ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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Sheeenaさん、度重なる誤字脱字修正ありがとうございます!
なくなるように努力します。





0.6 序章を終えたと人は見る

 

 

 

 

 

『――――』

 

 耳元で、何かが、囁いている。

 耳に、糸が入れられるような。

 黒く、粘ついた液体が流し込まれてくるような。

 そんな……破滅的な情動に。ココロが絡め取られていく。

 

 抗った。

 懸命に、必死に。

 打ち払えぬものなどないと自負する豪腕を、遮二無二に振るって抗う。

 だが払えども払えども、絡みつく糸は絶えることがない。

 怨念、と呼ぶには陳腐な声。

 醜く狭量な金切り声。

 耳障りな癇癪。

 

 吼えた。

 

 力の限りに、声も枯れよと。魂魄すらも燃料として。

 しかし、何かが足りなかったのか。するりと、ほんの僅かな隙間を声がすり抜ける。

 吼えた。それは、断末魔にも似て――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日も、平和だった。

 

 神話に記され、人理に刻まれ、人類史に燦然とその名を輝かせる大英雄といえども、常にその人生が激流の如きものであるとは限らない。

 平穏があった。戦火とは程遠い静寂な日々があった。

 川のせせらぎが聞こえる。木々の葉が風に吹かれて擦れ合い、涼やかな風情を届けてくれる。山の中、仕留めた魔猪の骸を前に膝をつき、両手を合わせた。

 命への感謝。狩った獲物への、感謝。その命と、その肉を貰い受けることへの、ささやかな自己満足の儀式。

 健康的に日焼けした上半身を晒し、腰布を巻いただけの男は、背中にまで届く艷やかな黒髪を首元で束ねている。鍛え上げられた肉体には、満遍なく筋肉の甲冑が(よろ)われていた。

 身長二メートル二十センチほどの偉丈夫は、精悍な面構えの中に充足感を満たして。自作した大弓を肩に掛けるとその反対の方に大岩ほどの大きさの魔猪を担ぎ上げる。

 

 日輪は中天に。狩りの成果は上々であるが、冬が本格的に始まる前に、今少しの蓄えがほしいところだった。

 

「…………」

 

 偉丈夫の名は、アルケイデス。この年、二十七歳となっていた。

 彼の体に流れる神の血によって、幼き頃の美貌はその面影を残してはいない。しかし如何なることか、外見的なものに限るとはいえ、彼の肉体は人間の規格を超えることはなかった。 

 その剛力は伝承の如くに。その武威は経験を抜かせば等しく変わらず。されど並外れた肉体は、決して人間離れはしていない。その貌も、精悍な勇士の趣を湛えた美丈夫のそれである。

 

 彼に宿る神性、神の血に不備があったわけではない。その証拠に彼の力はなんら衰えることなく、成人したことで完成したものと相成っていた。今のアルケイデスならば天地を支え、大地を割り、山脈を砕いて海底に沈めることも叶うだろう。これより先、経験を重ねれば何者にも劣ることはあるまい。

 本来なら二メートル半ばを超える巨漢となり、その顔や体も岩から削り出された巌の如きものと化していたはずが、なにゆえに怪物じみたそれに変わっていないのか。その原因は……実を言うとアルケイデス本人にも分かっていない。

 

 ――理由は、ささやかなものだった。

 

 彼は神を好んでいない。己に流れる血を好んでいない。――その事実が、彼の中の神性を翳らせ、結果として肉体の不必要なまでの膨張を妨げているのだ。

 何もアルケイデスは、神を嫌っているわけではなかった。好いていないだけで。極論してしまうと無関心だったのだ。

 

 己の父はゼウスである。……それがどうした? 顔も見せず、世話になった覚えもなく、言葉を交わした記憶もない。それでどうして父だと思える。

 単純な話だ。他者とは異なる倫理観を持って生まれたアルケイデスは、この神代に於いて当たり前に持っていて然るべき神への信仰を、寸毫たりとも持ち合わせていなかったのだ。神はいる……だからなんだ? 自分の生活には関係がない。神を信じるも信じないも好きにすれば良い、だがその価値観を押し付けるな。己も自分の価値観を他者に押し付けたことはない。

 

 中立だった。正や負の感情のない、極めて無関心な形での。

 

 故にアルケイデスの神性は、本来のそれよりも濃度が下がっている。神代のこの地域では、王家は大概が神の血を引いた者ばかりで、その中でも最高の神性を持つはずのアルケイデスのそれは、あくまで平均的なものに過ぎなくなっていたのだ。

 彼は本当なら月女神アルテミスを信仰し、何よりも敬愛し、月女神への礼拝を欠かしたことはただの一度もなかったはずが、このアルケイデスはそもそもどの神にも祈ったことも信仰したこともない。まさに――無関心の極みである。

 

 何年か前、そんなアルケイデスを不遜であると、罰するべくとある神が獣を放った。しかしアルケイデスは、それが神からの刺客であると気づくこともなく仕留め、その亡骸は彼の一家の胃袋に消えていた。

 そんなものだ。神々をも超える膂力を持つアルケイデスは、誰に憚ることもなく平穏に過ごしていた。あらゆる英雄を凌駕する武力を振りかざさず、名声と富を求めて冒険することもない。近隣諸国の抑止力として、小さな集落でほそぼそと生活していただけだった。

 

「む……」

 

 そんな彼の顔に、ひた、と冷たいものが触れる。

 雪だった。山道を歩いていたから気づくのが遅れたが、太陽が隠れて雪が降り始めていた。今年最初の初雪である。

 アルケイデスは口の中で呟く。もう雪が降り始めるのか、と。気持ち歩き足を早め、アルケイデスは帰り道を急ぐ。その途上、木の根に足が取られて危うく転倒するところだった。

 舌打ちする。体のキレが、明らかに悪い。二年ほど前からだったか、その頃から満足に眠れない夜が続いているせいで、どうにもアルケイデスは精彩を欠いていた。

 病なのかと疑ってみたが、医者が言うには健康そのものだという。なら何かがあるはずだが、その原因がとんと思いつかない。

 

 テーバイの外れにある小さな集落につく。そこはアルケイデスがクレオンに求めた、自分の一家と親族のみが足を踏み入れられる小さな領地である。領地と言っても、実態は小さな村ほどもないのだが、アルケイデスにはそれで充分だった。

 

「あっ――とと様!」「わぁ、とと様帰ってきたー!」「かか様ー! とと様帰って来たよー!」

「………」

 

 アルケイデスが建てた、集落の中心にある大きな館に近づくと、敏感に父の帰還を察知した小さな子供たちの声がこだまする。

 四歳である末の娘のデイコオンが、短い手足をばたつかせるようにして駆け寄ってきた。「とと様ー!」危なっかしい足取りだが、満面に笑顔を咲かせて駆け寄ってくる愛娘に、アルケイデスは頬を緩めて大弓と魔猪を地面に放り出し、愛娘の両脇に手を差し入れて高々と抱き上げる。

 きゃっきゃっと喜ぶ娘にアルケイデスは微笑んだ。金髪のメガラと、黒髪のアルケイデスとは異なり、白い髪の妖精のような幼子である。顔立ちが似ているのはメガラで、その神の血ゆえの赤い瞳がアルケイデスと同じだった。尤も、瞳の色は他の子供たちも同じではあるのだが。

 

「良い子にしていたか、デイコオン」

「うん! あっ、そうだ聞いてとと様! にい様がひどいんだよ、わたしのお人形とって返してくれないの! とと様とかか様がくれた大切なものなのに!」

「ほう? まったく、やんちゃな小僧どもが……誰に似たんだろうな……」

 

 呆れて館の方へ目を向けると、出迎えにきたメガラの影に隠れる二人の男児がいた。

 長男のテリマコスと次男のクレオンティアデスだ。それぞれ黒髪と金髪で、両親の血を別個に継いだような印象がある。

 二人の息子たちは、妹がやはりアルケイデスに泣きついたのを見て苦い表情をしていた。こうなると分かっていたのだろう。分かっていて、妹の大事にしている人形を取ったらしい。単に意地悪がしたかっただけなのか、それとも別に理由があるのか。

 さて。アルケイデスは頭ごなしに叱りつけたりはせず、息子たちに声を掛けた。

 

「テリマコス、クレオンティアテス、なぜデイコオンの宝物を盗った? 場合によっては折檻せねばならん。正直に訳を話せ」

「いーっ、だ!」

 

 アルケイデスにしがみついて、兄二人に対して舌を出すデイコオンに、二人の兄は顰め面をするばかりだった。

 だがメガラに背中を押されると、渋々といった様子で話し出す。口火を切ったのは次男のクレオンティアデスだ。

 

「だって……」

「デイコオンばっかり、ずるい。とと様、デイコオンばっかり構う」

「おれ達にも何かくれるって、前、約束したのに……」

「全然何かくれる感じしない」

「………」

「旦那様」

 

 息子達の言い分に、アルケイデスは口籠った。

 確かに約束していた。二人にも贈り物をすると。しかしその約束を履行する気配が感じられなかったから、こんな形で抗議してきたのである。

 微笑ましげにメガラに呼びかけられ、父親は嘆息した。デイコオンを離して魔猪と大弓を担ぎ、館の裏に向かう。ついてこい、と短く告げて。

 

 理由が理由だから、叱るに叱れなかった。仕方ないと諦めて、観念する。できればもう少し時を置いてからにしたかったが、もうそうも言っていられないだろう。

 

 良いことがある予感がしたのか、わくわくした様子で二人の息子達はアルケイデスの後を追った。デイコオンは目をぱちくりとさせ、メガラに連れ添われてゆっくり男達を追う。

 

 裏庭に行くと、アルケイデスは猪の脚を庭木に吊るし、小さな倉庫に入っていく。そしてすぐに出てくると、息子達に言いづらそうに告げた。

 

「……お前たちにはこれを贈ろうと思っていた」

 

 そう言って差し出したのは、不格好な青銅の剣と槍、弓だった。

 アルケイデスの手製である。息子達が眼を輝かせるのに、父親はばつが悪い気分だった。

 

「もう少し形にしてから渡そうと思っていたのだがな……いかんせん、鍛冶仕事は不慣れだった故、手間取っていた。不細工だが……受け取ってもらえるか?」

「うん!」「もらうよ!」

「そうか……」

 

 嫌がる素振りもなく、嬉々としてアルケイデスから武器をもらうと、きらきらとした目でそれを見詰めた。

 男の子だからだろう、こういったものに目がないのである。アルケイデスは咳払いをしてテリマコス達に言った。

 

「危ないから振り回すな。今度稽古をつけてやる。それまで大人しくしていろ。わかったな?」

 

 はーい! と返事だけは立派な二人に、アルケイデスはもう苦笑するしかない。

 元気に駆け出して――思い出したのか、クレオンティアデスが懐から衣服の切れ端に綿を詰めて編まれた人形を、妹のデイコオンに返した。

 

「ごめんな。これ、返すよ」

「むー……なんか、納得いかない……」

「ごめんって」

「いいよ、許す。けど一緒に遊んで!」

「えー……」

 

 えーって、何よ! とデイコオンは兄にぷりぷりと怒ってみせたが、傍から見ているアルケイデスとメガラにとっては微笑ましいだけだ。

 メガラはアルケイデスに寄り添う。武骨な腕で夫は妻を抱き寄せた。

 結婚して十年以上が経っている。当初は義務感からだったが、アルケイデスは次第に本心からメガラを愛するようになり、メガラは変わらず夫に尽くしていた。たとえ王族らしくない、猟師のような生活であっても厭うものもなく、贅沢も言わず、今の生活を愛おしく思ってくれている。

 幼かった少女は美しく成長し、その淑やかで母性と少女性の両立した佇まいは、メガラの美貌を容姿以上に魅力的なものにしていた。

 

「良い子に育ってくれている。お前のお蔭だ、メガラ」

「旦那様のご教育のお蔭です。わたしなんて、ただ甘やかしてるだけですもの」

「……お前がいるからだ」

 

 どちらからか、軽く口づけを交わす。身長差は激しい、故にアルケイデスは身をかがめているのか少し可笑しくて、メガラは母であり乙女の顔で夫に微笑む。その笑顔に、アルケイデスがどれほど救われているのか、彼女には分かっているのかもしれない。

 

「今年の冬は、余裕があるな」

「はい。この猪、すごい大物ですもの。お客様を招いても、まだ余裕がありそうです」

「……呼んだのか?」

「ふふふ。イピクレス様と、そのお子様達を。もうそろそろ着く頃合いではないでしょうか。旦那様のお誕生日ですもの」

 

 そう言って悪戯っぽく言われ、アルケイデスは苦笑いする。確かに妹に会いたい気もしていた。イピクレスに、自分の子供達と妻を自慢したいのだ。

 お見通しか。まったく、敵わんな。――アルケイデスは肩を竦めメガラを離した。魔猪を捌くことにしたのだ。こういうのは早い方が良い。

 

 そして少しすると、本当に人の気配が外から近づいてくるのを感じた。メガラはアルケイデスの反応で察したのだろう。お食事の用意をしてきますねと断って、楚々とした足取りで館に入っていく。

 その背中を見送り、アルケイデスは肉を捌き。

 

 兄様、と声がした。イピクレスだ。妹の子供で、立派な少年に成長していたイオラオスもいた。その兄弟たちも。

 

 よく来たな、歓迎しよう――そう言ったアルケイデスは、

 

 次第に、その意識を暗転させていった。

 

 

 

 


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