ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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9.2 私にこの手を汚せというのか

 

 

 

 

 

 オリンポス十二神を統べし神々の王、全知にして全能なる最高神ゼウスは、古今東西の神格を横並びにし比較した中でも図抜けた権威と権能を誇る。

 単純な武勇、智慧、能力。いずれも強大無比であり、光鎧を着装し雷霆とアダマスの魔法鎌で武装を整えたゼウスに勝る者などまず存在しないと云える。

 彼は弱者の庇護者であり、全宇宙と天候の支配者である。正義と慈悲の神であり、悪を罰する至高神である。世界そのものの混沌を統制し、平穏に保つためなら神であっても処分する荒ぶる神格でもあり、人類と神々の秩序を司り、総ての人間と大多数の神々の父であるともされた。

 

 そんなゼウスに死角など、本来ならあるはずもない。彼は運命の三女神を支配下に置く故に、運命さえゼウスを縛れないのだ。彼の存在さえ健在ならば、神代は永劫に保ち続けるだろう。

 しかしそれは――あくまでも器、能力面を評価した場合に過ぎない。

 ゼウスには弱点がある。全知を曇らせ、全能を翳らせる最大の欠点が。それはゼウス自身の性格、神としての性質である。

 

 元々ゼウスに限らずあらゆるギリシアの神々は、どこか人間的な感情を持ち合わせている。それが魅力であり、時に過大な加護を人に与え、栄華を極めた者や非業の破滅を齎すことも多々あった。

 ゼウスはそんな中、例外なく慈悲深き神として当初は君臨していたが、同時にどの神よりも冷徹に秩序の支配のために支配者の采配を振るい、そのために自身の強大な力を部分的に継承する神々を生み出した。運命の三女神などは自身が運命を超越するために利用した代表例である。クロノス、ウラノスより世代交代をした例もある。自身もまた同じ轍を踏まぬように、彼の行動には常に合理的で冷徹な計算があり、彼は支配体制を盤石にするためなら一夫一妻の倫理を平然と踏み越えたものだ。

 多くの子を生み、しかし単独ではゼウスに及ばぬ神を支配し、絶対の支配権を確立させる。それがゼウスの狙いだった。そこに快楽を求める気持ちはなかったと云える。ゼウスは慈愛と慈悲、そして冷徹さを矛盾無く兼ね備えた最高神に相応しい神格だったのだ。

 

 ――それが歪んでしまったのは、彼が余りにも完全にして強大な神であったが故だ。

 

 人はゼウスを慕い、ゼウスを崇めて、他の神などよりも厚い関心と信仰を捧げた。しかしその最中にゼウスのおこないを知った人々は、自身らの一夫一妻の倫理とは掛け離れた行動を多々見せるゼウスのおこないを誤解したのだ。

 ゼウスにも低俗な、女好きで好色な一面もあるのだと。気持ちは解ると共感した。

 完璧過ぎる支配者故の悲劇であったと言えよう、欠点の一つでもないと恐ろしいと感じる人の性が、人の信仰によって在り方を変容させる神の内の一柱であるゼウスを歪めたのだ。それが故に好色さがゼウスの神格を多大に制限した。

 冷徹な支配者であるのに変わりはない。慈悲深き神であることにも変わりはない。しかし余りある性欲が、彼の知能を大いに曇らせ、より人らしい欠点を抱えてしまった。すなわち人と同じく悩み、失敗することもある、色欲に突き動かされることもある神格へと変容したのだ。

 

 しかし冷徹さは健在である。色欲に突き動かされることは多々あるものの、彼は混沌を内包するあらゆる原始の女神ガイアを律し、世界に平穏と安寧を齎すために様々な布石を打ち、そんな自分を疎みティターン神族やギガース族をけしかけてくるガイアに対策を執っていた。

 

 ティターンとの決戦、ティタノマキアでは勝利した。

 次はギガースとの決戦、ギガントマキアである。

 

 これに打ち勝つには、切り札が必要だった。ギガースはガイアの加護によりあらゆる神格には殺されない力がある。彼我の力の差で言えば、ほぼ総てのギガースなどゼウス一人で殺戮の限りを尽くせるのだが、殺せないのならどうしようもない。物量で押し掛けられれば、ゼウスすら危ういだろう。

 そこで一計を案じて生み出したのが――アルケイデスである。

 人の肉を纏う不死なる神。その存在がギガースを打ち破る決戦力となるのだ。彼の誕生を知ったガイアは、ギガースに人にも殺せぬ加護の果実を与えようとしたが、その動きを最初から読んでいたゼウスは先回りしてその果実を根こそぎ雷霆で焼き払った。こうしてギガースは人に殺されぬ加護を得ることが出来ず、この時点で卓越した頭脳を持つゼウスはオリンポスと自分の勝利を確信した。

 

 如何にしてガイアの力を削り、自分のものにするかに腐心するゼウスは――ここで最悪の過ちを犯す。

 

 生み出されたアルケイデスが、女の腹より誕生する間際に、要らぬ親心を発揮してしまったのである。好色さと慈悲深さが連結し、歪んだ彼の知能は、自身の現在の妻が嫉妬深い女神であることを失念させていた。

 元は貞潔の女神ではなく、大地母神であるヘラは耳が速い。情報収集能力は神々の中でも随一だろう。しかしその元の神格のために、完全な貞潔さを持つわけではないヘラは、荒ぶる大地の女神としての側面で激しい感情を秘めていた。それが貞淑さや結婚などの女らしい神格と結びつき、過大なまでの嫉妬心を生み出していたのである。

 ゼウスの行動をいち早く察知したヘラは、ギガースを倒すには必要な存在と知りながらも、その激しすぎる嫉妬を抑えられずアルケイデスを破滅させようとした。ゼウスが翳った精神で我が子にして決戦力たるアルケイデスを、栄光を約束されたミュケナイの王にしようとしているのが我慢ならなかったのだ。

 結果としてアルケイデスは王にならず、エウリュステウスがミュケナイ王となった。そしてアルケイデスはそれでも無事に生まれたため、注目していたヘラの憎しみを買ったのである。

 

 ゼウス痛恨の失敗である。

 

 彼は理解していた。不死の神としての側面を持つ我が子であるが、その肉と血、精神は人のものである。そして人であるからには常に変化し続けるものであり、故にこそゼウスは親としての情はあるにしても、冷徹な計算に基づきアルケイデスを恩義で縛ろうとした。

 ゼウスは激怒した。アルケイデスが万一、ギガースのことを知った場合、その時の保険として好感を懐いていてもらえば問題なくなるはずが、悪感情を懐かれてしまえば協力を得られなくなる恐れがある。激怒したゼウスはヘラを罰し、放逐してやろうとすら考えた。だが――できなかった。

 ヘラを放逐すれば、神々の女王としての権能が失われ、大地母神に戻ってしまう。そしてそれはガイアに通ずるものであり、ガイアの力を削いだとしてもヘラが新たな脅威と成りかねない。ヘラを貞潔なる女神の殻に押し込めて、大事にしているのは主に封印の意味合いが強いのだ。

 

 故にヘラを罰さなかった。

 

 なんとかしなければ、とゼウスは焦る。だが幾ら諌めても、ヘラは止まらない。アルケイデスを破滅させようとする。事此処に至りゼウスは猛省した。そして自覚した。

 遙か太古、ヘラから大地母神の権能を取り上げるために侵略し、和合の証として妻としたが、それは失敗だった。その美しさに目が眩んだばっかりに、殻とするなら他の神格でも良かったというのに女王としてしまったのだ。

 大地母神に貞潔な女神は不似合い、不釣り合い。その落差がヘラの元々の苛烈さを嫉妬へと変換させてしまっている。もはやヘラを情で庇い立てすることはできない域にまで至っていた。アルケイデスの神への悪感情を、ヘラ一人に向かわせる。そのために、敢えてアルケイデスにヘラを罰する権利を与えようと、順序として妻子殺しの償いの勤めを果たさせることにした――のだが。

 

 よりにもよってヘラは、ヘラクレスなどという、アルケイデスにとって皮肉でしかない屈辱の名を与えてしまった。

 もう目も当てられない。アルケイデスがヘラを罰した後は、もはや大地母神にヘラが戻ってしまっても構わないから女王の座を取り上げようとゼウスは観念した。そのヘラへの対策を今から考えておこうとすら思っていた。

 だが――

 

 

 

『何時かは知らせなきゃなんねぇことだろうが! 偉大なる神々の王よ、まさか奴に何も知らさず、いきなり参戦を命じる気だったのか!? 準備が出来ておらず満足に戦えませんでした、なんて言われたらお仕舞になっちまうんだぞ! ガイアの差し向ける連中とはお遊びじゃ済まない、他とは違う本当の戦になる。負けたら終わりでやり直しも何も利かねえんだ、なら最低限の情報伝達ぐらいはしてねぇとマズイだろ!?』

 

 

 

 ヘラクレスと邂逅した愚かな嫡男が、よりにもよってヘラクレスにギガースの一件を暴露した。

 しかしその言は愚かとは言えない。ゼウスも納得できる理があった。――まるで、アテナの如き叡智を宿したかのような。

 馬鹿な、と思う。あれはアレスだぞと。それでも、ゼウスはアレスの諫言を聞き入れた。正しい言い分だ、認めようと。しかしこれでヘラクレスが自身の存在価値を知ってしまった。いよいよ以て、彼の神への悪感情を拭わねばならない。

 そこでゼウスはさらなる一手を打つ。ヘラクレスの価値基準を読み解き、彼が好感を持てる神へ会えるようにしたのだ。ヘパイストスはよくやってくれた、アテナもよくぞやってくれた。アレスは想定外だが、ヘラクレスから好感を持たれた。後はハデスとヘスティアだ。彼らと引き合わせるように動けば、ヘラクレスから神への悪感情は薄まるだろう。

 

『え? ヘラクレスに会え? うーん……嫌だ』

『姉上!』

 

 しかしヘスティアはこれを拒んだ。ゼウスが守護する処女神は、呑気な表情でのほほんとしながらも、どこか沈鬱にしている。ゼウスが唯一強硬な姿勢を取れない女神はこう言った。

 

『だって原因はヘラの戯けだ。アレは妹だけど、流石にやり過ぎだろ。わたくしとしては、わたくしの領分を侵したヘラの尻拭いに動いてやる気にはなれないな。痛い目を見るなら良い薬になる。まあ馬鹿につける薬はアポロンの子の医神にも作れないけどね』

『しかし……!』

『あのさ、ゼウス。あなたには感謝してる。恩もある。言うことを聞いてあげたいけどわたくしはヘラクレスには会えない。……わたくしが護ってあげられなかった家庭の、家長だ。彼は。その愛と慈しみを知るわたくしには、合わせる顔がない。だからこれからも会わない。陰ながら見守るぐらいだ』

 

 ヘスティアは動かなかった。臍を噛むゼウスだが、それ以上は言い募れなかった。

 しかしハデスと会ったことで、ヘラクレスの怒りはなんとか薄まろうとしている。このままいけば、とゼウスは胸を撫で下ろしていた。が――またしてもヘラがやってくれた。

 

 彼の眼前で、彼の逆鱗を、これでもかと踏み躙り。

 

 もはやヘラクレスの悪感情は、拭えぬものとなった。

 

 ――戯け! 儂の苦心を知らぬとは言わせんぞ、ヘラ……!

 

 遂に激怒したゼウスは、例えヘラクレスが罰した後であっても、ヘラを償わせようと決めた。人に落とし、奴隷として仕えさせるだけでは飽きたらぬ。反省するまでタルタロスに落としてくれると怒りの炎に燃えた。

 そんなゼウスに、ヘスティアは憐憫の眼差しを向ける。

 

(神であるが故の歪みを負わされた、憐れな弟。けどね……ヘラを罰するなら、自分もまた罰されるべきだと気づいた方が良い。ヘラクレスの怒りはオマエにも向けられても不思議じゃないんだ)

 

 ゼウスはそれでも、ヘラクレスの憎しみを鎮火させる手を考え続けた。

 ここでヘラクレスを殺し、別の胤を仕込んで最初からやり直すという手もあったが、もう遅い。今から切り札を作り直そうにも、ギガースが動き出そうとしている。間に合わないだろう。

 

 しかしここでゼウスにも想定外のことが起こった。

 

 ヘラが狂わせた女王が、アレスの子であり。アレスが猛り狂い、ヘラに絶縁を申し伝えたのだ。その時に発した力の奔流は、このゼウスにも伍する有り得ないほど強大なもので。

 ゼウスは狼狽えた。何故あのアレスが、と。何故アレス如きがここまでの力を、と。

 だが可笑しい話ではない。アレスはゼウスとヘラの嫡男だ。最高神と、大地母神の血を引いているのである。これで愚かで惰弱なわけがない。

 しかしこれまでその発想に至らなかったのは、アレスが愚かな戦の神を演じていたからで。それは、ゼウスをも欺いていた。すなわち、アレスは――マルスと名を改めた戦神は、アテナやゼウスにも劣らぬ叡智を持っている証である。

 

 その時、ゼウスの脳裏に、ガイアの不吉な予言が蘇った。

 

 ――オマエが父より神の長の座を簒奪したように、オマエもまた我が子から簒奪を受けるだろう。オマエの妻が生んだ長女と、()()()()()()()()長男によって。

 

 この予言は、アテナの母神を丸呑みにし、ゼウス自身がアテナの生みの親となることで潰えたと考えていた。なぜならアテナの母神はゼウスの叡智となって一体化しているのだ。もはや子など生まれない。

 だが――()()()()()()()()()()というのが、後妻であるヘラとの間に生まれた嫡男のことであったとしたら? アテナとマルスは共に戦神。強大な力を合わせれば予言が成就するのではないか?

 まさか、と恐れる。ゼウスはマルスを恐れた。そしてそのマルスを信仰したアルケイデスに、悪い流れを覆せぬと悟らざるを得ない。

 

『……情は捨てよ。そういうことか』

 

 ポツリと呟く。

 

 総てはギガントマキアが終わってからだ。ゼウスは腹を決める。禍根となるものは、粛清する、冷徹な神の王としての顔が覗いていた。

 

 しかし、ふとゼウスは感じ取る。

 何やら脆弱な人理が動いているのを。なんだ? と注視していると、吹けば飛ぶ程度の抑止力が動いているではないか。

 この流れは、ゼウスにとっては悪いものではない。しかし何をする気なのか。不利益に繋がるのではないかと見張ることにした。

 

 果たして抑止力は、数多の病原菌を発生させる。それはミュケナイの過半の牛を死滅させ――ゼウスは頷いた。時間を稼ぐには丁度よいか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミュケナイの牛たちが死んでいく。

 牛は国力だ。そして王の権威にも繋がる。その数が激減したことは、すなわちミュケナイ王家の零落を意味する。

 エウリュステウスは大いに狼狽え、打開策を求めた。そして苦渋の末に、彼はアルケイデスを呼ぶ。

 

「……すまんが、ミュケナイのためだ。オケアノスの西の果てに浮かぶ島より、赤い牛の群れを奪ってきてくれ」

 

 彼にはアルケイデスへの負の感情はない。

 しかし私情を殺して、命じるしか無かった。国のためなのだ。他に手はない。

 なるべく波風たてぬ相手を選ぶのが、彼の限界で。

 

 初の、生涯に一度として関わる気のなかった略奪に手を染めろと命じられたアルケイデスは、心底より苦々しく顔を歪めて……拒む権利を持たず、ミュケナイの危機も見過ごせず、苦渋の思いで頷くしか無かった。

 

「……承知した」

 

 十番目の試練は、アルケイデスの良心を蝕む、最も彼の心を苦しめるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




赤竜「あ、あの……ワイは……?」
アル「おまえ害獣だろ。ノーカン」

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