ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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前話の修正。ゼウスのセリフの「デルポイの神殿に行け」を「ティーリュンスの神殿に行け」に変更しました。






0.8 選定した先に剪定されるのか

 

 

 

 二つ折りにした厚織りの黒いヒマティオンに、それを留めるための青銅のポルパイを着け、ある神が刺客として繰り出してきた熊の魔獣から剥ぎ取った、赤い毛皮の衣の一式を纏う。旅支度を整え大弓を手に取った。

 弦の張り具合を確かめる。十人の男達が総出で掛かっても引くのが難しい弓の弦も、アルケイデスにとっては脆弱に過ぎ、扱いには細心の注意を要する。大弓を担ぎ矢筒を腰に括りつけ、鉄の剣を背中に帯びる。短剣を二つ懐に忍ばせ、準備は整った。

 

「………」

 

 一瞬、逡巡する。迷った末に、亜麻の袋に薄汚れた人形を詰めた。自分の手で補修して、中には青銅の剣の欠片を織り込んでいる。袋に入れたそれを腰紐に吊るし、己の首に亡き妻の衣服の切れ端で編んだ布を巻き付けた。

 テーバイを出る。もう二度と戻らないつもりだった。クレオン王の娘メガラを殺した故の後ろめたさもあるが、何より娘を殺されたというのにアルケイデスを憎まず、さして悲しんでもいなかったクレオン王に会いたくなかったのだ。

 喪に服した後に旅に出る。鋭利な眼光には鋼の硬さがあった。神性の真紅の双眸は、ちらりと傍らに向けられ、短く最後の確認をする。

 

「何度も聞くようだが、本当にいいのか。私に付き従っても」

「うん。おれは伯父上に着いて行く」

 

 イオラオスだ。イピクレスはミュケナイに行き、エウリュステウスに仕えるらしい。父アムピトリュオンの故郷に戻り、彼の居場所を作るために。

 そんなイピクレスは自身に残された最後の息子を、アルケイデスの従者として差し出した。兄さんには旅の道連れが必要です、と。その心遣いに罪悪感を感じる。妹の子であり、甥の兄弟を殺したのはアルケイデスだ。神が原因であるとは言っても、普通の人間からすれば直接的な仇はアルケイデスである。それなのに甥を傍に置くのはどうにも気が引けてならない。

 

「……お前に報いてやれるか分からんぞ」

「構わないよ。だって好きで伯父上と行くんだ。報いて欲しいんじゃない、一緒に行かせてくれ」

「物好きだな」

 

 私が憎くないのか、殺してやりたくないのか。喉元まで出掛かった言葉を呑み込む。

 不毛な問いである。憎み、怒り、呪っただろう。しかしアルケイデスに非がないのであれば長く想うだけ徒労であると、あの忌まわしい日の出来事を『過去』にしている。

 それができるイオラオスや、ギリシア世界の人々を『強い』と見るか……はたまた理解の及ばぬ異人と見るか。あるいは己を女々しいと嗤うか。アルケイデスはその思惟を切って捨てる。無為だ。

 

(例え『弱さ』の証だとしても、私は忘れん)

 

 愛した妻を。己の腕に抱いた子供達を。

 ――わたしは貴方を、愛しています。

 その最期を、思い出せた。この手で炎に投げ込まれる前に、メガラはアルケイデスに微笑みかけてくれた。その記憶を魂に烙印し、永劫忘れまい。

 咎を背負ったまま生きていく、などという殊勝な想いはない。彼が想うのは、己が想い、己が想われていたという思い出だ。

 神に祈ったことはない。神は忌むべきもの、唾棄すべきもの。嫌悪と侮蔑の対象だ。何者かは知らないが、一柱に関しては間違いなく憎むべき仇だ。しかし一柱の……否、二柱の神だけは例外として祈っても良い。

 家庭の守護神であるヘスティア、死後の世界である冥界の神ハデス。もしも神の加護とやらが本当にあるのなら、呪わしき神に破壊されるまで健やかで在れた家庭での思い出を、祭祀神ヘスティアは与えてくれたのだろう。そして万物に平等な、畏敬を捧げるべき死を統べる神も、また。

 

(冥界の神よ。冥府神ハデスよ。どうか我が子らと我が妻に安らかなる眠りのあらんことを。そしていずれこの私が死したる後は、如何なる裁きも受け止めよう。願わくば我が魂に永劫の責め苦を与えたまえ――)

 

 生と死は特別だ。その特別で神聖であるべき死を司る神に関して悪い印象はない。それはギリシア世界に於いては異端の感性ゆえだろうか。アルケイデスはある意味で最も敬虔なハデスの信徒なのかもしれない。本人にそのつもりなどなくとも。

 ――後の世にあるかもしれぬ神話に於いて、冥府神との拝謁の栄誉を賜った時、ハデスはアルケイデスに対して非常に好意的であったという。その所以を知る者は、少なくともこの時はハデス一柱のみに限っていた。

 

「……()くぞ」

 

 何処へ征くのか。ティーリュンスの神殿? 否、そんな目先のことではない。

 償いのための神託。されどそんなものをアルケイデスは欲していなかった。妻子殺しの咎を濯がねば、英雄の名声が地に落ちると迫られてもどうでもよい。償いは他者に強いられるものに非ず、己が心の向くままにおこなうが償いである。

 しかし神託には従うつもりだ。なぜかと自問するまでもない。問題は、その後。神託を受け、名目上の償いを済ませた後のこと。復讐を遂げた後に、果たして己は何をすべきなのか。

 

 ひっそりと山の深奥で生きるか? 人との関わりを捨て俗世を離れ、己を見詰め続けて生きるのを是とするか。そうして生きていくのか。そうするために征くのか。

 

(それこそ、どうでもよい。今は何を置いても目先のことだ)

 

 甥を伴い道を行く。ティーリュンスに向かう途上、アルケイデスは口を真一文字に噤み、甥の歩みの速さに合わせて黙々と歩を進めた。

 無為な思考を有為とする。なんの実りがなくともやらねばならぬ。遂げねばならぬ。己の妻子の仇を取るため、漢は考えた。

 

 何を以て罰とするのか。己は何をしたいのか。

 

 悶々と、滾々と、考える。己の裡にある本当の願いを見つけるために、見詰める。醜くともよい、女々しくともよい。妻と子の顔が、何度も脳裏に去来した。

 お前は何がしたいのだ。問う、己自身へ。

 混沌とし、千々に散らばる願望を見据え、整理し纏める。醜悪な己の渇望から目を逸らさず。残虐で陰惨な願いを形にする。

 

 ニッ、と口元に自嘲の笑みが浮かぶ。醜く凄惨な願いを汲み取った。自身の本性もまた、軽蔑していた野蛮なギリシア世界のおこないに等しい。

 だがそうと弁えた上でなお、やってやろうと決めた。決めたのならもはや迷わぬ。断固とした姿勢で断行する。しかし思案した。その道を征くのはいい、だがそれを成せる力と知恵が己にあるだろうか。沈思する中で、アルケイデスはかぶりを振る。

 並ぶ者のない剛力がある。比類ない武技がある。恐らくは神にも、勝てずとも負けることはあるまい。だが決定的に足りぬものがあった。それが何かはひとまず横に置くとして、計画を立てる必要がある。

 

 表立って無闇に立ち向かう気はなかった。勇敢に、大義と復讐を叫んで立ち上がるのも男の道だろう。しかしそんなものは自己満足でしかない。蛮勇というのだ、それを。そしてあくまでも復讐が自己満足の産物であるのだから、ことの正負の性質を問うのは愚かというもの。安易に、短慮を犯すのは愚昧の所業。ならば幾ら謗られても構うものかと割り切って、確実に事を実行する。

 水面下で動け。何者にも思惑を悟らせるな。表向きは従順に振る舞い、あくまで闇の中で遂行しろ。泥水を啜り、毒を飲み、その上で華々しさの欠片もなく、復讐者の本懐を遂げるのだ。すなわち、忍従の道だ。

 

 ――『ヘラクレスの選択』と故事に語られるそれは、敢えて苦難の道を選び、想いを果たすおこないを指す。

 

 今はまだ、その第一歩。それを踏み出したばかり。

 何もかもが足りない。アルケイデスはイオラオスに言った。

 

「先にティーリュンスに行け、イオラオス」

 

 足を止め、アルケイデスは別の方角に歩き出す。イオラオスは慌てて問い掛けた。

 

「どこに行くんだよ、伯父上!」

「寄り道だ。行くべきところがある。なに、用はすぐ済む。お前がどれほど先に進もうと追いつこう。ティーリュンスには共に入れるだろう」

 

 翻すことのない決定事項を伝える語調に、イオラオスは訝しげにしながらも渋々従ってくれた。ティーリュンスに向けて歩いていく少年の背中を見送って、アルケイデスは走り出す。一日中高速で走り続け、目的の地に向かった。

 目指すは懐かしの青春の山、ペーリオン山である。

 知らぬものを知らぬままにしては、綻びとなる。なんとしても知る必要があり、誰ならば知っているかを考えると、心当たりは一人しかいなかったのだ。

 それは――本来ならばこの時のアルケイデスが訪ねるはずのない人物だった。

 ある意味この世界線に於ける岐路。この世界線が『剪定事象』の対象となるか否かの瀬戸際。

 

 ペーリオン山の麓に辿り着いた時、目的の人物はアルケイデスの来訪を知っていた(・・・・・)ように待ち構えていた。

 賢者は静謐とした面持ちで頷く。十年以上の月日を越えた再会に、師は言った。

 

「来て、しまいましたか……アルケイデス」

「来た。我が師ケイローンよ、貴方の知恵を――あるいは知識を借りたい」

 

 『未来視』の千里眼を持つケイローンは、沈鬱な表情で――されどその声はあくまで平静なまま答える。

 

「いいでしょう。……こちらへ」

 

 招かれるまま、山に入る。

 運命の分かれ道、剪定される枝として伸びるか。それとも剪定を免れる道を辿るか。いずれにせよ、決めた(・・・)アルケイデスは惑うことはない。

 不確かな神話の中、それだけが確かな事柄であった。

 

 

 

 




世界の運命よりも、独善の報復を。
生きるも死ぬも、栄えるも滅びるも、彼の英雄の歩む道に委ねられる。

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