ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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0.5 英雄は光を望み、その背に迫る闇に気づかなかった

 

 

『ウィキより抜粋』

 

 ヘラクレス。ギリシア神話の英雄。実在した(・・・・)のではと目する学説を展開する歴史学者もいる。ギリシア神話に登場する多くの半神半人の英雄の中でも最大の存在であるが、同時に最もギリシア神話の英雄に相応しからぬ存在でもあると名高い。

 というのも彼は決して略奪を働かず、姦淫を唾棄し、当時は当たり前とされていた同性愛を行わず、目上の者を敬い、目下の者を慈しんだ。不当な暴力を振るわず、助けを請われれば報酬がなくとも手を差し伸べ、罪もない人々を虐げる者には例えどれほどの権力者であっても立ち向かった。

 一方で自己主張が薄く、交渉事に弱かったという。その性格からか他者に良いように使われることも多く、そのことで終生の従者であるイオラオスが嘆いていたという。

 情に脆く、妻とした者をよく愛し、子煩悩でもあった。ここまで言うと、力が強く、優しく礼儀正しい、まさに理想的な父であり夫であるが、彼もまたギリシア神話の英雄であり、その本性は極めて苛烈で陰湿なものだった。

 理不尽な目に遭っても我慢して我慢して我慢して、ある日突然爆発する様から、一部から『まるで日本人の外交姿勢のようだ』と揶揄される行動原理を持つヘラクレスが、どうして苛烈で陰険な行いに手を染めたのかは後述するとして、まずはヘラクレスの別名を紹介するべきだろう。

 ヘラクレスを称号とすると、その本名はアルケイデスといい、祖父の名のままアルカイオスとも呼ばれていた。後述する十二の功業を行う際に、ティリュンスに居住するようになった彼をデルポイの巫女が『ヘラの栄光』を意味するヘラクレスと呼んでから、周囲の者にヘラクレスと呼ばれるようになった。しかし彼自身はただの一度も(・・・・・・)その名を自ら名乗ることはなかった。

 その一事からして、内心含むところがあったのではと指摘する声は多い――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――雄ォォオオオッ!――

 

 英雄アルケイデスのために鍛えられた、彼の身の丈ほどもある巨大な剣が颶風を纏って振るわれる。策も何もなしに敵軍勢に真っ向から突撃し、暴れ回る様はさながら竜巻である。

 人の身では抗うことの能わぬ暴風雨――天災が如き暴力装置――敵の戦士を当たるを幸い薙ぎ倒し、肉片に変える獰猛な人災。その脅威に直面させられたオルコメノス軍は恐れ慄き士気を崩壊させた。味方であるはずのテーバイの軍勢すら畏怖の念を隠し切れず、この戦場はたった一騎の英雄による蹂躙劇の様相を呈していた。

 恐れをなして遠巻きに矢を打とうとも、剣の一閃で巻き起こる旋風で撃ち落とされ、オルコメノス随一の勇士の呼び声高き戦士が挑めば、たったの一撃で武器ごと、防具ごと叩き潰された。一万のオルコメノス軍は、五千のテーバイ軍など歯牙にも掛けぬはずが――たった一騎の半神を前に壊走させられてしまう。

 

 この戦いでアルケイデスが討った英雄は三騎。討ち果たした敵兵は三千を数えた。敵軍の三割が、アルケイデス一人のために討たれたのである。途中で敵兵が逃げずに戦い続ければ、百万いたところで全滅していただろう。

 

「こっ、こっ、こここ、降伏するぅ――!」

 

 威厳ある髭を蓄えたオルコメノス王クリュメノスが、恥も外聞もなくアルケイデスの前に平伏し、命乞いをしたのをテーバイの誰も馬鹿になどできなかった。あの化物(・・)を前にすれば、自分達もまた同じ様を晒していただろうと悟っていたから。

 

 オルコメノス軍の兵士達と、その王の目はアルケイデスを化物のように見ていた。目は口ほどに物を言う。実際に化物めと、戦場で罵られもした。

 

「………」

 

 人生で初の戦場、初の殺人。それそのものに感じるものがないと言えば嘘になる。

 己より明確に弱いものを殺すことに抵抗はあった。罪悪感も、ある。忸怩たる思いがあった。こんなにも弱い人間達を、己はただ殺し、潰し、轢いたのだ。

 達成感も、安堵もない。こうなるのが分かりきっていた。世界はこんなにも脆い生き物ばかりで、そう認識してしまう自分は確かに化物なのだろう。やはり己は人間ではないのだ。自分の中の倫理感が周囲の人々から乖離しているのも、自分が人間ではない証なのかもしれない。

 

 神の子。

 

 その血が齎す運命があるのだと、この時に漠然と感じていた。強すぎるが故の孤高、それは断じて心地よいものではなく、ひたすらに虚しいだけだった。

 

「よくやってくれた! お前こそまさに英雄の中の英雄だ!」

 

 実際の戦場を見ていないテーバイ王クレオン、義父のアムピトリュオンはアルケイデスの武勇を称賛した。勝てないはずの敵国を、ほとんど被害もなく下せたことに興奮しているのだろう。アルケイデスがオルコメノス王に戦の賠償を支払うことを約束させ、テーバイに富を齎したこともクレオンの機嫌を上向かせていた。

 クレオンが欲したのは牛である。権力の象徴ともなる牛。それをオルコメノスから得られるのだ、もはやテーバイがミュケナイの牛を欲する理由がなくなり、アムピトリュオンも満足していた。

 

「褒美をやらねばな。我が娘のメガラ、約束通りお前の妻として与えよう。これからも何かあれば頼らせてもらうかもしれん、その時はまた頼むぞ、アルケイデスよ」

「………」

 

 戦勝の宴の最中アルケイデスは終始無言であり、テーバイ王クレオンの労いにも黙って頭を下げただけだった。

 己の娘を、女を……人間を物のように扱うクレオンと口を利きたくなかったという心情もあったが、硬い表情で自身の側に寄ってくる自身より若い――有り体に言って幼い少女がやって来たのに閉口したのだ。

 しかしアルケイデスは頭を振った。顰め面をしていては、メガラを無為に怖がらせるだけだと悟ったのである。体を固くして己を見る少女の肩を、アルケイデスは優しく抱き寄せた。妻として貰い受けるのは既定路線、断ることなどできない。ならばできる限り心の籠もった対応をしようと今、決めた。

 メガラは美しいながらも幼い顔をきょとんとさせ、アルケイデスの腕の中で夫となる青年の顔を見上げた。ぎこちないながらも微笑むアルケイデスに、少女は怖い人に嫁がされるわけではないのだと感じたのだろう。ホッと安心したように表情を緩めた。

 

 そうなればメガラにとって、アルケイデスは理想的な男だった。美しく、力強い。この世界の女の視点で見れば、体が逞しく優しい男は、よほどのブ男でない限り掛け値なしの優良物件なのだ。アルケイデスに抱かれるまま宮殿を出たメガラは、この人なら愛せると安心していた。結婚に女の意志など介在する余地のない時代、アルケイデスに嫁げたのは望外の幸運なのだとメガラは思う。

 

 その後、アルケイデスは妻と親睦を深めるべく語り合いたいと言って、その場を辞した。

 

 しかしアルケイデスには語るものなどない。趣味と言えるものがなく、幼い少女と何を話せばいいか分からなかったのだ。星々の煌めく夜空を、妻となったばかりの少女と見上げると言えば詩的かもしれないが、アルケイデスにとっては気まずいだけで……。だがメガラにはそれが、夫が自分を気遣って黙っているのだと感じた。

 

「あ、あの……旦那様」

「………なんだ、メガラ」

 

 旦那様と呼ばれると、なんとも体が痒くなる。アルケイデスは女を知らない、しかも己と比べることすら憚られるほど脆弱な体なのだ。壊れ物を扱うように恐る恐る反応すると、メガラは華が綻んだように可憐な貌を見せる。

 

「わたし、旦那様のお子を、きっと沢山生んでみせます。だから、愛してください。わたしも、旦那様を……旦那様だけを愛しますから」

「………」

 

 一瞬、アルケイデスは呆気に取られた。

 こういうことを、女に……それも年端もいかない少女が言う世界なのだ。遣る瀬ない気持ちになる。アルケイデスは言葉を選び、努めて優しく返した。

 

「私もそのように努力しよう。しかしまだ子を生む必要はない」

「え……」

「お前に魅力がないわけではない」

 

 愛してくれないと思ったのか、不安そうになるメガラにアルケイデスは言った。

 

「まだ幼いではないか。その歳で子を生むと、体に悪い。子供云々を言うのは、もう少し成長してからの話だろう」

 

 己はロリコンではない。アルケイデスは『ロリコン』という言葉は知らずとも、そのような意味合いのことを思った。

 メガラは夫の言葉にパッと顔を明るくした。彼は身の回りの男と違って自分を気遣って言ってくれたのだ。自分を情欲の対象として見てくる男とは違う……。英雄と呼ばれる夫であり、そして他とは違う優しさを感じて、アルケイデスにメガラは尽くそうと決めた。結婚相手を選べない家の女が望む、理想の存在だった。 

 

 ひしりと自身にしがみついてくるメガラを、アルケイデスは見据える。

 

 体に直接纏った衣服から覗く足首の儚き細さと、少女然とした細い腰周り。ようやく実りはじめた果実のような胸の膨らみと、腰元よりもやや下方まで伸ばされた金の髪の隙間から覗く白いうなじ。そのうなじの美しさときたら、倒錯的な嗜好のものなら首を絞めて手折ってしまいたくなるほどだろう。

 将来は誰が見ても美女と讃えるに足る女になる。その蕾のような可憐さに、アルケイデスは目を背ける。彼は理解していた。美しい女というのは、時に争いを招くのだと。

 

(私が守らねばならん)

 

 彼は誓った。メガラを守ろうと。それが望まぬ相手と結ばされた少女への、最低限の報いである。せめて自分がいる間だけでも、あらゆる争いから遠ざけられるように。この少女には、何よりも平和が似合うのだ。

 

 守ろうと、明確に意識してはじめて誓った少女、メガラ。これより五年の後、二十一歳となったアルケイデスは、十九歳のメガラとの間に第一子をもうける。そしてそのまま一年ごとに二人の子を生み、それぞれをテリマコス、クレオンティアデス、デイコオンと名付けた。

 長男と次男、長女の三人と妻を、アルケイデスは心から慈しみ、育てていく。

 愛があった。彼女達を守って、生涯を終えるのだと……誰にも負けない力を持つアルケイデスはそう信じていた。

 

 そんなアルケイデスの前途には、暗雲が立ち込めていて――

 

 ――ひとりの女神が、幸せな家庭を築いていたアルケイデスを、嫉妬と憎しみの籠もった目で見続けていた。

 

 

 

 


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