ヘラクレスが現代日本倫理をインストールしたようです   作:飴玉鉛

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0.2 無窮の武をこの手に掴む

 

 

 

 

 

 

 ミュケナイ国はアルゴス地方の影響を受け、後のミュケナイ文明を築くに至る。その文明はミノア文明と同じく地中海交易によって栄え、ミノア文明との貿易によって多種多様な芸術文化が流入した。

 故にミュケナイ国は豊かな都市国家であり、その芸術性は一国民にすら広まって心が豊かになると共に、治安の向上にも繋がることとなるが――しかし。ミュケナイ国の内情は、決して平穏なものであるとは言えないものだった。

 

 というのもアルケイデスの義父アムピトリュオンはテーバイ国に属し、テーバイはアルケイデスの出生の地でもあったのだが、アムピトリュオンはテーバイを苦しめていた魔獣『テウメッソスの狐』を討伐。それによってタポス国やエウボイア国との戦争に勝利した過去がある。その後、アムピトリュオンは誤って嘗てのミュケナイ王を殺してしまったことを契機に追放され、テーバイに身を寄せたのだ。アムピトリュオンはミュケナイへの帰還を熱望し、それがテーバイとミュケナイの蜜月に不穏な空気を醸し出していたのである。

 

 文化的にも栄えていたミュケナイだが、元々は『牛の国』と呼ばれる土地で、豊かな牧場が数多くある。逞しく雄々しい牛は権力者の権威、権力の象徴でもあり、この時のテーバイの王がミュケナイの牛が欲しいと溢したという噂が伝わって、二国間には緊迫した空気が流れていた。

 これを良くない傾向と捉えていたのは、他ならぬアムピトリュオンである。彼はテーバイに追放されたミュケナイの者だが、テーバイにも深い恩義があり、二つの国が争いかねない状況に心を痛めていたのだ。

 そこで彼は一計を案じ、テーバイがオルコメノス国という外敵と戦い一時的に国力を落としてしまえばミュケナイと争うどころではなくなり、そのまま二国間の戦争の気運は消滅すると考えた。

 しかし問題があった。オルコメノスの軍は精強で、テーバイの軍だけでは敗北は必至である。テーバイも大事な国であるから不幸な結末を迎えさせてしまうのは偲びない。心強い味方が不可欠であると彼は思案し、そこである男の存在を思い出した。

 

 自身の義理の息子、アルケイデスである。

 

 半神である彼をテーバイの味方につければ勝利することも叶うはず。ケンタウロス族の賢者ケイローンに預けていたアルケイデスが戻り次第、アムピトリュオンは彼をテーバイに呼び寄せる事にした。自身の生まれ故郷のためならば、アルケイデスもまさか協力を渋りはすまいと考えて。

 そうしてアルケイデスの過酷な運命が廻り始めるのは、彼がケイローンの許で武術を学び始め、六年の月日が流れてのことである。全てはアルケイデスが、テーバイとオルコメノス間の戦争に参加してからであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルケイデスは異様なまでに大人びた少年だった。

 

 生まれついてより持ち得ていた剛力。他者とは一線を画し、両親より疎まれて育った彼の境遇から言えば、自制の利かぬ幼年の身にありがちな癇気によって暴れん坊となるのが自然な流れだったろう。

 しかしそうはならなかった。―――アルケイデスは王家の才ある者として、各地より優れた勇士や学者を招き師として就けられた。中でも太陽神アポロンより弓術を授けられたオイカイア王エウリュトスと、卓越した剣士でもある英雄カストルはアルケイデスを絶賛し、それぞれが『アルケイデスは大人になる頃には自分を遥かに超える英雄となるだろう』と評価した。中でも彼に竪琴を教えたリノスなどは、普段の硬骨漢然とした佇まいを崩してまで褒めちぎってある。

 というのも、リノスの竪琴に対する情熱は比類ない。故に自身の教え子に対しても厳しい指導をし、時には体罰も辞さない性格であった。そんなリノスはアルケイデスが竪琴の扱いを苦手として、なかなか思ったように上達しなかったことに腹を立て、アルケイデスを打擲したのである。

 

 その瞬間、アルケイデスは激怒した。

 

 例え成熟した精神を持とうとも、彼の血の気の多さは半神故に苛烈なものだ。彼の発した凄まじい怒気に周囲の者は顔を青褪めさせ、次の瞬間にリノスを殴り殺す様がありありと目に浮かんだ。

 しかしアルケイデスは我慢した。我慢(・・)したのである。信じがたいことだった。顔を真っ赤にして怒りを抑え、なんとか握り締めた拳をほどいたのである。

 これにリノスは仰天した。彼はアルケイデスが怒り狂って自身を殴り殺すだろうと、体罰を加えた瞬間に悟ってしまっていた。それほどの怒気だったのだ。そして彼がゼウスの子であり、人間を遥かに超える怪力を誇ることも思い出した。殺されることを覚悟し――しかし、彼は怒りを抑えた。まだ二桁の歳にもならぬ少年が、彼のような境遇の少年が、癇癪を起こさなかったのである。

 

 驚嘆すべき自制心であると言えた。

 

 リノスは我に返るとアルケイデスに謝罪し、彼の我慢強さを褒め称えた。冷や汗すら浮かべながら自身を褒めるリノスに、アルケイデスは複雑そうな顔をしたものの、リノスを遠ざける真似はせず最後まで竪琴の扱いを学びきった。

 そうしてアルケイデスは、全く与り知らぬところで評価されることとなる。すなわち『彼のミュケナイ王家のアルケイデス、半神としての荒ぶる力に驕ることなき自制の人である。その精神の気高さは、既にして英雄の其れだ』と。

 

 アルケイデスとしては、一回殴られただけで人を殴り殺すのはいかんと思い留まっただけのことだ。自身の力の強さを知る故に、下手に手を出せば人を死なせてしまうと理解していたが故の我慢だったのである。別に讃えられるようなことをした覚えなど欠片もなかった。

 殴り返さなかった。それだけで称賛されるなど慮外の事態である。数年の時を跨いで自身の評価を知ったアルケイデスは、さぞかし困惑するだろう。そして自分以外の人間の倫理観が、己にとっては野蛮人のそれだと知った時――アルケイデスは何を思うことになるのか……なんであれ、今のアルケイデスには関わり合いのないことである。

 

「はじめまして、私はケイローン。貴方の師となる者です」

 

 ――アルケイデスがその半馬の賢者の許へやって来たのは十歳の頃である。太陽神の弓術、英雄カストルの武器術、アウトリュコスからレスリングを学び、全てを会得した才児であるアルケイデスは、その集大成として偉大なる賢者の許に弟子入りすることになった。

 ペーリオン山の洞窟に住まう彼は、賢者の名に違わぬ本物の智者であった。加えて、彼自身が優れた洞察力を持つことも相俟って、己の下に弟子入りを請いに来た少年にただ事ではない何かを感じ取った。

 

「お初にお目にかかる。私はミュケナイのアルケイデス。我が父母は神ゼウスとアルクメネ。急な訪問にも関わらず迎え入れてくれたこと、深く感謝いたす」

(これは……)

 

 ケイローンは静かに瞠目した。礼節の確りとした所作、王族故に遜らず、かといって傲慢にも振る舞わない態度。

 聞けば十歳だという。――とても信じられない。名君と名高い王や、余程に高潔な英雄でもない限り示さない品がある。しかしその王や英雄、賢臣は裏に打算や一物を抱えていたりするのだが、この少年のそれには一切の不純がなかった。

 

(私に彼を育てろと。……責任重大ですね)

 

 彼は王に仕える賢人の如き佇まいと、神々をも捩じ伏せる剛力を持ち合わせている。それも、生まれた時から。ケイローンが関わらずとも、彼は一廉の英雄となるだろう。しかしもしも自分が彼の力に成れたのなら……並ぶ者のない大英雄、否、ただ英雄であるよりも遥かに価値あるモノとなると、未来を視る眼を持つケイローンは視ずにして確信した。

 

(それにしても……)

 

 見たことがないほどの美貌の少年だった。惜しむらくは、彼の中にあるゼウスの血によって、青年になる頃には見る影もない巨漢となっているだろうことか。

 勿体無い。本当に勿体無い。いや、それはいいのだ。英雄たる男とは筋骨秀でた好漢でなければならないのだから。

 彼を教え、導くのは自分の役割。性にまつわるものも、目上の者として目下の者の手ほどきをするのは何もおかしなことではない。そう、自分が彼を愛し、その愛を以てアルケイデスを立派な男にする。それが自分の使命だ。

 

 アルケイデスは得体の知れない悪寒を感じる。ケイローンの自分を見る目に、艶のようなものがあることに気づいたのだ。早熟であるからこその悟りは、今までに感じたことのない戦慄を未来の英雄に齎した。

 それを気のせいだと思うことにしたアルケイデスである。そんな悍ましいことを、この見るからに紳士なケンタウロスの賢者がするとは思わなかった。

 

「……して、師よ。弟子入りの儀をお受け下さったのなら、まず私は何をすればよいか指示をいただきたい」

「そうですね。私は太陽神より医学、音楽を。月女神より狩猟を教わっていますが、貴方には医や音の心得は不要でしょう。狩猟については少々齧る程度で充分。弓、剣、槍にいたっては……聞いた話ですが、私の教え子のひとりであるカストルが太鼓判を押したのなら専科とするには及ばない。であれば――」

 

 半馬の賢者は薄く微笑みを湛えながら、馬の四肢を動かして無造作にアルケイデスへ歩み寄ってきた。そして手を差し出してくる。握手だろうか。

 握手。それは女神ヘラと女神アテナが交わした友好、あるいは和解の印である。アルケイデスは怪訝に思いながらもその手を取った。この話の流れで握手をする意図が読めなかったのだ。

 大きく、分厚い手の平。ケンタウロスは槍や弓を用いる闘法を主に用いる故か、ケイローンの手もそれに準じるように無骨なものだった。ケイローンはアルケイデスと握手を交わすと笑みを深める。そして、あっ、と思う間もなくアルケイデスの世界が反転した。

 

 トッ、と優しく背中から地面に投げられたアルケイデスは驚愕する。投げられた、と悟る間もない早業だった。ケイローンは柔和に笑みながら、アルケイデスを軽々と助け起こす。

 

「――このような武術を授けましょう」

 

 悪戯っ気のするケイローンの微笑みに、アルケイデスはニッ、と少年らしい笑顔を浮かべた。

 これまで誰からも感じたことのなかった、己より強き者(・・・・・・)であるという確信。それがアルケイデスの中にあった、絶対強者としての驕りを密かに瓦解させたのだ。それはひどく悦ばしく、同時に孤高であった故の寂しさを癒やす妙薬だった。

 そう、寂しかったのだ。

 触れれば壊れる、全力を出せない。強すぎる力を持つがために自身に枷を嵌め、息苦しい日々を過ごしてきた。これで自制する精神がなければ、自身を打擲したリノスを殺し、自由奔放に振る舞っていたことだろうが……アルケイデスはこのギリシアには有り得ないほど、自分の力を厳しく律していたのだ。

 

 ――意味もなく人に暴力を振るってはならない。

 ――人のものを盗んではならない。

 ――みだりに偽りを口にしてはならない。

 ――困っている人には救いの手を差し伸べねばならない。

 

 人としての道徳。言葉にしてみればそれだけのことだ。口にしてみれば当たり前のそれを、アルケイデスは厳格に守っているに過ぎなかった。

 だがそれ故に窮屈で、心の何処かで力を開放する場をずっと求めていたのかもしれない。しかし己の力は強すぎる、人に向けて良いものではない。だから堪えて、自制して……そして今、アルケイデスは今まで一度も出したことのない『全力』を、目の前の男に出しても良いのだと直感した。

 

「師よ。その術に、名はあるのだろうか」

「ええ」

 

 ケイローンは、やはり優しく微笑むだけだ。少年が、自身を師であると認めたのだと察した故に。

 

「たった今、貴方に見せたのは技の片鱗に過ぎません。アルケイデス、貴方に授ける技の名は――全ての力(パンクラチオン)といいます」

 

 ペーリオン山にて。これより後、一組の師弟は毎日のように組み合った。

 アルケイデス。若き日の大英雄(ヘラクレス)。余りにも短い、青春の時代だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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