ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
なのでイピクレスを急遽妹に変更。まさかの性転換に作者もびっくり。
日本人倫理、妹、狂気、妹の子を自分の子と一緒に炎に投げて殺……あっ()
アルケイデス、帰還する。
その報を聞いたアムピトリュオンは、義理の息子を大袈裟に見えるほど歓迎した。
彼の喜びようときたらとうのアルケイデスが困惑するほどで、何か打算があるのではと疑わせた。
自身の義理の息子であるアルケイデスを、彼は疎んでいたはずである。アルクメネとゼウスの一件がある故に致し方ないこととはいえ、この掌を返したような態度には流石のアルケイデスも閉口した。
しかしこれは別段、アムピトリュオンだけが厚かましく、おかしい態度というわけではない。この世界の中で、人は自身に都合がいい事柄に対しては異様にポジティブになるのだ。そこに申し訳なさやらを感じることは余りなかったりする。アルケイデスならそんなことはないのだが、それは彼がおかしいのだ。この時代、この地域では。
初老の男が、両手を開いて満面の笑みでアルケイデスに歩み寄ってくる。宴の準備も万端で、上座の方へアムピトリュオンは親しく義理の息子を案内した。
「立派になったな、アルケイデス! 見違えたぞ、よもやこれほどの偉丈夫となり帰ってくるとはな!」
「……」
二メートルを超える巨体は、しかしまだ成長の途上である。
そんなアルケイデスは、周囲の侍女達――や男達――の熱い視線を受けて居心地が悪い気分だった。ケイローンの許へ修行に出て、それなりの年数を過ごしていたからか、一層他者からの不躾な視線が堪えた。救いを求めるように視線を周囲に向けると、淡く微笑みながら自分を見る異父妹のイピクレスがいるのを見つけた。
同じく十六歳となり、美しく成長していた妹の姿に、アルケイデスは懐かしいやら愛おしいやらで眼を細めた。
軽くウェーブした金髪に、ゆったりとした衣服の上からでも分かる豊かな肢体。母に似て穏やかな美貌の中に、父と同じ気の強さを感じさせる。アルケイデスがイピクレスを手招くと、たおやかな所作で彼女は側に寄ってきた。
「兄さん、お久しぶりです」
「ああ。美しくなったな、イピクレス」
「兄さんこそ」
久闊を叙する気持ちで言うと、なんとも反応に苦しむ応えが返ってきた。
二メートル超えの身長の、美丈夫となったアルケイデスだが、美しくなったという形容は間違っている気がしてならない。
「……」
「ふふふ、その顰めた顔、昔と一緒ですね」
「……お前は昔とは違うぞ。随分と女らしく笑うようになった」
アルケイデスがケイローンの許へ修行に出る前、イピクレスは何かと兄の真似をして武芸を習うことに熱心だった。アルケイデスと比較するのは可哀想だが、女の身でありながら彼女はなかなか筋がよく、カストルも褒めていたような覚えがある。
和やかに語り合う兄妹に、アムピトリュオンは特に思うところはなかったようだが、早く本題に入りたいのか割って入ってきた。昔から懐いてくれていた妹との会話に割って入ってこられても、それが悪意によるものではないと感じられるからこそアルケイデスは気分を害しはしなかった。
「イピクレスは昔からお前の真似をしたがっていたが、それは今でも変わってはおらんよ。女だてらに剣で男を打ち負かし、弓を使っての狩りでも男顔負けだ。しかしまあ、
「! イピクレス、子を生んだのか」
「はい。名はイオラオス。元気な男の子ですよ」
アムピトリュオンの言葉に、アルケイデスは驚愕した。微笑むイピクレスは幸せそうだったが、まだ十六歳の妹が子供を生んでいることは彼にとって衝撃的だった。
しかし別段おかしな話でもない。むしろ当たり前である。アルケイデスにも子供がいてもおかしくない年齢だった。自分以外はそういう倫理観なのだと、山に籠もっていた彼は忘れていたのである。浮世離れしてしまっていたなとアルケイデスは呆然とする。
イピクレスが侍女に目配せすると、年若い侍女がひとりの男児を連れてくる。その少年を眼にした時、アルケイデスは今日二度目の驚愕を味わった。
その少年はどう見ても四歳かそこらといった年頃だったのだ。アルケイデスを見上げる純粋な瞳に、アルケイデスは唖然とした顔でイピクレスとアムピトリュオンを見た。
アムピトリュオンは連れてこられたイオラオスを見て露骨に顔を緩め抱き上げた。孫が可愛くて可愛くて堪らないといった風情で、彼がアルケイデスを歓迎するほど丸くなっていたのは、打算はあっても含むものがなくなっていたからかもしれないと、漠然と直感する。
「イオラオス、この方はわたしの兄、アルケイデスです。ご挨拶なさい」
「はい! ぼくはイオラオス、三……四歳です! よろしくお願いします伯父上!」
「あ、ああ……アルケイデスだ。イオラオス、元気に育てよ」
「うん! じゃなかった、はい!」
にこにこと祖父の腕の中でアルケイデスを見るイオラオスに、アルケイデスは内心で頭を抱えていた。四歳ということは、イピクレスは十二歳の時にこの子を生んでいることになる。妹の夫はとんだロリコンらしい、今度会ったら殴ってやろうかと思ったが、別におかしな婚姻ではないのだと思い至る。
周囲との価値観、倫理観の違いには慣れていたつもりだったが、これはなんとも頭が痛い。下手に妹の旦那を殴れば、実は自分が妹に懸想していて、情欲の相手として見ていた女を取られたから殴ったのだと誤解されかねない。もどかしい話だった。
「アルケイデス、頼みがある。義父の頼みを聞いてくれ」
宴がはじまると、アルケイデスは酒を勧められた。お酒は二十歳からと決めていたアルケイデスであるが、目上の人間から勧められた酒は断りづらい。渋々酒に口をつけたアルケイデスだが、ちびちびと飲むだけで酔うような飲み方はしなかった。
イピクレスを隣に座らせ、自分の膝の上にイオラオスを座らせる。というより、イピクレスが押し付ける形でイオラオスを預けてきたのだ。わたしの代わりに、この子を側に仕えさせてくださいと――何か物悲しげに言われては断れなかった。
アムピトリュオンはそれを見て、義理の息子が押しに弱い性格になったのだと見切った。これならいけると踏んだアムピトリュオンは、長年の悲願を叶えるために告げる。
アルケイデスは義父の言葉に、居住まいを正した。
「聞かせてもらおう。育てられた恩義に則り、仁義に悖るおこないでなければお引き受けさせていただく」
「おお! そう言ってくれるか!」
頼みを聞く前から快諾されたアムピトリュオンは感激した。なんとよい男になったのか、なんと義理堅い言葉なのか。胤が違う息子とはいえ、疎んでいたのが間違いだったと、アムピトリュオンの中でアルケイデスへの蟠りが氷解する。
現金な心変わりだが、やはりこの世界ではおかしくはない反応だ。アムピトリュオンは感激したまま言う。
「実は儂の故郷のミュケナイと、第二の故郷とも言えるテーバイが事を構えようとしておるのだ。この二国間で争うのを見るのは偲びない。そこで儂は、二国の争いの漁夫の利を狙っておるオルコメノスの軍とテーバイをぶつけ、テーバイの軍事力を落とさせて争いが起きぬように計った。テーバイのクレオン王は儂の思惑通りオルコメノスとぶつかる気でおる。しかしオルコメノスの軍は強敵だ、テーバイの軍だけでは負けかねん。そこでアルケイデスよ、テーバイに味方してオルコメノスを打ち破ってはくれんか?」
「承った。テーバイに味方し、私はオルコメノスを討とう」
戦争。つまり、人を殺すこと。それは忌避すべきことだが、この世界では珍しいものではない。いつかは体験することであると覚悟はしていた。
アルケイデスの精神力であれば、倫理が反発するとはいえ、覚悟を固めてしまえばそれを無視することもできた。自身の倫理観よりも、恩義に報いることの方が彼にとって大切だったのだ。それは義侠心である。
即答したアルケイデスに、イピクレスは微笑み。膝の上のイオラオスは訳は分からずとも無邪気に笑い。アムピトリュオンはもう涙ぐんですらいた。義父は言う。
「そうか……そうか、そう言ってくれるか……! ふふふ……その心意気、嬉しく思う。……戦勝の暁には、そなたにクレオン王が娘を妻として与えると言っておった。励んでくれよ。二つの意味でな。そなたの子も、儂の孫であるからな」
「!?」
知らぬところで婚姻が決まっているらしいことに、アルケイデスは本日三度目の驚愕に固まった。
酒を飲み上機嫌な義父に、アルケイデスはこめかみを揉む。色を知る年頃ゆえ、そういうことに興味はあったのだが、まさか一足飛びに妻を得ることになるとは……。
せめて事前に噺を決める前に、相談ぐらいはしてほしかったが……機嫌の良い義父を見ると、どうにも責める気になれないアルケイデスだった。