ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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8.1 ジャーニー・ター・コルキス

 

 

 

 

 

 言葉だけでは変わるはずのなかった価値観が、根底から崩れ去るのを実感した。

 

 其れは――ひどく美しく、荘厳で、一枚の絵画に描かれた風景のようで。騒ぎを聞きつけ駆けつけたテセウスは、全身を打ち据えられたような衝撃を覚えた。

 強大な暴威の化身となって狂乱する女王の剣に、体を刺し貫かれた上で女王を抱き締めて。暴れる女王に剣を捻られ出血しても、微塵も動じずに佇んでいる。

 雲の隙間から射し込む木漏れ日に照らされたその光景は、テセウスの中にあった英雄観が根こそぎ覆るほどの衝撃を伴っていた。

 

 綺麗だ。

 

 そんな場合でもないのに、魅入られる。

 英雄が女王の狂気を鎮めるために見せた献身が、見たことがないほど聖なるものに感じられ――そしてその衝撃と感動はテセウスだけのものではなかった。

 テラモンも、アマゾネス達も、その余りに貴い光景に目と心を奪われている。

 

(あれが……これが、英雄……)

 

 その強さに憧れた。成した功業に到達点を見た。だがそんなものはほんの氷山の一角に過ぎず、目に見えるだけで底の浅い認識でしかなかったのだ。

 浅はかだった。強ければいい。強大な敵を討ち、度し難い悪党に報いを与えればいいのだと思っていた。僕如きでは貴方を測れない、少し前にそう言った自分の言が奇しくも証明されている。テセウスの理解と想像を超えた場所で、貴い意志が痛いほど肌を打つ。今この瞬間、言語を超えた領域で、魂で理解した。

 

(英雄とはただ強く在るに非ず。その魂と偉志の気高さにこそ、真の英雄性が現れる)

 

 ヘラクレスこそが真の英雄だ、と出会った時から憧れていた。だがその本質を理解すると、途端に己の矮小さを痛感する。

 目指さねばならないのは、武力ではない。功績でもない。あの在り方こそが何よりも尊く、眩い光なのだ。求めて駆け抜けるべきはあの光の道なのである。

 

 はらはらと、透明な涙を溢していた。

 

 溢れ落ちるそれに気づくこともなく、呆然と英雄の献身を見守り続ける。そうするのが此処に居合わせた者の義務であり使命だとテセウスの心ではなくテセウスそのものの総てが信じた。

 誰も動かない。金縛りに遭ったように。誰も話さない、無粋な音で英雄が挑む過去の超克を穢したくない。

 誇り高く勇猛な女戦士達も落涙する中、誰もが静かにそれを見守っている。女王の求めた英雄が、事実その心すら最たる者なのだと認めたから。

 

(僕は……()()成りたい)

 

 強くなりたいという想いは変わらない。追いつきたいという意志にも翳りはない。

 けれど何よりあの在り方にこそ憧れ――明確な理想像として焼き付いた。

 

(あの人に、僕はついていく)

 

 テセウスは王となる青年だ。アテナイの王になる。王たる者の器と力を持っていた。だがそれでも、王たる者であるテセウスは、その心に曇りなき敬意と忠を懐く。

 例え近くに居なくても。遠く離れていても。せめて心だけは共に在りたい。

 大英雄……大いなる英雄。それはまさにこの人のためにある称号だ。

 共に在っても彼の輝きを曇らせない者に成らなければならない。そうでなければあの人に憧れる資格はない。そして『憧れる』だけでは駄目だ。相応しい行動を、在り方を永遠に続けていく覚悟が必要だ。テセウスは確信している。あの女神の凶行を知った今となっては間違いのない確証を得たと感じていた。

 ヘラの栄光などという名を持つあの人と、名の由来となった彼の女神は決して相容れない存在だ。あるいは神とすら事を構える時が来ると……漠然と予感する。

 

 

 

「ヘラクレス。僕は王になる」

 

 

 

 女戦士達の国から出る時、テセウスはヘラクレスにそう告げた。

 

「アルゴノーツとしての旅を終えたのなら、僕は僕の使命を果たしてアテナイの王になる。だからどうか、遠く離れていたとしても、この心が貴方と共に在り続けることを赦して欲しい」

 

 千の覚悟と万の想いを秘めた、毅然とした眼差しを受けて。ヘラクレスは厳粛な面持ちで笑わずに応じてくれた。

 

「私はお前の運命を縛り付けはしない。自由で在れ、テセウス。お前の心がいずこに在ろうと、私は私のままで在り続けるだろう。故に私から言えるのは一つだ。自らに恥じぬ心で自由に生きよ――私と共に在るということは、そういうことだ」

 

 否とも是とも答えず、自由をと彼は言った。

 およそ誰よりも自由ではない人が、それを口にする。それが痛ましく、けれど雄々しく見えたテセウスは、無言で忠なる礼を示した。

 

 彼はアルゴノーツの冒険を終えた後、一時“英雄旅団(ヘーラクレイダイ)”を離脱し自身の使命を果たしに往く。アテナイの王となるための旅路の中、六つの功績を成し、アテナイ王と成った後に恐るべきミノタウロスを討ち果たす偉業を遂げた。

 テセウスは公正明大なる賢王としてアテナイに君臨し、周辺諸国を纏め上げると数多くの勇士や賢者を集め食客とした。そうして威名高らかなる英雄旅団の基礎を築き上げることとなる。

 

 後の伝説にて、アレスの子ロムルスの盟友となったと伝えられるが……その真偽や過程については多くの謎が残されることになる。果たしてまだ生誕していないはずのロムルスは何者なのか、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケリュネイアは、面白くなかった。

 

 誰も背に乗せずに往く牝鹿は蹄を鳴らす。嘶きは呻き声に通ずるものがあり、その胸中を掻き乱す複雑な感情を感じさせた。

 面白くない。非常に、とっても面白くない。一行の最後尾をノロノロとついていく牝鹿は生誕以来、月女神との一件に匹敵するぐらい内心お冠だった。

 イオラオス。彼はいい。この少年は自分よりも主人との付き合いが長く、その血は薄いながらも僅かに繋がりがあり、ほんの微かに似た匂いもする。近くに居ても不快にならないどころか、イオラオスなら最愛の主人以外で唯一背中に乗せてもいいし、毛並みの手入れをされても不快にならない。主人という例外を除けば、ケリュネイアにとって最も親しい人間だと言えた。

 アタランテ。彼女も……まあ……いい、と言えないこともない。月女神の信奉者に通ずる匂いは不愉快以外の何物でもないが、最近は別の女神への信仰も懐いているようで、嫌な匂いが中和されるどころかいい匂いがするようになった。元々人柄や雰囲気、神獣が読み解く魂の色彩も親しめるものであったし、主人への態度には含むものを感じなくもないが、其れは自分が兄弟たちに懐くものに似ている気がする。だからいい。

 テラモン、テセウス。彼らも赦せる。自分との距離感は程よい。主人に対する態度、心情は群れの首領を敬う立派なものだ。群れの中に置いてやっていい。主人はそこのところが無頓着だから、自分が確りと見定めるのだと自認しているが、そんなケリュネイアの目から見てもこの二人は合格だと言える。

 

 だがヒッポリュテ。この牝は駄目だ。

 

「アルケイデス、実際どうなんだ? お前の勤めは私の持つ戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)をエウリュステウスとかいうのに献上することなんだろう? 私が持っていていいのか?」

「正確にはエウリュステウスの娘だ。それと勤めは『献上』ではない。アレはこう言った。『自分の娘が貴様の勤めに相応しいものを考え出してくれた、アマゾネス族の女王の持つ軍帯が欲しいらしい。ただあんまり早く帰ってくるな。ゆっくりして来い』と。手に入れてこいとは言われたが、献上しろとは言われていない。奴の娘にくれてやるかは直接お前が会ってから決めるといい。以後は私が関知するところではない」

「詭弁だぞ……それは……」

「勤め以上のことをする気がないだけだ。無駄は省く、私のためになるなら労は惜しまんが、そうでないなら最低限のことしかせん」

「そうか……だがそうなるとその娘とやらが余程の豪の者でもない限りは、とてもじゃないが私の至宝を下賜するわけにはいかんな」

 

 いたずらっぽく笑うヒッポリュテは、主人を気安く『アルケイデス』などと呼び、その傍らにぴたりと張り付いて離れない。その顔は完全に幸せ絶頂、蕩けきって腑抜けた家畜のもの。誇り高き獣ケリュネイアはその牝が気に入らなかった。

 ぽっと出の新参のくせして横から嘴を突っ込み、さも発情した畜生が如く主人にすり寄っている。許し難い。度し難い。なんだそれは身の程を知れ。弁えろ、主人に相応しいのは自分と同格か格上のモノのみ。軍神の娘だかなんだか知らないが、自分の前で、こうも馴れ馴れしくされると反吐が出る思いだ。群れから追い出してしまいたい。

 それをしないのは……主人に嫌われたくないから。主人と自分は……種が違うから。主人もやはり……人間がいいのだろう。それは分かるし、最初から報われるとは思っていない。望んでもいない。あの日……救ってくれた主人にケリュネイアは思慕の念を懐いたが、生き物としての種の壁を乗り越えられるものではない。また、乗り越えていいものでもない。道ならぬ想いを懐く自分こそが罪深いと、言語にはならないまでも似た思念を懐いていた。故に、主人が人間の牝と親密になるのを邪魔はしない。自分は主人の近くに居られるだけで満足なのだから。

 

 だが。だからといって、新入り風情に主人を穫られるのだけは我慢できない――!

 

「……? どうした、ケリュネイア」

 

 強引に主人と人間の牝の間に割って入り、人間の牝を黄金の双角で突き放す。

 主人は訳が分からなさそうだ。幾ら以心伝心の仲である主人と云えど、まさかケリュネイアが嫉妬しているとは思うまい。

 

 ケリュネイアは戦が嫌いだ。だって怖い。死ぬかもしれない。主人は無敵だから大丈夫でも、自分はそうとは限らないのだ。戦いに出れば死ぬかもしれない。

 痛いのは嫌だ、怖いのも嫌だ、だけれども今は。この牝がいる間は戦場に出たくて仕方がない。だって戦場に出たら主人は自分に乗る。そうなったら誰も割って入れない。自分は速い、何よりも誰よりも速い。全力で走っている間だけは世界には自分と主人しかいなくなる。二人きりだ。自分が主人を独占できる唯一の時間だ。

 戦場に行きたい。戦いたい。怖いけど頑張って敵を轢こう、傷つくかもしれないけど勇気を出して双角で敵を貫こう。転んじゃうかもしれないけど力一杯青銅の蹄で敵を踏みつけよう。だからそんな牝と仲良くしないで。主人にそんな気はないのは分かっている、けれどよく知りもしない牝が主人に張り付いているのは我慢がならない。

 ましてやどんな理由があったとしても、この牝は主人を傷つけた。今だってお腹の傷は完治してないから凄く痛いはずで、全身にも凄い爆発の痕として皮膚が爛れている箇所がある。鎧と兜で隠してないと、何も知らない奴なら顔を顰めるぐらいには。

 こんなことは赦せたものではない。せめて主人の傷が完治するまでは、徹底的に邪魔をしてやりたくて仕方がなかった。せめてもの意趣返し……八つ当たり……仕返し? なんでもいい。とにかくねだるように、甘えるように頭を主人に擦り付ける。

 

 主人は困惑していた。困らせたいわけじゃない。……ごめんなさい。でも今だけでいいから、どうかお願い、ワガママを聞いて――

 

「……何処かに行きたいのか?」

(………)

「………」

 

 ヒッポリュテは目を白黒させていた。いきなり割って入ってこられて、どうしていいか判断できずにいる。

 

 怪訝そうに主人は目を覗き込んできた。主人は思い出話でネメアーとは明確に意志の疎通ができたと言っていた。けれどお前はなんとなくしか気持ちが分からないとも。

 口惜しい。ネメアーと自分、何が違うのだろう。雄と雄だから? 自分もそうなりたい。牝になんか生まれたくなかった。意志が正確に伝わらないのがもどかしい。だからできるのは、精一杯祈ることだけ。

 

「……狩りに出たい……? だがお前は草食だろう。獲物を狩ってどうする?」

(………)

「いや、狩りではない……戦か? ……何を逸る。無用な戦は望むものでは……」

「……待て。流石はアルケイデスの騎獣だ、この地の異変を察知していたか」

 

 ヒッポリュテは得心がいったという表情で、何やら頷いていた。ケリュネイアは理不尽に怒りたくなる。お前には言ってない。

 そんなケリュネイアの鋭い視線を誤解したのか、ヒッポリュテは感心してケリュネイアの角に手を伸ばした。触れたいのか。だが触れさせない。頭を振って拒絶すると、アマゾネスの女王は苦笑して言った。

 

「この一帯には強大な(ドラコーン)がいると聞いたことがある。そのドラコーンは七つの頭を持ち、十の角をそれぞれが備え、七つの冠を被った赤き竜だ。予言者によるとその竜はいずれ黒海を越え、エーゲ海を渡り、更に向こう側にある軍神の領域に辿り着く。其処で築かれる七つの丘はこのドラコーンの骸である――らしい」

「ほう……」

 

 寡聞にしてそんな竜がいるとは聞いたことがない……そう溢した主人は、ケリュネイアがその気配を察知したのかと探ってみた。

 牝鹿はつぶらな瞳で見詰め返した。すると主人は苦笑いする。どうやらその竜種の存在を感知したわけではなさそうだと。バレてしまっては仕方ない、ケリュネイアは早く行こうとせっついた。

 

「……竜か」

 

 ――ドラコーンとは財宝を集め、護り、近寄る者を殺める災害だ。しかしだからこそアレスの泉の竜やコルキスの金羊の毛皮を守る不眠竜などの例があるように、挑むだけの価値はあるのではないかとアルケイデスは思った。どのみち人様に害なす災いであるのに変わりはない、ならば。

 

 主人はヒッポリュテに訊ねた。

 

「そのドラコーンは財宝は蓄えているか?」

「なんだ、宝が欲しいのか、アルケイデス」

「いやなに、コルキスに遅参したとしても、手土産の一つもあれば申し開きは容易になる。どうせあの男(イアソン)のことだ……国宝と交換できる何某かの宝も入手してはいまい。どうせなら人助けついでにその竜の宝を一部拝借し、コルキスの王への交渉材料にしてやろうと思ったまでだ」

 

 望み通りの戦だ、竜を相手にした、な――主人は臆病な牝鹿をからかうように言って。

 

(竜、かぁ……)

 

 ケリュネイアは少し、後悔した。だって怖いものは怖いから。

 

 ――コルキスを目指す道中、合流するまでのごく僅かな時の中で、アルケイデスとその一行は竜に挑む。尤も……挑まれる側からすると堪ったものではなかっただろうが。

 

 完全装備のアルケイデス、猛き女戦士長ヒッポリュテ、輝ける同行者イオラオス、アルカディアの狩人アタランテ、守勢に長けた大アイアスの父テラモン、知勇兼備なる未来の賢王テセウス。

 綺羅星の如き英雄達に挑まれる、赤竜の心境や如何に。

 ともすると予言の推移は、英雄旅団の襲撃から逃れるためのものだったのかもしれない。

 

 

 

 

 




明言しておくと、ケリュネイアは絶対に擬人化しません。
後世の某国が某媒体で何をするかについては認知しません()

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