ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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10.3 最後の平穏は賑やかに (下)

 

 

 

 困って、弱った。

 

 神獣の牝鹿が主の騎乗を許してくれない。ミュケナイを発って半日、眉をハの字にして、心底困り果てたアルケイデスはヨタヨタと歩くヒッポリュテを見た。

 助け舟を出してほしかったのだが、凛々しき戦御子は歩き辛いのをなんとか堪えて、逞しい愛馬の手綱を引いている。とてもアルケイデスの視線に気づく余裕はない。牝鹿は主人がヒッポリュテを見たのに却って機嫌を悪くしたように嘶いた。

 ケリュネイアの機嫌がなぜ悪いのか、アルケイデスには皆目見当もつかなかった。それはそうだろう、かけがえのない友であると信頼している獣が、よもや自身に種を超えた慕情を懐き、慕ってきているなどと想像すらできない。まさかケリュネイアがアルケイデスとヒッポリュテの初夜からの情事を察していて、そのことに嫉妬しているなどとどうやったら思い至れるというのか。

 遙か未来の極東の島国、日の出る国。その民達の倫理観と価値観に限りなく近い精神性をしていても、彼らの類似例の見られない変態的国民性(テクスチャ)からくる文化と芸術的――という暗喩でオブラートに包んだ――知識に触れたことのないギリシアの英雄には想像すらできない。

 

 よってケリュネイアの機嫌の悪さの原因に思い至れず、なぜ共に来ているのに傍には決して寄って来ず、遠巻きについて来るだけなのか理解できなかった。

 

「………」

(………)

 

 悲しげで、寂しげで、切なげで。ついでに言えば少し怒ってもいて、複雑そうでいながら祝福してもいる――気がする。

 そんな眼差し。

 心を通わせた友の言いたいことが、珍しく把握できないアルケイデスはどうしたものかと頭を悩ませた。機嫌を取りたいがどうすればいいか分からない。イオラオスとアタランテを無理矢理でも連れてくるべきだったと身勝手な後悔を懐いてしまいそうだ。

 

「あ、アルケイデス……少し速い、もうちょっと遅く歩いてくれ……」

「む、すまない」

 

 懇願するような弱り声に、ついいつもの速さで歩いてしまっていたアルケイデスは謝意を告げる。

 女は初体験の時、股が裂けるような痛みがするのだという。その上さらに三日間も、この世界(テクスチャ)の人間の内では随一の精力を持つアルケイデスの相手を務めていたのだ。体の相性が良く、最初の半日は辛そうだったヒッポリュテも気をやるようになってはいたが、その肉体に掛かった負担の大きさは男の身では真の理解には至れない。

 猛きアマゾネスの元女王であり、女戦士長である彼女ですら馬に乗ることはおろか、歩くことすらままならぬほどである。並の女では壊れていただろう。尤も……アルケイデスに遠慮させないために酒を盛ったヒッポリュテの自業自得ではあるのだが。

 

 式を挙げ夫婦となった故か、互いの距離感はグッと近くなっていた。

 自然とヒッポリュテに寄り添い歩行を補助すると、彼女は嬉しそうに頬を緩める。そしてケリュネイアは不満そうに地面を蹴った。

 その足音に視線を向けると、ぷいっと顔を逸らされるのだ。どうしたんだいったい、とアルケイデスはますます当惑してしまう。

 

「ふふ……」

「どうした」

「いや……これは確実に孕んだぞ。間違いない」

 

 ふいに微笑み、幸せそうに自身の下腹部を撫でたヒッポリュテに、アルケイデスは苦笑した。

 

「名前はなんにしようか?」

「そうだな……男児なら私が考えよう。女児ならヒッポリュテが考えてくれ」

「分かった。アマゾネスに相応しい名を考えておく」

「……それはどうなんだ?」

 

 アマゾネスの部族に入る気のないアルケイデスである。思わず反駁するも、どこか楽しげだった。

 牝鹿については放っておこうと決める。たまには虫の居所が悪い時もあるだろうと。ケリュネイアに相応しい伴侶を探すのも手かもしれない。発情期なんて見たことはないが、今がそうなのかもしれないのだ。

 

 ――(……ご主人様。……うん、そうだ。ご主人様の幸せが、わたしの幸せ。やっぱりわたしが、守らなくちゃ。みんなわたしより脚が遅いんだから)

 

 そうして、そっとしておこうと決めたことで、ますますケリュネイアはへそを曲げることになる。種族の違いからくるすれ違いで――それが、ケリュネイアにある悲愴な決意を懐かせることになる。その事実にアルケイデスはついぞ気づいてやれなかった。それは喜劇ではない。掛け値なしの悲劇である。いや、悲劇であると認識する者はどこにもいまい。生けるモノにはつきものの、ありふれた出来事で。温厚なアルケイデスをも心の底から激怒させる、激甚なる惨劇を齎す火種である。

 穏やかに目的の地に進む彼らは、ケリュネイアも含め未来の出来事を予期できない。ある乙女は予言するだろう、だが誰も信じてやれなかった。

 

 その日の夜営、その次の日の旅路、彼らはサラミス島を目指した。

 

「男児ならヒュロスと名付けよう」

 

 それは、アルケイデスとヒッポリュテの第一子。戦御子と大英雄の血を受け継いだ、次代の英雄旅団でアイアスの右腕となる勇者。

 

「女児なら……うん。アレクサンドラ、というのはどうだろう?」

 

 それは、英雄夫婦の第二子。騎士の称号などこの時代には存在しないのに、後の世に世界最古の姫騎士などと揶揄される堅物。知勇と美と礼に長けた傑物だ。

 

 生まれてくる我が子を想い、彼らは優しい表情で旅路についていた。

 人として当然の幸福を享受して。未来に思いを馳せる人としての権利を噛みしめる。この穏やかな日々の尊さを、戦士である故に彼らはよくよく理解していた。

 いつ失われても不思議ではない。理不尽に奪われる可能性だってある。だからこそ“現在”を大切に過ごす。一分一秒の時の欠片すらも、得難い宝なのだから。

 

 そして彼らは、ある噂を耳にする。

 

 ――トロイアを襲う怪物がいる。高潮と共に現れる強大な海の怪物だ。

 波濤を操り、国やその土地に甚大な被害を与える、五十メートルはあろうかという小島の如き巨大な蒼い海獣。その姿は竜のようでもあり、鮫のようでもあるという。

 全身に堅牢な外殻を鎧い、その格は神罰の獣に比するほどのもの。

 その怪物はトロイア王ラーオメドンが、奴隷に扮したポセイドンとアポロンが神造の城壁をトロイアに築いた折に、約束していた報酬を神々に支払わなかったことで罰として遣わされたものだ。謂わば傲慢にして不誠実なトロイア王ラーオメドンの咎である。

 

 本来ならばアルケイデス――『ヘラクレス』ならもっと早くにトロイアに来ていた。だがエジプト神話との習合で半年、ゲリュオンの牛と黄金の林檎の勤めを同時に熟した故の時間差、そして本当なら死んでいるはずのヒッポリュテとの蜜月。それらが折り重なり、トロイアの救い主となるはずだったアルケイデスの到来は大幅に遅れていた。

 故にトロイアの状況は逼迫している。この怪物を鎮めるため、ラーオメドンは己の娘ヘーシオネーを海岸の岩にくくりつけ、生贄として捧げてしまった。だが怪物は鎮まらず、遂にはトロイアの王位継承者はポダルケースという男だけになったという。

 もはやトロイアの命運は風前の灯。神罰の海獣によりその国土は荒廃し、滅びるのを待つのみとなるだろう。

 

「……度し難いな」

 

 その噂を聞いたアルケイデスは吐き捨てた。

 

「約束の報酬を支払わなかった、故に罰を与えるというのは分かる。だがなぜ国民を巻き込む? 誠意の欠片もない愚王を誅するのみに収めればよかろう。なのにそこでなぜ国全体を滅ぼす獣を遣わす? ポセイドンは物の道理も弁えぬ痴愚か。王一人の責で、多くの無辜の民を滅ぼすとは何事だ」

 

 義憤に駆られた彼の意志に、ヒッポリュテは乗った。

 愛する男の怒りは己の怒りである。彼女自身、極端だが己の父以外の神など信仰するに能わぬと思っていた。神々の女王ヘラからの仕打ちや、エジプトの寛容な神々を見たことも手伝い、ギリシアの神々への失望は根深い。

 失望は容易く憤怒に染まる性質がある。ヒッポリュテはアルケイデスと違いトロイアへの同情はなかったが、懐いた海神への怒りは本物だった。

 

 彼らはトロイアに向けて急行する。そこでアルケイデスとヒッポリュテは、ある青年の勇気を知る。感銘を受けたヒッポリュテは、己の愛槍『不毀の大槍』を譲り渡し、彼の青年『兜輝く』ヘクトールの手によって『不毀の極槍』へと転じることになるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ほんとうに往くのか?

 

 自身を心配して見詰める父に、彼の長子である青年ヘクトールは歯を見せて笑った。

 幼い頃から聡明であり、政治や軍事に対して高い才覚を発揮していた。愚王ラーオメドンの下に在っては才を腐らせるだけだったが、ラーオメドンの死後なし崩しにポダルケースが王位に就くと、彼の正妻の長子ヘクトールはその辣腕を振るった。

 神罰の海獣の脅威に荒れる人心を、国庫を開いて食料を炊き出して慰撫し、自身が怪物を討つと演説をぶち上げて勇気づけ、治安を正常に保つことに始まり。亡国の憂き目に遭いそうである故に四散しかけていた軍を統率して愛国心を呼び覚まし一兵の脱走者も出さず、無責任なトロイアの有力な豪族や商人を論破して黙らせた。

 八面六臂の豪腕を振るった彼を、トロイアの民達は神の如く崇拝する。そうして彼らを心酔させたヘクトールは、少数の精鋭を率いて海獣を討ちに出ようとしていたのだ。

 

 父王ポダルケースは、妻や我が子達を愛していた。ヘクトールは殊更にそうである。

 

 英雄の条件とは強さだけではない。その秀麗な美貌もまた必要条件だ。それを超え、長身を誇り、純粋な人間の身でありながら数多の英雄達に息を呑ませる美貌が彼にはある。まさにトロイアが誇る随一の英雄と言えた。

 そしてポダルケースはヘクトールを誇りとしている。平凡な自分が持つ一番の宝だと愛している。故にポダルケースはヘクトールに逃げてほしかった。何もかもを捨て、こんな滅びる国なんか捨てて。生きていて、欲しかったのだ。

 

 ポダルケースは一度、神罰の海獣を見ている。

 

 あれは人の勝てる存在ではない。幾らその武勇を以てすら鳴らすヘクトールといえども、特別な武具もなしに討伐は叶わない。

 ヘクトールの死は避けられない。それが分かっているからこそポダルケースは懇願して――だからこそヘクトールは猛々しく笑った。

 

 この時のヘクトールはまだ政治家ではない。まだ年若き将軍であり、己の武勇に自信を持つ武人であった。

 故に戦意も露わに獰猛な表情をしている。その身の本気を隠しもしない。

 

「大丈夫だ、父上。俺に任せてくれ。絶対にトロイアは俺が守る。俺達の家を……あんなちんけな畜生如きに滅ぼさせやしねえ」

「……ヘクトール」

「だーから、そんな顔しなさんなって。神の血の流れていない人間でもやれるってことを、オリンポスの神々に知らしめてやるさ」

 

 鋭く細められた眼には不条理への怒りがある。そんな息子を心配する父に、にやりと余裕の見えを浮かべてみせた。

 

 彼が纏うのはトロイアの秘宝である。彼の白金の兜は被った者に未来予知に近い直感を与え、身に纏う白金の鎧は装備した者の身体能力を大幅に向上させる。そして同質の白金の丸盾はヘクトールに強靭な守護の加護を与えるのだ。

 トロイア随一の勇将であるヘクトールがそれらを装備することで、彼は半神にも劣らぬ武力を発揮するだろう。ただ……それらを十全に活かす武器がないのだが。

 自身の指揮する精鋭達を率いヘクトールはじきに死出の旅に出るだろう。ポダルケースにはそれを止める手立てがない。弱い人間故に、もしかしたら、という根拠のない希望を捨てられなかったのだ。

 

 もしかしたら、ヘクトールが本当に怪物を倒してくれるかもしれない。

 

 小さな可能性に賭けたくなってしまう。故に止められない。それは人の性というものだった。だが親としての彼は止めたかった。

 行くな、と言いたい。

 逃げろ、と言いたい。

 だが言えないのだ。希望があるなら、王は諦めてはならない。我が子可愛さで判断を誤るわけにはいかない。

 

 ――だからそれは天啓に等しい福音だった。

 

「ポダルケース王、報告します!」

 

 いざ出陣という段になり、王宮から出てヘクトールを見送ろうとしていたポダルケースの元に一人の兵が駆け込んできた。

 ヘクトールは出鼻をくじかれた気分で兵の興奮を窘める。

 

「落ち着け、何事だ? まさかヤツが攻めて来やがったのか?」

「ヘクトール王子、違います――()()()()()()()! ヘラクレスが……あの獣を討ちにやって来ました!」

 

 信じ難い一報だった。

 彼のギリシア最大の英雄が来援し、トロイアの危機を救うと言ったのだという。

 報酬、見返りは無用。過剰な神の罰の歯止めを掛けに来ただけだと宣い、挨拶だけをして怪物を討ちに出たというのだ。

 

 ヘクトールは驚愕し、次の瞬間思わず走り出していた。ヘラクレスが来た、それは年若い彼の血潮を熱くし、名高き英雄をどうしても一目見たかったという想いがある。

 そして何より、無償で怪物を討つというヘラクレスの真意を見極めなければならないという使命感もあった。

 

 ゼウスがトロイアに贈った神馬に跨り、ヘクトールは父や部下達の制止も振り切って疾走する。

 

 これより後に、古代オリンピック開催の地、ペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシアの都市を統べたオリンピア王アルケイデスと――トロイアの王子ヘクトールの邂逅はすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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