ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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7.2 女の情念侮りがたし

 

 

 

 

 

 

 真っ先に疑ったのは己の聴覚。次いで正気である。またぞろヘラの仕業で気が狂ったのかと警戒しかけたが、アテナの加護により自身が狂わぬのを思い出すと別の可能性について考えついた。

 美の女神アプロディーテの忠実な従者、恋心と性愛を司る神エロースである。極めて幼稚で無自覚な邪悪であり、人の心を操り遊んでいた最悪に類する唾棄すべき邪神。機がくれば処すのに躊躇いのない神の一柱。それの宝具である矢にヒッポリュテが射られたのかと疑った。

 ヘラが善からぬことを企て、アプロディーテを介しエロースを遣わして来たのではないか? 疑念でありながら半ば以上そう断定したヘラクレスは憎しみを募らせる。

 しかし募った憎悪はそのままに、はたと思い至った。エロースの権能たる矢は金の矢と鉛の矢である。金の矢を射られた者は最初に目にした者へ激しい恋心を懐き、鉛の矢で射られた者は恋を嫌悪するようになる。だがこの場に神性の発露は感じなかった。ヘラクレスは自身に神の血が流れているからか、多くの強大な神格を目で見、肌で感じたことでその気配を覚え察知できるようになっている。不覚を喫しエロースの気配を見落としたのだとしても、放たれた権能の残滓を見逃すほど間抜けではない。

 

 エロースの権能の気配はない。すなわちヒッポリュテのそれは自身の裡から溢れたものなのだろう。

 

 天を仰ぐ。これが運命やらに仕組まれたものだというなら、運命の三女神モイライとやらはさぞかし性根のイカレた女神なのだろう。八つ当たり気味なヘラクレスの怒りがモイライに向く。しかし流石に理不尽だと自制したヘラクレスは頭を振った。

 現実逃避をしている場合ではない。テセウス、テラモン、メラニーペ、他アマゾネスは当然のようにヒッポリュテの要求を聞いていた。応えて当然といった雰囲気である。アマゾネスなどは流石偉大な戦士長、アマゾネスの女王! とその判断を讃えてすらいる始末。目を白黒させているのはイオラオスだけで、ケリュネイアは歯を剥いてヒッポリュテを威嚇していた。

 

「これが『普通』という奴だ、ヘラクレス」

「………」

 

 アタランテは呆れていたが、驚いてはいない。アマゾネスならそう来るだろうな、と最初から有り得るものと考えていた節がある。考えついていたのなら教えてくれても良かっただろうと、少し恨めしく思った。アマゾネスの習性というか、男とは一夜限りの関係を持つものだと忘れていたのである。つまり貞操観念がガバガバというわけだ。

 ヘラクレスは必死に思考する。ヒッポリュテの要求に、即座に頷く判断ができなかった。価値観が違うと今また強く痛感していたのだ。ヘラクレスは今なお尽きぬ愛情を亡き妻メガラに懐いているが、特別に操を立てているつもりはない。メガラ以上とは言わないまでも、それと同等に愛せる女性に巡り会えず、そしてメガラ以外の女を愛せると思えないでいるだけなのだ。

 

 こんな気持ちで女性と肉体関係を結ぶなど不誠実極まりない。そも、プラトニックな関係しか知らないヘラクレスに、肉食系という比喩がよく似合う求愛は恐ろしかった。

 恐れを知らぬ我が身がはじめて恐れたモノ……それはアマゾネスであるとイオラオスにだけは知られるわけにはいかない。後世まで語り継がれてしまえば一生の恥だ。腹の底から溢れる畏怖の気持ちを押し隠し、ヘラクレスは正直に……出来る限り格好のつく断り文句を捻り出す。

 

「――未だ嘗て授かったことのない、魅力的な提案だ。美しく気高い女王よ、私はその身に触れる栄誉を賜わったことを嬉しく思う」

「そう……だろう?」

 

 受けて当然の賛美にアマゾネス達は誇らしげだ。ヒッポリュテもまた期待を孕んだ目をする。ヘラクレスは気圧されながらも泰然とした姿勢を崩さずなんとか舌を廻した。

 

「しかしその願いは受け入れかねる」

「な――」

 

 続けられた言葉にアマゾネスは騒然とした。ヒッポリュテは驚愕する。断る理由が全く想像できなかったのだ。アマゾネス達は殺気を迸らせる。戦士長にして女王である、偉大なヒッポリュテが至宝たる戦帯を譲る対価だと言ったのに、それを拒んだのだ。

 許せる話ではない。ヒッポリュテの後ろに隠れていた白髪の少女が飛び出してきた。直情な瞳にはこれでもかと憤怒が詰め込まれている。ハッとするほど可憐な少女は、ヘラクレスの許に駆け寄るなり殴りかかった。

 無論鎧を纏ったヘラクレスに痛痒はない。武器に依らぬ打撃であろうとかなりの硬度を誇る鎧は完璧に少女の拳による威力を遮断した。例え鎧がなくともヘラクレスはなんとも思わなかったろうが、打撃が効かぬと悟るなり剥き出しの手に噛み付いてきた少女に目を向ける。

 

「この娘は?」

「……私の妹だ。名をペンテシレイアという」

「ポルテ姉上に恥を掻かせたな、ヘラクレス! 赦せん、赦せるものかっ!」

 

 殺気走ったペンテシレイアは、軍神の血が色濃いのだろう。十代前半の幼い身の顎の力でしかないのに、微かな痛みを噛まれている手から感じる。

 ヘラクレスはしかし、微塵も怒りを発さなかった。ペンテシレイアの暴挙に殺気を霧散させ、顔を青褪めさせたアマゾネス達の脳裏に撲殺されるペンテシレイアの姿が浮かぶ。ペンテシレイア様をお助けしろ! その声が上がる前、ヘラクレスは優しくペンテシレイアの頭に手を置いた。

 大きな手である。すっぽりペンテシレイアの小さな頭が収まるほどに。握り潰す気かと戦慄する女戦士達の予想に反し、最後まで睨みつけてきていたペンテシレイアの頭を柔らかく撫でた。

 

「姉想いの良い子だ」

「……!?」

「だが私以外には控えた方がいい。幼い身では返り討ちに遭おう。――ああ、しかし流石は軍神の御子だ。この私に痛みを感じさせるのだからな。長ずれば侮り難い戦士と成ろう」

 

 ペンテシレイアは困惑した。流石は軍神の御子……その言葉に、何よりも偉大な軍神への確かな敬意を感じたのだ。

 噛み付いていた手を離し、ペンテシレイアはヘラクレスを見上げる。優しい瞳と目が合い、幼い故にペンテシレイアは呆然とした。そこに神たる父の愛に通ずる穏やかさを見たのだ。

 

 ヘラクレスはペンテシレイアの頭に手を置いたまま、彼にとっては充分に有り得る断り文句を口にする。――実を言うと、それこそがヘラクレスに再婚などを躊躇わせる最たる理由でもあった。

 

「私がお前を抱けぬのは、何もヒッポリュテ……お前に魅力がないからではない」

「……では、なんだ? 魅力を感じずとも、私は対価として求めたのだ。相応の訳もなく断るのなら、私も女王としての面子にかけ報いを与えねばならなくなる」

 

 そんな真似はさせないでくれと、ヒッポリュテは声なく訴えていた。

 無論軽い理由ではない。亡き妻メガラへの愛もある、だがそれ以上に――

 

「アマゾネスの女王よ。私が英雄としての偉業を成し遂げねばならなくなった由縁を、お前は知っているか?」

「……? いや、知らない。成した勲については充分に知っているつもりではあるが」

「私は女神ヘラによって狂わされ、愛する妻と我が子を手にかけてしまっている」

「……!?」

 

 ヘラクレスの告白に、ヒッポリュテは顔を険しくさせた。断られた理由を察したのだろう。頷く。

 

「彼の女神は私ではなく、私の出自を憎んでいる。見当違いなものだがな。しかし無視はできん。もしも私が子を成せば、憎悪に駆られた女神が凶行に及ぶ可能性がある。私は戦女神アテナにより狂気を祓う加護を賜った。故に私は狂わぬ。だが、だからこそ女神ヘラは私ではなく私の子を狙うだろう。その母ともなれば無事は保証できん。私の柵に誰かを巻き込むわけにはいかん」

 

 それに――場は沈黙に支配された。

 仕方ない理由だと納得できる。寧ろ自身の快楽を優先してヒッポリュテを抱こうとはせず、己の因果を告げたヘラクレスは誠実そのものだと理解できた。

 ペンテシレイアもだ。バツが悪そうに目を逸らし、自身のおこないが道理にそぐわぬものと判断してぶっきらぼうに謝罪する。

 

「……すまなかった。ポルテ姉上に恥を掻かせる意図はなかったのだな」

「いいさ。麗しい姉妹愛を見れた、お前が後ろめたく思うことはない」

 

 ヘラクレスはペンテシレイアから手を離す。小さな少女はどこか複雑な表情でヒッポリュテの許に引き返す。

 しかし、ヒッポリュテは俯けた顔を、決然とした表情で固めてヘラクレスを見た。

 ……侮っていたのだろう。いやアマゾネスの女王というものを知らなさ過ぎたのだ。完璧な断り文句だと自画自賛するヘラクレスをよそに、ヒッポリュテは断固として告げる。

 

「――訳は理解した。だがそれでも私はお前の子を孕みたい」

「……んんッ?」

 

 間抜けな声が漏れる。ヘラクレスは彼らしからぬ唖然とした面を晒す羽目になった。

 本音を言えば、ヘラクレスはヒッポリュテに大いに魅力を感じている。メガラを知らなければ心が揺れていただろう。

 しかし必死に頭を廻して断り文句を捻り出し、本音を交えて拒絶したのは、あらゆる意味でヒッポリュテの言う対価を承服できなかったからだ。

 

 子を孕ませる。それではい、さよなら……そんな不誠実な真似はしたくない。ヤリ捨て同然ではないか、それは。アマゾネスがどういう部族なのかは知っている。しかし、それとこれとは話は別だ。女だけで子を育てる? 男は部外者なら一夜で別れる? ヘラクレスの価値観としては有り得ない。妻のことがなくとも、である。故に断るのだ。

 だがその程度で退くほどヒッポリュテは弱気な女ではなかった。()()()()()諦めるほど……彼女の恋心は安くなかった。例え誤解から戦闘になり、ヘラクレスに殺されそうになっても、無抵抗のまま最後まで説得を試みるほどに、彼女はヘラクレスに対して限りなく本気だったのである。

 

 女の恋心は執念に似る。そして女の執念は時として道理を超越する。ましてやその女とはアマゾネスだ、さらに言えばその戦士長であり女王なのである。奥手でプラトニックな恋と愛しか体験していないヘラクレスに太刀打ちできる手合ではなかった。

 こういうのを『相手が悪かった』というのである。

 

「女神ヘラが何をしようと構うものか。そんな障害で私の裡にある炎を消すことはできん!」

「は、いや……しかし……」

「私を抱け! 子など出来なくともいいんだ、今は私がお前に抱かれたい! 結果として子を孕む! それだけだ!」

「――――」

 

 完全に気圧される。ヘラクレスは頭が真っ白になった。なんだこれは、なんなのだこれは! 私にどうしろというのだ!? もはやなんと断ればよいか考えもつかない。こうまで迫られなおも断るようだと本格的に無礼である。ヘラクレスには理解できない類の『無礼』だが、少なくとも自分以外にとってはそういうことになるのだとは理解していた。

 一方、困惑していたのはアマゾネスもである。ヒッポリュテのそれが、アマゾネスとして強い男の胤を部族に入れるものではなく、女としての本気の求愛だと漸く悟ったのだ。完全に蚊帳の外に置かれた女達と、ヘラクレスの一行。ヘラクレスはなんとか応じるべくあらん限りの知恵を絞った。

 

「い、一身上の信念がある。勤めとしての性交でないならなおのこと受け入れ難い」

「信念? それはなんだ」

「………」

 

 なんだろう、とヘラクレスは自問した。捏造してたった今生まれた信念だ。口からでまかせとも言う。いっそ清々しいまでに非礼に当たるのだが、これもまたヘラクレスの偽らざる本当の気持ちだった。

 

「……私は嘗て最愛の我が子を喪った。もしもまた子を授かることがあれば、自身の手で慈しみ、独り立ちするまで見守っていきたいと思っている。女を抱くことがあればその者を妻として、最後まで添い遂げたい。故にその二点から、子が産まれればアマゾネスの部族に入り、抱いた女とそのまま別れねばならんそちらの要求には応じられない」

「ならば私はアマゾネスから出よう」

「!?」

「妹のメラニーペに女王の座を譲る。私はお前の妻になろう。子を授かろう。共に慈しめばいい。強き子を育てればいい。……いやいっそのことお前がアマゾネスの身内となれ! そうなれば私はアマゾネスから離れなくともいい、ヘラクレスも信念を通せる。アマゾネスは繁栄するぞ!」

 

 おお、とアマゾネスは声を上げた。トチ狂ったのではないかというヒッポリュテの言に驚いていたが、ヘラクレスをアマゾネスの身内にすると言い出した瞬間に肯定的な雰囲気が出始めていた。

 焦る。焦燥に神経が焼き切れそうだ。しかしなおもヘラクレスは抵抗した。この論戦だけは負けるわけにはいかん! 強迫観念に突き動かされ、ヘラクレスはもうなりふり構う余裕を完全に喪失しテセウスを引き合いに出した。

 

「ま、待て! 冷静になれ! こ、この者は名をテセウスという――」

「……ヘラクレス、何を?」

 

 テセウスは困惑した。いきなり名を出され困惑すること頻りである。

 しかしそんなものに構わなかった。後で冷静になれば自己嫌悪で死にたくなることを口に出す。

 

「テセウスはメラニーペに一目惚れをした!」

「!?」

 

 とんだ流れ矢である。自身の恋心を暴露されたテセウスは愕然とした。だがヘラクレスは止まらない。暴走していた。

 が、結果としてテセウスはヘラクレスに感謝することになる。

 

「メラニーペよ、このテセウスは並ならぬ英雄となる強き男だ。この者の真心は本物だ……どうするメラニーペ!」

「む……」

 

 突如水を向けられたメラニーペはテセウスを見る。テセウスはいきなりのことに戸惑いながらも胸を張って其れに応えた。メラニーペの尋常ならざる殺気が向けられても、テセウスは怖気づかない。それを見てメラニーペは頷いた。

 

「応えよう。テセウスの子を生んでもいい」

「ンンッ?!」

「ヘラクレス! 貴方に感謝を! やはり貴方は僕如きでは測れないっ!」

 

 ヘラクレスはもう訳が分からなかった。しかし光明を見た気がする。

 

 錯覚だった。

 

「ひ、ヒッポリュテ。メラニーペの進退は決まった。彼女に女王の座は譲れば、私の譲れぬ点に抵触するぞ」

 

 支離滅裂だ。滅茶苦茶である。ヘラクレスの一行は、おそらく人生唯一であろうヘラクレスの動揺の激しさに笑いを堪えている。

 しかし頭が茹だっているのはヒッポリュテもだった。ある意味互角だったのだ。

 

「ならペンテシレイアを女王にする」

「ポルテ姉上!?」

 

 今度はヒッポリュテからの流れ矢がペンテシレイアを襲った。意表を突かれ声を上げる末妹を頼もしげに見るヒッポリュテは、末妹がかなり喜んでいるように見えた。

 

 錯覚だった。

 

「わ、私は今勤めの最中にいる。仮に条件を全て満たしたとしても、これが終わらぬ限り前提は覆らん。私は長期間、それこそ何年もこの地に訪れることは出来ないだろう。つまりどう足掻いてもお前とは契れんというわけだ!」

 

 これで論破だといきり立つヘラクレス。しかしヒッポリュテは逆に勝ち誇った。

 冷や汗が吹き出る。まずい――自身の窮地をヘラクレスは心眼にて感じ取ってしまった。

 

「ならばヘラクレス、お前の勤めに私も同行しよう」

「ンンンッ!?」

「いいだろう? お前に付き従う者達もいるんだ、私が入っても構うまい。私の後はペンテシレイアが引き継ぐ。私はお前と共に在れる。勤めが終われば私と共にアマゾネスに戻るもよし、気が済むまで冒険するもよしだ。最終的に私達の子がアマゾネスに入ればいいだけなんだからな!」

 

 反論は!? ヒッポリュテの鋭い目にヘラクレスは息を呑む。何かを言う前に、その間を了承と強引にとったヒッポリュテが手を打ち鳴らした。

 

「決まりだ! 皆、宴の準備をしろ! 今日は目出度い日だ!」

 

 おお! 歓声が上がる。完全に置いてけぼりにされたヘラクレスは茫然自失する。

 笑いを堪えて顔を赤くし、震えながらテラモンがヘラクレスの肩を叩いた。

 

「諦めた方がいい、ヘラクレス。あんたの負けだ」

 

 この身、不敗にして常勝なれば。

 ヘラクレスは往生際悪く言い募った。

 

「ま、まだだ、まだ終わらんよ……!」

 

 負けずの男ヘラクレス。この間に態勢を立て直すべく気を強く持ち直した。

 アタランテとイオラオスは互いに顔を見合わせ、揃って肩を竦めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 




さりげにアテナの加護に言及し、以前のアテナの御手なるスキル発現の条件を満たしにいくスタイル。

なおサーヴァントとして喚ばれる場合、『ヘラクレス』と『アルケイデス』の二つの側面で、条件次第で一方が喚ばれるという感じで抜け穴を考えてたり。スキルと宝具の差別化のため。

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