穴に沿って「イーグル」号が徐々に上昇していくと、頭上にうっすらと灯りが見えた。
突然眩い光に包まれたかと思うと、艦はニューカッスルの秘密の港に入港していた。
そこは真っ白い光苔に覆われていた鍾乳洞だった。発行する苔の明かりはなかなかに明るく、岩壁の上に大勢の人間が待ちかまえていたのが見えた。「イーグル」号が鍾乳洞の岸壁に近付くと、その人物達は一斉にもやいの縄を飛ばした。すぐさま「イーグル」号の水兵達が投げられた縄を手に取り、船体にゆわえ付けていく。「イーグル」号は岸壁に引き寄せられ、車輪のついた木のタラップがゴロゴロと音を立てて近付き、船体にぴったりと取り付けられる。
ウェールズは桐生達を促し、タラップを降りた。
タラップの周りに集まっている兵隊達の中から、背の高い年老いたメイジが前に出てウェールズに笑みを浮かべた。
「ほほう! 殿下、見事な収穫ですな!」
老メイジは「イーグル」号に続いて鍾乳洞に現れた「マリー・ガラント」号を見て嬉しそうに声を上げた。
「喜べ、バリー! みんな! 今回の収穫は硫黄だ!」
ウェールズが手を上げて叫ぶと、集まっていた兵隊達は拳を高々と振り上げて歓声を上げた。雄叫びの様な歓声が鍾乳洞の中で反響する。
「おお! 硫黄ですと! 火の秘薬ではございませんか! これで我々の名誉も、守られるのですな!」
バリーと呼ばれた老メイジは嬉しそうに声を上げた後、ローブの裾で目元を押さえながら涙を流し始めた。
「先代にお仕えして六十年……こんな嬉しい日はありませんよ、殿下。反乱が起こってから毎日の様に苦渋舐め続けましたが、これだけの硫黄さえあれば……」
涙を流しながら嗚咽混じりに呟くバリーの肩を、ウェールズは優しく叩くとニッと満面の笑顔を浮かべて頷いた。
「王家の誇りと名誉を叛徒共に示した上で、敗北出来るだろう」
「名誉ある敗北ですぞ! この老骨、年甲斐もなく武者震いが……!」
先ほどまでの泣き顔とは打って変わり、身体の震えを強調する様にバリーが手を広げて見せると、兵隊達の中から一人が前に出てウェールズに敬礼した。
「殿下! その問題の叛徒共が、明日の正午に攻城すると伝えて来ました! 殿下の此度の成果、まさに千載一遇の収穫です!」
「そうか! まさに間一髪と言うやつだな! 戦に間に合わぬ等、武人として後世に語り継がれるであろう恥となる!」
「まったくですな!」
ウェールズはバリーや兵隊達と、心底楽しそうに笑いながら話している。
ルイズはウェールズ達の会話の中に敗北と言う言葉に思わずゾッとした。以前、父に聞いた事がある。戦争に敗北と言う言葉は存在しない。あるのは勝利か、死のみだと。つまり、彼等は死ぬつもりなのだ。
「おお……そう言えば、そちらの方々は?」
バリーは桐生達の存在に気付き、ウェールズに首を傾げて見せた。
「トリステインからの大使殿一行だ。重要な用件で、我が国に参られた」
ウェールズの説明に、バリーは一瞬訝しげな表情を浮かべるも、すぐさま表情を改めて桐生達に歩み寄った。
「これはこれは大使殿。お初にお目にかかります。私、殿下の侍従を仰せつかっております、バリーと申します。遠路はるばるようこそ、我がアルビオン王国へ。大したもてなしは出来ませぬが、今宵はささやかな祝宴がございます。是非ともご出席下さい」
桐生達はウェールズに付き従い、城内の彼の部屋までやってきた。城の一番高い天守の一角にあるウェールズの居室は、想像していた豪華な部屋ではなく、とても質素な物だった。
木で出来た粗末なベッドに木製の椅子と机が一組と言った、まるで平民の部屋の様だ。
王子は椅子に腰掛けると、机の引き出しを開いた。そこには宝石の散りばめられた、高価そうな小箱が入っていた。ウェールズが首からネックレスを外す。その先には小さな鍵が括り付けられていた。鍵をゆっくりと小箱の鍵穴に差し込み捻ると、カチリと音を立てて鍵が外れた。
ウェールズが小箱を開くと、蓋の内側にアンリエッタの肖像が描かれていた。
ルイズがその小箱の中を眺めているのに気付いたウェールズは優しくはにかんで見せた。
「宝箱でね」
小箱の中には、一通の手紙が入っていた。それがアンリエッタの言っていた件の手紙らしい。ウェールズはそれを取り出し、愛おしそうに口付けた後、何度も読まれてボロボロになった手紙を開いて読み始めた。
手紙を読み返したウェールズは、再びその手紙を丁寧に畳んで封筒に入れるとルイズに手渡した。
「これが、姫から頂いた手紙だ。この通り、確かに返したよ」
「ありがとうございます」
ルイズは深々と頭を下げると手紙を受け取り、胸元で大切そうに抱き締めた。
「明日の朝、非戦闘員を乗せた「イーグル」号が出航する。それに乗って、トリステインに帰りなさい。明日の午後、ここは戦場になる」
ルイズは躊躇うかの様に口を開いては閉じるのを繰り返すと、その内決心した様に言葉を紡いだ。
「殿下、先ほど、名誉ある敗北と話しておりましたが……王軍に勝ち目はないのですか?」
ルイズの質問にウェールズは笑顔のままあっさりと頷いた。
「もちろん、ないよ。我が軍は三百。敵軍は五万。万に、いや、億に一つの可能性もない。我々に出来る事は、少しでも敵軍の兵を道連れに、勇敢に死ぬ事だけだろう」
その言葉に、ルイズは俯いた。
「それには、殿下の死も……含まれているのですか?」
「当然だ。私は真っ先に死ぬつもりだ。私には、私を信じてここまで付いて来てくれた家臣達がいる。何も恐れる事はないし、それが彼等への恩返しだとも思っている」
桐生には、ウェールズの気持ちが少しだけわかる気がした。自分を信じ、付いて来てくれた人達がいれば何も怖くない。例えそれが、自らの命がかかっていようとも。
ルイズは暫く俯いていたが、一度頭を上げたかと思うと、再び深々と頭を下げ、ウェールズの瞳を見つめた。
「殿下、失礼をお許し下さい。恐れながらどうしても、申し上げたい事がございます」
「ふむ……宜しい。何なりと、申してみよ」
「ただいまお預かりした姫様の手紙、この内容は……」
「止せ、ルイズ」
背後に立っていた桐生がルイズをたしなめた。しかし、ルイズは桐生の言葉を無視してウェールズに尋ねた。
「この任務を私に仰せつけられた姫様のご様子、普通ではございませんでした。まるで、遠い恋人を案じていらっしゃる様な……。それに、先ほどの小箱の内蓋に描かれていましたのは姫様の肖像画。更に手紙に接吻をなさった際の殿下の物憂げなお顔と言い、もしや、姫様と殿下は……」
ウェールズはルイズの言いたい事を察したらしい。暫く無表情だったが、優しい微笑みを浮かべてルイズを見つめた。
「私と、従姉のアンリエッタが恋仲だったと、君は言いたいんだね?」
ルイズは頷き、申し訳に頭を下げた。
「そう、想像致しました。とんだご無礼をお許し下さい。そうなると、この手紙の内容は……」
ウェールズは瞳を閉じて額に手を当てながら、顔を上に向けた。暫くの沈黙の後、首を振りながら口を開いた。
「恋文だよ。恐らく君が想像している通りの、ね。確かにアンリエッタが手紙で知らせた様に、この恋文がゲルマニアの皇室に渡っては面倒な事になる。なにせ、その手紙には始祖ブリミルの名の下、永遠の愛を僕に誓っているからね。君も知っての通り、始祖に誓う愛は婚姻の際の誓いでなくてはならない。この手紙が白日の下に晒された時、彼女は重婚の罪を犯す事になる。そうなれば、ゲルマニアの皇帝はアンリエッタとの婚約を破棄するだろう。そうなれば、同盟は相成らず。トリステインは一国であの強力な貴族共と立ち向かわなければならない」
「……姫様と殿下は恋仲であった、そう取って宜しいのですね?」
「昔の、話さ」
ルイズは首を振り、その場に突然跪き叫んだ。
「殿下! 亡命を! トリステインに亡命なさって下さい!」
これまでずっと事の成り行きを見守っていたワルドが歩み寄り、跪いたルイズの肩に手を置いた。しかし、ルイズの剣幕はおさまらない。
「お願いでございます! 私達と共に、トリステインへいらしてくださいませ!」
「それは出来んよ」
ウェールズは、あくまでも笑顔のまま、跪いたルイズを見下ろしながら優しく言った。
「殿下! これは、私個人のお願いではございません! 姫様のお願いでございます! 姫様の手紙には、そう書かれておりませんでしたか!? 私は幼き頃、恐れ多くも悲鳴のお遊び相手を務めさせて頂きました! 姫様の性格は良く存じ上げております! あの姫様が、ご自分の愛した男性を見捨てる筈ありません! 仰って下さい、殿下! 姫様は、その手紙の中で亡命を勧められた筈です!」
悲痛なルイズの訴え虚しく、ウェールズは首を振った。
「その様な事は、一行も書かれていない」
「殿下!」
ルイズは立ち上がり、ウェールズに詰め寄った。
「私は王族だ。嘘は言わない。姫の名誉の為今一度言うが、亡命を勧める様な文は一行も書かれていない」
そう言いながらも、ウェールズは苦しそうにルイズから視線を逸らした。その表情、態度から、ルイズの言っている事が当たっているのが窺えた。
「アンリエッタは王女だ。自分の都合を……国の大事に優先させる筈がない」
ルイズは、ウェールズが言葉からアンリエッタを庇っているのを察した。ウェールズは例え亡命を勧める文が書いてあったとしても、アンリエッタの名誉の為にないと言い張っているのだ。
ウェールズは再び優しい微笑み浮かべると、ルイズの肩を優しく叩いた。
「君は正直な女の子なんだな、ラ・ヴァリエール嬢。正直で、真っ直ぐで、良い眼をしている。汚れのない、澄んだ瞳だ」
ルイズは唇を噛み締めながら俯いた。
「だが、忠告しておこう。その様に自分に正直過ぎては、大使は務まらないよ。しっかりしなさい」
ウェールズの手がルイズの頬を撫でる。優しく、温かい感触だった。それから机の上にある、水が張られた盆の上に乗った針を見つめた。どうやら時計らしい。
「さぁ、そろそろパーティーの時間だ。諸君等は、我等が王国の最後の客人となる。是非参加して欲しい」
桐生はルイズの肩を抱いて部屋を出て行った。ワルドは残り、二人が出て行ったのを見計らってウェールズに一礼した。
「おや、まだ何か御用がおありかな? 子爵殿」
「恐れながら、殿下にお願いしたい儀がございます」
「何なりと申されよ」
ワルドはウェールズの言葉に頷き、自分の頼みを口にした。
ウェールズは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「何ともめでたい話ではないか! その役目、喜んで引き受けよう!」
パーティーは城のホールで行われた。簡易の王座が設けられ、王座にはアルビオン王、年老いたジェームズ一世が腰掛け、集まった貴族や臣下を見守っていた。
明日で自分達が滅びると言う自覚があるせいなのか、華やかなパーティーが開かれた。テーブルには豪華な料理が並び、ワインを片手に着飾った兵隊達や貴族達が談笑している。まるで、最後の生を実感する様に。
会場の隅からパーティーを眺めていた桐生はふと、「最後の晩餐」を思い出していた。レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれたあの絵画は、キリストが十二人の弟子の内、一人が自分を裏切ると予言した最後の食事の情景だ。明日、否応なしに終わりを迎えるこの王国の人間達が、何となくその絵と重なった。
「……なんで明日、みんな死んでしまうと言うのにこんなに明るいのよ」
独り言の様にルイズが漏らす。手に持たれてる桐生が取ってやった料理の取り皿は一切手が付けられていない。
そんなルイズにワルドが頷いた。
「最後だからこそ、明るく振る舞っているのさ」
ふと、扉が開かれてウェールズが現れた瞬間、貴婦人達の間から拍手と歓声が飛んだ。若く凛々しい王子はやはりどこでも人気らしい。ウェールズは玉座に近付き、父王に何かを耳打ちした。
ジェームズ一世は真っ直ぐ立ち上がろうとしたが、年のせいかよろけて倒れかけてしまう。
会場のあちこちから屈託のない失笑が漏れた。
「陛下! お倒れになるのはまだまだ早いですぞ!」
「その通り! せめて明日までは立っていて頂かなければ、我等が困ります!」
失笑と共に投げかけられる野次に気を悪くした様子もなく、ニッと人懐っこい笑みを浮かべた。
「待て待て、各々方! 座りっぱなしのせいで足が痺れただけじゃ!」
ウェールズが父王を寄り添う様にして立ち、その弱々しい身体を支えた。陛下が小さく咳払いすると、ホールの貴族、貴婦人達がすぐさま直立した。
「諸君……忠実なる臣下の諸君等に告げる。いよいよ明日、このニューカッスルの城に立てこもった我等王軍に、反乱軍「レコン・キスタ」の総攻撃が始まる。この無能で無力な王に、諸君等はよく従い、よく戦ってくれた。しかし、明日の戦いはもはや、戦いとは言えぬ。一方的な虐殺となろう。朕は忠勇な諸君等が傷付き、倒れる様を見たくはない」
老いたる王は激しく咳き込んだ後、ぜぇぜぇと息を切らしながら言葉を続けた。
「従って、朕は諸君等に暇を与える。長年、よくぞこの王に付き従ってくれた。厚く礼を述べさせてくれ。明日の朝、巡洋艦「イーグル」号が女子供を乗せてここを離れる。諸君等もこの艦に乗り、この忌まわしき大陸から離れるが良い」
しかし、王の言葉には誰も返事をしない。
すると一人の貴族が歩み出て、高々と宣言した。
「陛下! 我等はが陛下の口から出てくるのを待つ言葉は一つ! 「全軍前へ!」これだけであります! 今宵、この美味い酒のせいか、些か耳が遠くなってしまった様だ! それ以外の命令は聞こえませぬ!」
その発言に次々と他の貴族が声を上げた。
「陛下! もう酔われましたか!? まだまだ宵の口ですぞ! 呂律が回らなくなるほど酔うには早すぎる!」
「いやいや、違う違う! 陛下はどうやら異国の歌を歌われたのだ! だから我等では言葉の意味が理解出来んのさ!」
その様子に王は指先で目頭を拭い、この馬鹿共が、と呟いてから高々と杖を掲げた。
「よかろう! 我が忠実なる勇士達よ! しからばまずは飲め! 食え! 明日の決戦に向けて英気を養え!」
歓声が上がった後、辺りは喧騒に包まれた。
桐生達トリステインの客人が珍しいのか、次々と貴族が挨拶に来た。みんな悲観な言葉は一切言わず、三人に明るく料理を、酒を勧めてきた。
「大使殿! このワインは最高ですぞ!」
「あいや、待たれい! ワインよりもこの肉料理が宜しいかと!」
死を前に明るく振る舞う人々と姿に、ルイズは勇ましいと言うよりも、悲しく見えた。やがてその場の雰囲気に耐えられなくなったらしく、顔を振って料理の乗った取り皿を桐生に押し付けると、外に出て行ってしまった。
桐生はルイズを追いかけ様かとも思ったが、ワルドが後を追った為任せる事にした。
一人ワインを飲んでいると、会場の中央で貴婦人達と話していたウェールズが此方に寄ってきた。
「ラ・ヴァリエール嬢の使い魔の青年だね。しかし、人が使い魔とは珍しい。トリステインは変わった国だ」
桐生の隣に立ち言うと、ウェールズは笑った。
「トリステインでも、珍しいらしいぜ」
グッとワインを
暫く二人して黙っていたが、桐生が沈黙を破った。
「あんたの親父さんは立派だな」
「もちろんさ。私の憧れだよ」
父親を褒められた事に素直に喜びを表すウェールズに桐生は頷いた。
「あれだけの人間に慕われるのは、簡単な事じゃねぇからな」
かつて一度とは言え東城会の頂点に立った桐生は、素直に下についてくる構成員を作るのがどれほど難しいのかを知っていた。
「ああ……父のおかげで、私も胸を張って死ねる」
ウェールズの呟きに、桐生は腕を組んでそちらを身体を向けた。
「さっきは済まなかったな」
「さっき?」
「俺の主人が、興奮しちまってたからな」
桐生は先ほど、ルイズがウェールズに詰め寄った事を謝罪した。しかし、ウェールズは気にした様子もなく、おどけた様に笑って見せる。
「別に気にしてないさ。彼女の気持ちもわかる。アンリエッタを、姫を大切に思ってくれてるのだろう」
心から嬉しそうに呟いた後、ウェールズの表情が真剣なものに変わった。
「だが、だからと言って心を動かす訳にはいかない。「レコン・キスタ」の理想を否定はしない。だがその理想の為に流れる民草の血を、奴等は気にしない。それは、許される事ではないのだ」
「そもそも、その「レコン・キスタ」って奴等の目的はなんなんだ?」
桐生は今まで「レコン・キスタ」の名前は聞いていたものの、その組織の目的まではわかっていなかった。
ウェールズは首を振ってから溜め息を漏らした。
「奴等の目的はハルケギニアの統一だ。「聖地」を取り戻すと言う、理想の下にな」
「要は世界征服って訳か……くだらねぇ」
吐き捨てる様に言って見せた桐生にウェールズは苦笑した。
「ああ、確かにくだらぬ。だが、奴等はそれを実現させようとしている。我が国を起点として。だから我々王族は、最後まで戦わねばならぬ。それが、王家に生まれた者の義務であり、国の内憂を払えなかった我等の課せられた責任なのだ。我等の勇気と名誉の片鱗を見せ付けた所で、「レコン・キスタ」の理想が揺らぐとは思わんが」
「例えそれで、
桐生は語気を強めて言った。
ウェールズは暫くの間黙っていたが、顔を俯かせた。
「愛するが故に、身を引かなければならぬ時がある。愛するが故に、突き放さなければならぬ時がある。今私がトリステインに亡命すれば、「レコン・キスタ」がトリステインに攻めいる為の格好の口実を与えてしまう」
苦しそうに言葉を紡ぐウェールズの表情は、俯き垂れた髪で隠れて見えなかった。だが、どんな表情をしているのかぐらい、桐生にはわかっていた。
「そうか……そこまでの覚悟なら、もう俺からは何も言わねぇよ」
ウェールズは顔を上げ、桐生に身体を向けると手を差し出した。
「君に頼みがある。彼女に会ったら伝えてくれ。ウェールズは勇敢に戦い、そして勇敢に死んだ、と」
「ああ……必ず伝える。約束する」
桐生はしっかりとウェールズと握手を交わした。
会場から出て用意された寝室に向かう途中、ワルドが現れて桐生に近付いてきた。
「カズマ殿、貴方に伝えておく事がある」
「何だ?」
「明日、僕とルイズはここで結婚式を挙げる」
その言葉に、桐生の眉が吊り上がったのをワルドは見逃さなかった。
「随分急だな……しかもここでか?」
「ええ、是非僕達の婚姻の
桐生は黙ってワルドの言葉を聞いていた。
「貴方は出席なさいますか?」
ワルドの質問に、桐生は首を傾げて見せた。
「ルイズが望むならな」
「では、ルイズへの確認をお願いします。もし、出席なさらなかった場合、貴方とはここでお別れですな」
「そうだな……」
ワルドは桐生に一礼すると、どこかへと消えた。
桐生は薄暗い廊下を一人歩いていた。
ふと、廊下の途中に開かれた窓が見え、月が見えた。そこで一人、涙ぐんでいる少女の姿があった。月明かりが照らす長い桃色の髪、白い頬を伝う涙はまるで真珠の様に輝いていた。
ふと、ルイズは振り向き、薄暗い廊下の少し先に桐生が立っているのに気付き、慌てた様に目を手で拭うも、すぐに新しい涙が頬を伝った。
桐生がゆっくり近付いてルイズの目の前に来ると、ルイズは力なく桐生の腹部に顔を押し付けた。
桐生は何も言わず、優しくルイズの頭を撫でてやる。くしゃりと、柔らかい髪が桐生の指に絡まった。
「嫌、あの人達……。どうして、何で死を選ぶのよ? 訳わかんない。姫様が逃げてと言っているのに……恋人が逃げてと言っているのに、どうしてウェールズ皇太子は死を選ぶの?」
ルイズの問い掛けに、桐生は何も言わない。ただ黙ってルイズの頭を撫で続けた。
「愛する人より大事なものなんて、この世にあるはずないじゃない。私、もう一度皇太子を説得するわ」
「それは無理だ」
ルイズの頭を撫でながらも、強い口調で桐生が言う。
「どうしてよ?」
「お前にはあのお姫様に手紙を届ける任務があるだろう。覚悟を決めた男の事は、放っておいてやれ」
ルイズは桐生から身体を離すと、涙で濡れた眼でキッと睨んだ。
「何よ……あんたまで、自分から死ぬのが正しいって言うの? 愛する恋人を置いて、自分の命を失うのが間違っていないって、そう言うの!?」
廊下に響き渡る悲鳴にも近いルイズの怒声に、桐生は目を逸らさずルイズの顔を見つめていた。
やがて、桐生がゆっくりと目を閉じ、再び瞼が開かれると、口も開かれた。
「甘ったれんなよ、ルイズ」
「っ!?」
静かだが、ゾクリとするほど怒気の籠もった声にルイズは身震いする。
「お前は今回この任務を受けて、俺がそれを許さなかった時、なんて言った? 「命を賭ける覚悟はある」、そう言ったよな? あの時のお前の言葉と、今あいつ等が言っている言葉に何の違いがある?」
「それ、は……」
口ごもるルイズに桐生は屈んで視線を合わせると、ルイズの肩を優しく掴んだ。
「忘れるな、ルイズ。そして覚えておけ。これが、戦争だ。くだらねぇ理由だろうと何だろうと、始まっちまったら最後、終わるまで自分の大事な物を失うか、相手の大事な物を奪うしかねぇ。馬鹿な野郎共が引き起こす、くだらねぇ殺し合いなんだ」
桐生の真っ直ぐな目とその言葉に、ルイズは止まっていたと思っていた涙を再び流した。
桐生は立ち上がり、ルイズの身体を優しく抱き寄せると、暫くの間頭を撫でてやっていた。
どれくらいそうしていただろう。月明かりが照らす沈黙の中、桐生がそれを破った。
「ルイズ……お前は明日、結婚するんだろう?」
その言葉に、ルイズが驚いた様に顔を上げた。
「な、何よ、それ!?」
「さっきワルドに言われてな。明日、あのウェールズに媒酌人をして貰い、式を挙げると言っていたぞ?」
ルイズは戸惑った様な、困惑した表情で落ち着きなく、目を動かした。
「それで、俺の出席を問い掛けられたんだが、ルイズに聞くと言ってしまってな」
桐生の言葉は、ほとんどルイズの耳には入っていなかった。
結婚? 誰が? 誰と? 私と、ワルドが?
遠い昔、幼い頃から憧れ、婚約者となった事を喜んでいたのに、なぜ今はこんなにも戸惑うのだろうか。
「……おい、ルイズ?」
一向に返事を返して来ないルイズに首を傾げながら桐生が問い掛けると、ルイズは桐生の顔を見つめた。
野性的だが、どこか憂いを秘めた瞳。整った顎の髭。自分より遥か、と言うか自分の親とほとんど同い年のこの異国の男は、ルイズの心を強く揺さぶった。
「……あ……」
「あ?」
ルイズの言いたい事がイマイチわからず、オウム返しの様に繰り返し言う桐生が首を更に傾げた。
「あ、あんたは……その、どう思う? 私はやっぱり……ワルドと結婚するのが、いいと思う……?」
声が震えて途切れ途切れになる。心臓が早鐘を打っている。もしかしたら、桐生にも聞こえているかもしれない。
桐生は少し悩んだ様に黙ってから言った。
「はっきり言って、俺はワルドが気に入らねぇ。だから、出来ればお前と一緒にさせるのは、余り賛成出来ないのが正直な気持ちだ」
ルイズは顔を俯かせる。耳が熱い。呼吸が思わず早くなる。
今桐生は、自分とワルドの結婚に反対している。それって、それってつまり……!?
「だが……」
淡い少女の期待は、呆気なくも砕かれてしまう。
「結局、最後を決めるのはお前だ。だから、お前が自分で選んで決めるといい」
その言葉に、ルイズの中で何かが切れた。
ルイズは突然桐生を押しやる様に身体を離すと、俯いたまま言った。
「私……ワルドと結婚する」
「そうか……」
桐生の呟きに答えもせず、ルイズは薄暗い廊下に向かって歩き出した。
「おい、ルイ」
「話しかけないで!」
声をかけようとした桐生の言葉をルイズが怒気の籠もった声で遮る。
「もうあんたの顔なんて見たくない! 明日の式には出席しないで! それで、どこへなりとも行っちゃいなさい!」
突然怒りだしたルイズに訳がわからなかったが、桐生はただ一言だけ告げた。
「わかった」
桐生の言葉を聞き、ルイズは唇を噛み締めると、そのまま廊下を走り出した。
割り当てられた寝室に入り、ルイズは一目散にベッドに横になると、頭からシーツをひっかぶった。
何を期待していたのだろう。相手は自分よりも遥かに年上の男なのに。
「馬鹿みたい……本当に、馬鹿みたい……! う、うう……!」
身体を震わせ、涙を流しながら嗚咽混じりに呟き、自分が本当に馬鹿みたいに思えたルイズはシーツの中でその小さな身体を丸めた。
ニューカッスルの城が見える少し離れた崖の上で、その少年は小さな茶色い紙袋に手を入れた。中から鷲掴んだナッツを口に放り、ボリボリと音を立てて咀嚼する。
「まだ行かんのか?」
少年の背後から、鉛色の顔上半分が隠れる仮面を着けた男が声をかけた。ボロボロの袖のない胴着の様な服に、日本で言う袴の様なズボン姿の男は左手に分厚い布で包まれた長い物を持ち、背中には黒い刀身の大剣を引っかけている。
「「レコン・キスタ」が明日あそこを襲うんだってさ。終わってからでいいじゃない。余計な運動は好きじゃないし」
ナッツのかすが付いた指を行儀悪く舐めながら少年が言うと、男は腕を組んだ。
「つまり明日か、明後日か……あいつの「手土産」とやらが腐らなければ良いがな」
「あっはは! そうだねぇ……」
男の言葉に楽しそうに笑う少年は、砲撃によって所々が崩れているニューカッスルの城を見つめた。