ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

39 / 111
本日二度目デス


8.7 戦神、猛りの捌け口を欲す (下)

 

 

 

 

 

 

「あー……うん」

 

 自分に注がれる生暖かい視線に、イアソンは居心地悪そうに身じろぎした。

 自分の服の袖を掴み、今にも泣き出しそうな表情で後ろに隠れている王女メディア。彼女の視線は獅子神王の鎧兜で武装し、白き中道の剣を装備したアルケイデスに固定され、明らかに怯えている様子であった。

 アイエテスに試練を申し伝えられた翌日、明朝。いざ試練を超えんと息巻くアルゴー号の英雄達の真ん中に突如大きな魔力反応が発生した。いち早く察知しすわ敵襲かと戦闘態勢を呼び掛けたアルケイデスに応え、アルゴノーツは俊敏に身構えた……のだが。

 現れたのはコルキスの王女メディアである。

 アルゴノーツのど真ん中に転移してきたことよりも、まずその魔術の腕に驚嘆した。難度の高い空間転移、それを自身の工房や神殿でもない所で成したのである。しかし、驚いたのはメディアもだった。()()()()()イアソンの気配を辿って何度か転移してみれば、そこにいたのは逞しい英雄達ばかりであり。アルゴノーツの実質的な指揮官格に無自覚に立っていたアルケイデスは、当然のようにイアソンの傍に居たのだ。

 

 「ひぃっ」とアルケイデスを視認するなり怯え、イアソンに抱きついてその背中に隠れたメディアに、アルケイデスは少なからずショックを受けたものだが。流石に初対面で怖がらせてしまった手前、その反応も仕方がないものだとその場の全員が理解した。

 

 イアソンとて、彼女の態度や反応にも理解がある。エロースの矢で自分への恋心を植え付けられてしまったのだと。

 本来なら気色悪さを覚えるところだが、事情が分かっていれば相応の態度も取れる。イアソンは取り敢えず無難な対応をしておこうと決めていた。下手なことをして、遠い異国とはいえ王に睨まれても良いことはないのである。

 メディアは子供だ。恋に恋して盲目になっているものと思い、大人の対応をしようと決めていた。だからアルケイデスに怯え、自分の後ろに隠れるメディアを邪険に振り払いはしない。ただ……ここでさり気なく自分の後ろに隠れるあたり、なにげに計算高いんじゃないかと微妙な気持ちになったものだが。

 

「おいおい、イアソン。そんなに好かれてたんじゃあ、実はまんざらでもないんじゃねえか? 性的に食っちまうか、ん?」

「ありえないね……」

 

 肘でイアソンの脇腹を小突き、カイネウスが揶揄するとイアソンは嫌そうに吐き捨てた。もちろんメディアには聞こえないように小声でだ。そのぐらいの気遣いはする。面倒だが相手は王女なのだから。……それに。

 

「後さ。君、ほんと学ばないな。この娘はヘラクレスが保護するんだぜ? 下手なこと言うなよ」

「ぁっ」

 

 眼中にない小娘に欲情するイアソンではなく、外交に絡みそうであるからなんとか煩わしいのを我慢しているが、そんな手間を掛けている最大の理由はアルケイデスが睨むからだ。

 

 メディアが来る前に、アルケイデスはイアソンに説いていた。メディアを無事に返せばイオルコスとコルキスに国交を築けるだろう、だから邪険にはするなと。そしてアイエテスに私はメディアを無傷で帰らせると約束したと。体だけでなく心も無傷で帰すのだと力説していた。それを見て、聞いて、まさか反するような真似をする度胸は、さしものイアソンにもなかった。

 それに――こうした国同士が交わすべき交渉のヴィジョンを持ち、ただ押し付けてくるだけでなく利益を作って受け入れやすくしてくれるアルケイデスを、イアソンは誰よりも信頼している。何より最強の英雄なのだとこれまでの旅で思い知っていた。加えて船長として顔を立ててくれるともなれば、全幅の信頼を置かないはずがない。

 イアソンからすると、自分が王になった後の政策に繋がる提案をしてきたアルケイデスへの好感度は、これまでの交友関係の中で断トツでトップに躍り出ている。そして恐らくこれから先、頼れる男としてアルケイデスを押しのける人間は出てこないだろう。彼の国策への理解の深さは、武勇だけの猪武者ではない証である。強くて賢く、自分を立ててくれるとなれば、イアソンがアルケイデスに好意を持つのは当然と言えた。

 

 イアソンの呆れ顔に、カイネウスはサッと顔を青褪めさせた。これはいつもの事だ、誰も気にしない。余計なことを口走ったカイネウスを無視する。

 そんなことよりも、アルケイデスはメディアが気になって仕方なかった。一歩、歩み寄る。

 

「……王女メディア。昨日は怖がらせてしまい、すまな――」

「い、嫌ぁああ!? ち、ち、近寄らないでくださいっ!」

 

 すまなかった、と言い切る前にメディアは悲鳴を上げた。固まるアルケイデス。これにはイオラオスやアタランテ、イアソンも苦笑いするしかない。

 これまでその溢れ出る父性のようなもので、子供に嫌われたことのなかったアルケイデスである。史上初となる化物を見るような子供の目に、アルケイデスは凄まじい衝撃を受けて沈黙させられた。愕然とするアルケイデスに、テセウスが苦笑しながら言う。

 

「仕方ないですよ。だって誰がどう見たって今のヘラクレスは怖いですから」

「………」

 

 テセウスが示したのは、左腕に鉄の輪を嵌められたエロースの、そこに繋がれた鎖を握るアルケイデスの手である。

 神をそのように扱っていながら平然としているのは、アルゴノーツをして畏怖を禁じ得ない。それを抜きにしたって絵面が大変不健全だ。エロースは押し黙ったまま、この奇妙な寸劇に呆れている。諦めムードを漂わせて大人しくしているエロースの図は、客観的に見て様々な意味合いで恐ろしいものである。例えメディアとの出会いが不幸なものになっていなくても、これを見たら確実に苦手な存在に位置づけられていたに違いないのだから。

 

 「嫌、嫌、いやぁ……」とうわ言のように繰り返すメディア。心的外傷を負っているのが確定的に明らかだ。自分も捕まる、鎖に繋がれる。そんな余分な憂懼はなく、純粋にアルケイデスという存在への恐怖心しかない。

 

 アルケイデスは忌々しげにエロースを睨む。貴様さえ余計なことをしなければと、八つ当たりに等しい殺気を受けてエロースは愕然とした。わたしにどうしろと!? 上司の命令と現場のクレーマーに挟まれた中間管理職の悲哀が其処にはあった。

 そして声を発しこそしなかったが、その言わんとすることは全員に伝わっていた。哀れなエロース、と。後に『ヘラクレス』の友人となり改心した善神である、などと捏造されて語り継がれるなんて、誰も予想だにしない現実が此処にある。

 

「あー……ああ、うん。悪いんだけど、そろそろ本題に入っていい……?」

 

 言いづらそうにイアソンが口火を切る。傍らで小さくなり、更に強く袖を引っ張るメディアはなるべく意識しないようにしながら。

 

 

 

「コホン。――知っての通り、私はアイエテス王に試練を課された」

 

 

 

 滑り出しは滑らかに。共通認識を下敷きにする語り出し。()()()になって口を開けば空気が変わる。

 扇動の天才であるわけではない。しかしアタランテをして『化物じみたカリスマ』と称された男は、周囲を焚きつけるまでもなくその気にさせる。自身の望む方向に意志の矛先を収斂させられる。

 人類史に名を刻まれた稀代の扇動家(アジテーター)は理内の者、しかしイアソンはギリシア世界の五つの区分の四つ目の時代、英雄の種族に属する()()()()()()()()()()()()だ。存在が人の心と魂を駆り立てる、理外の怪物であると云える。そのカリスマ性は既に呪いの域にあるのだ。

 

「国の頂点に立つ者から、秘宝を対価に無理難題を仰せつかる。ああ、それはまさに英雄の道だ。私や諸君が歩むのは当然だろう。しかし私だけは間違わない。神々の叡智にすら劣らないモノを秘める賢者の私は、決して大義を見失わない。私は英雄に成りに来たわけじゃないんだ。私は諸君の英雄としての格を上げさせるが、私は英雄には成らない。そんな称号(もの)、後から勝手に付いてくる」

 

 水を打ったように静まり返る仲間達を気にせず、イアソンは極々自然な様子を崩さない。彼にとって呼吸をしているのと同じぐらいに当然なことをしているだけなのだ。ただ願っていることを、思っていることを口にするだけ。

 

「私は――ああ、敢えて飾らず言おう。

 オレは王になる」

 

 平凡な脚本を凡庸な声音で読み上げているだけとも言える、そんな語調。

 しかしそれで充分だ。扇動という一種の技術を使うまでもなく、イアソンはただ『イアソンである』というだけで人の心を熱くする。

 

「私の本命はあくまで金羊の皮(アルゴンコイン)をイオルコスに持ち帰ることだ。諸君の力を借りる前に、それを改めて言っておきたかった。それ以外は些事だと断言しよう。故に私は、私に課された試練で諸君の力を借りることを恥だとは思わない。私は王だ、王が権威の論拠とする英雄から力を借りて何が悪い? どうか最後まで私を見捨てずに、共に来て欲しい。私を助けて欲しい。確約できる報酬は英雄としての名声しかなく、旅が終わったとしても諸君は永遠にアルゴノーツであるという誇りだけが得られる見返りの全てだ。その上で訊こう、皆はそれでも私に力を貸してくれるかい?」

 

「愚問だぞイアソン! 我々は此処まで苦楽を共にして来た同胞だ! 今更要らないと言われても無理矢理にでもついていくまでだ、そうだろう皆!」

 

 ゼテスが興奮気味に言った。イアソンの語り様は平凡な台詞でも人を惹き付け、容易く人をその気にさせる。弁論の天才でもあるが、イアソンのカリスマこそ化物じみていると言えた。そんなイアソンに、アルケイデスへの恐怖が薄れたのか、メディアはきらきらとした目で恋した人を見詰めている。

 危険な光である。王への道を歩まんとするイアソンだ、お節介かもしれないが伝えておこうとヒッポリュテは思い立つ。猛き女戦士達を束ねていた、ヒッポリュテにすらそうさせるのがイアソンだった。王女の様子を見かねたといった体で、ヒッポリュテがイアソンに近寄り耳打ちをする。

 

「イアソン。彼女のことだが……」

「ん? 心配しなくても手なんか出さな――」

「そうじゃない。耳を貸せ。……いいか、イアソン。彼女は貴様が何をしようと、何を言ったとしても肯定して、それを後押しするだろう。耳に心地良い言葉しか言わないはずだ。だがそれに慣れてはいけないぞ。自分を肯定する声しか聞こえない耳を、王になろうという者が持ってはならない。これは私の、女王としての助言だ」

「………」

 

 それにイアソンは僅かに目を見開く。

 彼は褒められるのが好きだ。頼られるのが好きだ。肯定してくれる人物には無条件に一定の好感を持ってしまう。

 実際、メディアが目を輝かせてこちらを見る様には悪い気がしなかった。

 重々しく頷く。最近まで女王であったヒッポリュテの忠告だから素直に聞き入れられた。自分こそ理想の王になるのだと思っているが、今のイアソンは王でも何でも無い。そして実績すら無いのだ。自身の理想に絡む先達からの忠告に、耳を傾ける程度の度量は彼にもあった。

 

「……君は、確かヘラクレスの婚約者だったかな」

「そうだ。まあ自称だがな」

 

 苦笑するヒッポリュテに、イアソンは薄く微笑みながら言う。彼という人物には珍しい、素直な賛辞のつもりだった。

 

「自称でもなんでも、お似合いだよ。婚礼の儀には是非呼んでくれ。盛大に祝ってやるから」

「嬉しいことを言ってくれる。私が本懐を遂げられたならそうさせてもらおう」

 

「……むぅ。何を話してるんですか?」

 

 二人が近距離で、小声で話し合う様にメディアは頬を膨れさせて引き剥がしに掛かった。可愛らしい嫉妬だ。ヒッポリュテは微笑んでメディアに言う。なんでもないから気にしなくていいと。私の想い人は貴様の言うヘラクレスだ、と。

 ヒッポリュテのその告白に、メディアは信じられないことを聞いたと言わんばかりに目を丸くした。うそ……呆然と呟くメディアに、肉食系(アマゾネスの)女王はにやりと笑う。証拠を見せてやろうと。

 

 駆け出すや否や、ヒッポリュテは大声でアルケイデスを呼んだ。

 

「アルケイデスっ!」

「――――」

 

 果たして、何を言うつもりだったのか。好きだ、愛している、結婚してくれ。子供を作ろう、なんなら今すぐに――とでも言うつもりだったのか。

 メディアの反応に消沈した表情で、なるべく離れた位置にいようと集団の輪からアルケイデスは外れていた。メディアは守るが、怖がらせたくもない。非は完全に自分にあると認めていた。

 そこに自分の真名を口にしながら駆けてくるヒッポリュテに気づいた。アルケイデスは、訝しげにそちらに振り返り――不意に並外れ、卓越し、理屈や技術を超越した“心”の“眼”が見開かれる。

 

 

 

「――ッ!」

 

 

 

 虚空に手を翳し、脊髄反射で白剣を召喚する。鎧の背部にある留め具に固定していたのを、抜き放つ動作を省略して手の中に出現させたのだ。

 ヒッポリュテは驚いて立ち止まる。それを視界にも入れずにアルケイデスはエロースを繋ぐ鎖から手を離して白剣を振るった。満身の脱力からの剛力を発揮し両手で柄を握り、重心を落とし、腰から肩までの捻転の力まで加え、渾身の力で振るったのである。唐突な其れは、紛うことなき全力の迎撃だった。

 

 あ、と思う間もなかった。

 

 彼方より、次元を貫き飛来する神の剣。三原色の燦めきは衛星軌道上に顕現した光の巨剣。【戦闘】の概念がカタチとなった化身たる、真なる軍神の剣で広範囲を殲滅する衛星兵器。知られざるその真名は、紅き星、軍神の剣(マーズ・ウォー・フォトン・レイ)である。

 個人戦闘能力に於いては全盛期に到達している、神話最強の英雄が担う剣は白き極光を纏い、振るわれたるは誓約されし栄光の剣(マルミアドワーズ・ネメアー)

 激突し、鍔迫り合う光の巨剣と白き中道の剣。桁外れの魔力と質量の激突は周囲の者の意識を空白にした。アルケイデスの顔に苦悶と汗が浮き上がる。巨剣を受け止めた白剣より伝わる威力に手が痺れ、踏み締めている大地を削りながら徐々に後退させられていく。

 

「ォッ、」

 

 兜の下で、黒髪がうねる。噛み締めた奥歯が鳴る。力を溜め、口腔を開き、獅子神王と一体となって咆哮した。

 

「雄ォオオッ!!」

 

 光の巨剣の芯を逸らし、神業めいた剣捌きで光の巨剣を遥か後方の中天へ受け流す。地平線の彼方まで飛翔して、光の剣は誰の視界からも消え失せた。

 その余波で地面が大幅に抉れ、掠めた山脈に大きな穴が生まれた。現象が思い出したかのように動き出し爆風が起こる。その破壊力は克明に死を彷彿とさせられるもの。呆然とする一同の頭上に、快活な笑声が轟いた。

 

 

 

『ハッ。ヘラクレス……八割の力とはいえ、俺の剣を受け切りやがったか』

 

 

 

 傲然と言い放たれた圧は、全員の肩に絶望的な重さとなって圧し掛かる。

 ぺたん、とその場にメディアが腰砕けになって座り込んだ。気絶すら出来ずに、茫洋とした目で姿を現した奇襲の主、最高位の神格を見上げるしかない。

 そしてそれはメディアだけではなかった。アルゴノーツも、ヒッポリュテら英雄旅団やエロースも例外ではなく。自我を保っているのはアルケイデスだけであった。

 

 手の痺れを握り潰す。アルケイデスは如何なる感情も窺い知れぬ瞳でその神を見上げた。

 

 全てが様変わりしている。狼の毛並みの如き灰白の髪を野放図に伸ばし、青銅の鎧兜は捨てたのか真紅のマントを簡易な黒鎧に備えているのみ。精悍な面構えには英邁な知性と勇気が宿り、紅い双眸はあらゆる戦の闇と父性の光を灯していた。

 白い髪、白い肌、人間を超越した美貌と人界より隔絶した武威。己の中の狂気を完全に制御している軍神――否、真なる戦神の姿が其処にある。

 誰も、そう誰も……エロースすら、実の父だと思わなかった。軍神ではない、誰だあれは。どこの世界のどんな神だ。発される神性の性質から、猛々しい戦の神であるとはエロースにも分かる。しかしこの、最高神ゼウスにも匹敵する神がこの星にいるだなんて聞いたこともない――

 

 しかし、ヒッポリュテは。エロースと同じく彼の神を父とする女戦士は。

 唇を震えさせ、呆然と呟く。はらはらと涙すら流して。それは感動の涙だった。

 

「とうさま……」

 

 呼び掛けには一瞥のみが与えられる。しかしそこには暖かな慈しみだけがあった。

 視線はすぐにアルケイデスに向いたが、不満は何もない。父様、だって? エロースは信じられない思いで彼の神を見上げ、その風貌が確かに軍神アレスのものだと気づき愕然とする。

 

 ――愚かだと言われるわたしの父……? あれが? まさか……。

 

 信じられない。有り得ない。なんだこれは。エロースは呆然とする。アルケイデスが問い掛けた。それはまだ立ったまま、目を開けたまま、自失しているアルゴノーツの総意とも言える疑問だった。

 

「……軍神よ。なんの真似だ? 私でなければ死んでいたぞ。如何なるつもりで仕掛けてきたかお聞かせ願いたい」

『うるせえ。相変わらず、意味分かんねえぐらい信仰しやがって……』

 

 無表情、平坦な声音。しかし自身に向けられる深く濃い信仰に、戦神はうんざりしたようにぼやいた。

 

『お蔭でご覧の有様だ。力の抑えが利かねえ。どんだけ俺のことが好きなんだ貴様? 本当はかるーく(こいつ)を投げつけてやるぐらいのつもりだったのが、八割もチカラ出しちまったじゃねえか』

 

 両手を広げ、大仰に嘆く戦神だが。どこか愉快げである。

 アルケイデスは眉を顰めた。てっきり自らの子であるエロースへの仕打ちに怒り狂っているのかと思えばそうでもないらしい。そうであるなら全力で謝り倒すつもりだったのだが……。

 ともあれヒッポリュテに視線を向け、アルケイデスは感謝の意を目に込める。ヒッポリュテの呼び掛けがなければ反応が遅れていたかもしれない。無視できない傷を負っていた可能性がある。とうのヒッポリュテにその気はなかったが、アルケイデスはそれには気づいていない。

 

 戦神は嘆息した。

 

『なんの用か、だったか』

「………」

『知れたことよ。貴様らを()()しに来たんだ。……可哀想だが俺の娘もな』

「ッ!?」

 

 アルケイデスだけではなかった。戦神の殺気がアルゴノーツらを舐め回す。英雄達は全身から大量の汗を流しながら武器を構えた。

 勝ち目は視えない。殺される。その確信が全員の胸に宿った。しかしただで殺されてやる気はない。抵抗する気で、青白い顔で戦闘態勢を取った。

 それに待ったをかけたのは、ただ一人。アルケイデスである。父に殺すと言われ絶望に染まったヒッポリュテを横目に、彼は重ねて問う。

 

「何故だ。エロースに対する仕打ちへの代償か?」

『いいや? んなこたぁどうでもいい。確かにソイツは俺のガキだ。情もある。だが死んだわけじゃあるまい。それに悪戯遊びを幾つになっても卒業しねえガキの仕置きを俺に代わってやるってんなら是非どうぞと投げてやるよ。だがどうでもいいって言ってんのは――俺がヘラと絶縁したからだ』

「――――絶縁?」

 

 それは、アルケイデスにとって福音だった。

 信仰する神の親を憎んで良いのか、という悩みはあった。悩みがあるまま突き進むつもりだったのが、それが取り払われたのである。

 嬉色が滲むのを、こんな時なのに抑えられなかった。

 

『応ともよ。思い出したくもねえから詳しくは言わん。が、そのヘラの企てに加担したあの馬鹿女と馬鹿息子は、この俺に対し絶縁を申し伝えたに等しい。潜在的には俺の敵だって見方も出来るんだぜ。なんなら……俺が殺ったっていいんだ。それを仕置きで済ませるってんなら、むしろ俺は貴様に感謝してやる。甘い裁定で済ましてくれてどーもありがとうございました、ってな。俺は手前のガキはなるべく殺したくはねえ』

「………」

『ってなワケだ。その馬鹿息子は関係ない。じゃあなんで俺が貴様らを殺すのか? これも簡単だわな。考えてもみろ、此処は……何処だ?』

 

 問いに、智慧の巡る者はハッとした。

 此処は【アレスの野】である。

 

『此処で貴様らは何をしようとしている?』

 

 軍神の持ち物の雄牛に引き具をつけ、【アレスの野】を耕そうとしている。

 

『其処に何を蒔こうとしている?』

 

 竜の歯……アレスが対立している戦女神に、アイエテスが与えられた物。

 

『つまりだ。貴様らは俺の土地で、俺の所有物を勝手に使い、男日照りのアテナの奴を介したモンをばら撒こうってワケだ。……ちょっとばかし気が立ってたところでよ。少しばかり発散しねえと、今の俺だと何を仕出かすか分かったもんじゃねえ。ヘカテーのヤツはなんのつもりかは知らねえが……それもどうでもいい。こんだけ腕利きの英雄が雁首揃えてんだ、抵抗してくれたら少しは梃子摺れる。ストレス発散の運動にはなんだろう。ついでにこの苛つきも収まるってんなら……やらねえって理由はねえよな? なあ……俺の庭に来たんだ。少し遊んでいけ。安心しろ、退屈はさせねえからな』

「………」

 

 やるしかないのか。悲愴な覚悟を固めつつあるアルゴノーツに、しかしアレスは悪戯っぽく笑う。

 

『おいおい辛気臭えぞ。ったく、仕方のねぇ奴らだ。気が乗らねえってんならルールを設けてやる』

「ルール?」

『応よ。俺が貴様らを皆殺しにするまでに、アイエテスの小僧が課した試練ってのを果たしてみろ。そうしたら、生き残ってる奴らを殺しはしねえ。……どうだ? 生き残る芽は見えたか? んなら上等ってなもんだが』

 

 その通告に、アルケイデスは頷く。

 光明は見えた。アレスは本当は、殺す気はないのだろう。しかし漲り、溢れる力をどうしてか抑えられなくなっている。それを抑制するために戦闘を求め、数多の英雄が集うアルゴノーツに目をつけたわけだ。

 遣り様はある。アルケイデスはそう確信する。

 凶暴で悪辣な戦の負の神としての顔、それに反する慈父の神の顔。そのバランスを整えてやれば……あるいは片方に傾けてやれば、アレスは勝手に満足する。そう判断していいはずだった。

 

「軍神アレスよ」

『あ? ああ……ヘラクレス。その名で俺を呼ぶな』

「……?」

『ソイツは縁を切ったヘラが付けた名だ。最近面白い竜と会ってな、名乗って死合ってみたら、末期に俺を【マルス】と呼びやがったのよ。呂律が回ってなかったのか、生まれ故郷の言葉で喋ったら訛ったのか……なんでもいいが、その響きを気に入った。俺のことは以後マルスと呼べ。敬意を込めて、な』

「……承知した。では軍神マルス、私もヘラクレスとは呼ばないでもらいたい」

『……ほぉ? ならなんと呼べばいい、不本意ながら我が第一の信徒よ』

「アルケイデスだ」

 

 言いつつ、白剣を構える。そしてイアソンらアルゴノーツに背を向けたまま大喝した。

 

「此処は私に任せ、先にいけ」

「ヘラクレス……!?」

「私がマルス様をお止めする。その間に、皆で力を合わせ試練を越えよ。私の命をお前たちに託す、故にお前たちの命を私に寄越せ。総て背負い、見事成し遂げよう」

 

 アルゴノーツは一斉にイアソンを見た。英雄旅団はアルケイデスの判断に従った。

 共に戦うと言っても足手まといになる。なら早急にイアソンの試練を片付けたほうがいい。

 イオラオスがイアソンを小突いた。号令しろ、皆が待ってる! あんたの命令を! 伯父上の意志を無駄にする気か!?

 その怒号にイアソンは正念場に立たされた。アルケイデスが死ねば次は自分達――その差し迫った危機に顔色を変え、英雄としての威風をはじめて発しながら彼は命じる。

 

「……ッ! アルゴノーツ! オレの親愛なる同胞達! ヘラクレスに此処を任せる、オレ達はすぐに試練を片付けるぞ! ちんたらするな、往くぞぉ――!」

 

 イアソンは素手のまま駆け出した。武器も何もない。必要なのは意志を示すこと、動き出すことだと彼は悟っていた。そのイアソンの行動に、引っ張られてアルゴノーツも死にものぐるいに駆け出している。なるほど、英雄だとマルスは笑った。

 後ろを向いてイアソンがアルケイデスに叫ぶ。

 

「――おい! なんとか早くしてやるから、足止めちゃんとやれよ! オマエが殺られちまったら次はオレ達なんだからな!? 簡単に殺されるのだけは勘弁しろよ!?」

 

 アルケイデスは笑った。マルスに釣られて。そしてイアソンの必死さが嬉しくて。

 彼は今、自分もだろうが、その次ぐらいにアルケイデスを死なせないために叫んだのだ。これが嬉しい。堪らず、強がりを口にする。

 

「ああ。足止めをするのはいい。だが――別に。軍神を倒してしまっても構わんのだろう?」

 

 その放言に、マルスは噴き出し。声が聞こえていたアルゴノーツは唖然とし、イアソンは盛大に笑った。

 確かな信頼を感じさせる。ぶっ倒せ、ヘラクレス! 大英雄は不敵に口端を歪め、腕を掲げて勝利を宣言する。

 

 ぶはっ、とマルスは再び噴き出した。

 

『貴様――は、ははは! 貴様まさか、この俺に勝つ気でいるのか?』

「生憎だ。私はこれまで、武器を取って負ける気で振るったことは一度もない」

『そう言うなよ。わざと敗ける戦も割と面白いもんだ――ぜッ!』

 

 堪らぬ狩りの獲物を目にしたように。その気なら他の面子を狙えるだろうに、アルケイデスにのみ狙いを定めたマルスが、いつの間にやら召喚していた光の剣を握り襲い掛かってくる。

 三原色の神剣は真紅に染まっている。戦神たるマルスの真の権能、三機能権(イデオロギー)――の一つ。『主権』『戦闘』『生産』の二番目、『戦闘』形態の神剣だ。

 やるからには本気で遊んでやるよ――猛りの捌け口を欲する戦神が馳せ、敬意を胸に懐く英雄が迎え撃つ。

 

 戦神とその第一の信徒、その数少ない私闘とも云える決闘の決着は――死者ゼロ名、その結末のみが物語った。

 短期間では決着つかず。されど戦神は溌溂として。またいつか、鬱憤が溜まったら相手しろよと、立場の垣根を超えた友情を示すように拳を出し、アルケイデスはそれに己の拳を合わせたのだった。

 

 

 

 




いつかやるかもしれない外伝予定。

(ケリュネイアとヒッポリュテの決闘)
(実録! 酒乱アルケイデス)
(マルスとアルケイデスの私闘)

まあ予定でしかないのだけど。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。