ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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またも、はたけやま氏より支援絵をいただきました。
完全武装(剣)のアルケイデスです。
 
【挿絵表示】

まるで……そう、まるでダクソNPCか、もしくはボスかのような迫力。
御美事でございます。はたけやま氏、ありがとう!






10.2 最後の平穏は賑やかに (上)

 

 

 

 

 心地好い倦怠感に包まれていた。

 日の出と共に眼を覚まし身じろぎすると、張りと弾力のあるものが腕と接触する。

 慈しみ深いものに抱擁されたような安心感があった。重い荷を下ろしたような安堵感もある。いつになく重い瞼を開くとその目に飛び込んできたのは、形容し難い吸い付くような柔らかさと穢れのない純白が象る人肌であった。

 自身の厚い胸板に添えられた華奢な細腕を感じた。こんな……触れれば折れてしまいそうな腕に、信じ難い膂力が秘められているのを知っている。しかし今は白雪のように儚くて、ただただ愛おしい。

 

「ん……」

 

 寝台が僅かに軋む。隣に穏やかな寝息を立てる女の輪郭を認めたアルケイデスは、官能的な呻き声を漏らした女の黒髪を撫でた。

 常は丹念に束ねられている絹のような髪は解かれている。腰元まで届くそれを、白い布の敷かれた寝台の上に広げ、生まれたての赤ん坊のように無防備な姿を晒していた。

 豊潤な大地のように豊かな乳房が、横向きに眠る女の腕で形を歪めているのが情欲を掻き立ててくる。明朝から愛欲の火が灯りかけるのを、辛うじて抑え込んだ。久しかった吐精の体感に、昨夜――いや一昨日……いや待て、一昨々日だったか……?

 何故だが時間の感覚が狂っているが、どういうことだろうか。鼻孔を擽る酒の匂いも気に掛かる。はて、何があったのだろう?

 

 ズキリと頭が痛んだ。頭の芯を微弱な電気で打たれたような痺れである。

 いつ以来だろう、前後不覚に陥っていた。極楽のような快楽に溺れ、ひたすら堕落を貪る行いに進んで耽溺していた覚えがある。

 一匹の獣となり、肉と酒を喰らい、欲望の赴くままに昂ぶりを吐き出した。前妻を抱いた時は常に壊れ物を扱うように加減をしていたが、ヒッポリュテにはその必要もないようで、一切の気遣いなく振る舞ってしまった気がする。

 体が強い。精力が強い。たった一人で、百人の女でも受け止めきれぬ猛りを鎮めてくれた。だが――穏やかだが死んだように眠るヒッポリュテには悪いが、まだ足りないと感じてしまっている。タガが外れて畜生のように性の営みを続けたいと、今も思ってしまっていて。無意識に伸ばしていた手にハッと気付き引っ込めた。

 これ以上はヒッポリュテを殺してしまう気がしてならない。なんとか理性を取り戻せる程度には落ち着いていた。……史上最強の雄が獣になり、襲い掛かってくるのを迎撃したヒッポリュテは、さながら絶望的な戦いを前にしたかのような心境となっていただろう。彼女の献身に仇で返すわけにもいかない。疲労困憊で眠っているヒッポリュテを起こすのは偲びなく、夢の中に意識を揺蕩わせる彼女をそのまま寝かせておくことにした。

 

 外に出る。庭にある井戸から水を汲み、桶に満たされた水を頭から被る。体を清めて精の匂いを落とした。今の己の鼻では嗅ぎ取れないが、きっと臭うだろうと判断できる程度の思考力は残っていた。

 

「む……」

 

 そんなアルケイデスの元に、一羽の鷹が飛び込んできた。腕を差し出すとそこに留まる。鋭利な爪の光る足には紙が括られていて、それを抜き取り中身を確かめた。

 テラモンからの手紙だった。なんでも娘が生まれたらしい。アルゴー号で邂逅した時のアルケイデスとテラモンの遣り取りを聞いていたゼウスが、テラモンが子宝を授かるように手配してくれたらしい。それで男児が生まれるものと思っていたのに、妻としたメディアが細工をして女児が生まれてきたという。やむをえないのでアルケイデスに付けてもらった『アイアス』の名をそのまま与えたという。

 

「……コルキスの王女がなぜ奴の許へ……?」

 

 ゼウスのことより、テラモンが子を授かったことより、そちらの方が驚きだった。

 何があったのだ。メディアは確かにコルキスに送り返したはずである。それで終わりのはずだ。世間知らずで純心に過ぎる乙女は、生まれ故郷のコルキスで幸せに暮らせるはずだろう。

 そう思いながら続きを読むと、アルケイデスは苦笑を漏らした。

 どうやらコルキスの王女は思っていたよりも行動派だったらしい。エロースの矢の一件がなければ、彼女はテラモンに恋に落ちていたというのだ。それをコルキスに帰還した後自覚したメディアは、居ても立ってもいられずテラモンを探し求めて旅に出たらしい。

 紆余曲折を経てメディアはテラモンの元に辿り着いたが、その旅の最中に世間の荒波に揉まれ、過剰な純心さが擦れ、良い塩梅の性格になっていたらしく、彼女からの求愛にテラモンは応じたのだという。いじらしく、また自分のもとに来てくれたメディアの気持ちが嬉しかったのだとか。

 

 そしてアイアスが生まれて。テラモンは思ったらしい。愛娘が健やかに育てるようにアルケイデスが会いに来てくれたら嬉しいと。

 メディアもきっとアルケイデスと久し振りに会いたいだろう、かなり失礼を働いてしまっていたのを気にかけていたから……と書かれていた。

 

「……テラモンの娘、か……」

 

 旅の仲間だった。そんな男の気持ちに応えてやりたい。アルケイデスは一つ頷く。

 ゲリュオンの牛をミュケナイに届け、牛を手に入れる前に太陽神ヘリオスに教えられていた黄金の林檎も奪取していた故に、残す勤めは後一つとなっている。

 最後の勤めを今、エウリュステウスは必死に考えてくれていた。思いつくまでには暫く時が掛かるだろう。空いた時間は山ほどあるのだし、折角だから顔を出しに行くかと思い立った。

 

 テセウスもアテナイ王になっている。テラモンは元々王であり、イアソンもイオルコス王として善政を敷いていると噂が聞こえてきていた。

 

「イオラオス!」

 

 腰に布を巻き付け、ずんずんと歩を進めて館を出る。大声を発してミュケナイの都市を歩き回るも、イオラオスの姿が見えなかった。

 何事かと眉を顰める。すると、イオラオスは酒の満ちた杯を傾け、朝っぱらから飲んだくれて道端で座り込んでいるではないか。呆れて嘆息し、そちらに歩いていくとイオラオスはアルケイデスに気づいた。酒気の回った赤い顔で、にへらとやけくそ気味に笑顔を浮かべてくる。

 

「あぁー……伯父上じゃんか……なに? ヒッポリュテと三日も閉じ籠ってたの……やっと出てきたんだな……」

「………」

 

 呂律が回っていない、目が据わっている、ついでに台詞の文脈が乱れていた。らしくないほどひどい酔い方だった。

 他の者から言わせてみれば、アルケイデスと比べると遥かに大人しい酔い方ではあるらしい。しかし自分の酒癖など自覚のないアルケイデスには、イオラオスのそれは情けないものに見えて仕方ない。

 

「どうした。出掛けるぞ、供をしないのか?」

 

 なんやかんや、旅が始まって以来一番長い付き合いである。イオラオスを伴うのは当たり前になっていて、だからこうして探し回ったわけだ。そのイオラオスは、完全に腑抜けた表情でにへらと笑う。

 

「勝手に行けばいいじゃんかぁ……おれは行か、ない……」

「何があった?」

「なんでもいいだろぉ? 伯父上には関係――」

「――関係が無いとは言わせん。吐け、溜めるな。吐き出せば多少は気が楽になるぞ」

「…………」

 

 片膝を地面について、両手でイオラオスの肩を掴む。

 青年は気まずげに目を逸らしたが、アルケイデスに捕まった以上は観念して、ぼつぽつと溢した。

 

「……アタランテ、おれ、結婚してくれって言った」

「ほう。それで?」

「無理だって。……純潔の誓いがどうとか、じゃ、なくてさ……おれ、男として見れないんだ、と……」

「………?」

「ひっ、く。……げぷ。……勇気出して、言ったのになぁ……逃げやがった……無理とか、そんなの訊いてないよ……嫌だって、断るなら言えよ……」

「ふむ」

 

 アルケイデスは話を聞き出し、細く息を吐いた。

 なるほど、と。イオラオスとアタランテのことをよく知る故に、どういう機微が働いたかがよく分かる。

 イオラオスは不満なのだ。好きだと言い、結婚してくれと告げた。なのにアタランテは無理だと言った。嫌だ、ではなく。男として見れないなんて見え透いた嘘まで吐いてまで。それでイオラオスは……まるで少女のように泣いているのだ。

 可愛いやつ、とは思う。が、下手に時を置けば仲が拗れるだろう。二人を大切に思うからこそ、それは見過ごせない。アルケイデスはイオラオスの腕を掴んで立ち上がり、無理矢理に甥を立たせると、その背中を強く叩いた。

 よろめいて、思いっ切り咳き込み、吐瀉を吐き出したイオラオスが抗議してくる。

 

「ゲッハァ!? ゲッホッ、ゲホッ……ゲェェエエ……! ……なに、すんだよ!?」

「黙れ。今のお前を私の伴にする気はない。さっさとアタランテを探せ。そして押し倒せ」

「はぁ!?」

「私に言えた口ではないがな。お前のために敢えて言おう、恥を忍んで。……いいか、アタランテは踏ん切りがつかないだけだ。柵、過去、誓い……それを踏み越えてくれることを、イオラオスに期待しているに過ぎん。こんな所で管を巻いて……時を置いてみろ。奴は失望し、お前や私の許から去るだろう」

「ぇ……」

「惚れた女の心ぐらい察しろ。分かったら行け! 自分に物を言っているようで屈辱的だ。そんなところまで私を真似るな、戯け!」

 

 喝を入れてイオラオスの襟首を掴み、アルケイデスはアタランテがいるだろう場所にあたりを付けて放り投げた。凄まじい投擲の勢いに、一気に酔いが醒めた青年の悲鳴が聞こえてくる。着地は上手くやるだろう、こんなことで怪我をするようなやわな鍛え方はしていない。

 嘆息する。世話の焼ける甥だ。童貞だからかと肩を竦め、次会う時は一皮剥けた男になっていることを期待したいところだと思った。

 

 ともあれ今回の旅にイオラオスとアタランテは連れていけない。となるとケリュネイアとヒッポリュテとなるだろう。

 

「起こしに行くか……いや、まだ寝かせておいてやろう」

 

 アルケイデスはつぶやき、牝鹿の様子を見に行くことにした。

 

 それが――ギリシア最強の英雄夫婦が、旅の途上にトロイアに寄り道する半月前の光景だった。

 

 

 

 

 

 

 


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