ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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二話目です。




四幕 死と断絶の物語(中)

 

 

 

 

 獅子の鬣のような頭髪は肩に掛かり、毛先が嘗ての黒髪の名残を微かに残している。

 歳の頃は二十歳前後。獅子の牙、耳、髪、爪を持つ半獣半人の青年は、琥珀色の瞳の中に浮かぶ瞳孔を収縮し、憤怒も露わに短剣を振るった。

 

「がァァアア――ッ!」

 

 盾を構えて固まっていた警邏隊が纏めて三人吹き飛ばされる。純粋な人間には有り得ぬ猛獣の膂力だ。盾は拉げ、衝撃を受けた腕が痺れる。兵は苦悶した。もしかすると、骨に皹が入ったかもしれない。それほどの威力だ。

 総勢二十名の兵が薙ぎ倒される、背後から迫った最後の兵が斬り掛かるのに、青年は振り向きもせず獅子の尾で剣身の腹を叩き軌道を逸らす。唖然として体勢を崩した兵に振り返り様、青年の拳撃がその兵の腹部を貫く。

 吐瀉を撒き散らして蹲り、動けなくなった兵を一瞥すらしなかった。誰一人殺していない。眼中にもない警邏隊を無視し、再び邪魔者を蹴散らした青年は我も忘れて神殿を瓦礫の山とする。「■■■■■■■―――ッッッ!!」赫怒に燃える雄叫びを上げて短剣で石材を砕き、強靭な獅子の膂力で眼につく限りの全てを破壊する。キュベレーの像を見るなり眼から血涙すら散らして渾身の力で粉砕して、その破片を何度も、何度も、何度も踏み躙った。

 

「そこまでだ」

 

 ――声が落ちる。ハッと我に返った半獣半人は飛び退いた。一瞬前まで己の立っていた地点に、青年が砕いた神殿の柱が降ってきたのだ。

 瞬時に身構える青年だったが、声の主が己の伯父であるのを眼にして逆立たせていた金毛を萎びれさせる。

 

「伯父上……母上……」

 

 半獣半人の青年は、イオラオスだった。別れてより約二年、身長も伸び少年だった頃の幼さの抜けきった、精悍な戦士の面構えに成長している。

 金色の甲冑を纏っている王。背後に付き従える仮面の戦士と五十名の兵。傍らには、ヒッポリュテがいた。母のイピクレスもいる。呆然と血涙を流したまま、イオラオスはアルケイデス達を見る。

 

 イピクレスは声を失っていた。自身のただ一人の息子が人間の身を半分……とは言わずとも、獣のそれにしてしまっているのだ。

 獅子の鬣が如き頭髪、頭頂部から生える獅子の耳、瞳、牙、爪、尾……。生身の大部分は人間のままであるが、さながら怪物のような姿をしている。

 

「い、イオラオス……」

「………」

 

 震えながら息子に駆け寄ろうとするイピクレスを、険しい眼差しのアルケイデスが止めた。

 四方に視線を走らせる。そしてアルケイデスは問い掛けた。

 

()()は貴様がやったのか、イオラオス」

 

 周囲の惨状を示す。イオラオスの眼に焔が灯った。

 反吐を吐くようにして頷きが返される。アルケイデスのこめかみに青筋が浮かんだ。

 自分が設計し、建築に携わり、民の血税から得た資材を粉砕され、あまつさえ奉じようとしていた女神の神殿を半壊させられている。

 完成は間近だった。だというのに……配下の者や人足が少なからず労力を傾けた物が破砕された事実がある。それも、己の甥が実行したのだ。下手人は厳罰に処し、機嫌を害しているだろう女神に裁可を求めるべき案件である。

 赤の他人ならそれでいい。だが身内が下手人なのだ。アルケイデスの怒りは他人が蛮行に及んだ時以上のものだった。

 

「に、兄さん……赦してあげてください、きっと何か事情が!」

「黙れイピクレス。私の裁量を超えているのだ。処断は避けられん」

「そんな!?」

「……か」

「……なんだ、何か言いたいことでもあるのか、イオラオス」

「伯父上は……こんなクソアバズレの神殿なんかを建ててやがったのか!?」

「イオラオス?!」

 

 息子に慈悲を求めるイピクレスに冷たく返し、何事かを呟いた青年に訊ねる。するとイオラオスは聞き捨ててならない暴言を吐いた。

 それに、イピクレスは悲鳴を上げた。神への暴言など赦されるものではない。なんの罰もないなら、国ごと神罰が下るだろう。そうでなくても腰の軽い神なら降臨してくるのは疑いの余地はない。

 そして女神キュベレーは活動的な神格だ。やおら神威を感じ取り、アルケイデスは天に向け咆える。

 

「――今は王であるこの私が罪人イオラオスの聴取を行っているッ! 今はまだ御身の出られる幕ではないッ! 今少し……控えて頂こう!」

 

 その大音声は女神の出鼻を挫いた。降臨はない。アルケイデス本気の一喝に気圧されたのである。これが他の人間なら自身が怯んだことを無視し、無礼だと断定してやって来ていたのだろうが、相手はアルケイデスである。

 仕方なく出向くのは控えた女神の神威。薄まるそれに、アルケイデスは視線をイオラオスに戻した。

 

 怒りが鎮火している。アルケイデスとイピクレスは、イオラオスという青年を理解しているのだ。

 冷静沈着、思慮に富み、断じて軽はずみに神を侮辱はしない。そんな彼がここまでの暴言を吐く。何か事情があるのだ。

 いや、そんな事ははじめから分かっている。アルケイデスが怒気を堪えきれなかったのは、イオラオスが神殿を壊したからではない。そこに携わった多くの『人間の』労力を偲び、そして神殿を破壊した事で久方ぶりに会う事になる甥を罰さねばならなくなったからだ。伯父だからこそ怒りを覚えたのである。

 

 アルケイデスはふと、気づく。そして凶悪な面相を晒して自身を睨む甥に訊ねた。

 

「……イオラオス。お前の背に張り付いている()()()()()()()はなんだ?」

「ッ……」

「双子……のようだが」

 

 獣の血の繋がりなど普通は解らない。然しアルケイデスの眼力は超常の域にあった。

 ネメア、ケリュネイアを友とするからだろう。獣の微妙な顔つきから、血の繋がりの判別までつく。そしてその二頭の獅子の仔が、雄と雌で、双子だと察しが付けられた。

 イオラオスは言葉に詰まる。頭に血が昇って、上手く言葉が出ないらしい。

 嫌な予感がした。ひとまず獅子の仔から意識を外し、もう一つ気になった事を訊ねる事にする。

 

「……答えろ。()()()()()()()()()?」

 

 問えば、イオラオスはツッ、と涙を流した。透明なそれは、人のもの。

 その場に蹲り、地に伏せ、さめざめと泣き出した青年にここにいる総ての人間が虚を突かれギョッとする。アルケイデスも例外ではなかった。

 子供のように忍び泣く甥に、アルケイデスは慌てて駆け寄った。イピクレスも続く。そしてその背に手を乗せ、イピクレスが懸命に宥めた。

 

「……マタルヒス」

 

 アルケイデスは辺りを見渡す。連れてきた兵たちの眼が気になった。

 人払いをした方が良い。そう判断する。

 

「はい」

「半数に負傷者を連れて行き手当をさせろ。残りは寄ってくるかもしれん民草を通さぬように歩哨に当たれ。お前はその後に此処に戻れ」

「分かりました」

 

 マタルヒスが兵に指示を出し命令通りに兵を従わせる。迅速に行動する彼らがいなくなるのを待って、アルケイデスはイオラオスの傍に膝をついた。

 未だに泣いている青年の背中に手を触れる。そして静かに訊ねた。

 

「何があった」

「ッ……ッ、ッ」

「落ち着け。深呼吸をしろ。ゆっくり、落ち着いて、一から話せ。できるな?」

 

 不吉な予感がする。背筋に冷たい汗が流れていた。

 努めてそれを無視し、できるだけ穏やかに言い含めると、イオラオスはつっかえながらも語り出した。アルケイデスの予感を裏付けるように、ゆっくりと――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伯父がサラミス島を目指して発った時。アルケイデスに投げ飛ばされたイオラオスは寸分違わずアタランテの許に落ちた。

 空から降ってきた青年に、アタランテは仰天しながらも咄嗟に受け止め、二人仲良く地面を転がる事になる。土に塗れたアタランテは何をする! と怒ったものだが、イオラオスの「伯父上に投げ飛ばされたんだよ! バカ!」との言に納得して怒りを収めた――が、それはそれとしてバカ呼ばわりにカチンときたアタランテは、腕を組んで青年をからかった。

 

『私が受け止めてやらねば怪我の一つでもしていただろうに、感謝の言葉もないのか。汝はいい神経をしているらしいな。それなりに長い付き合いだがはじめて知ったぞ』

『グッ……!』

『ふぅ……やれやれ。礼も言えないのか? ほら、あ・り・が・と・う・ご・ざ・い・ま・し・た、だ。ほらほら、礼儀知らずではないと言うなら早く言った方がいいぞ。どうした? 言えないのか?』

『ぉ――まえぇ! 獅子(オニ)の首を獲ったみたいにぃ……!』

『ふふんっ』

 

 口も達者なイオラオスに、口喧嘩で勝てた試しのないアタランテは得意絶頂だ。

 然し聡い青年は気づく。アタランテは――乙女は微かに怯えていた。イオラオスに、ではない。この場の雰囲気に。

 まるで、嫌われたはずの相手の顔色を伺うような。腫物に触れるような。そんな、恐る恐る機嫌を伺うような気配。それで思い出す。イオラオスは、アタランテに夫婦になりたいと告白し、そして断られていたことを。途端に気まずくなりかけるが、直前に伯父から発破を掛けられていた事も思い出した。

 イオラオスは伯父を信頼している。出鱈目は言わない。なら――まだ望みがあるかもしれず。決して鈍感ではない青年は、アタランテの様子に勇気を得る。求婚を断られはしたが、案外本心ではなかったのではないか、と。

 

 すると、精神的にスッと楽になった。

 

『……ありがとう』

『っ!?』

『なんだよ? 礼を言えっていったのはお前じゃんか』

『あ、ああ……そうだが……』

 

 肩透かしを受けたように目を瞬かせ、アタランテは気味悪そうに距離を置く。

 やや喧嘩腰になれば、なし崩しに元通りの関係に戻れると期待していたのかもしれない。甘い目論見だ。イオラオスにはもう、元の関係――喧嘩友達のような間柄に戻るつもりはないのだから。

 イオラオスは、アタランテが下がった分距離を詰めた。たじろぐアタランテに、イオラオスは苦い表情を見せる。

 

『……伯父上にケツ、蹴り飛ばされちまった』

『ヘラクレスに……?』

『もう一回、本心を聞けって。男なら怯むなって。明確に拒絶されるまで諦めるな、って。はは……情けないだろ? 未だに伯父上に背中を押されなきゃウジウジしちゃいそうなんだから』

『い、イオラオス……何を……?』

『なあ』

 

 下がるアタランテに、詰めるイオラオス。

 明らかに様子がおかしい青年に、深緑の女狩人は後退して、背中を壁にぶつけてしまう。下がれないアタランテの間近に迫った青年は、アタランテの顔の横に両手を突いて逃げられないようにした。

 貌が朱くなる乙女の目を見詰め、“輝ける同行者”イオラオスは問い掛けようと口を開くのに、その声を掻き消すようにアタランテが喚いた。

 

『ま、待て待て待て!? 何を吹き込まれたのかは知らないが、おかしい、今の汝はおかしい! からかったのは謝る、汝に過失はないのに揶揄した私が悪かった! だから……だから……は、離れて……』

『いやだ』

『イオラオスっ』

『教えてくれ。忘れてないよな、おれがアタランテに何を言ったのか』

『そっ、それはっ……私は、断った! 私は純潔の誓いを立ててるから……』

『別に強制されてるわけでも、破ったからって罰が当たるわけでもないんだろ』

 

 ぶっきらぼうに告げるイオラオスに、アタランテはカッとした。誓いを、延いてはそれを立てた己を軽んじられたと思ったのだ。

 だが、

 

『私の誓いを軽く見るなッ! 強制力はない? 罰は当たらない? だからといって一度自身に立てた誓いを軽々と破れ――』

『やっぱり、おまえバカだろ』

『なっ!?』

『おまえの事はなんでも知ってる。並なんかじゃない覚悟があった、それを生涯守り通すつもりで居た、そんなことは分かってるんだよ』

『なら……』

『だけど、関係ない。そんなの、おれとおまえには関係ないだろ。おれは結婚してくれ――おれと夫婦になってくれって言ったんだ。誤魔化すなよ、逃げるな。おれはおまえの答えが聞きたいんだ。おまえの心が聞きたいんだ! 誓いとか理由とか、そんなのはどうでもいい! アタランテの、気持ちが知りたい!』

 

 イオラオスが鋭く言う。それにアタランテの気は呑まれた。

 思わず口を滑らせる。何かを言い返さないといけない気がして、それが失言だった。そしてイオラオスにとっては奇貨となる。

 

『で、でも……結婚、したら……その、どのみち、()()んだろう……?』

『はあ? なに当たり前のこと言ってるんだ』

『やはりか! なら私は誓いに懸けて――』

『あのな……この際だから言っとく。これだけは教えてくれ。もし嫌なら諦めるよ。アタランテ……おまえさ、おれと一緒になるのと誓いを護るの、どっちが大事なんだ?』

『な、それは……』

 

 青年は畳み掛ける。偽りは言わない。

 総て本音を、掛け値なしの本気をぶつける。

 これでダメなら、すっぱりと諦める。本当に。嘘じゃない。

 覚悟を固めて、イオラオスは断言した。

 

『おれは、仮に伯父上がおまえとの結婚に反対したとしたら、伯父上と別れてアタランテと一緒にどこかに行くよ』

 

 それは、アタランテにとっては考えられない事だった。

 英雄としての名を持つイオラオスは、常にアルケイデスと共に在った。そして彼はアルケイデスの生涯を追うことを自身の使命と定めているのだ。

 その覚悟は、自身の誓いに見劣りするものではない。事実イオラオスはその使命を忘れたら、この先どう生きていくかの指針を見失うだろう。

 だがそれを恐れないという。驚愕するアタランテに、イオラオスはどこまでも本気でしかない。だからこそ顔が熱くなる。使命を捨ててでも自分が欲しいと言ってくれたから。嬉しくて……照れて。言葉が出ない。

 

『アタランテはどうなんだよ?』

『わ、私は……』

『……ああっ、もうまどろっこしい! もういい、もう聞かない。アタランテ! 接吻(キス)するぞ』

『えっ?』

『嫌なら避けろ。殴れ。返事はそれでいいっ!』

『まっ、待ってくれ、待って、い、イぉラぉスぅ……』

 

 顔が近づいてくる。どうしていいか分からないまま、アタランテは本能的に目を閉じてしまった。結んだ両手を胸の前で握り締め、その瞬間を待ってしまった。

 ――つまるところ。それが答えだった。

 重なり合う瞬間は永遠に記憶の中に。真っ赤になった顔を伏せて、何も言えないでいるアタランテを、イオラオスは抱き上げて家に向かった。

 夜になり、朝になる。

 アタランテは内股で、どこか釈然としていなかった。でもその顔は、紛れもなく女のもので。頬に朱い紅葉を咲かせた青年は、どこか男の顔をしていた。

 

 二人は、夫婦に成った。

 

『――なあアタランテ』

『なんだ、すけべ』

『す……って、あのなぁ……いや、いいけどさ。……伯父上たち、暫く帰りそうもないしさ。今更追い掛けてもなんか気まずいし、二人でどっか行こう』

『ん……それは、いいかもしれないな』

 

 にこりと、吹っ切れたように女は微笑む。

 ふたりで遠くに旅に出る。帰らないわけじゃない、なら二人きりで旅をするのも悪い事ではないと思った。

 二人はその日の内に旅立った。軽率かもしれない。然し自分達ならどんな困難も乗り越えられると信じていた。

 

 旅をする。二人で薪を集め、火を熾し、獲物を狩る。

 楽しかった。幸せだった。もし子供が生まれたらどうするなんて他愛もない話題に、アタランテは意気込んで絶対に幸せにすると、答えになっていない答えを返してきて。

 イオラオスはそれに、笑いながらそうだなと言った。

 

 旅をしていると、一つの噂を耳にする。神罰の魔猪が、カリュドンを襲っているというのだ。カリュドンの王子がこれを討伐する為、各地の英雄に呼び掛けているらしく、その面々の多くは元アルゴノーツで。王様のくせしてイアソンまで参加しているらしいという。

 

『……行くか?』

『ん……そうだな。久し振りに大物を狩りたい。なに、私とイオラオスならやれる。主役になってやろう』

『はは、なら行くか!』

 

 二人は軽く決めた。恐れはない。何せ自分達は英雄旅団(ヘーラクレイダイ)なのである。

 そうしてイオラオスとアタランテは、

 

『カリュドンの猪狩り』に参戦したのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなるのでキリ。
また明日!

※ちょめちょ(死語)が原因ではない

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