ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです 作:飴玉鉛
コレに関しては、マジで悪くはない……いや悪いかもしれないけど、少なくとも悪意はないものと作者にも考えられます。
が、ヘラクレスはアポロンを嫌っております。嫌いな奴が関わると、途端に何もかもあいつが悪いと感じてしまう一種の人間心理が発動したのです。人間味を感じられるヘラクレスの暴走というか、高潔で紳士的なだけではない人間らしさを出そうとした結果の行動でした。
あれ? となった方は正常です。何もおかしくない。でもヘラクレスだっていつも正しい、間違わないわけではないんだよという感じにしたかったわけでありまして、その、なんというか……うん、そういうことなんだ!(曖昧)
死の神タナトスは『死』という概念そのものが神格化した神である。
しかし心が無いわけではない。彼は本来死者を悼み、死後の安息を願う人格神であった。英雄の魂は伝令神ヘルメスが冥府に運び、凡人の魂はタナトスが冥府に運ぶ……彼は自身の運ぶ魂が、神の関与により運命の摂理から外れた死を迎えたのだと感じ取り、せめて死後は静かな世界で安らかに眠れることを祈っていた。
タナトスに休息日は無い。地上で人が死なぬ日など無いからだ。しかしそれでも死者の魂を運ぶ彼が、魂を粗雑に扱うなど有り得ず、冥府への門を開いて魂を連れ去る際にも細心の心遣いで乙女アルケスティスを案内していた。
そうして、タナトスは冥府の玉座にアルケスティスの魂を持ち運ぶ。総ての死者を統べる冥府の王にして神、端睨すべからざる超越者が玉座に腰掛けてタナトスを迎えた。
仰々しい刺繍と宝石に彩られた暗色のローブを着込む彼の神は、雄大な骨格をした大男である。そう――
死の領域を支配する至尊の神。威厳溢れる骸骨の姿の神は、勤勉で生真面目な部下を労う。恐るべき神に相応しい、重圧感のある重々しい声音で。
『戻ったか。ご苦労だったな、タナトスよ』
『は』
『……ふむ。……
ハデスは権能を行使し、死者の魂を裁くために生前のおこないを視た。
悩ましげに溜め息を吐く。肘掛けに立てた腕に顎を乗せ、死を統べし神は嘆かわしい気分で物憂げに呟く。
神に関わったせいで死ななくてもいい者が死ぬ、そんなことは日常茶飯事だ。別段、珍しくもない。しかし珍しくないからといって愉快になれるわけでも、無関心に徹せられるわけでもない。死を迎えたうら若き乙女を悼み、ハデスは裁きを下した。
『この者に罪はない。清らかな心の持ち主だ。せめて安らかに眠らせてやるがいい』
了解の意を示してタナトスは去っていく。この後もタナトスのタイムスケジュールはびっしりと埋まっているのだ。あまり時間を取るのも悪いと考えている。
ハデスは嘆息し、タナトスの背中が見えなくなるのを見計らうと――ガバッ、と骨の手で頭を抱えた。
(――だから人手が足りないって言ってんだろうがゼウスぅ! 勤務時間超過し過ぎて休暇もないタナトスが倒れたらどうするんだ!? 何回も言ってるがいい加減死の神増やせよ女漁ったり胤撒いたりする暇があるならぁ! どうするの? タナトス倒れたら地上には死ねない人間で溢れかえるんだぞ!? そうなったらお前も困るだろうが! というかタナトスばかり酷使するとか胸が痛むんだけど! 胸ないんですけどね!)
ハデスは勤勉で、真面目で、不死であるのを良いことに休みを一時も取らない部下の現状に大いに頭を痛めていた。
冥府やそこの神であるハデスは元より、死そのものであるタナトスは地上で非常に恐れられている。故に多少の暴行にも躊躇いなく踏み込んだり、挑んできたりする者がいるのだ。例えば以前の惨劇なんてひどいものである。死者の魂を回収しに来たタナトスを取り押さえる愚物がいたのだ。
油断して、騙されて、後ろから襲われたタナトスは自由を奪われた。結果として下手人が死なせまいとした者は死ななかったが、死者を冥府に誘うタナトスがいなくなったせいで地上から『死』がなくなってしまい、誰も死なない悪夢のような光景が生まれてしまったのだ。ハデスはゼウスへ厳重に抗議し、タナトスを取り戻して、下手人は相応の罰としてタルタロスに叩き落としてやったが、その後の激務はまさに拷問。余りの仕事量に無いはずの胃が爆発四散したかと思ったほどである。
(ちくしょう……なんだって俺ばっかりこんな目に遭わなくちゃ……いやいや! 辛いのはタナトスだって同じなんだ! ペルセポネに心配は掛けられない……いっそヘカテーをゼウスの馬鹿にけしかけるか? ……だめだ、ゼウスの八つ当たりでひどいことが起こりそうな気がする……ポセイドンなんか役立たずだし……アレスの鼻垂れは拗らせて死者送り込んで来すぎだし……仕方ないのは解るよ? 解るけどさぁ、一日ぐらいお前も休めよ! お前が休まないと俺も休めないんだから! くそぅ、こんなことならアレスを甘やかして、『お前はお前の想う信念を貫くと良い。私はお前のおこないを支持しよう』とかカッコつけるんじゃなかった! でも言わなきゃ駄目みたいな感じだったんだよ……もう駄目だ、ペルセポネに慰めてもらおう……)
意気消沈して、諦める。諦めた。……諦めようとはした。しかし無理だった。
やおらハデスは玉座の肘置きに拳を叩きつけ、内心怒号を発しながら頭を抱えたまま身を捻りはじめる。
(俺だってなぁ! 地上に出て色んなもん見たり触ったり、誰かと話したり遊んだりしたいんだよバカヤロー! ヘラクレスとか意味分からんぐらい信仰捧げてきてるし今の地上マジでどうなってんの!? しかも妻と子供達を安らかに眠らせてくれとか……ふふふっ、あれ、なんか嬉しい……愛情深いのが伝わってくるし、俺を騙して死者を地上に連れ出そうとはしてないみたいだし……みんなヘラクレスを見習えよクソが!)
冥府神は情緒不安定になっていた。是非もなし、おそらく世界で一番激務で仕事環境の劣悪な職場に勤務しているのだから。
24時間営業年中無休、休み時間なしのタルタロスも真っ青な暗黒環境。怒っていたと思えば笑いだしたり嬉しがったり悲しんだりしてしまう。
(こんな
わっ、と泣きが入る至高の三柱の神ハデス。
――そう、彼は疲れていた。
疲労は蓄積される一方で、理解者は少なく、人と触れ合う機会は少ない。故に些細な嘘に騙され、簡単に情に絆され、何度騙されても(今度はきっと……)なんて甘すぎる希望的観測を持ってしまう。
ハデスはとりあえず『愛』の一文字を文言に織り込み説得すれば、九割は騙されてしまい特例の温情を連発してしまう神だった。その度に死そのもので死の神であるタナトスに死にそうな顔で、もういい加減にしてくださいハデス様……と嘆かれてしまう。ちなみに騙されて最も傷ついているのはハデスだったりした。
ハデスは骨の我が身を省みる。死の神としての威厳を出すために偽った姿だが、彼は割と今の姿を気に入っていた。例え他者から邪悪の権化にしか見えずとも、ヘカテーからは『滑稽』と一言で切って捨てられていても、以前仮装パーティーを内々で開いた際に嫁のペルセポネに『似合ってますね。まさに死の支配者です』と褒められたから。
骨神様は呟いた。世知辛く、物悲しく、情けない声音で。
『ペルセポネに会いたい……もう七日も会ってない……ヘカテーのやつ、なに企んでんだよ……冥府内で収めるの割りと大変なんだぞ……』
骸骨で表情なんて無いのに、まるで悲嘆に暮れて涙しているような雰囲気があった。ペルセポネの母性に惹かれる、そんな部分がハデスにはあった。
疲れていた。本当に至高の三柱の神で、主神の兄弟であるのか疑わしいほど疲れていた。仕事漬けの神などハデスを抜かせば太陽神ヘリオス、タナトス、アトラスなど、極少数のみだろう。
――それを。一向に自分に気づかないハデスに、出ていくタイミングを見失ったヘラクレスは居た堪れない表情で見ていた。
(なんだこれは。なんなのだこれは……私にどうしろと云うのだ……?)
初見のハデスの、威厳も何もない姿にヘラクレスは唖然としていた。本人は心の中でしか話していないつもりなのだろうが、小さな声とはいえ表に出ている。故にその心の叫びは総てヘラクレスに聞こえている。他に音のない静寂な世界故にだ。
あれだ、長年人付き合いもなく一人きりで暮らしていたりすると独り言が増えて、それが当たり前になってどこに出ても独り言がなくならなくなるアレだ。そんな本心、聞きたくなかった。ヘラクレスはハデスの本気の嘆きに、頭に冷水を浴びせかけられた気分だ。
流石に勇み足だった。アルケスティスの件でもほとんど勢いで飛び出て、タナトスを尾行して冥府にまで来てしまった。反省する。せねばならない。しかし……。
(いつ声を掛ける……?)
頭が痛い。冷静になると、冥府に命があるまま来るものではなかった。
帰りたいのだが、流石に勝手に来たのに黙って帰るのも悪い、気がする。それに何もしないで帰れば、それこそ何をしに来たのか全く分からなくなるだろう。
若気の至りで流せる年齢は過ぎていた。仕方ないのでヘラクレスは頭を抱えて俯くハデスの前に跪き、少しずつ遮断していた気配を出し始めた。
(………)
『………』
(………)
『………』
(………)
『……? ……うぉわっ!?』
ハデスは微かに感じた違和感に、のろのろと顔を上げる。
すると前方に、金色の獅子の鎧を纏い、白剣を携えた漢がいるではないか。仰天して声を上げたハデスを、ヘラクレスはなんとも言えない表情で見つつ、そっと兜を外す。
ヘラクレスの素顔を見て、その身の血を感じ、更に獅子の鎧を目にして、ハデスの中でこの漢が何者かが導き出される。
『へ、ヘラクレス……?』
「……如何にも。お初にお目にかかる、静謐なる死後の世界の神ハデスよ」
かこん、と顎の骨が落ちて、唖然とした顔をするハデス。顔はないのだが。
しかし流石は神だ。状況を認識すると瞬時に取り繕い、重苦しい空気を発して厳かに言った。
『うぉっほん! ……ほぉ、この冥府に客人か。私に何か用かな?』
「………」
『いや、不法侵入者だったか。ならばもてなす必要はあるまい。ヘラクレスよ、地上に名高き英雄よ。我が死の領域に赦しもなく入るとは何事だ。話だけはまず聞いてやろうではないか。貴様を煮るも焼くも、然るべき罰は後で与えよう』
「………」
『………おねがい、なにかいって………』
威厳が完全に崩壊しているのに必死に取り繕うハデスだったが、ヘラクレスの無言の目に屈服した。その眼がハデスを憐れんでいるものに見えて心が痛かったのだ。
ヘラクレスは別にハデスを弄ぶつもりなどない。先程の本心の吐露で、ハデスは邪神とは程遠い慈悲深き神だと分かったからだ。軽く咳払いをしてヘラクレスは口を開く。暗に『私は何も見なかったし聞かなかった』という体で通すというのだ。ハデスはハッとして、ヘラクレスの慈悲深さに感動した。何気にハデスにとって、最も自身への信仰心が厚いヘラクレスとの出会いは晴天の霹靂で、ヘラクレスと会うことがあればできる限り優しくしてあげようと思っていたのに……これだ。
威厳たっぷりに接するつもりだった相手への醜態にもう泣きたくなっている。
「赦しなく、命のあるまま冥府に参じた非礼、深くお詫びする」
『う、うむ……』
「今はその気はないが、つい先程まで私はアルケスティスの魂を取り戻しに来ていた」
『先程まで……?』
嫌な予感にハデスは震えた。カチャカチャと全身の骨が鳴る。震えた声で訊ねた。
『……いつから居た?』
「……死の神タナトスが御身の前に跪いた時からだ」
『最初からじゃないか!? もしかして声に出していたのか、俺!?』
「それはもう……」
ヘラクレスは錯乱しかけるハデスになんと声を掛けたら良いか分からなくなった。なのでとりあえず言いたいことだけを言っておく。
「血迷ったおこないを、今は恥じている。しかし私が血迷って冥府にまで来た理由を聞いていただきたい」
『うぅ……分かった、聞く。だからこっち見ないで……』
「………」
墓穴があったら入りたい。そんなハデスの様子にヘラクレスはやり辛さを感じつつ、なんとか事情を説明した。
アドメトスとアルケスティスのこと、アポロンとモイライのこと。そして彼はハデスに物申すのだ。それは至極真っ当で、極めて正しい人としての意見だった。
「アポロンに悪気はなかったのだろう。己の罪によってアドメトスに奴隷として仕えていたとはいえ、悪いようにはされず、一年も共に居たから情が湧き……だからこそ善意でやったのかもしれない。しかし神の善意とは人にとって呪いにも成り得る。此度の一件は典型的な例だ。アドメトスの死は、身内の死で逃れられるものとなったせいで、代わりに死ななかったアドメトスの父母は周囲から白い目で見られ、父母も生き延びたアドメトスと気まずくなるだろう。神が関わる故に長く語り継がれかねない上に、アドメトスは最愛の妻の死によって生き永らえたことで罪悪感を懐き生き続けることになる。
アドメトスの運命を知ってしまったが故に、見過ごせば見殺しにした罪悪感でアルケスティスは後を追いかねんし、どのみち見殺しにした形になった父母だけが後に残されかねない。これはどう控えめに言っても呪いの類いだ。例え善意から出た行動であったとしてもアポロンのしたことは赦されるものではない。此度も死ななくても良かったアルケスティスが死に、愛する者を喪ったアドメトスは嘆き悲しむだろう。故に冥府の大神ハデスよ、今後このようなことが起こらないように、御身から厳重にオリンポスへ抗議していただきたい」
『………ん? それだけか?』
ハデスはヘラクレスの長い口上の結びに意外そうにした。その反応こそ意外だったのはヘラクレスの方である。
「それだけ、とは?」
『だから……アルケスティスの魂を取り返しに来た! とか……最愛の妻子に一目会いたい……とか……ほら、そういうのは無いの?』
完全に素であるハデスの問いに、ヘラクレスは心外といった顔と目でハデスを見詰める。それは本心だ。
「死は絶対だ。歪められた運命とはいえ、それは変わらない。血迷って乗り込んできたことに関しては潔く罰を受けよう。……妻と子供達に会いたくないと言えば嘘になる。だが未だ生ある我が身が会うわけにはいかん。そして……その資格もない」
『………』
最後の呟きは聞こえたのか否か。ともあれハデスは、じーん、と感じ入っていた。
死は絶対。当たり前のことなのに、当たり前のこととして受け入れる人間のなんと少ないこと。神までも安易に死の運命を変えようとしたりするし……。死んだのに諦めず生き返ろうとするし……。ここまで潔い者に会ったのは久し振りか……もしくははじめてに近いかもしれない。
ハデスは感動していた。もうヘラクレスは免罪しようと決めてしまうぐらいに。というかまだ生きているヘラクレスを、積極的に罰する必要性を見いだせないのもある。自分のお気に入りを贔屓することは地上や天上の神には珍しくもないのだし、自分だって信徒に慈悲を示すこともあるのだと理論武装した。
其れに言っていることは一々ハデスも共感してしまうものでもあった。上機嫌になったお骨様は腕を組んでしきりに頷き、ウンウンとヘラクレスに賛意を示す。
『よく分かった。お前の云う通りにしよう。だがお前は無罪だヘラクレス。私を恐れず諫言しに来たその忠勤に免じ赦そう。なんならお前の妻子に会わせてやってもいいのだぞ? 遠慮するな』
「いや、それは……」
『固い奴め。だが好ましい固さだ。みんなお前みたいだったらいいのにな……』
さらりと重い台詞である。返す言葉を咄嗟に見つけられなかったヘラクレスを責めるのは酷だろう。
どうしたらよいのか黙っていると、ハデスは思いついたように言った。何はともあれ非は神にある、贔屓の英雄に箔の一つでもつけてやりたくなった神は一計を案じた。
『そうだ、ではアルケスティスを連れて行け』
「……は?」
『死は絶対……しかしなぁ、愛する者同士を神の身勝手で引き裂くのは心が痛む。そこでだ、アドメトスとアルケスティスは同じ日に死するものとして、改めて生き直させてやりたい。お前はアルケスティスを連れて行け』
「は、いや……待った。死は絶対なのでは……?」
『何事にも例外はつきものだぞ。愛は総てに優先する』
「………」
分からなくはない、分からなくはないが……釈然としないヘラクレスである。そんなヘラクレスの心境を読み取ったハデスは笑った。
『ではこれが罰だ。アルケスティスを連れて行け。それで罪を免じてやる……ということにしてやろうじゃないか。なぁに、この夫婦から愛が失われた日も命日となるし、死ぬ時はタナトスが迎えにいく。心配することはない』
「……御身がそう仰るなら……」
ヘラクレスは悟った。ハデスは本当に『愛』が絡むと甘すぎる。弱点と云うか、なんというか、そこだけは厳格になりきれない。
だが悪くない。冷酷なだけの神とは違うのだ。ずっと親しみやすい神なのだと感じられた。甘すぎるのは玉に瑕だが……。まあそこは誰かが補佐すればいい。そしてもし何かがあれば力になってやりたいと思わされる魅力があった。
そうして、ヘラクレスはアルケスティスの魂を取り戻して地上に帰った。
――だがハデスは抜けていた。うっかりしていた。地上でのハデスの風評は最悪の一言であり、ヘラクレスは英雄としての名声を着実に高めていることを忘れていた。
結果、相対的に悪対正義の構図となり、ヘラクレスがハデスと戦いアルケスティスの魂を取り戻してきたのだと噂され、それが事実だと見做されてしまったのだ。
真実は全く違うのに……。しかしまあ……ハデスはそのことを気にしないだろう。元々そういうふうに見られているのは知っている。
故に、今回の一件で後ろめたさを感じるのはヘラクレスだけだった。自分が先走り、血迷わなければ、ハデスの醜聞となることはなかっただろうに、と。
あまつさえ英雄としての名が上がる始末。もうヘラクレスは良心の呵責に苛まれるばかりで、今後は例え嫌いなモノが関わっていたとしても暴走してしまわないようにしようと強く自戒した。
教訓だ。ハデスの名誉に傷を付けてしまったことを深く反省する。今度手が空けば、捧げものを贈ろうと固く心に決めたのだった。
ハデス様書いててなんか、あれ? ってなった。
なんでだ……?