ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
その者の良い所と悪い所も、付き合いを持つに至って半年でおおよそ把握できた。
美点がある。口を開けば苦言を呈し、可愛がられれば憎まれ口の飛び出る難儀な性格をしているものの、性根は頗る善性で生真面目だ。何よりひたむきに憧れを追い続ける少年らしさが失われていないのが良い。
まだ見ぬ彼の母よりも、なお色濃く彼の英雄の影響を受けているのだろう。アタランテの持つ常識や価値観から見れば、可笑しいぐらい奥手である。まさか十代後半に差し掛かった年齢で、未だに清き身であるとは信じられない。女性に対してのみならず、アタランテが弱者であり奪われる側であると認識する者にも鷹揚で、慈悲深い。強き者に対しても勇敢で、智慧を絞り、戦っては恐らくアタランテを下すほどかもしれない。
アタランテより強く、賢く、勇敢で、誠実。忍耐強く情に脆く、それでいて几帳面で克己心に優れる。そこまで美点を羅列してみれば、くすりと笑みを溢してしまうのだ。
まるで、超越的な大英雄を、スケールダウンして辛うじて現実的にしたかのような、まさに
それは、狩人である自分には持ち得ないものだから。
生きるか死ぬか、狩るか狩られるか。生きる糧とは奪うものであり、弱者は強者にあらゆる財産を奪われるか、与えられるかでしかない。――そんな思想を育んで育ってきた。育てられたのではない、自然とそう育ったのである。
そういう自分を、アタランテは嫌いではなかった。好きでもなかったが。ただそういうものだと自然体に受け入れているだけで。
故に自分の在り方を自らの意志で規定し、定めた道をひたむきに駆け続ける様には素直な好意を持った。色欲も友愛もない、純粋な好感情を。
アタランテが知らぬ父性をヘラクレスに見いだし、密かに父のように想いつつあるのと同じ様に、アタランテはヘラクレスの甥である年下の少年に対して、知らず知らずの内に姉弟のように触れ合うようになっていた。
率直に言って、傍で見ていると、どうにもいじらしくて可愛く見えるのだ。年齢で言えばイオラオスも成人しているのに、そんな思いがあると言えば烈火の如く猛り狂うだろうが、そんなところまで可愛らしくて仕方ない。
旅の道中にヘラクレスは、暇さえあればアタランテに様々なことを教えてくれた。
礼儀作法にはじまり、ペリオン山の半人半馬の賢者より教わったという薬学、食えればそれでいいと思っていた狩りで得た獲物の調理の仕方、格闘術、武器術、作法。およそ彼自身の知り得るものを惜しみなく。そしてアタランテが林檎が好きだと言っていたのを覚えていたのか、林檎に限らず果実の類いが手に入ると優先的に回してくれた。
段々と甘えたくなる。甘えさせてくれる。何があっても護ってくれるという安心感が強くて、暖かくて……これはもう離れられないなと苦笑してしまいそうだ。そして……わざとヘラクレスに擦り寄り甘えていると、面白くなさそうに顔を顰めるイオラオスが見られる。その顔が見たくてヘラクレスに甘えていると言っても過言ではないかもしれない。そんなアタランテの意地悪に、ヘラクレスは気づいているらしくひどく微笑ましげだ。その擽ったさもやめられない理由である。
「可愛いな、アタランテ」
いつか含みを持たせてヘラクレスはそう言って、笑った。途端に恥ずかしくなり、頬を桜色に染めてしまう。彼の傍らを歩くケリュネイアが、その尾でぺちりとアタランテの腕を軽く叩いた。
その時は二人が持たせた含みの意味を読み取れずにいたが、アタランテの反対側に移動していたヒッポリュテが比喩を溢す。左手をケリュネイアに噛まれながら。
「アルケイデスも辛いな? イオラオスにヤキモチを妬かれて」
「それは言わなくとも良い。これを見られるのは後少しだろうからな」
「……? 汝は何を……」
「ああ、解らずとも良い。その内解るだろう」
「可愛いな、アタランテ」
「……?」
ヘラクレスだけでなく、友人のヒッポリュテにまで同じ事を言われてアタランテは困惑した。可愛いだなんて、言われたこともない。自分で思ったこともなかった。この二人の目は腐っているのではないか? こんな筋張った手足と、女らしくない体、愛想の欠片もない自分を捕まえて可愛いなどと。血迷っていると言っても過言ではない。
ケリュネイアが唸りヒッポリュテをヘラクレスから引き剥がそうとする。それに余裕綽々と応じて踏ん張り毛並みに触れてやる女王。触れるなと牝鹿が噛みつき、微笑んでいなすヒッポリュテ。いつもの格闘風景だ。
こんな時テセウスがいれば、二人が何を思ってこんなことを言い出したのかを吐かせてやるのに。無駄に察しが良いテラモンがいれば、力尽くでもどういうことか聞き出していたのに。
テセウスはアルゴノーツが解散したらアテナイに向かった。テラモンは様子のおかしいメディアをコルキスに送り返すところまでは一緒だったが、王としての責務がある故にサラミス島へと帰っていった。ミュケナイへと向かう途上、からかわれ続けるのかと思うと憂鬱になりそうだ。
「イオラオス、私は可愛いのか?」
「は!?」
ゴロゴロと転がる馬車の車輪。それを牽く馬の手綱を御台で握る少年に、アタランテはあの二人の真意を確かめたくて訊ねてみた。
イオラオスは賢い。私に解らなくてもイオラオスなら解る、とアタランテは思っていた。それ故の問い掛けに、イオラオスは声を裏返らせて反駁した。
「ヘラクレスもヒッポリュテも、私なんかを可愛いという。どういうことなんだろうか……」
「んな、こと……おれに訊かなくてもいいだろ!?」
「だがあの二人は教えてくれそうにない。そうなると訊ける者が他にいないだろう。どうなんだ?」
「がっ……ぎ、ぐ……!」
歯を食いしばって変な顔をするイオラオスに、肩口まで伸びた緑髪を風に吹かれながらアタランテは首を傾げる。
そんなに言いづらいのだろうか。ということはやはり、私は可愛くはないという証明だなと思う。しかしどうしてか、瞭然とした事実を再認しただけなのに、胸がむかむかする。
そんなアタランテの様子に、イオラオスは顔を背けながら言った。
「かっ、かわ……いい……」
「……?」
「可愛いよ! ついでに美人だ! どうだ、これで満足か!?」
「! そうか、私は可愛いのか……汝がそう言うならそうなんだろうな」
「んなっ……」
どうしてか絶句するイオラオスを尻目に、足が軽くなったかのように気分が軽やかになる。
傍目に見ていたヘラクレスは、ふるふると肩を震えさせ、やがて堪えきれないように声を上げて笑い出した。
「はーはっはははははは! は、はは、ハハハハハ!」
「……ッ! なに笑ってんだよ!? 笑うな!」
「クッ、クハ、な、なんだイオラオス、うぶなねんねじゃあるまい……いやねんねだったか? クッ、ハハハハハ!」
「笑うなって言ってるだろぉ!?」
顔を真っ赤にして怒鳴るイオラオスに、ヘラクレスは辛抱ならぬとばかりに呵々大笑する。遂に堪えきれなくなったイオラオスが御台から飛び降りてヘラクレスに掴み掛かるも、すんなり受け止められて御台の上に投げ戻されていた。
それを見てヒッポリュテまで噴き出して、笑い声が増えてしまう。イオラオスはそれを掻き消そうと叫び声を上げた。賑やかでありながら穏やかな、そんな道中だった。
一年。戦神との邂逅、冥府の神との謁見、アルゴー号の冒険、そしてメディアをコルキスに帰し、帰路についてからミュケナイに戻るまで掛けた時間である。
アルケイデスが帰ってきたことで、エウリュステウスは我が世の春が終わったことを悟った。
暫く時間を掛けろと確かに言った。だがまさか本当に一年も掛けるとは思わなかったのだ。エウリュステウスはまだ、彼がどこを冒険して来たのかなど知らない。じきに知ることにはなるが、この時のエウリュステウスはてっきりどこかで野垂れ死んだものと希望的観測を懐いていた故に、アルケイデスの帰還に小さくない失意を覚えていた。
「……それで、どうしてアマゾネスの女王などを連れてきた」
エウリュステウスが謁見を赦したのはアルケイデスのみである。にも関わらず、平然と乗り込んできた女戦士を兵につまみ出せと命じたのだが、女戦士がアマゾネスの女王を名乗ったことでとりやめざるを得なかった。アルケイデスは肩を竦める。
その所作一つと表情で、エウリュステウスは内心眉をひそめる。コイツ、変わったか――? 巌のように不動を保っていた重く、固かった表情に人間らしい感情が出ていたのである。この一年の間に良縁に恵まれたらしかった。エウリュステウスとしてはその血色の良い顔色が憎たらしいのだが……。
「私に課せられた勤めは、彼女の持つ戦神の軍帯を貴様の許へ導くことだろう」
「……? 何を言っている?」
「手に入れて来いとは言われておらん。貴様は私に、貴様の娘が欲していると聞かされ出来る限り時間を掛けろと言われたのみだ。そら――第四の勤め、確かに果たしたぞ」
『いいか、聡明で可愛い俺の娘に感謝しろよこの化物め! 俺の娘が貴様の勤めに相応しいものを考え出してくれた、なんでもアマゾネス族の女王の持つ戦帯が欲しいのだとさ! くれぐれも! そう『くれぐれも』だ! あんまり早く片付けて帰ってくるんじゃないぞ!? 少しはゆっくり時間を掛けてから勤めに臨め! 俺の頭は勤めのことばかりでいっぱいなんだ、いい案が出るまで戻ってくるんじゃない!』
――エウリュステウスの脳裏に、一年前の自分の台詞が去来する。
確かにそうだ。手に入れてこいとも、献上しろとも言っていない。娘が求めていると言っただけで、アルケイデスはエウリュステウスの命じたことを何一つ破っていなかった。
「ッ! 屁理屈を……!」
「惑乱していた貴様の不覚だな。今度からは確りと己が発言に気をつけることだ」
「……熱くなっている所すまないが、私から一つ言いたいことがある。エウリュステウスよ、心して答えよ」
激昂して玉座より立ち上がろうとしたエウリュステウスを、ヒッポリュテが冷めた声で縫い止めた。
やおら殺気立ち、凄まじい凝視を寄越されたエウリュステウスは、ヒッポリュテのその眼光に慄く。しかしそれが却って彼を冷静にした。腰を深く落としながら玉座の肘置きに凭れ、小さく息を吐いて呼気を整えると女王に応じた。
「……なんだ、アマゾネスの女王。わざわざヘラクレスに付き合い、遠くミュケナイまで罷り越したのだ。言われずとも丁重にもてなそうとも」
「要らん。履き違えるな、ミュケナイの王。貴様は私に――否、アマゾネスの戦士たちに戦を望んだのだからな」
「な、なに?」
思わぬ台詞だったのだろう。エウリュステウスは露骨に困惑した。
その反応をこそヒッポリュテは侮蔑する。見下しさえした。
「そうだろう? 貴様はアルケイデス……ヘラクレスを遣わし私の秘宝を奪い取らんとしたのだ。当然の解釈だと思うが。故に私はヘラクレスに請い、こうして貴様の面を拝みに来たのだ。さて――私と、アマゾネスとの一戦が望みか?」
「待……て。待て。ヘラクレス! 貴様アマゾネスの地で何を言った? まさか焚き付けたのか!?」
「………」
血相を変えたエウリュステウスの詰問に、アルケイデスは沈黙で返した。彼の目は剣呑な発言をしたヒッポリュテに向けられている。心なし困惑しているのだ。
なんのつもりだとヒッポリュテに目で問う。アルケイデスとしてもヒッポリュテがこんなことを言い出すつもりとは聞いていなかった。エウリュステウスを縁結びの王と目し密かな好意を懐いている彼としては、あまり無体な目に遭わせたくないのがアルケイデスの本音である。
アルケイデスからの視線に頬を朱色に染めながらも、ヒッポリュテは小声で任せておけと言う。彼女の反応に微妙な気持ちになりながらも、そう言うなら任せてみようとだんまりを決め込んだ。
「話しているのは私だぞ。女王の肩越しに別の者と口上を交わすとは舐められたものだな」
「そんなつもりはない! 俺はアマゾネスと戦をする気はないんだ、信じてくれ!」
「うん、信じよう」
「……は?」
「信じると言った。ヘラクレスは誠実な男だ、むざむざ貴様と私を相討たせようとはしないだろう。貴様に戦の意志がないのを確かめに来た。そして貴様と、貴様の娘が我が父の分体である軍章旗を帯とした秘宝を持つに値するか見定めることもできた。戦を望まぬと言うならそれでいい」
あっけらかんと告げるヒッポリュテに、エウリュステウスは目を白黒させる。直前までの殺気は消えていた。
そうして絶句するミュケナイ王へ、ヒッポリュテはいけしゃあしゃあと宣う。
「貴様らは我が秘宝を持つに能わん。よって私の帯は譲れない。しかしヘラクレスは貴様の課した勤めを果たした。何せ軍帯を持った私を貴様の前まで案内したのだからな」
「――――」
「そうだな? ヘラクレスは……勤めを確かに果たしたはずだ。そうだろう?」
にっこりと微笑みながら、再び殺気を溢れさせるヒッポリュテのそれは、確認の言葉の裏にはっきりと恫喝の響きを持たせていた。
否と言ったら一戦を交わすことも辞さない、その強硬な姿勢にエウリュステウスは折れるしかなかった。自分に仕えているアルケイデスを使えば負けはなく、確実に勝てるだろうが、自分の城にいる他国の王を殺したとあってはエウリュステウスの名声は失墜する。そうなればアルケイデスに王位を奪われるかもしれない不安が現実のものとなるだろう。たとえアルケイデスに奪われなくとも、他の誰かが王位簒奪を目論むかもしれない。王はその振る舞い一つにも気を配るものだ、特に自身の保身のためなら。
項垂れるようにエウリュステウスはヒッポリュテの言に頷いた。満足げな様子のヒッポリュテだが、アルケイデスとしては彼の王に対して罪悪感を懐く。彼を心理的に圧迫するのは本意ではない。なんとか彼の気を持ち直させようと、漸くアルケイデスは己の本音を告げることにした。
元はエウリュステウスに無茶な試練を課してもらい、自身のスキルアップを目論んでいたアルケイデスだが、それはもういいと感じていたのだ。
既に沢山の縁を結んでいる。これ以上は無駄に時間を掛ける気はない。元々エウリュステウスが懸念していることは察していたのだ。無欲なアルケイデスである、現状に満足してしまえば、恩人が苦しむところを捨て置けはしない。
「エウリュステウス。私はミュケナイの王位は望まん」
「……は? いきなり何言ってるんだ、貴様は」
「まあ聞け。長らく貴様の心を蝕んでいた不安を取り払ってやろうというのだ。いいかエウリュステウス、私はミュケナイの王位への野心など無い。あらゆる神に誓っても良い、私は償いを終えたとしても貴様から王座を奪い取ろうとはしないと。無論害するような真似もしない」
呆気にとられてそれを聞いていたエウリュステウスは鼻を鳴らす。何を言うかと思えば、と。
「……はっ。戯言だな。仮にそれが本当だとしても、貴様の子はどうだ? 正統な王の血筋だと宣い、ミュケナイを手に入れようとしないという保障はあるのか? ないだろう」
「ある。もし私に子孫が出来たとしても、貴様を害してまでミュケナイを手に入れようとはさせん。それに――」
「ヘラクレスはアマゾネスに婿入りするから問題ないな」
「――ヒッポリュテの戯言はともかく、
大いなる力には、大いなる責任が伴うものだ。強すぎる力は時として大禍を招きもする。故に確約しよう。宣言しよう。私は償いを終えた後、王となる。
無論、ミュケナイではない何処かでだ」
突拍子もない宣言だった。目を丸くするヒッポリュテとエウリュステウスに、アルケイデスは頬を緩める。
如何なる心境の変化なのか。それはアルケイデスの胸だけに秘められている。
――イオラオス。妹のイピクレス。ケリュネイア。アタランテ。ヒッポリュテ。守るべき者が増えた。マルス、ハデス、ヘパイストス、アテナ、プロメテウス。奉じるべき神が増えた。
信仰の心は自由だ。だがもし奉じている神が邪な者なら? 災いを齎す類の神など、不要だろう。かといって人々の心がどの神を奉じるかなど律せるものではない。
故に王になろう、とアルケイデスは決めた。透徹とした眼差しでそう決意していた。
善き神を戴き、神殿を建て、信仰を篤くする。自身の力と名声、人脈の限りを尽くして。そして故あらば邪な神に狙われかねない、自身の身内も同時に守護するための国でもある。
それは、立志だった。復讐以外に懐いた大志である。
武人としてのそれとは違う、英雄や狩人としてのそれとも違う。鮮烈な王者としての威風が穏やかな陽射しのように彼から発されていた。
ヒッポリュテが息を呑む。エウリュステウスが圧倒される。それらを気にせず、アルケイデスはエウリュステウスの不安を取り払って、告げた。要求した。
「さあ、エウリュステウス。次の勤めを言え。残りの総て、迅速に片付けた後に、我々はミュケナイより立ち去るだろう」
――その宣言を以て、エウリュステウスの恐れは拭い去られた。
それから半年。アルケイデスはエリュマントスの猪を生け捕りにし、川の神より権能を借り受けてアウゲイアスの家畜小屋を洗い流し、ステュムパリデスの鳥を撃退して、クレータの牡牛と、ディオメデスの人食い馬をミュケナイに連行した。
試練を課されてより二年としない内に、彼は九つの偉業を成し遂げたのである。遺憾ながらアウゲイアスの家畜小屋の一件は、川の神の権能を借り受けた故に、無効とされてしまったが、申し訳なさそうなエウリュステウスに対しアルケイデスは気にするなと言って笑い飛ばしたのだった。
――間もなく。再び交わるはずのない運命が交錯しようとしていた。
後のアルケイデス王が、自分以上の王と認め、その知識を借り受けたことで多くの神殿を建造する助けとした偉大な太陽王との。
彼こそはエジプトのファラオ、ラムセス二世――メリアメンとも、オジマンディアスとも呼ばれる王だった。