瞼に当たる眩しい光に桐生は目を覚ました。まだ寝ぼけてぼやけた視界の中を、ドタドタと船員達が走り回っている。
目を擦って身体を起こすと、青空が広がっていた。舷側から下を覗き込むと、白い雲がまるで波打つ海の様に広がっている。船は雲の上を進んでいるのだ。
「アルビオンが見えたぞ!」
鐘楼の上に立った見張りの船員が、手に持った鐘を鳴らしながら叫ぶ。
冷たく強い風が頬を撫でる中、桐生は辺りを見回したが陸地らしい物が見えず首を傾げる。
「何してるの、カズマ?」
いつの間にか側に寄って来ていたルイズが、桐生に声を掛けた。
「どこにも陸地がないんだが……本当にアルビオンとやらに着いたのか?」
桐生がそう尋ねると、ルイズは小悪魔っぽい笑みを浮かべて空の一点を指差した。その指先を目で追った桐生の表情が驚きの物に変わる。
雲の切れ間から、巨大な大地が覗いている。黒々とした岩肌を晒す大地は視界の続く限り延びており、その上の地表には山がそびえ立ち、川が流れていた。
「どう? 驚いた?」
舷側に身を乗り出し笑みを浮かべたままのルイズが桐生に尋ねる。桐生はルイズの方に顔を戻すと、素直に頷いた。
「あれが浮遊大陸アルビオン。ああやって空中を浮遊して、主に大洋の上をさ迷ってるわ。でも、月に何度かだけど、ハルケギニアの上にやってくるの。大きさはトリステインの国土ほどあるわ。通称、「白の国」と呼ばれてるわね」
「何で「白の国」と呼ばれるんだ?」
桐生の疑問に、ルイズは大陸を指差しながら説明した。
大陸に流れる大河から溢れ出した水が空に落ちる際、白い霧となって大陸の下半分を包んでいる様子からそう呼ばれているらしい。その霧はやがて雲となり、大雨となってハルケギニアの大陸に降り注ぐのだそうだ。
熱心にルイズの説明を聞いていると、鐘楼に立っている見張りの船員が大声を上げた。
「右舷上方の雲中より、船が接近してくる模様!」
見張りの言う方に桐生が首を向けた。見ると黒塗りの一隻の船が此方に近付いている。大きさは自分達の乗っているこの船より一回り大きい。舷側の開いた穴からは大砲が突き出ていた。
「大砲とは、穏やかじゃねぇな……」
桐生が眉をひそめて呟くと、ルイズが不安そうに顔に影を差した。
「まさか……貴族派の、反乱軍の軍艦?」
後甲板でワルドと並び操船の指揮を取っていた船長が見張りの指差した方向を見た。
黒くタールの塗られた船体は、さながら戦闘艇を思わせた。舷側の開かれた穴から突き出た二十数個もある大砲が、その砲門を此方に向けている。
「ありゃあアルビオンの貴族派か? ふん、お前達の為の荷物を運んでる船だと伝えろ!」
船員は船長の指示通り手旗を振った。しかし、向こうからの返信はない。
船長が首を傾げていると、副長が青ざめた顔で駆け寄って来た。
「せ、船長! あの船は旗を掲げておりません!」
その言葉に、船長の顔も青ざめた。
「ってぇ事は……空賊か!?」
「その様です! 内乱の混乱に乗じて、活動が活発化してると聞いています!」
「そ、そりゃやべぇ! 逃げろ! 取り舵いっぱいだ!」
すぐさま空賊から逃げる様に指示を出す船長。しかし、既に遅かった。併走している黒船から、桐生達の乗り込んだ船の針路目掛けて大砲が放たれた。
ボゴンッ!と音を立てて砲弾が雲の中に消えていった。いつでも当てられるという、脅しの一発である。
黒船のマストに、四色の旗流信号がするすると登った。
「て、停船命令です……船長」
副長が弱々しく言った。
船長は歯を食いしばり、拳を握り締めた。この船にも一応移動式の大砲が、三門ばかりはある。が、黒船の舷側から開かれている砲門は二十数個。それに比べれば役に立たない飾り同然だ。
思わず助けを求めてワルドを見る船長。が、ワルドは静かに首を振った。
「僕の魔法はこの船を浮かばせる為に使ってしまって打ち止めだよ。あの船に従うしかない」
落ち着いた調子で言い放つワルドに、船長は深い溜め息を漏らしながら下を向いて俯いた。
「裏帆を打て……停船だ」
いきなり現れて大砲を放った黒船と、行き足を弱めて停船した船に、ルイズは怯えて桐生に抱き付いた。そんなルイズの肩に、桐生は優しく手を乗せてやる。
「空賊だぁっ! 死にたくなかったら抵抗すんなぁっ!」
黒船からメガホンを持った男が大声で怒鳴った。
「空賊ですって?」
ルイズが驚いた声で言う。
此方に向けて狙いを定め、弓やフリントロック銃を構えた男達が黒船の舷側に並び始めた。
鉤の付いたロープが放たれ、桐生達の乗っている船の舷側に引っ掛けられる。それを伝って手に斧や曲刀を持った屈強な男達が乗り込んで来た。数は数十人と多い。
桐生はルイズを自分の後ろに追いやり、腕を組んで静かに相手の動きを見詰めていた。抵抗はしない様だ。
「カズマ……」
不安そうに声をかけるルイズの頭を優しく撫でてやると、ワルドが此方に寄って来た。
「ここは、素直に相手に従うしかない様です。相手にメイジがいる可能性もありますしね」
「ああ。しかもあの砲門の数が此方に向いてるとなると……抵抗した所で無意味だろう」
溜め息混じりに言うワルドに、桐生は頷いて言った。
乗り込んでくる男達に驚いたワルドのグリフォンが甲高い声で鳴き叫び、一瞬男達を驚かせた。が、突然グリフォンの顔に白い靄がかかったかと思うと、グリフォンは身体を横にして眠りこけてしまった。
「あれは……眠りの雲。やはりメイジもいる様だ」
ワルドが羽根付き帽子を深く被って呟いた。
甲板に降り立った空賊達は、乗組員含め桐生達を一カ所に集めた。そして、一人の空賊が前に出る。
元々は白かったであろう汗とグリース油で薄汚れたシャツの胸元をはだけ、赤銅色に日焼けした逞しい胸が覗いている。ボサボサの長い黒髪を赤い布で乱暴に纏め、顔中には無精髭が生えている。体格も一番良く、左目に眼帯をつけている事から、どうやら空賊の頭らしい。
「船長は誰でぇ?」
荒っぽい口調で尋ねながらギロリと鋭い右目が船員達を見回した。
「私だ」
震えながらも精一杯威厳を保とうと強く言いながら船長が前に出る。
頭は船長に近付き、顔を抜いた曲刀でピタピタ叩いた。
「船の名前は? それと、積み荷は何でぇ?」
「トリステインの「マリー・ガラント」号。積み荷は硫黄だ」
「硫黄だぁ?」
空賊達の間で溜め息や舌打ちが漏れた。頭の男はニッと笑うと船長の帽子を取り上げ、自分の頭に被せた。
「船ごと全部買い取るぜ。代金はてめぇ等の命だ」
船長が俯き屈辱に身体を震わせる。それから頭は船員と並んでいるルイズとワルドに気付いた。
「あん? 貴族の客も乗せてんのか?」
そう言って頭は、ルイズの顔を覗き込んだ。
「こりゃあ別嬪な娘じゃねぇか。お前、俺の船で皿洗いでもやらねぇか?」
男達から下卑た笑い声が上がり、頭がルイズの顎に手を延ばした。が、その手がルイズの肌に触れる事はなかった。桐生の手が頭の手首を掴み、振り払ったのだ。
「汚ぇ手で俺の主人に触るな」
「んだぁ? てめぇは?」
頭が曲刀を桐生の首筋にあてがいながら睨み付ける。桐生はその目を真っ直ぐ見返しながら殺気の籠もった眼光を放った。
暫くの間沈黙が続いたが、頭がニッと笑って曲刀を鞘に収めた。
「その目つき、てめぇ堅気じゃねぇな。この俺にも怖じ気付かねぇとは……気に入ったぜ!」
頭はルイズとワルド、そして桐生を指差して男達に言った。
「こいつ等も運べ。身の代金がたんまり貰えそうだ」
空賊に捕らえられた桐生達は船倉に閉じ込められた。「マリー・ガラント」号の船員達は自分達の物だった船の曳航を手伝わされてるらしい。
桐生は剣を取り上げられ、ワルドとルイズは杖を取り上げられた。鍵をかけられては最早手も足も出ない状況だ。
倉庫の中には酒樽や穀物の詰まった袋、火薬樽等が無造作に積まれていた。そんな積み荷を、ワルドは興味深そうに見回した。
桐生は仕方なしにその場に座り込むと、手をついた左手に鋭い痛みを感じ、思わず顔をしかめた。どうやら昨日あの仮面の男の魔法で負った傷が痛んだらしい。
そんな桐生を見て、ルイズがしゃがみ込んで不安そうに顔を覗き込んだ。
「カズマ、やっぱり昨日の傷、痛むんじゃ……」
「……大丈夫だ、それほどじゃねぇ」
心配そうに言うルイズの不安を取り除こうと穏やかに言った桐生だが、上手くはいかなかった。
「嘘よ」
桐生が止めようとするのも間に合わず、ルイズは桐生のジャケットの袖を捲り上げた。
「きゃっ!?」
そこは、酷い事になっていた。
手首から肘まで続く巨大なミミズ腫れが水袋となって膨らんでいる。
「何で……何で黙ってたのよ!? こんな酷い傷、放っておいたりして!」
「……一刻を争う任務なんだろう? たかがこんな傷で、一々止まっちゃいられねぇだろ?」
ルイズの事だ。きっと自分の傷を見れば、こうやって冷静さを失ってしまうのは目に見えていた。だから隠していたのだが、どうやら隠し通すのは無理だった様だ。
ルイズは立ち上がってドアを叩きながら叫んだ。
「誰か! 誰か来て!」
ルイズの声とドアを叩く音に、看守の男が起き上がった。
「……んだよ、うるせぇなぁ」
「水を! あと、「水」系統のメイジはいないの!? 怪我人がいるの! 早く治して!」
「ああ? いねぇよ、メイジなんて」
「嘘よ! いるんでしょう!?」
必死に叫んで取り乱すルイズの姿を見て、ワルドが驚いた。桐生はそんなルイズの肩を掴んで、ドアを叩くのを止めさせる。
「ルイズ、今は大人しくしてろ。俺達は捕まってるんだ。無闇に騒いで体力を消耗しない方がいい」
「嫌よ! だって……だってカズマ、怪我してるのよ!? これ以上放って悪化でもしたらどうすんのよ!?」
「だから大丈夫だって言ってるだろう? 確かに痛むが……自分の身体だ、自分が一番良く」
「嘘よ!」
桐生がなだめる様に言葉を口にしてるのを遮り、ルイズが桐生に抱き付いて顔を腹部に埋めた。
「ギーシュとの時だってそうだったじゃない……あんなに手、怪我してたのに黙って……何で我慢なんかするのよ……」
くぐもった声を漏らしながら、ルイズの肩が小刻みに震えている。泣いてしまっているらしい。そんなルイズの頭を優しく撫でてやる。
「悪かったよ、ルイズ……だから、泣くな。なっ?」
「泣いてなんか、泣いてなんかいないもん……」
桐生から身体を離し、弱々しく言いながら瞳から涙を溢れさせてルイズが言うと、桐生に背を向けた。
桐生はワルドに目配せし、ワルドは頷いてルイズの肩を優しく抱いた。
ふと、突然扉が開き、丸々と太った男がスープの盛られた三人分の皿と水の注がれたコップが乗った盆を持って入って来た。
「飯だぜ」
桐生がそれを受け取ろうとすると、男は盆をひょいと遠ざけた。
「おっと、質問に答えてからだぜ」
ルイズが手の甲で目元を拭い、真っ赤な目で男を睨み付けた。
「何よ?」
「お前等、何の目的でアルビオンに向かってたんだ?」
「旅行よ」
ルイズは腰に手を当て、毅然とした態度で答えた。
「トリステイン貴族が、今時アルビオンへ旅行だぁ? 一体何を見物するつもりだい?」
「それはこっちの勝手でしょ? そこまで貴方に言う必要はないわ」
「はっ! 怖くて泣いてた割には、随分と強がるじゃねぇか」
ルイズがそっぽを向くと、男は笑って桐生に盆を手渡し出て行った。
桐生はスープの皿をワルドに渡し、そしてルイズに差し出した。
「ルイズ、お前の分だ」
しかし、ルイズはスープをチラッと見るなり顔を背けた。
「あんな連中の出したスープなんて飲めないわ」
「ルイズ、気持ちはわかるけど、食べないと身体が持たないぞ?」
ワルドに言われ、ルイズはしぶしぶと言った感じで皿を受け取った。
たいして美味くもないスープを飲み干すと、やる事がなくなってしまった。
ワルドは壁に背をつき、物思いに耽っている様だ。
桐生は一瞬煙草を吸おうと考えたが、火薬樽があるのを思い出して思いとどまった。
ルイズはシャツの袖を破ると、コップの水に浸けて桐生に近付き、それを傷口に這わせて冷やした。
「これで少しは違うはずよ」
傷全体を破いたシャツの袖を水に浸けて這わせると、ルイズは満足げに笑みを浮かべた。
「ありがとうな、ルイズ。」
桐生が素直に礼を述べながら笑顔を見せると、ルイズは首を振った。
「使い魔の面倒は、メイジの嗜みだわ」
必死に厳しそうな顔をしようとしているが自然と笑みが浮かんでしまうらしく、上手くいかずになんとも変な表情を浮かべてしまうルイズ。
その時、再びドアが開かれた。今度は痩せぎすの男が入って来て、三人をじろりと見回した。
「おめえ等、もしかしてアルビオンの貴族派かい?」
三人は答えず黙り込んだ。
「おいおい、だんまりじゃわかんねぇぜ。でもよ、もしそうだったら、失礼したな。俺達は貴族派の皆さんのおかげで商売させて貰ってるんだ。王党派に味方しようとする酔狂な連中がいてよ。そいつ等を捕まえる密命を帯びてるのさ」
「なら、この船はやっぱり反乱軍の軍艦な訳ね?」
「いやいや、俺達は雇われてる訳じゃねぇ。あくまでも対等な関係で協力し合ってるのさ。まぁ、おめえ等には関係ねぇ事だがな。で、どうなんだ? 貴族派か? そうだってんなら、きちんと港まで送ってやるよ」
ここで桐生は一瞬考えた。この場で貴族派と言えば、とりあえずは港に入れる。
しかし、ルイズは思いっ切り首を横に振ると、真っ向から男を睨み付けた。
「誰が薄汚い反乱軍の味方な物ですか。馬鹿言わないでちょうだい。私は王党派への使いよ。まだあんた達が勝った訳じゃないんだから、アルビオンは王国のままだし、正当な政府はアルビオンの王室。私はトリステインを代表してそこに向かう貴族なのだから、言うなれば大使よ。だから大使としての扱いをあんた達に要求するわ」
ルイズは言い終えると、ふんっ、と鼻を鳴らして見せた。
あまりにも正直な、馬鹿正直な言葉だった。此方の目的は伝えてしまうし、更には此方が相手にとって敵である事を伝えてしまったのだ。どことなくルイズらしい言葉に、桐生は思わず笑ってしまった。
「ちょっとカズマ!? 何笑ってんのよ!?」
「いや……お前らしいな、と思ってな」
真っ赤になって怒鳴るルイズと笑い続ける桐生を見て、男も笑い声を上げた。
「正直なのは確かに美徳だが、おめえ等、タダじゃ済まねぇぜ?」
「あんた達みたいな人間に頭を下げるくらいなら、死んだ方がマシだわ」
ルイズが言い切ると、男は、
「頭に報告して来る」
と言って倉庫から出て行った。
「やれやれ、これで俺達も終わりか? まぁ、確かにあんな連中に頭を下げるのは癪だがな」
さほど気にしてない様子で桐生が呟くと、ルイズが拳を握り締めた。
「私は諦めないわ。地面に叩き付けられるまで、まだロープが伸び続けている事を信じてる」
そんなルイズの肩を、ワルドは優しく掴みながら楽しげに笑った。
「流石は僕の妻となる女性だ。良かったよ、ルイズ」
ルイズはワルドに言われると、複雑な表情で俯いた。そんなワルドを、桐生はどこか冷ややかな目で見つめていた。
再びドアが開くと、先程の痩せぎすの男が入ってきた。
「頭がお呼びだ、こっちに来な」
狭い通路を通り、細い階段を上って三人が連れて来られたのは立派な部屋だった。
後甲板に設けられたそこが、空賊の頭の部屋らしい。
がちゃりと開かれたドアの先には豪華なディナーテーブルがあり、一番上座に先程の頭が腰掛けていた。手には大きな水晶の付いた杖が握られている。どうやら、格好はともかくメイジらしい。
頭の周りにはガラの悪い空賊達が立ち並び、ニヤニヤと笑って入ってきた桐生達を見つめている。
ここまで桐生達を連れてきた痩せぎすの男がルイズの背中をつついた。
「おい、お前等、頭の前だ。挨拶しな」
しかし、ルイズはキッと睨むばかり。頭はにやっと笑って見せた。
「気の強い女は好きだぜ。子供でもな。さぁ、名乗りな」
「さっきこの後ろの痩せっぽちにも言ったけど、大使としての扱いを要求するわ」
ルイズは頭の言葉を無視して後ろの痩せぎすの男を指差して顔を背けた。
「そうじゃなきゃあんた達となんてこれっぽっちも口を聞きたくないわ」
しかし、そんな挑発的なルイズの言葉を頭も無視した。
「お前等、王党派と言ったな?」
「ええ、言ったわよ」
「何しに行くんだ? あいつ等は、明日にでも消えちまうぜ?」
「そんな事、あんた達に言う必要なんてないわ」
頭はそんな態度のルイズを見て楽しそうに笑う。
「貴族派につく気はないのかい? あいつ等、メイジを欲しがっている。たんまり礼金を貰えるだろうぜ?」
「死んでも嫌よ」
桐生がルイズに目をやると、僅かだが、身体が震えているのがわかった。態度こそ気丈に振る舞ってはいるが、やはり怖いのだろう。当然だ。
「もう一度言う。貴族派につく気はないか?」
ルイズはキッと顔を上げ、腰に手を当てて胸を張った。口を開こうとした瞬間、桐生がその後を引き取った。
「何度も同じ事を言わせるな。つかねぇと言ったろ」
「またてめぇか……」
頭は桐生の方に目をやって睨み付けた。
「そういやあの時、俺の主人とか抜かしてたな。てめぇはこの女の何だ?」
「使い魔だ」
「使い魔?」
「ああ、そうだ」
頭は大声で、さも楽しそうに笑った。
「トリステインの貴族は気ばかり強くていけないな! まぁ、どこぞの国の恥知らずよりも何百倍もマシか!」
頭はそう言いながら立ち上がる。頭の突然の態度の豹変ぶりについて行けない桐生達は呆気に取られて口を開けていた。
「これは失礼した。貴族に名を尋ねるなら、まずは自分から名乗らなくてはね」
その言葉に立ち並んでいた空賊達の顔から笑みが消え、ビシッと背筋が延ばされた。
頭は束ねられた黒髪を引っ張った。それはカツラだった。中から黄金に輝く髪が現れ、眼帯を取り外し、作り物だったらしい無精髭をビリッと剥がした。現れたのは凛々しい若者だった。
「私はアルビオン王立空軍大将、本国艦隊司令長官……と、格好をつけても既に本艦「イーグル」号しか存在しない、無力な艦隊だがね。まぁ、肩書きなんかより此方の方が通りがいいだろう」
若者は苦笑を浮かべて居住まいを正し、威風堂々と名乗り上げた。
「アルビオン王国皇太子、ウェールズ・テューダーだ」
ルイズが口をあんぐりと開けた。桐生は面食らった様な表情で、名乗り上げた若き皇太子を見つめた。その横で、ワルドはウェールズを興味深そうに見つめた。
「アルビオン王国へようこそ、大使殿。さて、では今回の御用の向きを伺おうか」
あまりの事の展開に、桐生達は口も開かずぼうっと立ち尽くす。
「ははぁ、何故私が空賊風情に身をやつしているのだ? と考えているのだね? いや、金持ちの反乱軍には続々と補給や支援の物資が送り込まれる。敵の補給路を絶つのは戦での基本中の基本だ。しかしながら堂々と王軍の軍艦旗を上げていてはあっと言う間に反乱軍の船に囲まれてしまう。まぁ、そんな訳で空賊を演じているのだよ。はは、なかなか様になっていただろう?」
まるで悪戯小僧の様なあどけない笑顔を浮かべてウェールズが言う。
「いや、大使殿、先程は誠に失礼をした。しかしながら、君達が王党派という事がなかなか信じられなくてね。外国に我々の味方の貴族がいるなど、夢にも思わなかったよ。君達を試す様な真似をしてしまい申し訳ない」
ウェールズの言葉が聞こえていないのか、ルイズは口を開けたまま微動だにしない。いきなり目的の人物が目の前に現れてしまい、心の準備が出来ていなかったのだ。
「アンリエッタ姫殿下より、密書を言付かって参りました」
ワルドが一歩前に出て、羽根帽子を外して優雅に頭を下げた。
「ほう、姫殿下とは……君は?」
「トリステイン王国魔法衛士隊、グリフォン隊隊長、ワルド子爵にございます」
それからワルドは、ルイズ達をウェールズに紹介した。
「そして此方が姫殿下より大使の大任を仰せつかったラ・ヴァリエール嬢とその使い魔の青年にございます、殿下」
「なるほど! 君の様な立派な貴族が、私の親衛隊に後十人ばかりいたらこの様な惨めな姿で出会う事もなかっただろうに! して、その密書とやらは?」
ウェールズの言葉に、ルイズが慌てて胸のポケットからアンリエッタの手紙を取り出した。
恭しくウェールズに近付いたが、突然立ち止まり、手紙を胸元でギュッと握り締めた。
「あ、あの……」
「何かな?」
「その、失礼ですが、本当に皇太子様なのですか?」
ルイズが申し訳なさそうに尋ねると、ウェールズは優しく微笑んだ。
「まぁ、先程の顔を見れば疑ってかかるのは当然の事。しかしながら、私は正真正銘、ウェールズだよ。そうだね……せっかくだ、証拠をお見せしよう」
ウェールズは自分の薬指に嵌められていた指輪を外すと、ルイズの左手を取って、薬指に嵌められた「水」のルビーに近付けた。二つの宝石は互いに共鳴し合い、虹色の光を振り撒いた。
「この指輪は、アルビオン王家に伝わる「風」のルビーだ。君がその指に嵌めているのは、アンリエッタの「水」のルビーだね?」
ルイズは頷いた。
「水と風は虹を作る。王家の間にかかる虹をね」
「大変失礼をば、致しました」
ルイズは一礼して、手紙をウェールズに差し出した。
ウェールズは愛おしそうにその手紙を受け取ると、花押にそっと口付けた。それから慎重に封を開き、中の便箋を取り出して読み始めた。
暫く真剣に読んでいたが、そのうちに顔を上げた。
「姫は結婚するのか? あの愛らしいアンリエッタが……私の、可愛い従妹が」
ワルドは黙ったまま頷き、肯定の意を表した。
再びウェールズは便箋に目を落とし、最後の一行まで読むと頷いた。
「用件はわかった。姫はどうやら、あの手紙を返して欲しいとの事を私に告げている。何よりも大切な、姫から貰った手紙ではあるが、姫の望みは私の望み。了解した」
ウェールズの言葉に、ルイズの顔が輝いた。
「しかし、残念ながら件の手紙はこの場にはない。ニューカッスルの城にあるんだ。姫の手紙を、空賊船に連れてくる訳にはいかなかったのでね」
ウェールズは笑って言った。
「多少面倒ではあるが、君達にもニューカッスルまで足労願いたい」
桐生達を載せた軍艦「イーグル」号は、浮遊大陸アルビオンのジグザグした海岸線を、雲に隠れる様に航海した。数時間その様に雲の中を進むと、大陸から突き出た岬が見えてきた。岬の突端には、高い城がそびえ立っている。
ウェールズは桐生達に、あれがニューカッスルの城だと言う事を説明した。しかし、「イーグル」号は真っ直ぐニューカッスルに向かわず、大陸の下側に潜り込む様な進路を取った。
「何故下に潜る? 目的地は目と鼻の先だろう?」
桐生がそう言うと、ウェールズが城の上空を指差した。その先には、巨大な船が降下して来るのが見える。慎重に雲中を航海して来た甲斐あってか、向こうは「イーグル」号が見えていないらしい。
「叛徒共の軍艦だ」
ウェールズが忌々しそうに呟いた。
巨大と言う形容しか出来ない禍々しい巨艦だ。長さは「イーグル」号の二倍ほどもある。帆を何枚もはためかせ、ゆっくりと降下したかと思うと、ニューカッスルの城目掛けて並んだ砲門を一斉に開いた。激しい轟音と斉射の振動が「イーグル」号にまで伝わってくる。放たれた砲弾は城に着弾して城壁を崩し、小さな火災を発生させた。
「かつての本国最高にして最強の軍艦、「ロイヤル・ソヴリン」号だ。今では叛徒共の軍艦として、「レキシントン」と名前を変えられているがね。あれが城の上空を閉鎖してるのさ。時々ああやって降りてきては、嫌がらせの様に大砲をぶっ放していく」
桐生が雲の切れ目から遠く覗く巨大な軍艦を見上げた。無数とも言える数の大砲が舷側から突き出て、艦上にはドラゴンが舞っている。
「大砲は両舷合わせて百八門。おまけに竜騎兵まで積んでいる、まさに魔物の船さ。あの軍艦の反乱から、全てが始まった。さて、我々の船は当然あんな化け物が相手では歯が立たない。だから雲中を抜けて大陸の下からニューカッスルに近付く。そこに我々しか知らない秘密の港があるんだ」
そう言ってウェールズが笑った。
ズンズンと下に「イーグル」号が雲中を進み、大陸の下に出ると辺りは真っ暗になった。大陸が頭上にあって日の光が差さないせいである。おまけに雲の中だ。視界がゼロに等しく、簡単に頭上の大陸に座礁する危険がある為、反乱軍は大陸の下には絶対に近寄らないとウェールズは語る。
「地形図を頼りに測量と魔法の明かりだけで航海する事は、王立空軍にとっては造作もないんだが、奴等は空を知らない無粋者だからね」
恐らく、ウェールズは笑いながら言っているのだろう。しかし、桐生達は大陸の下に広がる闇に包まれ、辺りに何があるのか全くわからないのだ。わかるのは、頬を撫でる湿った冷たい空気ぐらいである。
暫く航行すると、突然船が止まった。マストに淡い魔法の明かりが灯され、辺りが僅かながら見える。すると、頭上に直径三百メイルほどの、黒々とした穴の真下にいる事がわかった。
「一時停止」
「一時停止、アイサー!」
掌帆手が命令を復唱すると、「イーグル」号は裏帆を打って帆がたたまれ、穴の真下で停止した。
「微速上昇」
「微速上昇、アイサー!」
ゆるゆると「イーグル」号が穴に向かって上昇を始めた。「イーグル」号の航海士が乗り込んだ、「マリー・ガラント」号もそれに続く。
「まるで空賊の様ですな、殿下」
ワルドが皮肉めいた言い方をすると、ウェールズはにっこりと笑って頷いた。
「まるで、ではなく、正に空賊なのだよ、子爵」