「待ちたまえ布束君。君に用件があるんだが」
コーイチが自室でレーションと格闘している頃。
廊下で自分のラボに戻る途中の布束は、後から掛けてくる声に内心舌打ちをしながらも振り返った。
彼女を呼び止めた声の主は、ここの人間特有の陰湿な雰囲気醸し出し、布束に笑みを浮かべている。
それは好意的な笑みではなくむしろその間逆、侮蔑の笑みだった。
この男……
確か村越といったか。
布束はこの男が苦手だった。
理由など無い。ただ生理的にこの手のタイプは好きになれないのだ。
常に他人を見下し、出世欲が強く、そのくせ小心者。
好きになる理由を探す方が難しいくらいだ。
「……なんの用ですか? 正直、私からはなんの見当もつかないのですが」
だから手早く話しを終える為に、こちらから用件を切り出す。
「あのイレギュラーとナンバー03とのやり取りはこちらでもモニターさせてもらったよ。まあ、何と言うか……子供のケンカだねありゃ。ナンバー03の精神不安定ぶりはいつもの事として、あのコーイチとかいうイレギュラーも、何で挑発に乗っちゃうかなぁ。……まったく、上もどうしてあんなのを観察対象にしているんだか」
しかし、村越はなかなか用件を切り出さず、先の出来事の不満をグチグチと言い続けている。
この男のクセだ。上司には決して口にしない不平不満を、立場の弱い人間に延々と聞かせてくる。
もちろん聞かされる方はたまったもんじゃない。
内心苛立ちを覚えていた布束は、ついに痺れを切らてしまう。
「……用件、ないんですか? 無いのなら私、急ぎますので」
そういって早足でその場を立ち去ろうとする。
それを慌てて村越は「待ちたまえ」と言いつつ、手で制す。
「……っ!」
肩口に掛けられた手に鳥肌が立ち、思わず払いのけたい感覚に襲われるが、それを必死に押さえつける。
こんな男でも上司は上司。
変に目を付けられてはたまらない。
今は相手の出方を待とう。
そう思い「なんですか」とだけ、口にする。
自分でも低いと思うトーンだった。怯えていると思われて無いだろうか?
「せっかちだなぁ君は。上司にはおべっかでも話を合わせないと。この世界じゃ生き残れないよ。……まあいいや。用件というのはだね。今度行われる実験の日程が決まったって事を君に伝えたくてね。実験開始は明後日の午後19時。場所は第十九学区内の廃工場。対戦相手は我々が懇意にしていた人身売買の組織『イレイズ』。その内の幹部3名。いずれもスタンド能力を有しているらしい」
「……それに、彼らをぶつけるという事ですか」
「そういうこと。恐らくミッション終了時における彼らの生存率は限りなくゼロに近いものになるだろう。まあ、ぶっちゃけ? 上は中古品の在庫処分をしたいのさ。彼らも様々な実験なんかで大分消耗していたからね。ここらが使い潰し時って奴なんじゃないかな?」
そういって村越は下卑た笑みを浮かべる。
「……そう、ですか……」
いつの間にか布束は視線を落としていた。
村越の顔をこれ以上見たくなかったからだ。
だけど、彼を責める資格が自分にあるのだろうか?
かつての自分も同様の実験に加担し、子供たちをモルモットのように扱ってきたのではなかったのか?
今回も同じだ。
実験が終了すれば、また同じような実験が始まるだけ。
シロ達がいなくなれば、シロ達と同じような子供たちがまた補充されてくる。
「……」
「どうした? さっきから黙りこくって。……まあいい。要件というのはもう一つあるんだ。実はこっちの方が本命でね」
だったら早く言えば良いのに。そう思いながら、村越のいう用件とやらを聞く。
暗く沈んだ今の状態で聞ける話だろうかという一抹の不安を覚えながら。
しかし村越の口から出た言葉はやはりというべきか、ろくでもない話だった。
「ナンバー01。訓練中にあの二人の対戦に介入してきたね? あれは非常によろしくない反応だ。彼女に人間らしい反応は必要ない。逆に戦闘の妨げになる可能性が高い。……だから初期化を行いたまえ」
「……え?」
ナンバー01。
シロの事だ。
対戦中に介入とは、コーイチ達を助けたことを指すのだろう。
だが、上層部はそういった人間的な感情は不必要と判断し、彼女の記憶を消去するよう命じてきたのだ。
「今晩から早速執り行いたまえ。後2日で実戦投入を行うのだからな。手早い方がいい」
「……」
「まさかとは思うが、彼らに同情しているのではないだろうね? 忠告だがそんな余分な感情など、ここでは何の価値もない。彼らは人間ではないのだよ? ただの人体実験の献体。実験動物だ。君も余計な感情など捨てて組織に忠誠を誓いたまえ。そうすれば何も感じず、何も苦しまず豊かな生活を送れるというものだ」
そういって村越は「じゃあ、後はよろしく」と言い残し、その場を後にした。
「……そう思えたのなら、どんなに楽なことか……」
誰もいなくなった廊下で布束がポツリと洩らした言葉は、静寂に吸い込まれるように消えていく。
誰にも届かない。
誰もわかってくれない。
多分、異端なのは自分なのだ。
ここでは彼らの言い分が絶対的に正しいのだ。
彼らの言うとおりに実験を行い。
彼らの言うとおりに記録をとり。
対象がいなくなれば、新しい対象を実験に使う。
誰も咎めない。
むしろ研究が成功すると、皆が評価してくれる。
それは出世につながり、より大きなプロジェクトを任される事につながる。
それが正しい。良いことなのだ。
余計なことは考えるべきではないのだ。
罪悪感を抱くことなど何も無いのだ。
「……うっ。……うっ……ううっ」
じゃあ、何故だろう?
何故自分は今、嗚咽を洩らしているのだろう?
悲しいから?
じゃあ、何が悲しい?
何故悲しい?
今まで同様のことを実験対象者に行ってきたじゃないか。それなのに、何をいまさらいうのだ。
心の中で自分を罵倒する声に耳を傾け、一人自問をする。
「……分からない。私は一体、どうしたらいい……」
頬を伝う涙はとめどもなく流れ続け、布束はしばらくの間、自分の感情に身を任せて一人泣くのだった。
■
「昨日はどうもすみませんでした。アズサちゃんがご迷惑をおかけして」
翌日。
ナナミとコータにどうやってコンタクトを取ろうか思案中のコーイチに話しかけてきたのは、そのナナミだった。
今回の訓練に参加しているのは、ナナミとコータ。そしてトールという若干癖っ毛の少年だけだった。
どうやらシロは今回訓練に不参加らしい。アズサも姿を見せていない。
昨日のことで何かお咎めを貰ったのだろうか?
「アズサちゃんを怒らないであげて下さい。彼女は少し情緒不安定で……」
ルイコから事のあらましは聞いていたので「それは全然気にしていないよ、それより二人は顔を見せていないけど、もしかして昨日のことで?」と尋ねてみる。
ちなみに今回ルイコはコーイチと同行していない。おそらく今は、自室でフェブリと仲良く遊んでいることだろう。
布束が言うには、外せない案件が出来たとの事。その間フェブリに寂しい思いをさせたくないので、またしばらく預かってくれとのことだった。どんな案件なのかは尋ねても教えてくれなかったが。
「……アズサちゃんは、あなたに会いたくないみたいです。気恥ずかしくて、どんな顔をすればいいのか分からないって言っていました。シロちゃんは……」
そこまでいってアズサの表情が曇る。視線を落とし、どこか悲しそうな瞳をたたえている。それこそ見ているこちらが申し訳ないくらいに。
「……シロちゃんは現在初期化中です。恐らく、次にあった時はコーイチさんの事は覚えていないでしょう。私たちのことも……」
「え……」
どくん、と心臓がひときわ大きく跳ねた気がした。
「基本的に、戦闘データ以外の記憶を持つことは、私たちには許されていません。それは戦闘を行う際には不必要なものですから……。昨日のシロちゃんの行動は、たぶん研究所の皆さんから見たらずいぶん異質なものに映ったのでしょう。昨日から初期化の手続きが布束さんの手によって行われ、実行中と聞きました」
外せない案件……。
これの、ことかよ。
思わずこぶしを強く握り、怒鳴りちらしたい気持ちを押さえつける。
「……異質って、なんだよ。仲間が間違ったことをしたら止めに入るのがそんなにおかしなことなのか? それは人間として当然のことだろうに。命令に忠実な人形でいろってか? そんなこと人が強要することじゃないだろう!?」
しかし湧き上がる怒りは言葉としてあふれ出て、結果としてその場にいるナナミに当り散らすことになってしまった。
「……」
ナナミはそんなコーイチの暴言を目を閉じしっかりと受け止め、
「ありがとう」
と感謝の言葉を口にするのだった。
「な、んで?」思わず疑問の言葉が口から出る。
わからない。何故ナナミはお礼の言葉など?
酷いことを言ったのは自分だ。それなのに何故感謝される?
その疑問に答えるように、ナナミが優しい口調で答える。
その自愛に満ちたような笑顔は、自分より年下の少女とはとても思えない、とても落ち着いた貫禄のあるものだった。
「見ず知らずの他人の為にそこまで怒ってくれたのは、恐らくあなたが初めてです。シロちゃんはこの場にいませんが、多分、その言葉を聞いたらきっとこういったと思います。だから私が代わりにお礼を言わせて貰います」
「そんな、僕こそ君に当たってしまって……」
「いいえ。さっきのは当り散らすのとは違います。純粋に私たちの為を思って怒ってくれたのでしょう? 誰かの為に怒ることの出来るあなたは、とても素敵だと思いますよ」
コーイチを真正面から見つめるナナミ。
その嘘偽りの無い純真なまなざしについ気恥ずかしくなり、コーイチは思わず視線をはずしてしまう。
「照れてるの」
いつの間にかナナミの後にいたコータが、コーイチを指差して「照れてるの」と連呼する。
「本当。照れてますね。ふふっ。顔が真っ赤です」
「……やめてくれよ。恥ずかしくて顔が見られない」
ナナミの笑みにとうとう我慢できなくなったのか、コーイチは彼女達とは正反対の方向へと背中を向けてしまう。その動作に「可愛い」とクスクス笑みを洩らすナナミとコータ。
……まいったな。これじゃどっちが年上か分からないや。
ばつの悪そうな顔をしながら、しばしコーイチは二人のクスクス笑いに晒されるのだった。
■
「ちょっと良いかしら」
トレーニングルームと外を隔てている重いドアが開く。
ナナミとコータとの合同訓練を終え、一息入れていた彼らに対し声を掛けてきたのは布束だった。
「布束さんっ。アンタ!」
布束の顔を見るなりコーイチは彼女に詰め寄り、問いただす。
「シロは! あの子の記憶を消したって、本当なのか!?」
「……」
布束は答えない。
目線を逸らし、コーイチと顔を合わせようとしない。
それだけで合点がいった。
「……本当、なんだな? どうして、そんな……」
ガクリと、力なくうなだれる。
分かっている。
彼女には彼女の立場というものがある。
ここで逆らえば、どんな扱いを受けることになるのか、そんなことは十分に分かっている。
だけど、それでも、彼女にはNOといって欲しかった。
シロを助けて欲しかった。
「ナナミ。コータ。上層部からの命令を伝えます。明日。午後19時より実験を開始とする。生存率は限りなくゼロに近いものになるでしょう。この戦いに降伏はありません。敵を殲滅するまで、あなた方が解放されることはありません。全身全霊で任務を全うせよ。以上です」
淡々と例文を読み上げるような布束の態度にコーイチは怒りを覚えた。思わず襟首を掴み、罵倒したくなる。だが、その右手が襟首を締め上げることは無かった。
「いいんです。コーイチさん。これが私たちの運命なのですから」
ナナミがそっとコーイチの右手に手を添えて、やんわりとそれを阻んだからだ。
彼女は少しだけ悲しそうに眉をゆがめ、それでもコーイチに対し笑顔を浮かべてくれた。
その笑顔がとても辛そうで、思わず胸が締め付けられる。
「ナナミ。コータ。付いて来なさい。これから処置室にあなたたちを連れていくわ」
「処置室?」
その単語を聞いてコーイチははっとする。
まさか……
シロと同じようにこの二人の記憶も……
「ご明察。あなたの考えているとおりよ」
「あんたはっ!」
携帯していたエフェクトを抜き、布束の首筋に突きつける。
それをまるで意に介さず受け入れる布束。
「言ったでしょ。私に人質としての価値なんて無いって」
その表情には動揺の後はまったく見られない。やがて彼女は突きつけられたエフェクトを素手で握り締め「ね? 誰も来ないでしょ?」と自嘲気味な笑みを浮かべた。
握り締めた手から鮮血が滴り落ちる。
誰も、来ない。
逆上し、危害を加えようとしたのに……
誰も、何の反応もしめさない。
こちらを見ている人間がいるにもかかわらずだ。
それはまるで、「やるならお好きに。君が何をしようと、そこで何人死人が出ようとかまわない」そういわれている様だった。
やがてコーイチの手が緩み、エフェクトがカランと乾いた音を立てて床に転げ落ちる。
「……間違ってる。なんだよ、これ。こんな世界、僕は認めない。人間が、人間に対してこんなことをして良いはずがないんだ……」
「だけど、ここではそれが真実なの。社会的弱者は圧倒的な強者の前によってたかって喰いものにされる。生き残るためには自分が喰う側に回るしかないの。事実、私はそうやって生き残ってきたもの」
血が滴る右手を白衣のポケットにそっと隠す布束。しかしその部分は次第に血が染み出し、真っ赤に染まっていく。
ナナミが「傷の手当を」と言って駆け寄るが、布束は「気にしないで」とその申し出を断る。
「……時間を無駄にしたわ。それじゃ、行きましょうか」
そういってナナミとコータを伴って扉から出て行く布束を、もうコーイチは引き止めなかった。
仮に引き止めることが出来たとしても、それは何の意味も持たないことだと理解したからだ。
結局、ここで出来ることなどありはしない。
この閉じた世界では自分と言う存在はあまりにもちっぽけだ。
そんな無力感に襲われているコーイチに声を掛けたのは、意外にも布束だった。
「コーイチ。あなたも来なさい。あなたの精神は若干不安定よ。鎮静剤を処方してあげるわ」
「……」
「ナナミもそれを望んでいる。記憶の無くなる瞬間まで、あなたと話がしたいと言っているけど、それを無碍に断る?」
「……そう、なのか? ナナミ」
ナナミは、はにかみながら「はい」とはっきりとした口調で答える。「たとえ短い時間でもいいんです。廊下を歩く少しの時間でもかまわない。私は、もっとあなたとお話しがしてみたいんです」そう言ってコーイチの片手を取り、両手でそっと包み込むようにして握り締める。ほんのりとした暖かさが手のひらから全身に伝わるように流れてくる。
「何故だろう。君の言葉は温かくて、とても嬉しいはずなのに。悲しくて仕方ないんだ」
ナナミの顔を、コーイチはまともに見れなかった。
見るときっと泣いてしまうから。
ナナミ。
君とはもっと別の形で出会いたかった。
街中で、学校で、こことは違う明るい世界で、普通に出会いたかった。
そして本当の友達に……
「……一緒に、行きます。最後の瞬間まで、ナナミ達につきそいます」
布束に同行する旨を伝える。
感情の抑揚がない声だったが、かろうじて布束に聞こえたのだろう。「行くわよ」とだけいうと、後ろも降り返えらずにそのまま部屋を出て行く。
「行きましょうか?」
「……うん」
ナナミに促され、布束の後を追うためにドアを出る。
握られた手を離さないよう、しっかりと握った。
か細く、暖かな手のひら。
このぬくもりも脈打つ鼓動も、全て彼女が生きていると言う証だ。
しかしそれも残りわずかだ。
あと一日。
それで全て終わりだ。
ナナミも。
コータも。
ルイコも。
シロも。
全員死ぬ。その中には自分の命も含まれている。
……嫌だ。
死ぬのは、嫌だ。
唐突に死への恐怖が頭をもたげる。
しかし、何の打開策も見つからない。
見つからないまま、時間だけが過ぎていく。
コーイチは地に足が着かない、まるで奈落の底に落ちていくような感覚を味わいながら歩を進めていた。
■
到着した先は、処置室とはまったく違う場所だった。
扉にはネームプレートがついており、そこには「布束」と記入されている。
「……ここまでは予定通りね」
布束がそう言ってドアを開ける。すると中からは少女達のかしましい声が聞こえてくる。
「わはっ。またまたフェブリのかちー。ルイコが最下位ー。ルイコよわーい」
「うがあっ!? なんで? 3人とも強すぎない? 何で一回も勝てないわけ? 詐欺よ詐欺!」
「神経衰弱は記憶力と集中力が必要不可欠なゲーム。ルイコさっき同じカードを捲っていた。それが敗因」
「ププッ。ルイコ記憶力鳥並み? 忘れっぽい? そんなんじゃ私たちに何度やっても勝てやしないわよ?」
場違いな。
あまりに場違で能天気な空気が室内には漂っていた。
室内にはルイコ、フェブリ、シロ、アズサの四人がおり、彼女達はテーブルでトランプに興じていた。
「どゆこと?」
「さあ……。どうしたことでしょう?」
あまりの光景にコーイチとナナミはしばし目が点になった。
何で記憶が消されたはずのシロがここにいて、ルイコ達とトランプしてんだ?
しかもなんでアズサも?
フェブリとルイコも?
たくさんの「?」が頭の中に浮かんでは消えていった。
「あなたたち。おとなしくしていなさいって言ったでしょ? 緊張感が無さ過ぎる」
室内ではしゃぐ彼女達に呆れ顔になる布束は、ボーゼンと佇むコーイチ達を「何をしているの。早く入りなさい」と強引に部屋に連れ込み、室内のドアを閉めた。
「だってぇー。フェブリ退屈だったんだもんっ」
ほっぺたを膨らませて文句を言うフェブリ。それをよしよしと頭を撫でなだめているのはルイコ。
シロは自室の冷蔵庫に保管してあったプリンを拝借し試食中。アズサはコーイチと目が合うなり「あ、謝らないからね!」と何故か顔を赤らめ怒ってきた。
「……ちょっと待て。現状が飲み込めないんですけど。よく分かるように説明してくれませんか?」
「シロちゃんは? 初期化中ではなかったのですか?」
コーイチとアズサは布束に視線を移し、現状を把握しているであろう彼女に説明を求めた。
「あれは嘘。ブラフよ。確かに上層部から記憶を消去するよう言われたけど、私にはどうしても出来なかった。だから、機械に出鱈目の数字を入力して、記憶を消したように見せかけたの。もともとシロは感情が表に出るタイプじゃないしね。連中には不自然に思われなかったわ」
布束は怪我をした右手に包帯を巻きながら、事も無げにそういった。
「じ、じゃあ、トレーニングルームの一件も?」コーイチが尋ねる。
「あの時は完全な監視状態。会話は全て筒抜けだった。だから完全にこちらが従っているふりをしなければならなかったの。あなたがエフェクトを突きつけた時はどうしたものかと思ったけど、説得に応じてくれて助かったわ」
「そ、そんな……」
包帯を巻き終えた布束の手には、うっすらと薄く血が滲んでいる。
事情を知らなかったとはいえ、女性の手のひらに傷をつけてしまった。
とたんにコーイチは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
それを察した布束がフォローを入れる。
「気にしなくていいわ。こんな傷、すぐに治る。それよりもこれからのことを話し合いましょう」
傷を負った部分を手でさすりながら、その場に居る全員に目を通す。
「シロ、アズサ、ナナミ、トール。あなたたちは他の三人に比べ、話がしやすい。こちらの事情にも一定の理解を示してくれる。だからここに呼びました」
布束はソファに腰を下ろすと、はっきりとその言葉を口にした。
「コーイチとルイコ。そしてフェブリ。彼らと一緒に、外の世界に行ってみたくない?」
その言葉は組織への反逆を意味する言葉。
彼らと共に、外の世界へ逃げろ。布束はそう言ったのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
最初に戸惑いの言葉を口にしたのはアズサだった。
「そ、そりゃあ。外の世界には憧れを持っているけど、いきなりそんなことを言われても、私、どうしたらいいか……。布束っ! 分かってんの? これは立派な反逆行為よ!? ばれたら粛清対象よ!? いいの? あんたはそれで?」
そういいながら落ち着きなく目を泳がせる。
無理も無い。
これまで壁の中に閉じ込められてきたような生活を送ってきたのだ。
それがいきなり壁の外に逃げろと言われて、「はい。そーですか」という訳には行かないだろう。
「だけど、生き残る可能性は出てきますね。明日の戦闘における生存率は九割を切っていると聞きますし……。私、出来るならまだ死にたくありません。もっと生きていたいです」
アズサの言葉を受けてナナミがはっきりと自分の意思を主張する。
コーイチはついナナミを目線で追ってしまう。
彼女の手を握ってからどうも調子がおかしい。
彼女を見ると胸が高鳴り、いつの間にか視線を合わせてしまう。
もしかして、これは恋なのだろうか?
人が恋に落ちるのに年数は関係ないという。出会った瞬間、目と目が合った瞬間に人は恋に落ちるのだと言う。
それが本当だと言うことを、コーイチは身をもって知った。
しかしわずか数日だと言うのに自身に起きた変化が信じられない。
「……あ」
不意にナナミと視線が合う。
ナナミは力強い視線をこちらに送り返す。
生きたい。
生きていたい。
その瞳は生命への渇望を確かに望んでいた。
そうだ。このまま死ぬだなんてごめんだ。
恋を知ったばかりだと言うのに死んでたまるか。
絶対に、生き残る。
コーイチはナナミの瞳を見てそう決意した。
「あたしだって死にたくない。自分の事も分からないまま、こんなところで死んでやるもんか! 絶対に生き残ってやる。シロだってそうだよね?」
ルイコもこのまま死ぬのはごめんだと息巻き、シロに同意を求める。
「死んだら、プリンが食べられなくなる。それは嫌。もっとおいしい、世界中のプリンが食べたい」
死にたくない理由がそれなのはいささか疑問だが、シロも同意見のようだ。
残るコータも「ン」とだけ言うと親指を立てる。「了解」という恐らく意味だろう。
「うううう~~」
彼らの意見を聞いていたアズサは先程から犬のように唸り声を上げると、やがて観念したのか「わかったわよ! やるわ! やってやろうじゃない! 私だってまだやりたい事だってあるんだから!」そういってほえるように叫んだ。
「しー! 静かにっ」
「むがっ!?」
慌ててルイコが両手でアズサの口を塞ぐ。
その様子がおかしくて、コーイチはつい笑ってしまう。
「フフフッ」
隣を見るとつられてナナミも笑っていた。
ふいに、先程のアズサの言葉が思い出され、ナナミに尋ねたくなる。
「あのさ、聞きたいことがあるんだ」
「どうしたんですか? 藪から棒に」
ナナミはきょとんとした瞳でコーイチを見る。
「ここを脱出できたとして、ナナミはやりたい事とかあるのかい? どんなことがしてみたい?」
「やりたい事、ですか?」
そういうとナナミは「そうですねぇ」と少々考えるしぐさをする。
やがて、人差し指を口に当てると「ないしょです」と悪戯っぽく笑った。
「えー!? なんだよそれぇ」
「ふふっ。ごめんなさい。でも、やっぱり内緒です。だって……」彼女は困り顔でテーブルに視線を落とす。「叶わないって、知っていますから」
「それって、どういう……」
しかし、その言葉は最後まで言えなかった。全員の同意を得たと解釈した布束がプランの説明を始めたからだ。
「現在、私たちのいるフロア全体に、ダミーの監視カメラの映像を流している。恐らくあと数時間なら発覚しない。脱出するなら今が好機って訳。でも問題が一つある」
「問題?」
アズサが疑問を口にする。
「現在位置はナカタ製薬会社。その地下一階。上のフロアに向かうためにはどうしてもゲートを通る必要がある。だけどパスコードは毎時間ごとに変更されて、おまけに武装した監視員も居る。だからシロ達には、彼らを無力化して欲しいの」
「それはお安い御用。でもパスコードは? あまり解析に時間は取られない。もたもたしてたら皆一網打尽」
シロがもっともな疑問を口にする。確かにゲートが空けられなければ脱出することが出来ない。
パスコートを知っている人間を探し出し人質にする?
しかしそんなことは無意味だとコーイチ達は知っている。
必要なら誰であろうと切り捨てる。
それがここの組織だ。
「そうよ! その問題を解決できない限り私たち逃げられないんじゃない? 布束っ。対策はあるんでしょうね?」
アズサが重大な欠陥を見つけてしまったと言わんばかりの表情を浮かべている。
しかし布束は動じない。ふいにフェブリに視線を向けると目を細め、薄く笑う。
「対策はある。フェブリの能力を使う」
「ふぇ?」
いきなり自分に話題を振られ、フェブリが「なにごと?」という表情を浮かべる。
「フェブリの能力?」アズサが疑問の声を上げる。
「そう。この子には特殊な能力が備わっている。スタンドと呼ばれる特殊能力」
スタンド?
コーイチはエフェクト使用時にシロから受けた説明を思い出す。
確か、人間の精神エネルギーを具象化したものだとか何とか……
『陽炎』も『雷電』も元は誰かのスタンドを抽出し、複製したものらしい。
それがフェブリにも備わっている?
「それで、フェブリのどんな能力で現状を打破しようと言うの?」
「それは……」
「そこまでだ諸君」
唐突に室内のドアが開き、アズサの疑問に答えようとした布束の声をさえぎる形になる。
入ってきたのは知らない男だった。
研究服を着ているこの男は陰気な雰囲気をまとい、薄ら笑いを浮かべコーイチ達を凝視する。
「村越っ!? 早すぎるっ。どうして?」布束が驚きの声を上げる。
「相変わらず、目上の人間に対する敬意がなってないね。……まあいい。君が彼らに思いのほか肩入れしているのは知っているからね。何かやらかすんじゃないかと警戒していたんだよ。それで注意深く監視していたらこの有様だ。くくくくっ。君はどうやら破滅的な人間らしい。こんなことをして、ただで済むと思っているのかい?」
村越と名乗る男は白衣のポケットからなにやら取り出した。
「?」
その場に居る全員がそれを凝視する。
それは携帯用の電子手帳と同じほどの大きさで、何らかの突起物がついている。
リモコンのボタン?
コーイチがそう思った瞬間、村越はそのボタンに手を掛ける。
「強すぎる実験体には予めこういう処置が施してある。反乱等起きっこない。何故ならそういう輩を従えるすべを、我々は持っているのだから」
「まさか、それは!?」
布束の悲鳴のような声を聴いたその瞬間に村越はボタンを押した。
「っ!?」
それはまるでテレビのリモコンで電源を落とすようだった。
ブツリという音を聞いた瞬間。
コーイチの意識は漆黒の闇の中に消え去っていった。