ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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10.4 トロイアの王子、英雄たるを示す

 

 

「ほう――噂通り、無駄に(デカ)いな」

 

 思えば随分と遠回りの寄り道だ。

 サラミス島を目指していたのに、其処を通り過ぎてかなりの遠方まで出向いたのだ。テラモンは今頃、ミュケナイのアルゴスに手紙が届いていないのかと首を捻っていることだろう。

 

 弓兵として切り立った岸壁に立ち、打ち寄せる波濤の潮騒を聞きながら、細めた紅い双眸はトロイアに迫る蒼い巨体を確実に捉えている。

 中庸の白弓『吠え立てよ金獅子の鋭爪(レベンディス・メラーキ)』の金毛の弦を手慰みに引きながら、敵戦力を鑑定するため獲物の神獣をその眼力で切り刻んだ。

 

 五十メートルを優に超す規格外にして桁外れの巨体だ。戦神マルスの真の姿が光り輝く二百メートル近い神体であるのを考えると子犬のようなものだが、人間にとっては絶望的な体積と質量を誇ると断じられる。その巨体とそこから生まれる膂力だけで、一国程度を滅ぼすのなど容易いだろう。

 蒼い体はまさに大海の化身。蒼い外殻は時化た波濤の如き荒ぶる側面。海と地震を司る、ゼウスに次ぐ圧倒的な力を持つ神ポセイドンの権能の一端を預けられているのか、大海嘯を操る海の神獣は神罰を告げに何度目かの上陸を果たそうとしていた。

 

「狩りの相手とするのに不足なし、といったところだな」

 

 ヒッポリュテが嘯くのに、アルケイデスは呆れながら問い掛ける。

 

「体の調子は良いのか?」

「ああ。あれから何日経ったと思っている。復調しているに決まっているだろう」

「孕んでいるかもしれないと言ったのはお前だ。戦に加わるのは……」

「体はまだ軽い。私とお前の子ならば、一戦を経たとしても堕ちはしない。なんとしても私の胎にしがみつくさ」

「………」

 

 黄昏色の穂先を持つ大槍を旋回させて己が体の具合を確かめるヒッポリュテに、これは何を言っても無駄だなと嘆息する。

 妊婦に激しい運動は禁物だから、なるべく大人しくしておいてもらいたいのだが。

 アルケイデスは意識を切り替える。今はとにかく神罰の海獣を討つ手段を考案しなければならない。まずはこちらに気づいてもらう必要があるだろう。敵意を一身に集め、できるだけ被害が拡大しないようにするために。

 

 魔力から大矢を精製し弦につがえる。狙いは荒くとも良い。外殻の内、最も堅牢であろう頭部を狙って射掛けた。

 轟音一閃――真っ直ぐに飛来する大矢が虚空を斬り裂き、音を置き去りにして、通り抜けた海面上が一瞬遅れて大きく裂ける。衝撃波を発して飛翔した大矢は、間違いなく神罰の海獣の額を直撃した。

 

 遙か三十km先の巨体が揺れる。全力の一射だ。しかし大英雄渾身の矢を以てすら、外殻は些かも損傷していない。

 こちらに気づいたのだろう。ォォォォォ――神獣の遠吠えが海を荒らす。その眼光が明確に殺意を掃射してきていた。

 己に射掛けるは主人ポセイドンに弓を引くに等しい。神罰とは神意である。神意を伏して受けるが上意、これに歯向かうのは誰であっても赦されぬ。不遜な人間の姿を遠くに見た獣は、まず手始めにあの不届き者を誅殺してやろうと決めた。

 

 獣らしく単純な様で実に結構である。あるいは主人に似たのかな? そんな皮肉めいた諧謔が復讐の徒の脳裏を過ぎった。

 

「……()()か」

「ああ。だがそれだけではないようだ」

「?」

 

 ヒッポリュテが目を凝らして言うのに補足する。彼女の視力では細かいところまでは見分けがつかないのだろう。

 矢が直撃する寸前、神獣はそれに気づいていた。瞬間的に矢は対処され、蒼い外殻が()()()()のである。

 

「外殻か、それとも外皮か。ポセイドンの権能だろう。奴の体は地震のそれに等しい震動を任意に操れるらしい」

「……?」

「分からないか? 少なくとも奴はその外殻の震動で私の矢の威力を分散し、己の鎧に傷が残らぬ程度に衝撃を殺せるらしいぞ」

 

 地震を起こせる、海嘯を起こせる。あれは小ポセイドンとでも云うべき存在と見るべきだ。

 その震動を尾なり手足なりに纏い、打撃されたなら大地を震撼される力を身に受けることになる。アルケイデスであっても命を落としかねない。

 が、あの獣がスケールダウンして不死ではなくなったポセイドンだとでも思えば、俄然殺る気も湧いてくるというものだ。萎縮するなど有り得ない。

 

「遠巻きに射掛けて殺すのが最善だったが……地震の力は厄介だな」

 

 やってやれないとは思わない。要は地震を超える腕力で殴り砕き、柔らかな外皮を切り裂けば良いのだ。だがその戦法を採択するということは、海獣の上陸を赦すということである。当初の『被害を抑える』という目標に反するだろう。

 ならばやはり上陸させないまま殺す手段を模索するしかないのだが……弓で射殺すには堅すぎる。防御に転用された地震の力など初見なのだが、あんなにも厄介だとは思わなかった。まさか己の矢を受けて無傷とは……以前に射落とした太陽よりも上等な的である。

 

「被害を抑え神の獣を殺すには……」

「無理だ。被害は抑えられない。迅速に狩るように戦術を変えた方が確実だろう」

「……いや一つ思いついた」

 

 なに、と意外そうにヒッポリュテはアルケイデスに視線を向けた。

 戦術にも明るいアマゾネスの元女王である。その自分に考えつけないのに、この男は閃きを得たというのか。

 だがアルケイデスは苦笑する。そして手を伸ばしてヒッポリュテの髪に触れた。目をぱちくりとさせる女戦士長に、彼は惜しむように囁く。

 

「あれだけの巨体だ。相応に口も大きく、胃袋も大きいだろう。堅牢な体と鎧を持っていようと、肉の体なのだ。体の中はさぞかし柔らかいはずだ。体内に侵入し奴が息絶えるまで暴れてしまえば、被害を最小限に抑えるだけでなく確実に殺せるだろう。しかし……私だけならともかく、お前がいるとなればな……。まさか奴の胃液でその髪を溶かさせるわけにもいくまい」

「……嬉しいことを言ってくれる」

 

 戦士の顔を綻ばせ、凛々しい表情の上に嬉しさを現すも、ヒッポリュテはあくまで戦士として答えた。

 

「女魔術師にとって髪は命とメディアは言っていたが、女であれば誰であっても命に等しいだろう。私にとっても、この髪は母の遺伝だ、大事には違いない。だが気にしなくてもいいぞ? 戦によって失われるのなら耐えられる」

「私が気にする。お前の美しさを損なわせる者は、誰であっても許してはおけない。避けられるなら避けるべきだ」

 

 ガッ、とアルケイデスの鎧が鳴った。ケリュネイアが角で小突いてきたのだ。

 何を惚気けているのかと苛立ち半分、海獣が近づいてきていることへの焦り半分らしい。確かにあの海の獣を前にして交わす会話でもない。

 気を取り直して獲物を見据える。さてどうするかと思案するに、換算するのは己の取り得る戦法と力、ヒッポリュテの戦力である。

 同じように考え込んでいたヒッポリュテが言った。

 

「私の帯を使うか?」

「……それで私の弓の威力を底上げし、『射殺す百頭』を放つか。しかしそれでも一撃では仕留めきれまい」

「『不毀の大槍』は大雑把な代物だからな……一点突破には向かん」

 

 人差し指を立てた女戦士長が整理し、ひとまずの作戦を立案する。アルケイデスも当然思考を放棄せず、随所で意見を出しディスカッションの形を立てた。

 

「――まずアルケイデスが、私の帯を使い神気を纏い、弓の真名開放と弓技を合わせて射掛け、私は我が父の血を覚醒させ大槍の真名開放を用い擲つ。ここまではいいな?」

「物は試しだが、余り数は試せんな。時間が足りん。そしてポルテの案では一手届かんだろう。お前の槍の投術も悪くはないが……アレに通じるほどとは思えん」

「アルケイデス、お前が弓を撃った後すぐに帯を返せ。軍神の血を励起して帯と合わせれば、私でも素手でアレの外殻を叩き割ってやれるかもしれん。もしくは大槍で打ち掛かるのも悪くない。問題はどうやって近づくかだが……」

「ケリュネイア、ポルテを乗せてやってくれないか? お前が空を駆け、奴の頭の上にポルテを落としてくれればいい」

(………)

 

 無駄を省いて自身らの手札を掛け合わせ、意見と意志を合一させるべく議論する。

 水を向けられた牝鹿は不満そうだ。嫌々をするように首を左右に振るも、苛立たしげに蹄で地面を鳴らした。

 そして渋々頷く。ワガママを言っている場合ではないと。しかし気に食わないのには変わらないのか、ヒッポリュテの愛馬を角で何度か小突いていた。お前が不甲斐ないから! とでも言いたげで。駿馬とはいえ神獣のケリュネイアには気後れするらしく、アマゾネスの部族でも随一だった名馬もタジタジだった。

 

 それに二人して苦笑して、意志を統一する。最初は強く当たって後は流れで――それで決まりだ。

 

 と、そこでアルケイデスは自身の五感が、何者かが高速で近づいてくるのを捉える。馬の蹄の音――速い。ヒッポリュテの愛馬以上の脚力があるのを察知した。

 方角はトロイアの神造城、数は一、そこまでを振り向く前に把握したアルケイデスは背後に一瞥を向ける。すると一騎の白金の戦士が神馬に跨り疾走してくるではないか。

 見事な馬術である。長身の戦士は、その兜の下に見える端麗な貌を険しくさせて、敵意はないと伝えるためか手にしている槍の穂先を天に向けている。しかし油断のないその姿勢は、事と次第によってはこちらに槍を向ける覚悟があるのが伝わってきた。

 

 真紅の神性を宿した視線と、純血の人間の視線が絡み合う。

 刹那、奇妙な感覚を受けた。戦を目前にした鉄火場にて、初見であるにも関わらずにおかしな親しみをあの青年に感じたのだ。

 なんだ? と内心首を捻る。同じものを感じたのか青年も馬上で戸惑い、神馬の手綱を緩めると気勢を弱めた。その感覚の正体をはっきりとはさせられないまま、瞬く間に近づいてきた青年に誰何する。

 

「何者だ、と問うだけ不毛か。貴様はトロイアの戦士だな?」

「――ちょっと外れだ。俺はトロイア王ポダルケースの子、ヘクトール。お前がヘラクレスらしいな」

 

 ああ、と頷く。

 

「………」

 

 獅子神王の金色の鎧を眼にし、戦闘に意識を切り替えているアルケイデス本人の武威を肌で感じているのに、その青年は些かも怯んだ様子はない。英雄たる胆力を身に着けているのだろう。

 見事な白馬だ。格は低いが神の獣だと判じられる。ケリュネイアほどではないが相応の力強さを感じられる。そしてヘクトールの纏う白金の防具一式もまた兜一つ篭手一つ……どれを取っても一国の秘宝とするのに不足はない格があった。その宝具と神馬、そして本人の気質からまさしく英雄たる威風を嗅ぎ取れる。

 

 アルケイデスとヘクトールの間に、得体の知れない沈黙が流れた。ヘクトールは兜の齎す直感が警鐘を鳴らしているのに気づいている。遠くにその姿形を見て取れる神罰の海獣の脅威を宝具の加護に訴えられていた。だが眼の前の大英雄から目を逸らせない。

 言い表せない感慨に苛立つも、不快なものではないのに当惑させられた。観察し合うでも、言葉を掛けるでもなし。お互いが当惑しているのを理解し合い、図ったように同時に意識を切り替えた。

 

 とりあえず、今は無駄に時間を掛けてはいられない。最低限の確認をするのが先だ。

 

「ヘラクレス、ひとまずトロイアの危機に駆けつけてくれたこと、王と民達に代わり感謝する」

「……ほう。珍しいな、そのように感謝されるのは」

「あ? それはどういう……」

「これまでの経験上……英雄の気質とでも言おうか。獲物を横取りにされたと怒るか、あれに敵わぬと諦め、挑まんとする私に筋違いな嫉妬と怨みを持つ者が多かったというだけのこと。いの一番に国や王、民に代わり感謝を告げる者はギリシアで見たことがなかったというだけのことだ」

「は……? なんだそりゃ……」

 

 出鼻を挫かれたような心境でヘクトールは呆気に取られた。アルケイデスの言う通りなら、彼からすると他所にはマヌケばかりということになる。

 その真意はともかく、強大な獣を倒してくれるというのなら、獲物を横取りにされたと怒るより先に感謝すべきである。ましてや嫉妬するなど論外だ。とんだエゴイストだろう、それは。

 鼻白みながらもヘクトールは切り替えた。他所の連中への感想を呑気に漏らす気はない。

 

「……馬鹿どもと一緒にされるのは心外だな。俺は示す礼儀を忘れた人面の獣に成り下がる気はない、だから感謝すべき時には頭を下げるさ」

「………」

「俺は王子だ。父王ポダルケースの子だ。俺の振る舞い一つで親父への見方が変わる。俺の態度一つでトロイアの評価が変わる。なら俺は人としての正道を貫くだけだ。トロイアは人の正道に立つ。愚王だった祖父ラーオメドンが、神罰でくたばった後にそう決めた」

「人としての、か……」

 

 淡く微笑む。ヘクトールの至極当然といった物言いに心地良さを感じたのだ。

 彼への初印象は確定した。好感を抱くに値する快男児であると。アルケイデスは相手が礼節を尽くすに不足のない相手と知って居住まいを正す。

 ヘクトールの人柄から、次に出てくる言葉を予想できたためだ。誠心誠意答える用意があるのを姿勢で示す。こんな場所でなければもっとゆっくり話し合いたいと思った。

 

「――で、王子であり将軍でもある俺は、そんな恩人であるあんたに訊かなくちゃならん。悪く思わないでくれ、これは責務だ」

「良いだろう、だが手短に頼む。アレは待ってはくれんからな」

「分かっている。ヘラクレス、名高い大英雄のあんたがトロイアのためにあの獣を殺してくれるっていうのは聞いた。俺個人としては大いに助かる、感謝もしたい。だがな、少しばかり信じ難い思いもあるんだ。――()()()()()()()()()なんて、んな馬鹿げたことがあるか? あんたの狙いはなんだ。トロイアに何か望むものがあるんじゃないのか?」

 

 至極当然の話だった。トロイアに英雄無し、そのような印象を抱いていた故に、例え本当のことを言ってもこのアルケイデスに真意を訊ねに来れる気骨の持ち主はいないと決めつけていたのだ。

 もしもヘクトールのような男がいると分かっていたら、適当に代価を求めていただろう。アルケイデスは苦笑する。無償で人助け……確かにくだらない。アルケイデスもこれが人間同士の戦争なら、知っても介入する気には絶対にならなかったはずである。これが人間同士の戦争だと仮定して、そこにタダでトロイアに味方すると言われたら、自分がヘクトールの立場だったとしても信用できなかったはずだ。

 アルケイデスは無造作にヘクトールに歩み寄る。しかしヘクトールは身構えない。馬上にいて、槍も構えず、ただアルケイデスを見据えた。勘が鋭いのか、敵意がないと見切っているらしい。

 

 アルケイデスは小さな声で告げた。

 

「義を見てせざるは勇なきなり、とでも言えれば格好もつくのだろうがな。私はそこまで高潔ではない。私なりに思うところがあってやって来たまでだ」

「……何?」

「今から言うことは内密にしろ。……どうしてだろうな、誰にも話したことはないというのに……貴様には話してもいいという気がしてならない。この迂闊さが我が身を滅ぼすか……試してみたい」

「………」

 

 アルケイデスの小さな声は、彼の持つ白弓が獣の唸り声で掻き消えていた。口の動きも兜で隠され、辛うじてヘクトールのみに聞こえるだけだ。

 何を言おうとしている? ――成熟したヘクトールなら、聞こうとはしなかっただろう。しかし今の彼は武人として、自分に正直な部分が強かった。故に耳を傾ける。彼の秘めてきたものを聞きたいと好奇心を刺激されたから。

 

()()()()()()()。戦神、鍛冶神、冥府神、戦女神……その他の数少ない神格を除き、人には()()()()()()と確信している」

「――――」

 

 爆弾発言、とはこのことを言うのだろう。ヘクトールは強い衝撃を受ける。この言葉が他に漏れれば、それだけで発言したアルケイデスは破滅するだろう。

 同時に理解した。この発言はすなわち、己の命綱をヘクトールに預けるのと同じ行為である。何かトロイアに不利益を被らせた場合、アルケイデスの言を神に密告すればいいのだ。信頼への担保とするには破格に過ぎ、ヘクトールは呆然としてしまう。

 そんな彼に、アルケイデスはにやりと骨太な笑みを向けた。

 

「海神ポセイドンの権能を一部、再現している神罰の海獣。名は知らんが、小ポセイドンとでも言うべきアレは――いい()()()だとは思わんか? 己の武がどこまで通じるか図るには絶好の獲物だ」

「あ、あんたは……」

「さて――まだ信用ならんと言うなら、誰にでも分かりやすい対価をもらおう」

 

 含み笑いをしながらアルケイデスはヘクトールから離れ、唖然とするヘクトールに対してわざとらしく告げる。それすらも大胆不敵と取れるのだが、今の衝撃が強すぎて、そんなものでいいのかとすら思ってしまった。

 

「あの獣の骸の所有権を頂く。神獣の骸から造る武具を、ちょうどポルテへの贈り物にしたかったところだ。あの槍は、ポルテには似合わんからな」

「言ってくれるな、アルケイデス。その者に何を言ったかは気になるが……いいのか? 確かにこの大槍は私にとって扱いづらいが……」

「良いとも。私から贈ってやれるものなど、こんな武骨なものしかない」

「………」

 

 仲睦まじい夫婦のやり取りに、ヘクトールは我に返る。聞かなければよかったと後悔したが、しかしアルケイデスが信用し信頼できる男なのだと確信してもいた。直感の加護を受けるまでもなく、彼らが夫婦なのだと一目で判断でき、妻を大事にしているらしい夫の姿に共感を覚えたのだ。

 そしてヘクトールの眼がヒッポリュテの大槍に向く。かなりの業物……恐らくは神造兵装だろう。それを要らないと言い切ってしまえる神経を疑うが、ヘクトールはその輝きに目を奪われた。

 黄昏色の穂先、黒塗りの柄。巨大な刃は人の身には扱えないだろうが、どうしても惹かれてしまう。口が震え、ヘクトールは思わず言っていた。

 

「な、なあ……あんたは……」

「ああ、名乗っていなかったな。許せ、トロイアの王子。私はヒッポリュテ、アマゾネスの元女王にして女戦士長。今はアルケイデスの妻で、この者の旅路に同行する栄誉を得た者だ」

「アマゾネス……!? 何があったら元女王が……いや、詮索はしない。それよりアマゾネスの誇り高き戦士、恥を忍んで頼む。その槍が不要だと言うなら、俺に譲ってはくれないか?」

「なんだと……?」

「自慢みたいだが、槍の投術には自信があるッ! トロイアの問題をあんたらだけで解決させる気はない、俺も共に戦うッ! だが……コイツじゃあ……」

 

 ヘクトールは己の槍を見た。名槍だ。だが直にあの海獣を見てはとてもではないが通じるとは思えない。そしてヒッポリュテの大槍を見た後では、子供の玩具に見えて仕方がないのだ。悔しさで歯を噛み締め、馬上から飛び降りると跪き、頭を下げて頼んだ。

 ヒッポリュテは困惑した。これは己の得た戦利品である。無体な申し出に本当なら怒りを見せるべきなのだが、微笑むアルケイデスを見ては怒る気にもならない。アルケイデスが初見で気に入るような人間などそうはいないのだ。悩んだヒッポリュテだが、彼女の性根は戦士である。余り悩むような気質でもなく、即断即決する性格だった。

 

「良いだろう、だが条件がある」

「ッ! なんだ? 俺にできることならなんでも言ってくれ」

「私達と共に戦うと嘯いたな? ならば力を魅せるがいい。貴様のその力を以て、我が槍を与えるに足る戦士であると証明しろ」

 

 ヒッポリュテの言葉に、ヘクトールは立ち上がって深く頷いた。

 神罰の海獣はまだ二十九km先にいる。ヘクトールが到来してから僅かな間に一kmも進んでいたのだ。

 時間がない。故にヘクトールは槍を逆手に持ち替える。あの獣にはまだ届かない。だから辺りを見渡し、何か相応しい物が見つからないかを探した。

 心得たようにアルケイデスが、右手の掌底で大きな岩を掴んだ。半径五メートルはあろうかという岩石に五指を突き立て、そのまま右腕だけで持ち上げる。人間には有り得ない怪力に目を剥くヘクトールだが、アルケイデスの感覚では小石を摘まんだようなものだ。

 

「私がこれを投げる。貴様はその槍を擲ち、岩石を砕け。力の証明はそれで果たしたものとしよう」

「アルケイデス……随分とこの者の肩を持つな」

「なに……単なる気紛れかもしれん」

「……ヘクトール、これは試練だ。私の槍を欲したのだ、もしもアルケイデス……ヘラクレスの投げた岩を砕けなかったなら、その時は私が貴様を殺す。それでもやるか?」

 

 剣呑にヒッポリュテはヘクトールを睨む。脅しでもなんでもなく、本当に殺すつもりでいるのだ。優しさがあるとしたら、やるもやらないもヘクトール次第としたことだ。妻の物言いをアルケイデスは掣肘せず、逆に乗っかる。試すように告げた。

 

「試練と言うのにそれだけでは甘いだろう。しくじれば私達は貴様を殺し、その後はトロイアを救うこと無く立ち去ろう。――それでもやるか?」

 

 本気なのか、冗談なのか、その真意を覆い隠された……ヘクトールを気に入ったらしい英雄は無表情を作る。それにヘクトールは笑った。

 こんな悪質な冗談を口走るとは、随分と酔狂な男だと。ヘクトールにはアルケイデスが嘘を吐いたと見抜いたのだ。例えヘクトールが試練を超えられなかったとしても、トロイアを救うためにあの獣を殺すだろうと。だがそんな挑発を受けて退けるほど、ヘクトールは大人しく臆病な性格ではなかった。

 

「好きにしろ、とは言わん。試練には挑もう、だがしくじっても大人しく殺されてやる気はない。逆にやり返してやる」

「ほう……」

「俺はトロイアを守る力がほしい。それを得るためなら幾らでも足掻く。無様と笑うなら笑え、不誠実だと(なじ)ってもいい。だがな、それも全部無駄なことだ。何故なら俺にとって、そんな()()を砕く程度、難しいことじゃないからだ」

「吼えたな? 吐いた唾は飲めんぞ。構えるといい、貴様の言う小石を投げてやる」

 

 ヘクトールは飛び退いた。そして手にしている槍を構え、全身を投擲のための力を溜める砲身に見立てる。充実する覇気にアルケイデスは笑みを浮かべた。

 そして無造作に岩を投げ放つ。ただし――()()()()()()()()()だ。

 己を押し潰せるだけの質量、そして速度。自身の視界を潰す面積。ヘクトールは己に目掛けて迫る圧殺の未来に獰猛に笑った。

 彼は何処に投げるかは言っていない。それだけで直感していた。アルケイデスが己に向けて岩を投げつけると。

 

 豪速で飛来するそれは、一瞬の後にヘクトールを轢き潰すだろう。故に最小限の動作と最短の武練を以て、ヘクトールは槍を渾身の力で擲った。果たしてその槍は、岩石の中心に見事に的中し粉々に打ち砕いてみせる。

 構えて擲つまでの速さ、ただの槍で巨大な岩石を砕く力と技、常人なら反応すらできない岩石に怯まない胆力と判断の的確さ。それを確かに示したヘクトールに、アルケイデスとヒッポリュテは笑った。

 

 ヒッポリュテはヘクトールに目掛けて下投げで大槍を投げる。それを掴んだヘクトールに向けて、勇者に向ける敬意と賛辞をヒッポリュテは告げる。

 

「見事だ。約束通り私の槍をやろう。共に戦う資格が貴様にはある」

「……お眼鏡に適ったようで何よりだ。にしても、本当に貰えるなんてな……」

「私に二言は無い。力を示したのだ、素直に認めよう。玩具を持つ戦士など、アレと戦うには不足もいいところだからな」

「ハッ……これでもトロイアの名工の鍛えた槍なんだがな……」

 

 岩石を砕いたヘクトールの槍もまた、砕けていた。彗星のごとく飛翔した時点で、ヘクトールの投擲に堪えられずに自壊しかけていたのだから当然の末路ではある。だが少しヒッポリュテの言葉は気に食わない。

 しかし宝具の格を持つ槍を譲り受けたのだ。不満を呑み込む。ヒッポリュテは寛大で当然のことを言っただけなのだとヘクトールは理解していた。

 

 そんな二人を尻目に、アルケイデスは『不毀の大槍』を持つヘクトールを観察していた。

 大槍の形状、大きさ、質量、重心。それらとヘクトールの体格、腕の長さ、膂力、そして槍を投擲した際の武を余さず見ていた彼は、無双の戦士としての観点から看破していたのだ。

 

「……()()()()だと扱い切れんだろうな」

 

 ぽつりと溢す。なるほど、大したものだとヘクトールは称賛に値する戦士だ。こと槍の投擲に関して言えば、己よりも上手(うわて)だろう。

 だが卓越した戦士であればあるほど、己に合う武具を選ぶものだ。そして今の大槍ではヘクトールには合わない。共に戦うと認めた戦士が、斯様な得物を用いるのは呑み込み難いものがあった。

 

 アルケイデスからのヘクトールへの好感度は、異質なまでに高いものがあった。それは奇妙な親しみ、共感と言えるものである。しかし何故自分がそんな感情を抱いたのか理解できないまま、彼は生涯一度だけの()()()()()に踏み切ることになる。

 それがヘクトールとの間に、年の差を超えた友誼の証となるのだが、もちろんアルケイデスには打算はなかった。純粋な気遣いと、単なるお節介である。

 

「――鍛冶の神に奉る。どうか我が願いを聞き給え。この地を守護せし偉大な英雄が担うに足るよう、御身の鍛えたる大槍に加護を与え給え。代価にあの獣の骸を捧げよう」

 

 ヒッポリュテとヘクトールが、その祈りにギョッとする。果たして、アルケイデスの上げた大音声に、暫くの間を空けて天から一柱の神が降臨した。

 醜い小男である。しかし智慧と鍛冶の腕を以て鳴らす、ギリシア随一の名工の神だ。その名をヘパイストスと云い――不毀の大槍を、『不毀の極槍』という武具に鍛え直す神であった。

 

 そうして剣としても、槍としても扱える稀代の名槍がヘクトールの手に渡るのである。

 

 

 

 

 

 

 

 




長いので区切り。

活動報告で宝具案作成中。何か良さげな案がありましたら奮ってご提案ください。間違っても感想欄には書き込まないこと!


次回は幕間の物語、VSマルス

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