ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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0.3 語るべきものは何もない

 

 

 

 

「貴方に武術を授ける前に、他にも教えなければならないことがあります」

 

 大真面目に――実際にケイローンは極めて真面目だった――ケンタウロス族の賢者は言った。

 アルケイデスは居住まいを正し、生真面目に聞きの体勢になる。彼がこれほど真剣になるなら、それはとても大切なことである気がしたのだ。

 賢者は語る。此の世で最も重大かつ尊い教えを説くために。

 

「それは、愛です」

「……あい」

 

 あい。それはどういう意味なのか、未熟なアルケイデスは、不覚にもすぐには思い至らなかった。

 だが何故だろう。無性に嫌な予感がする。一歩、詰め寄ってきたケンタウロスの賢者に、アルケイデスは本能的に身構えてしまっていた。

 

「命を慈しむ心、他者を慮る義侠心。己を愛し、己の妻子を愛し、己を慕う者を愛し、時には仇敵の心情を汲み和解することのできる穏やかな精神。それを育むこともまた、師たる者の務め。私は貴方に愛を伝えましょう」

「…………」

「アルケイデス。怖がることはありません。私に身を委ねなさい、さすれば私は、貴方に愛のなんたるかを伝えることができます」

「…………………あい、とは。もしや愛情のことなのだろうか」

 

 ケイローンが歩み寄ってくる度に、一歩、二歩と後退するアルケイデス少年の額には冷や汗が浮かんでいた。

 直感する。これはあれだ、アルケイデスにはどうにも理解に苦しむ、いわゆる高尚な文化というやつである。目上の者が目下の者を導く云々というあれだ。

 ケイローンは我が意を得たりと頷いた。逃れたい一心で、アルケイデスは言った。

 

「そ、それならば、私には無用だ」

「何故です? 一廉の英雄には、とは言いません。立派な男になるには必要なことですよ。愛は何よりも尊い、それを知らずしてどうして名を成せましょうか」

 

 心底不思議そうなケイローンだが、強要する気配はない。そこに一縷の希望を見出して、生まれた時から持ち合わせていた心眼(偽)による活路を切り開く。

 

「あ、愛のなんたるか、私は既に弁えている。師よ、偉大なる賢者よ。愛する心、愛するための術、それらを私は知っているのだ」

「ふむ。しかし知っているだけでは……」

「た、体験もしている。何を隠そう、私は私を慕ってくれる妹をよく導き、慈しむ心を得ているのだ……っ! 故に断じよう、師の手を煩わせるまでもないと……!」

 

 両手を前に出して早口に述べる。アルケイデスの生涯に於いて、ただ一度だけ見せた『待て話し合おう』のポーズである。無様である、しかしそんなことよりも大事なものがあった。無様を晒さない誇り高さよりも、貞操の危機を脱さんとする行為の方が余程重大だった。

 アルケイデスの必死の訴えが届いたのか、ケイローンは残念そうに眉を落とした。端正な顔立ちのケイローンのそれは、ひどく罪悪感を煽るものだったが……彼は残念そう(・・・・)だったのだ。油断は絶対にできなかった。

 

「そこまで言うのでしたら……しかし……むぅ……」

「…………」

「分かりました。しかしもしも愛を見失い、道に迷うことがあったらいつでも言いなさい。私は貴方のためにひと膚脱ぎましょう」

「…………!」

 

 その言葉に、アルケイデスは心底安堵した。

 話し合えば人は分かり合える。対話の尊さを学んだ一幕であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――全ての力(パンクラチオン)は打撃技と組技(グラップリング)を組み合わせた格闘技である。

 掴めば必ず壊す。打てば必ず穿つ。打撃の威力を上げるための呼吸法も実在し、これより千年先に開発されるはずの稽古法『ピリクス』も用いられた。

 げに恐ろしきはケイローンの指導力であろう。弟子入り以前からアルケイデスに弓、剣、槍をはじめとしたあらゆる武器術、レスリングなどによる下地があったとはいえ、アルケイデスはケイローンの指導を受けるなり、最初から知っていたようにして全ての力(パンクラチオン)を習得していったのだ。

 

 ――まるで砂漠に水を撒いている気分ですよ。

 

 苦笑するケイローンだが、アルケイデスは師への畏敬の念を強めていた。何故なら彼は理解しているからだ。

 自身には、己すら持て余すほどの大力がある。生まれついてより持ち合わせていた、常人を遥かに超えた勘の良さがあり、英雄カストルやオイカリア王エウリュトスすらも舌を巻く才気があった。

 しかしそれが故の陥穽があったのを、アルケイデス自身理解していたのである。

 過ぎたるは、及ばざるが如し。……アルケイデスは、強すぎた。鍛えるまでもなく、彼の力は剛力に過ぎ、故にこそ武芸を学び始めるや否や彼は自らを縛らねばならなかったのだ。

 

 殺してしまう(・・・・・・)

 

 英雄という名声を持つカストル、アポロンより弓術を学んだエウリュトスすら、師として仰いだ時点で――まだ齢が二桁になる前からそう悟ってしまった。

 力を抜かねば殺してしまう。彼らが弱かったのではない。脆かった。生き物としての規格が違い過ぎた。その気になって戦っていれば、アルケイデスは二人を叩き殺せていただろう。技量云々の通じる手合ではないのだ、アルケイデスという半神は。

 その二人だけに限った話ではない。身の回りの全てに於いて言えることだった。故にアルケイデスは意識して、無意識でも手加減してモノに触れるようにしてきた。そうしなければ、何もかもを壊してしまう気がして恐ろしかったのだ。

 

 ――だがどうだ。ケイローンは幾らアルケイデスが殴りかかろうと、腕を掴もうと、一向に壊れない。壊す前に投げられ、飛ばされ、打ち据えられる。幾らか実力を着け、マグレとはいえ誤って全力の拳を師に叩きつけた時も、ケイローンは痛そうにするだけで死にはしなかった。

 ケイローンはオリンポスの神々と同じく不死だったのだ。つまり――どれだけ本気でぶつかっていっても、ケイローンは絶対に死なないということである。

 

 これがどれほど嬉しかったか、さしものケイローンにすら推し量れまい。アルケイデスだけの歓喜である。殺しても死なない、壊しても壊れない、その心配をして手加減をする必要がない。

 

「は――ハッ、ハハハハ……!」

「やれやれ……いつまで経っても腕白ですね……!」

 

 アルケイデスの力の解放への歓びは、まさに原始のそれである。その身に流れる神の血が飽くなき闘争の喜悦に浸らせ、六年の歳月を経ても翳る気配はまるでなかった。

 ペーリオン山を舞台に繰り広げられるのは拳舞の宴である。十六歳となり逞しく成長したアルケイデスは、今日も山野を駆けて偉大な師へと拳を振るっていた。

 

 ボッ、と大気に風穴を空ける亜音速の拳撃。自身の頭に迫る面積の拳を、ケイローンは絶妙の見切りで躱す。アルケイデスの拳に手を添えて横に逸し、間合いに踏み込むのと同時に勢いよく反転。馬の強靭な後ろ足が、アルケイデスの胸をしたたかに打ち据えた。

 岩石を蹴り抜いたような衝撃である。人間のみならず、巨人の頭蓋をも蹴り砕くケンタウロスの蹴撃は――しかし、アルケイデスを微かによろめかせただけだった。

 不死ではないとはいえ、アルケイデスの肉体は、彼自身の無双の剛力を捻出するに相応しい強靭さを備えていた。自分自身ですら壊せない体である、アルケイデスの怪力を上回る一撃でなければ彼の肉体を壊すことは叶わない。

 

 だがそれは力で対抗しようとした場合に過ぎない。

 

 怯むことなく瞬時に反撃へ転じるアルケイデスの、コンパクトに纏められた拳撃の雨がケイローンを襲う。しかしケイローンはそれを一つずつ丁寧に捌き、隙を見つけては胸の中心に鋭い拳穿を叩きつけた。

 アルケイデスの顔に苦悶の色が宿る。何度も同じ場所を打撃され、凄まじい頑強さを誇るさしもの半神も、ダメージが蓄積しているのを自覚せざるを得なかった。

 一度の打撃だけでは痛痒を与えられずとも、積み重ねればその限りではない。痛みよりも、何度も打撃を喰らい続けることのまずさを自覚したアルケイデスは、果敢に攻めるだけではまずいと防御にも意識を向ける。

 

 その攻めから守りにやや意識が傾いた瞬間を、ケイローンは見逃さなかった。

 

 一転してケイローンが攻める。守りを考慮していないような逆襲である。アルケイデスは師の教えの通りに、ケイローンの拳を丁寧に捌く。つい先日、二メートルを越えたばかりの体躯からは想像もつかない軽妙な体捌きで。

 やがてケイローンの攻めの手より、僅かな隙を見出した。アルケイデスの目が光る。ケイローンの拳を態と額で受け、カウンターとして縦拳を繰り出したのだ。果たしてその一撃はケイローンの顔面を貫く――

 

「ぬッ……!」

「功を焦りましたね」

 

 手応えが軽い。ケイローンは首を廻して、アルケイデスの拳の威力を完璧に逸してのけたのだ。次の瞬間、ケイローンの体がぐるりと回る。馬脚がアルケイデスの顎先を掠めた。

 それだけで、アルケイデスの視界が揺れる。あ、と思う間もあればこそ、ケイローンが軽く胸の中心を小突いてくると、立っていられず尻餅をついてしまった。

 

「筋力の差が激しすぎて関節は壊せない……生半可な打撃では通じる気配もない、であればやりようはいくらでもあります。これはその内の一つの手管です」

「……参った」

「ええ」

 

 ケイローンは手を差し伸べて、アルケイデスを助け起こした。ケイローンは朗らかに、しかし難物を扱う学者のように苦笑する。

 

「困りましたね……教えることが何もない。最初の一年で全ての武術を吸収され、後の五年はひたすらに私と組み手を続けただけとは」

「貴方のお蔭で、私は楽しめた。感謝しています」

「今では三割負けてしまいますよ。やれやれ……これから何年かすれば、私ではもう貴方には太刀打ちできなくなりそうです」

「………」

 

 ケイローンの言葉に、アルケイデスは沈痛な表情になった。

 悟ったのだ、次に彼が何を言うのかを。

 

「貴方に必要なのは、もう経験しかありません。私だけではなく、もっと別の相手との経験を積めば、アルケイデスは真実無双の大英雄と呼ばれるようになるでしょう」

「………」

「合格です。いえ、語弊がありますね。合格というのならそれは五年前に過ぎている。言い直しましょう……山を出なさい、アルケイデス」

 

 山を使った修行の日々だった。

 組み手をして、狩りをして、武器で戯れる……原始の時間だった。

 一生をこの山で過ごしてもいいと、心の奥底で思っていたのを見通したように、ケイローンは一切の反駁を赦さない断固とした眼差しで告げたのである。

 抗弁は無為。アルケイデスは瞑目し、頷く。荷物はない、去れと言われたのなら今すぐに去ろう。アルケイデスは深く頭を下げた。

 

「……いつか、また。貴殿と過ごしたこの六年は、私の生涯の宝だ」

「貴方は鍛え甲斐のない弟子でした。何せ鍛えるまでもなく最強の存在になるのは見えていた未来でしたからね。――行きなさい、今度来る時は、土産を期待していますよ」

「心得た」

 

 それだけを言って、すっぱりと。さっぱりと別れた。

 唐突な別れである。しかしそれでよかった。そうでなければ、いつまでもここに居座り続けていたかもしれないから。

 アルケイデスは、いつか彼にも恩を返そうと心に決めた。

 

 その決意が、後のトロイア戦争の英雄、その幼年期との出会いを齎すのだが――それはまだ、随分と先の未来の話である。

 

 

 

 

 

 

 


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