の絵画の様に見える。ルイズの天性の美貌は、それほどまでに映えがあるのだ。

 ルイズの脳裏に浮かぶのは、今頃自分の部屋を掃除している使い魔、桐生一馬の事ばかり。自分がベッドで寝るのを許したあの日から、何度も枕を共にしてはいるが進展等一切ない。

 桐生が自分に手を出す筈がないと、ルイズにはわかっている。だからこそ共に寝るのを許したし、そこらのお子様と違って、桐生はそんな野蛮な真似はしないと信じているからだ。

 だが、まったく手を出して来ない事も納得がいかないのだった。そりゃあ、自分とは歳が離れすぎているし、身体だって正直自信はない。けどそれはつまり、自分を「女」として見てくれていないのだ。

 もちろん、桐生が野蛮な気を起こせば、対処はとるつもりだ。けれども……と奇妙なジレンマが小さな少女の心に渦を巻いて広がっていった。

 本日何度目となるかわからない溜め息を漏らした時、ふと肩を叩かれて振り返る。そこには、キュルケが立っていた。

 

「何やってんの? ヴァリエール」

 

 ルイズの視線は思わず、目の前で揺れるキュルケの胸へと行った。

 白いシャツから覗く褐色の谷間。そのシャツをはち切らんばかりの豊満な膨らみ。もし自分がキュルケくらいの胸だったら、桐生も少しは意識してくれるのだろうか。

 

「……ちょっと、聞いてるの?」

 

 ルイズの視線に気付かず小馬鹿にした様な口調のキュルケの声に、ルイズはハッと我に帰って慌てて視線を逸らした。

 

「ど、読書をしてただけよ!」

 

 緊張から声が大きくなるルイズ。一瞬でもキュルケの胸が羨ましい等と思った自分が恨めしい。

 

「読書って……その本、白紙じゃない。どうやって読んでるのよ?」

 

 開かれたページの黄ばんだ白紙に苦笑を浮かべながら、キュルケはルイズの隣に腰掛ける。少し強い風が、二人の髪とスカートの裾を静かに揺らす。

 

「これは「始祖の祈祷書」。国宝の本なのよ」

 

 視線を開かれた白紙のページに向けながら、ルイズが面倒臭そうに話す。

 

「そんな国宝をどうしてあんたが持ってんのよ?」

 

 ルイズはキュルケに説明し始めた。アンリエッタの結婚式が近い事、その式の詔を自分が詠みあげる事、その際にはこの「始祖の祈祷書」を用いる事等を。

 

「あのお姫様が結婚とはねぇ……なるほどなるほど。その結婚式に、あのあんた達の任務が関わってるんでしょ?」

 

 ルイズは一瞬誤魔化すべきか考えたが、自分達の為に囮になってくれたキュルケを無下に出来ず頷いた。

 

「あたし達はあのお姫様が無事結婚出来る様に危険を犯したって訳ね。なかなか名誉な事じゃないの。それってつまり、この間発表されたトリステインとゲルマニアの同盟が絡んでる……違う?」

 

 キュルケの鋭い指摘に、ルイズは辺りを確認してからキュルケの瞳を覗き込む。

 

「誰にも言わないでよね」

 

「言う訳ないじゃない。あたしはギーシュみたくお喋りじゃないの。まぁもっとも……言った所で誰も信じはしないわよ。」

 

 キュルケはヒラヒラと手を振って見せてから、ゆっくりとルイズの肩に腕を回して身体を寄り添わせながら笑みを浮かべた。柔らかくボリュームのある胸の感触がルイズの腕に伝わる。

 

「あたし達の祖国は同盟を結んだ……なら少しは仲良くしなくちゃね? ヴァリエール?」

 

「そう、ね」

 

 わざとらしく言うキュルケにルイズは素っ気ない返事を返した。その同盟の為に、アンリエッタは好きでもない相手と結婚するのだ。喜べる訳がない。

 

「所で、さっきから何をそんなに溜め息をついているの?」

 

 キュルケの言葉に、顔が熱くなるのを感じた。そんなルイズを、キュルケはニヤニヤと笑いながら見下した。

 

「べ、別に……疲れているだけよ!」

 

 ルイズはキュルケから視線を逸らしながら怒鳴る様に声を荒げた。そんなルイズに退く事なく、キュルケは耳元に顔を寄せて囁く。

 

「良いのよ、照れなくて。あたしにはちゃんとわかってるわ、ルイズ」

 

 顔を振り向かせ赤らんだ頬のままキッと睨みを利かせるルイズ。キュルケは心底楽しそうな、余裕のある表情で更に言葉を続けた。

 

「カズマの事、考えているんでしょう?」

 

 その一言、ルイズは酸欠の金魚の様に口をパクパクとさせながら耳まで真っ赤になっていく。

 

「貴女って面白いくらいわかりやすいわね。好きなんでしょう? カズマの事が」

 

「な、何言ってんのよ!? 私がカズマを、すす、す、好きなんて……ある訳ないでしょうが! 好きなのはあんたでしょう!?」

 

「ええ、あたしはカズマが好きよ。大好き。心の底からね」

 

 サラリと恥ずかしげもなく言ってのけたキュルケにルイズは言葉を詰まらせる。

 キュルケの言葉は自分を挑発する為の物なのはわかっている。わかってはいるのだが、同時に堪らなく羨ましいと思う。こんなにも自分の気持ちを簡単に認め、何の躊躇いもなく言えるのだから。

 

「貴女が好きじゃないなら、あたしが貰っても文句はないでしょう?」

 

「だ、駄目よ!」

 

「どうして? 好きでもない男が誰に取られようと構わないんじゃなくって?」

 

 クスクスと小悪魔な笑みを浮かべてキュルケが問い掛ける。その表情はどこまでも余裕で、ルイズは心の底から腹が立った。

 桐生の事等どうでもいい、そう思えない自分の感情が何なのかわからず、ルイズは一人混乱する。幼少の頃、ワルドに対して抱いていた感情とは全く別の気持ち。これが恋なのか、あるいはただ桐生にすがりたいだけなのか、その答えをルイズはまだ見つけられていなかった。

 

「か、カズマは私の使い魔よ! 主人の元を去る使い魔なんて聞いた事ないわ! あいつが誰をどう思うかは勝手だけど、私の元から離れるなんていけない事なのよ!」

 

 結局、ルイズは自分の気持ちに踏ん切りもつけられず、逃げの一言を放つのが精一杯だった。

 キュルケはそんなルイズをつまらなそうに眺める。本当は薄々自分の気持ちにも気付いている癖に。なんでこうもお子ちゃまなのかしら、と心の中で一人ごちる。

 

「そうね。でも、」

 

 ならば、もっと揺さぶりをかけて反応を楽しむまでだ。キュルケの中の黒い炎が小さく揺らめいた。

 

「今、貴女が敵視するのは私じゃなくて、カズマの側にいる子じゃなくって?」

 

 キュルケの一言に、ルイズの眉がピクッと吊り上がる。

 

「何よ、それ……どういう意味よ?」

 

「ほら、あの厨房のメイド……とか?」

 

 メイド。その言葉から浮かび上がる人物は一人しかいない。

 カズマに食事や酒を差し入れたりする、確か、シエスタと言う名前のメイドだ。

 

「心当たりがあるなら、今部屋に行くと面白いかもしれないわね」

 

 ルイズは「始祖の祈祷書」を脇に抱えるとそそくさとベンチから立ち上がり、女子寮の方へと足を進め始めた。

 

「あら? 好きでもない男の元に行くの?」

 

「忘れ物を取ってくるだけよ!」

 

 からかう様に言うキュルケの顔もろくに見ずに、ルイズは足早に寮へと走り出した。

 

「全く、素直じゃないんだから」

 

 

 部屋の掃除を終えた桐生は椅子に座りながら、ルイズの愛読している本をパラパラと捲っていた。絵がない所を見ると、小説なのだろう。なのだろうと言うのは、書かれている文字が一切読めないので内容がわからないのだ。

 アルファベットでもハングルでもない、独特の文字は発音もわからない。なのに何故自分は、ルイズ達の言葉がわかるのだろう。

 腕を組んで眉間に皺を寄せながら考え込む桐生に、壁に立て掛けられているデルフリンガーが声を掛けた。

 

「どしたい、相棒? そんな難しい顔しちまって」

 

「なぁ、デルフ? どうして俺はお前やルイズ達の言葉がわかるんだろうな……」

 

 溜め息を漏らしながら重々しく言う桐生に、デルフリンガーが笑いの混じった声で答える。

 

「そらおめぇ、言葉がわからなきゃ不便だろうがよ」

 

「確かにな。だが、俺はお前達の言う所の「異世界」から来たんだ。書かれてる文字は全くわからないのに、言葉がわかるのがずっと不思議だったんだよ」

 

 桐生はオスマンが三十年程前に会ったと言う、あのロケットランチャーの持ち主を思い出した。彼もオスマンとは言葉が通じていたらしい。

 

「ん~……相棒はどこを通ってハルケギニアに来たんだ?」

 

「どこ、と言われてもな。突然穴に落ちた様な感覚になって、気が付いたらこの世界にいたんだ」

 

 今思えば、あの瞬間は不思議な感覚だった。第三公園を出て天下一通りに向かって歩き始めた瞬間、突然地面がなくなった様な浮遊感を感じて気を失ったのだ。

 

「良くわかんねぇが、ま、難しく考えんなって。言葉が通じて楽じゃねぇか」

 

「お前って本当に楽天家だよな……」

 

 デルフリンガーの言葉に桐生が苦笑しながら本を戻すと、扉がノックされた。

 ルイズだったらノックする事はないだろう。ならば、ギーシュかキュルケだろうか。

 

「開いているぞ」

 

 桐生がそう言うと、静かに開いた扉からシエスタがひょこっと顔を出した。

「シエスタ……どうした? ルイズに用事か?」

 

「い、いえ、あの……カズマさんにちょっと」

 

 シエスタは部屋の中をキョロキョロ見回し、ルイズがいないのに安堵した様に溜め息を漏らしてから更に扉を開いた。その手には銀の盆が持たれており、盆の上にはいくつかの料理が乗っている。

 

「最近カズマさん、厨房になかなかいらっしゃらないから……お腹が空いているかと思って差し入れを」

 

 盆を軽く持ち上げて照れ臭そうにはにかみながら言うシエスタの姿は一瞬、「アサガオ」の資金の計算をしている深夜に夜食を持ってきてくれた遥の姿を思い浮かべさせた。

 

「そうか、すまないな。最近ちょっと食事の摂り方が変わって腹が満たされていたからな。あまり厨房に迷惑もかけたくなかったから、ちょっと足を遠ざけていたんだ」

 

「め、迷惑なんてとんでもないです!」

 

 桐生の言葉にシエスタが首を振って否定した。

 

「マルトーさんも他のコックさんも、カズマさんがいなくなって寂しがってますよ! カズマさんが来てくれると、いつも厨房が明るくなるんです!」

 

「そ、そうなのか? まぁ、悪い気はしないな。また行かせて貰おう」

 

「はい! お待ちしています!」

 

 剣幕に押されてややたじろぎながら答える桐生に、シエスタは飛びっきりの笑顔で頷いた。

 

「それじゃあ、せっかくシエスタが持ってきてくれたしな……頂くとしようか」

 

「はい、どうぞ!」

 

盆をテーブルに置いて料理を並べてくれたシエスタに、桐生は椅子に座って両手を合わせてから食べ始めた。

 美味い。昼食として食べた先程の料理も美味いが、この料理も負けず劣らず美味い。

 

「美味しいですか?」

 

「ああ、美味しいよ」

 

 立ったまま問い掛けてくるシエスタに笑顔で桐生が答える。先程腹一杯昼食を食べたのが嘘の様なフォークが進む。

 

「それ、私が作ったんです」

 

「シエスタが?それは凄いな。料理上手なんだな」

 

「ちょっと厨房のコックさんに無理言って、作らせて貰ったんです。でも良かった。そんな風に美味しそうに食べて頂けて、作った甲斐がありました」

 

 心底嬉しそうに笑い、頬を赤らめながら言うシエスタが可愛らしい。

 あっという間に料理を平らげた桐生は感嘆の溜め息を漏らした。美味しかったが、流石に少し食べすぎたらしい。腹がこの上ない程一杯だ。

 

「美味しかったよ、ご馳走様」

 

「はい! お粗末様でした!」

 

 綺麗に空になった皿を一枚一枚愛しそうに縁を撫でてから盆に乗せながらシエスタが鼻歌を歌う。

 そんなシエスタに笑いながら桐生が声を掛ける。

 

「ずいぶんとご機嫌だな。何か良い事でもあったのか?」

 

「え? はい……今、ありました」

 

 桐生に声を掛けられて鼻歌を止めてから、シエスタは盆に乗った皿の一枚を取って胸元で抱き締める。

 

「自分の作った料理が、お皿の上から綺麗になくなる事がこんなにも嬉しい事なんて知りませんでした。私、初めてなんです。誰かの為に、あんなに一生懸命料理をしたの。でも、カズマさんは私の想像した表情で食べてくれた」

 

「想像した表情?」

 

「はい。作りながら思っていたんです。こんな顔で食べて欲しい。こんな表情で美味しいと言って欲しい。それが、叶いました」

 

 嬉しそうにはにかむシエスタに桐生もはにかみを見せる。

 心地の良い沈黙の中、シエスタがお茶を入れようと盆に乗っていたポットに手を伸ばすと、テーブルの足に爪先が引っ掛かって身体のバランスを崩してしまった。

 

「っ! と……」

 

 とっさに桐生がシエスタの身体を支えながら床に尻餅をついてしまう。桐生の膝の上に座る形になったシエスタは驚きと羞恥心から顔を真っ赤にして俯いた。

 

「す、すみません、カズマさん……」

 

「いや、大丈夫か?」

 

 答え様と顔を上げたシエスタは、間近で見る桐生の顔に言葉を失った。整った眉、細かい傷だらけの肌、自分を心配そうに見つめる、澄んだ瞳。こんなにも間近で見る桐生の顔は初めてで、その大人の男の顔に暫し見とれてしまう。

 そんな中、バンッ! と勢い良く開かれた扉が沈黙を破る。

 二人の顔が扉に向かうと、そこには息を荒げたルイズが立っていた。

 シエスタはルイズの顔を見て我に返ると、桐生の膝から立ち上がり、盆を持って部屋から出ていった。

 桐生がシエスタを見送ってから立ち上がると、スタスタとルイズが距離を詰めてきた。

 

「何、やってたのよ、あんた……」

 

 ルイズの声は静かだが、声の震えから相当な怒りを感じて桐生は首を振った。

 

「何もしていない。シエスタがバランスを崩したのを支えたら、たまたまあんな格好になっただけだ」

 

「あんた……私がいない時に、あの子をこの部屋に呼んでたの?」

 

「いや、今日初めてシエスタがこの部屋に来た」

 

 桐生は腕を組んで堂々と言った。当然だ。やましい事は何もないし、嘘もついていないのだから。

 しかし、今のルイズの耳には、そんな桐生の言葉は届かない。メイドと、部屋で二人きり。その真実しか受け入れられていないのだ。

 ルイズはベッドに向かって歩くとそのまま腰掛けて俯いた。握り締めるシーツが皺を作る。

 

「カズマ、今すぐ出てって」

 

「聞け、ルイズ。お前が何を怒っているかわからんが、今のは誤解でーー」

 

「出てけって言ってるでしょ!」

 

 桐生が溜め息混じりに言っていた言葉はルイズの叫びと、投げつけられた枕で遮られる。肩を震わせ涙が滲んだ瞳で桐生を睨み付けている。

 

「今度こそ……今度こそ怒ったわ! あんたなんかクビよ! 二度と私の前に姿を表さないで!」

 

 ルイズの言葉に、桐生は思わず一瞬ポカンとしてしまった。

 

「クビ?」

 

「そうよ、クビよ! わかったらとっとと出ていってよ!」

 

 プイッと桐生に背を向けて、ルイズは言い放つ。

 

「私の、貴族の部屋をなんだと思ってるのよ!」

 

 その言葉に、桐生はルイズが怒っている理由に当たりをつけた。ルイズが怒っているのは、自分の部屋を逢い引きの舞台にされた事なのだろう。桐生にはそんなつもりもなければ、そんな事実も存在しないのだが。

 しかし、これでもそれなりに長い付き合いだ。ルイズの性格はわかっているし、今のルイズにどんなに説明しても納得しないだろう。

 

「勝手にしろ」

 

 初めて聞く桐生の冷たい一言に、ルイズの胸はズキンと痛んだ。

 桐生は投げ付けられた枕をテーブルに置き、壁に立て掛けていたデルフリンガーを乱暴に取ると扉へと向かい、

 

「世話になったな」

 

 その一言を残して、ガチャンと扉が閉められた。

 一人になった部屋の中で、ルイズの瞳からボロボロと涙が零れ、小さな身体がそのままベッドに倒れ込んだ。 

 

 

 桐生は取り敢えず女子寮から出ると、学園の方へと歩き出した。

 

「しかしこの歳で解雇宣告か……。人生何があるかわかったもんじゃないな」

 

 一人ごちながら今後についてマルトーに相談しようと厨房に向かうと、食堂の前でメイド達とコック達が困った表情を浮かべて集まっていた。

 気になった桐生がその集団に近付くと、

 

「あ! ミス・ヴァリエールの使い魔さん!」

 

 と数人のメイドが桐生に近寄ってきた。

 

「どうしたんだ? こんなに集まって、何かあったのか?」

 

「それが……」

 

 メイドの一人が食堂に視線を向けながら口ごもった。

 桐生は気になって食堂に顔を出してみる。

 真ん中のテーブル。ルイズ達二年生が普段食事を取っている席の一つに、誰かが座っていた。その人物の前にはワインの壜が十数本と並んでいる。その人物は手酌でワインをグラスになみなみ注ぐと、一気に呷って飲み干した。

 その人物は、ギーシュだった。大きな溜め息を漏らしながら空になったグラスをテーブルに置いて、酔って赤らんだ顔で虚空を眺めている。

 

「ギーシュじゃねぇか。何やってんだ、あいつ?」

 

「それが、昼食の片付けをしてる最中に突然やって来て、「ワインを持ってこい」と言われて、それからずっとああなんです」

 

 困った表情でメイドとコックが顔を合わせて溜め息を漏らす。桐生は頬を掻きながらギーシュを顎でしゃくった。

 

「追い出せば良いじゃねぇか」

 

「と、とんでもない! 貴族の方にそんな事……!」

 

 メイドもコックもブンブン首を振って顔を青ざめさせている。この世界の階級制度にはいい加減うんざりしてくる。

 

「なら、俺がやる」

 

 周りの制止の声も聞かずに、桐生はギーシュに歩み寄る。

 再度グラスに注いだワインを飲み干して、ギーシュは桐生の存在に気が付いて振り返った。やはり相当呑んでいるらしい。アルコールの臭いが身体から漂い、目は濁っている。

 

「おお、カズマじゃないか。ヒクッ、何か……よ、うぷっ、用かね……?」

 

 ヘラヘラと笑みを浮かべながら話すギーシュに、桐生は苦笑を浮かべながら隣に座る。

 

「どうも、荒れてるみたいだな。」

 

「ヒック……ふん、君はいつでも余裕だな。大人の男って奴か……くだらんな」

 

 隣に座る桐生を横目に、ギーシュはグラスにワインを注ぐ。しかし、既に空になった壜からはポタポタと数滴の雫しか出てこない。舌打ちをしながらギーシュは壜を置くと、椅子に寄りかかって此方を見ているメイドとコック達に顔を向けた。

 

「見ている暇があったらワインを持って来たまえ! 使えない平民共め!」

 

「止めろ、ギーシュ」

 

 桐生が身体をギーシュに向けて睨み付ける。普段のギーシュならそうされただけで身体を震わせる所だが、酔いが思考を濁らせて妙な度胸を生んでいく。

 

「なんだぁ? カズマぁ……平民の君が、僕に、ヒック、貴族の僕に意見するのかい?」

 

「酒を呑むのはお前の勝手だ。だが、ここでは他の奴の迷惑になる。自分の部屋か、外で呑め」

 

「迷惑ぅ? はっ、貴族が平民に迷惑をかけていると? その貴族の金でパンをかじってる奴等の事など知るか!」

 

 乱暴にギーシュがテーブルを蹴りつけると、並んでいた壜が数本転がり床へと落ちる。カランと乾いた音を立てて床に転がる壜の一本を足で止めると、桐生は立ち上がりギーシュの胸ぐらを掴んで立ち上がらせて睨み付ける。

 

「口で言ってわからねぇならその身体に教えてやる。表へ出ろ」

 

「はっ! 上等だぁ!」

 

 桐生の腕を振りほどいて酒臭い息を漏らしながらギーシュも凄みを利かせる。

 桐生がそのまま食堂の外へと向かうと、ギーシュも酔った足取りでその後を追う。

 既に午後の授業が始まり、誰もいない「ヴェストリ」の広場へと二人はやって来た。初夏を彩る木々の緑が風に揺れている。

 少し距離を取って桐生とギーシュはお互いに睨み合うと、ギーシュは杖代わりの薔薇の造花を取り出して、それを投げ捨てた。

 

「どうした? 貴族お得意の魔法で来ないのか?」

 

 挑発する様に桐生がデルフリンガーを投げ捨てて言うと、ギーシュは構えを取り始める。構えと言っても、拳を握り締めて軽く腕を上げているだけだ。殴り合いのなの字も知らない、素人の格好。

 

「甘ったれた貴族の拳で、俺に敵うと思ってんのか?」

 

「一度僕に勝ったからって……いつまでも偉そうにするなぁっ!」

 

 ギーシュががむしゃらになって突進してくる。

 桐生の腹にタックルをかましてから、顔に向かって拳を振るう。が、筋肉もなく、人の殴り方も知らないギーシュの拳はペチンと音を立てるだけでダメージは全くない。

 そんなギーシュに、桐生は容赦なく胸ぐらを掴んで背負い投げを繰り出す。芝生に覆われた地面に背中を打ち付けられて、ギーシュが苦悶の表情を浮かべて呻き声を漏らす。

 ギーシュの痛みなど構わず、桐生はギーシュの肩を掴んで無理矢理立ち上がらせる。荒い呼吸を繰り返しながら桐生を睨むギーシュに対して、桐生はかかってこいとばかりに手を振って見せる。

 

「僕だって……僕だってぇっ!」

 

 メチャクチャな動きで桐生の顔に、胸に、腹に拳を打ち付けるギーシュ。桐生はただギーシュに殴られ続けるが、ダメージを感じないまま暫く好きにさせる。

 弱々しく桐生の腹に拳を打ち付けて、身体中に汗をかいて呼吸を乱しながらギーシュが俯きブツブツと言葉を漏らす。

 

「僕は、守られたくてカズマの側にいるんじゃない! ただ彼に、彼に近付きたい。彼の様な男になりたい。ただ、ただそれだけなのに……!」

 

 ヨロヨロと頼りない足取りで桐生の胸ぐらを掴み、顔を上げるギーシュ。その瞳からは、涙が溢れていた。

 

「それの何がいけないんだ!? 僕はただ、カズマを! 君を! 間近で見て学びたい! 君の力はどこから来るのか! どうすれば君みたくなれるのか! その為に側にいる事が、そんなに悪い事なのか!? 誰も彼もが言う! あいつは弱い自分を守ってくれるからあの平民の側にいる! そんな事、一度も考えた事がなかったのに!」

 

 悲痛な胸の内を声に出して漏らすギーシュの手首を掴み、胸ぐらから離させるとギーシュの額にゴツリと自分の額を重ねる桐生。

 

「お前は何も悪くない」

 

 自分の瞳を覗く桐生の優しい瞳に射抜かれ、ギーシュは力なくその場に崩れ落ちる。そんなギーシュの頭に、桐生は手を乗せて優しく撫でた。

 

「ギーシュ、お前はお前の思う様にやればいい。周りの声なんて気にするな。どんなに馬鹿にされ、笑われ、蔑まされても、それでも諦めず努力し続けた奴だけが、なりたいものになれるんだ」

 

 くしゃりと髪を掻き分けて撫でる桐生の手の温もりに、ギーシュは嗚咽を漏らしながらボロボロと涙を地面に零す。

 

「ただ、これだけは覚えておけ。お前がどんなに頑張っても、俺にはなれない。お前は「お前」なんだからな。でもな、その気になれば人間誰だって、「自分の目指したものを越えた自分」にはなれるんだ」

 

「自分の目指したものを越えた、自分……?」

 

 涙と鼻水でグシャグシャになった顔で見上げるギーシュに、桐生は力強く頷いた。

「僕もいつか、カズマを越えられるのかな……?」

 

「お前がそう願い、努力し続ければな。だからまずは、外野の声に惑わされるな。男なら、堂々としろ」

 

 優しく語る桐生に力なく笑みを浮かべたギーシュは、暴れたせいで身体中に回ったアルコールの影響で、そのまま意識を失った。

 

 

 瞳を開くと、日が沈みかけた薄暗い空が視界に広がった。淡い茜色から青黒い夜の闇へと変わろうとしている空にはうっすらと星の瞬きが見える。

 ギーシュがゆっくりと身体を起こすと、目の前には桐生が座っていた。グラスに注がれたワインを一口含んでから、ギーシュの方へと顔を向ける。

 

「起きたか」

 

「僕は……?」

 

 そこで初めて、ギーシュは自分が白く広いシートに寝かされていた事がわかった。

 

「あれから六時間くらいだ。お前がずっと寝てたから、俺もここで酒を飲ませて貰っていた。いるか?」

 

 桐生が水の入ったコップを差し出すと、ギーシュは素直にそれを受け取った。手渡されたコップの水を飲み干して溜め息を漏らすと、シエスタが料理の乗った盆を持ってやって来た。

 

「おはようございます、ミスタ・グラモン。夕食を持ってきました。あ、カズマさんにも」

 

「ありがとな、シエスタ」

 

 盆を受け取ると、上には皿に乗ったローストチキンやサラダが乗っていた。

 

「それでは、ごゆっくり」

 

 シエスタが去ると、桐生は自分のともう一個のグラスにワインを注いで、片方をギーシュに手渡した。

 

「今夜は男同士、サシで呑もう。お前とこうしてサシで呑むのは初めてだしな」

 

「僕は構わないが、君は良いのかい? ルイズが待っているんじゃないか?」

 

 ギーシュの言葉に桐生は頬を掻きながら困った表情を浮かべた。

 

「それなんだが、ちょっと使い魔をクビになっちまってな。もうあの部屋には戻れないんだ」

 

「クビ? ……はっ? クビ!?」

 

 桐生の言葉が一瞬理解出来なかったらしく、ギーシュがすっとんきょうな声を上げて確認してきた。桐生は肩を落としながら頷く。

 

「ちょっと喧嘩みたいな感じになっちまってな。まぁ、そう言う事だ。だから付き合え」

 

 苦笑してグラスを掲げた桐生に、ギーシュは吹き出す様に笑ってから頷いて同じ様にグラスを掲げた。

 二つの月が照らす「ヴェストリ」の広場の片隅で、男達のグラスがカチンと重なった。


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