「被検体A。脈拍、呼吸共に正常。状態に異常なし。精神異常も認められない……。採血する。どっちでもいいから腕を出して」
自分のことを布束と呼んだ女性(幼女)はまるで学校の保険医のようにコーイチを診察すると、携帯型の機器に何かを記入する。そしてそれが終わると注射器を取り出しコーイチから血を抜き取る。
「……っ」
二の腕に鈍い痛み。
注射針から、血液が抜き取られ容器に真っ赤な血液がたまっていく様子を、コーイチはぼんやりと眺めている。
コーイチは先程から従順に布束の指示に従っている。先程、彼女からかけられた言葉から、今はおとなしくしていたほうが言いと判断したためだ。
――――今から1時間ほど前。
コーイチ達が閉じ込められていた部屋から出る際。彼女は自分たちにこういったのだ。
「……分かっているとは思うけど、抵抗はしないほうが身のためよ。お互いのね。どの道ここからは逃げられないし、私に人質としての価値もないから。おとなしく協力してくれると助かるわ」
布束はコーイチとルイコに釘を刺したのだ。そしてそれが冗談ではないということが、部屋の外に出て分かった。
「こっちよ。ついてきなさい」
布束は顔をしゃくりコーイチたちについてくるよう促す。
「ほんじゃ、また」
「……」
リクとシロはコーイチ達に軽く会釈をして、反対側の通路へと歩いていく。
あの7人の子供たち。
彼らは一体なんなんだ?
結局、彼らの正体は分からずじまいだ。
彼らの姿を見送りながらコーイチは、自分たちが何かロクデモない事に巻き込まれている感覚を味わっていた。
(それにしても……)
トテトテと前方を歩くさまはやはり幼女のそれだ。
しかし、それを口にすることは絶対にない。
そんな台詞を一言でも言おうものなら、瞬時に伝家の宝刀ローリングソバットがコーイチの後頭部に決まるのは目に見えていたからだ。
ルイコもそれが分かっているから先程から何も言わない。
いや、ほんとは言いたくてしょうがないのだろうが、あえて我慢している。
(これから、どうなるんだろ)
漠然と不安を感じながらも、今のコーイチ達は布束の後を着いて行くしかなかった。
白く無機質な廊下をしばらく歩くと、そこには巨大な実験室が見え始めた。
少なくともコーイチの目にはそう見えた。
分厚い透明のガラスの向こうでは、白衣を着た男女の集団が良くわからない実験を行っている。
「う、わぁ……」
コーイチは思わず呻いた。
実験室では高速具に縛られた男性に対して、なにやら怪しげな薬品を投薬されている。その男性は拘束から逃れようと、しきりにかぶりをふっていたが、薬品が体内に入ると今度は逆におとなしくなり口から泡を吐き始めた。
その凄惨な光景に、コーイチは思わず目をそらした。しかしそらした視線の先でも怪しげな実験が繰り広げられている。
今度は動物実験らしかった。
対象の動物はチンパンジー。
やはり全身を拘束されている。内容ではこちらのほうが凄惨だった。
チンパンジーは頭部を切開され、むき出しになった脳にピンクや黒色のコード、そして電極が差し込まれている。
その電極の先では白衣の男性が、良く分からない機器を操作する。そのたびにチンパンジーは、通常ではしないような笑い顔や泣き顔を作り出し、その様子を別の研究員がカルテに書き記している。
コーイチは周囲を見渡す。
透明ガラスの向こうでは、そういった類の実験室が至る所に設置され、非献体に対し様々な実験が試みられているのだ。
「な、なんで……こんな、こと……」
コーイチは足をよろめかせ、後ずさる。
少しでもこの光景から遠ざかりたかったからだ。
そこで後ろを歩いていたであろうルイコにぶつかってしまう。
「ご、ごめ……」
コーイチが後を振り向き謝罪しようとするが、その時のルイコの表情を見て口を閉じてしまう。
ルイコは歯をガチガチと鳴らし、顔面蒼白でガラス越しの光景を見ていたからだ。
「抵抗しなかっただけ、あなたたちはまだましね。おかげで最後の時まで穏やかに過ごせるもの」
布束はそういってふと寂しそうに視線を落とした。何か思うことが彼女にもあるのだろうか。
「僕たちに、何をさせようって言うんだ」
コーイチは恐怖で体を震わせるルイコの体を抱き、尋ねる。
布束は本当にごく自然に、当たり前のように一つの言葉を紡ぐ。
「殺し合い」
それがどんな意味を持つのか、コーイチ達が理解するのにはまだしばらくの時間が必要だった。
■
「検査は終了。今日はとりあえず休みなさい。今個室に案内するわ」
実験室の一室。採血を終えたコーイチに布束は事務的にそう答える。
この一室だけほかの実験室とは違い少々こじんまりとしていた。
内装は知らない薬品が納められた棚と、見慣れぬ電子機器。きつい消毒液のにおい。それ以外は学校の保健室を思わせるようなつくりだった。
後は透明ガラスがなきゃ完璧なのにな。コーイチはそう思った。
こちら側からは見えないが、大多数の人間に確実に監視されている。そんな視線をコーイチは感じ取っていた。
その時、部屋のドアが開く。
そこから現れたのはルイコだった。
ルイコは顔を真っ赤にしながら、ややうつむき加減でこちらを見ている。
やはり彼女もコーイチと同じように裸にされ、様々な身体検査を受けさせられたらしい。
その瞳は恥ずかしさのあまり涙で潤んでいた。
きっと女の子にとってこれほど屈辱的なことはないんだろうな。
「やあ。君も今終わったの? 今日の検査は終わりらしいから、早く行こう?」
だからコーイチはあえて鈍感を演じ、その場を離れようと椅子から立ち上がった。
だが最後に、どうしても聞いて置きたい事があった。
布束を見つめ、詰問する。
「あなたは、どっち側の人間なんですか?」
敵か、味方か。
自分の足場さえ定かでない現状で、これだけは確認しておきたかった。
「……」
布束は表情を変えない。いつもの仏頂面だ。
最初コーイチはその表情が、自分たちに無関心な実験動物を見る目だと思っていた。
だが、違った。
違うように思った。
自分たちに接するほかの研究員とは違う視線。まなざし。態度。
その微妙な差異を、コーイチは感じていた。
布束はしばしの沈黙の後。
「その質問は、nonsenseね。私もあなたたちと同じ。ゲーム盤上のただの駒の一つに過ぎない。私はただ、自分に与えられた役割を演じるだけ」
そういってジト目でコーイチ達を見つめ返してくる。
その顔の意味するところは、諦め。
すべての事を放棄して、ただ黙々と自分の役割を演じている。
コーイチにはそう思えた。
「この実験の全容は私も知らされていない。私はあったこともない上層の人間の指示に、ただ従がっている。そこに疑問を挟む権限を、私は与えられていない……観察と経過報告。私が与えられたのは、ただそれだけだもの」
「殺し合いって何ですか? いつ、誰とやりあうんです? それに何の意味が?」
この際だから聞いておきたかった。手にする情報は少しでも多いほうがいい。
コーイチは矢継ぎ早に布束に質問してみる。だが返ってくる質問は、「わからない・知らされていない」
それだけだった。
「ただ――」布束は最後に一つ付け加える。「もし、あなたたちが生存率を少しでも上げたいのなら、effectを使いこなしなさい。そこから、チャンスが生まれるかもしれない」
「エフェクト?」
新たに出てきた単語に、コーイチとルイコは首を傾げざるを得なかった。
■
案内された個室は、ビジネスホテルのような造りだった。
そのかわり何もない。
室内はかなり質素だ。
簡易ベッドと毛布。テーブル。
漫画や雑誌など娯楽用品の類は一切ない。
誰が植えたのか、観葉植物が植木鉢に植えられているのが唯一の慰みか。
ルイコはいない。コーイチより先に個室に案内されたからだ。
今頃は自分と同じ質素な部屋に同様の感想を抱いているに違いない。
後で尋ねてみようかな。
コーイチがそんなことを考えていると、布束が別れの挨拶を切り出す。
「それじゃ、また明日」
布束はそういって立ち去ろうとして、足を止める。
「おそらく残された時間は、あと一週間も無い。その期間をどう過ごすのか、すべてあなた次第よ」
そういってコーイチの方へと視線を向ける。
口では自分はどちら側でもないという事を言っていたのに……コーイチは心の中で苦笑する。
やはり彼女の本質は自分たち側だ。
だったらその好意に報いないわけには行かない。
「明日そのエフェクトってのに、触らせてもらえますか?」
好意に甘え提案してみる。
「かまわないわ。上には話を通しておくから」
「でもいいんですか?」
「なにが?」
「僕にそんな武器を持たせて。何かするかもしれませんよ」
布束は「ああ、そんなこと」と事も何気に言い放つ。
「観察対象者の自発的な行動に関しては、極力阻害すること無かれって指示が出ているから問題はないわ。この数日にあなたが何と接触して何を感じたのかを観察するのも、この実験の目的だもの。ただ、そこにescape。逃走や篭城が含まれているのかは分からないけどね」
布束はそういって「試してみる?」と意地の悪そうな笑みをコーイチに向ける。
それはつまり、お前たちがやろうとしていることはすべてお見通し。無意味だという事だ。
仮にコーイチがそれを実行に移しても、上からすぐさま制圧部隊がやってきて、この建物の職員ごとコーイチを排除するだろう。
彼女が嘘をついているとはとても思えない。
現状では脱出は不可能に近いといわざるをえなかった。
「最初に言ったけど、私は……いえ、違うわね。ここの研究員すべてを含めた人間は、sacrificeなの。いくらでも替えの効く捨て駒。いなくなったらすぐにでも補充の利く、ね」
「そんな……馬鹿な」
「そんな馬鹿みたいに非常識な組織なのよ。ここはね」
布束は自嘲気味に笑う。
「そんな組織に長年いるとね、心が麻痺してくるの。何も考えられなくなってくる。そして楽なほうへ、誰かの指示に従っている事に安心を覚えるようになってくる。善悪関係なくね? ……自分でも分かるの。年数を重ねるたびに、心がどんどんと腐っていくのが」
「……だからアドバイスをくれたんですか? 僕に」
「そうかもね。きっと、たぶん。自分がまだましな人間だって、ここの連中よりましな人間だって思い込みたいだけなんでしょうね。こんな非常な実験に加担しているのにね」
彼女は再び笑う。口元を吊り上げただけの、悲しい笑みだった。
「だからあなたは気にしなくてもいい。これは私の都合なんだから」
「でも、感謝してますよ。あなたはいい人だ。少なくとも、僕はそう思います」
布束は少し面食らったような照れたような表情を浮かべる。そんな自分に恥ずかしくなったのか「それじゃ」と言い残し、あわてた風に去っていった。
布束が去ってしばらくした後。
ベッドにゴロリと横になったコーイチは考えをめぐらせていた。
あと一週間かそこら、遠くない未来。自分たちは名前も知らない相手と殺し合いをさせられる。
そんな非常識なことが現実に時分の身に降りかかるなんて。
コーイチはまるで自分がコミック雑誌の世界に紛れ込んだような気持ちになっていた。
だけどこれは現実だ。
いくら否定していても、タイムリミットは残りわずかしかない。
「だったら、少しでも助かる可能性に賭けてみるしかない」
別に殺し合いをするつもりは無い。
頼まれたってしてやるものか。
生き残るための手段として、少しでも力をつける必要があるだけだ。
何にしても、今日は疲れた……
目が覚めたら自分が何者なのか分からず、へんな幼女に案内された先には非合法な人体実験を行う研究室。
そこで散々体を弄繰り回され、あと一週間かそこらで殺し合いをさせられるという。
厄日どころの話じゃない。どう見ても人生設定がハード過ぎる。
う~ん。
考えすぎて知恵熱が出てきそうだ。
コーイチはそっとベッドに添えてあるデジタル時計に目をやる。
PM10:25
つまり夜だ。
外部と隔絶された環境で時間を知ることができたというのは、たとえるなら洞窟でたいまつの炎を手に入れることができたのと同じ安堵感に似ている。
そして今が夜だと分かったとたん、強烈な眠気が襲ってきた。
「ねよ」
とりあえず、すべては明日だ。
明日のことは明日考えよう。
コーイチは電灯の光を消すとまぶたを閉じた。
そうしてコーイチの意識はすぐさま深い眠りについた。
はずだった……
「?」
コーイチが熟睡してしばらくたった頃、違和感を覚えはじめた。
変だ。
体が妙に重い。
まるで2,30キロ位の荷物が乗っかっているみたいだ。
しかもこの荷物、生暖かい?
その圧迫感にコーイチは耐え切れず、深い眠りから目を覚ます。
そのコーイチが最初に見た風景は、幼女の頭部だった。
「はえ?」
正確にいうと、金髪の6歳くらいの幼女が、コーイチの胸を枕代わりにして「くーくー」と寝息を立てていた。
しかもこの幼女ゴスロリ調の服を着ているのだが、スカートが乱れ、中の下着があらわになっている。
「なぜゆえに!?」
これじゃまるで、自分がこの女の子に何かしたみたいじゃないか!
今日はこれ以上驚く出来事は無いと思っていたコーイチだったが、これにはさすがに度肝を抜かれた。
とりあえずこの状況は非常にまずい。
誰かに見られたら誤解されるんじゃないのか?
でもどうする?
たたき起こすのも気が引けるし……
かといってこのままでいるというのも……
「うーん」
コーイチが現状を打開しようと唸っていると、個室のドアが急に開いた。
「ね、ねえ。コーイチ、君? 起きてる? その、ちょっとさ、眠れなくて……話し相手になってくれないかなぁって……」
顔を見せたのはルイコだった。
彼女は言葉を最後まで言わなかった。
彼女はコーイチの胸の中で眠る幼女と乱れた着衣を見ると、まるでごみを見るような目つきでコーイチを見て、
「この、変態が!」
そういってコーイチの顔面に全体重を乗せた蹴りを入れるのだった。
「ぐは……!?」
薄れ行く意識の中でコーイチは思った。
(やっぱり、今日は、厄日……だ)
■
「……へえ。フェブリちゃんっていうんだぁ。かわいいお名前ね。で、フェブリちゃん。どうして知らないお兄ちゃんのお布団なんかにもぐりこんだのかなぁ?」
ルイコはフェブリと名乗った少女をひざに座らせてやんわりとたずねる。
その際金髪に輝く髪があまりにきれいだったので、思わず何度も髪を撫でてしまう。
フェブリはそのたびにくすぐったそうに目を細め、ルイコのされるがままになっている。
きっと猫ならそのままゴロゴロとのどを鳴らしていることだろう。
ちなみにコーイチは床に座らされていた。
その顔の右半分にはくっきりと、ルイコのつけた青あざが浮かんでいる。
誤解を解いたのにこの仕打ち。
自分のベッドと部屋なのに何たる理不尽だよ。
コーイチは頬杖をつきつつ仏頂面で彼女たちの会話に耳を傾けていた。
「だって、たいくつだったんだもん。ままもぱぱもおしごとでフェブリのことかまってくれないしぃ。お人形さんもお絵かきちょうもないんだもん」
フェブリは足をぶらぶらとさせながら、口をとんがらせ不満を口にする。
「だから、一人かくれんぼでもしてたのかな?」
「うん。べっどの下にかくれてたの。でもそしたらねむくなっちゃって」
「そっか。その眠っちゃった部屋っていうのが、コーイチ君のところだったんだね」
「コーイチ?」
「そう。あそこで仏頂面でこっちを見ているお兄さん」
その紹介の仕方はどうかと思うが。
とりあえずこっちに話が降られたので、右手を上げ「ども」と挨拶はしておく。
「えへへへ。コーイチ、あったかかったぁ。また一緒におねむしようねぇ」
コーイチの挨拶にフェブリも手を振り元気いっぱいに答える。
「あ……うん? ……まあ、僕はいいけ、ど……」
あまりに悪意の無い笑顔に、コーイチは毒気を抜かれ素直に「はい」と答えてしまった。
「フェ、フェブリちゃん!? こ、今度来るときはお姉さんのお部屋に来てくれるとうれしいなぁ!」
ルイコがフェブリを抱き寄せそう提案する。
幼いフェブリの体はすっぽりとルイコの両腕に収まり、すこし息苦しそうだ。
コーイチと目が合ったルイコの表情は、誤解が解けたとはいえ警戒心を隠しきれていない。
そんなルイコの動揺をコーイチは呆れ顔で見ていた。
一体彼女の中では僕はどんなイメージなんだ?
まさかとって食うとか考えてないよな?
出会って1日にも満たない彼女に自分はどんな風に思われているやら。
コーイチは本当にこれが夢だったらどんなにいいことかと、思わずにはいられなかった。
コーイチの部屋に、フェブリという珍客が訪れてから約1時間。
時刻はもう夜の11時を回っている。
さすがに子供にはきつい時間帯だ。
先程までルイコと遊んでいたフェブリだったが、ついに限界が来たようで、今はルイコの膝を枕代わりにスースーと可愛らしい寝息を立てている。
「まだ……あそぶぅ……」と時折寝言をつぶやくフェブリ。ルイコはそんな彼女のほっぺを人差し指でつんとつついた。
「にへへへぇ……」
フェブリはどこかくすぐったいような、それでいてどこかうれしそうな表情を浮かべている。
きっと夢の中でもコーイチとルイコ。二人と遊んでいるのだろう。
そんなフェブリをルイコは慈愛の表情で見つめている。
「ほんと、何なんだろうねこの子」
ルイコがポツンともらす。
「どこから来たんだろう? パパとママが働いているって言っていたから、ここの建物で働いているんだとは思うけどさ、信じらんないよね……。こんな時間まで、子供をほっとくなんてさ……」
さっきまで明るかったルイコの表情が影を落としたように暗くなる。
「わけわかんないよ。なんであたしたち、こんな所にいるの? あたしたちが何をしたって言うの? どうして、こんな目に……」
「……わからない。分からないことだらけだ。だけど、これが現実なんだ。僕たちは囚われ、わけの分からない実験に参加させられようとしている。それが今分かっている事の全てだ。ここの奴らはその答えを決して教えてはくれないだろう。だから肝心なのは、そこからどうするかだ。全てを分かった上で、何をするのか」
ルイコの問いに、コーイチは自分を鼓舞する意味で答える。
「何を、するの?」
「戦うさ。このまま殺されるなんてあまりに癪じゃないか」
「それって、殺し合いに参加するって事?」
「違うよ。殺し合いなんて、頼まれたってしてやるもんか。だけど現状では僕たちはあまりに無力だ。だから、生き残るためには力がどうしても要る。その為に、明日からエフェクトって言うのを使いこなさなきゃいけないんだ」
その時、まるでコーイチの会話が終わるタイミングを見計らっていたかのように扉が開いた。
そこから顔を出したのは布束だった。
「その通り。あなたたちが生き残るには、力をつける他無いわ」
布束は室内に視線を這わせると、そこで熟睡しているフェブリに目を留める。
「え? なんで、ここに?」ルイコは突然の来客に目をきょとんとさせている。
「娘を預かってくれてありがとう。引き取りに来たわ」
「へ? むすめ? 誰の? 誰が?」
今度はコーイチが虚を付かれた表情をして尋ねる。そんなコーイチとルイコに布束ははっきりと「私のよ」と答えた。
「「え」」
二人は仲良く同じタイミングで声を合わせ、
「えええええええええ!?」
再び同じタイミングで絶叫した。
「それほど驚くことかしら」
「いや、やばいでしょう!? 特に、外見上の問題とか! 倫理的な問題とか!」
コーイチの突っ込みに布束は平然と「そんなに大した事かしら」と言わんばかりの表情をしているが、彼女の見た目からして大した事なのは確実だ。
何せこの自称20歳の外見はフェブリと並んでもさして違和感が無い外見をしておられる。
もし公園などに彼女達がいようものなら「仲のいいご姉妹ね」と挨拶を交わされるくらい幼い。
「さすがに、冗談、だよね? 子供が子供を生むなんて……は、ははは……」
引きつった笑いを浮かべるルイコに布束はつかつかと歩み寄ると、持っていたバインダーの角で彼女めがけ振り下ろした。
身長が足りないので助走をつけたジャンプからの一撃。
重心が乗ったその一発は、確実に彼女の頭部にヒットする。
「いぎゃ!?」
「言わなかったかしら? 年上を馬鹿にする発言は控えるようにって?」
「は、初耳……です」
「単語が違うわね。誤りを正すときには、何ていうのかしら」
「ご、ごめんなさい……」
ルイコは目に涙を浮かべて布束に平謝りをする。
コーイチは思った。
見た目で人を判断しちゃいけないよね。うん。
「んにゃ? ……まま?」
フェブリが眠気眼をこすり、ルイコの膝からゆっくりと起き上がる。
まだ意識が半分夢の世界なのだろう。時折「ふぁ~~」と大きな欠伸をして、また夢の世界に落ちようとしている。
「フェブリ。待たせてごめんね。迎えに来たわ。一緒に帰りましょう」
布束は言葉を区切り、フェブリに聞き取りやすい声色で優しく話す。
その表情、しぐさ一つが先程とは違う。
フェブリを見つめる彼女の表情は、まさに母親のそれだった。
「ままっ! ままだぁ! わはっ! おしごとはおわったの?」
母親の言葉を聞き間違える子供はいない。
フェブリは布束の言葉にすぐさま反応し夢の世界から覚醒すると、母親の元に駆け寄った。
「ままぁ~~。にへへへ」
「……もう、すぐに甘えて……」
母親に抱きつき頬ずりするフェブリ。布束はそん名彼女を優しく抱き止める。
この一見絵になる状況に、コーイチはやはり違和感しか覚えなかった。
■
「コーイチ! ルイコ! じゃあねぇ。また遊ぼうねー」
布束の手に引かれたフェブリがブンブンと手を振り、別れを告げる様を、コーイチとルイコは笑顔で手を振ることで答えた。
やがて完全にその姿が見えなくなると、ルイコが「じゃああたしもそろそろ……」
そういってコーイチに別れを告げる。
その去り際に「ごめんね? 思いっきり蹴っちゃって」そう謝罪した彼女にコーイチは「貸しにしとく」と意地悪そうに返答する。
変に湿っぽくなるよりは、少しくらい茶化したほうがいいと思っての事だった。
「わかった。貸し一つだね。必ず返すから」
ルイコは先程まで暗い顔をしていたルイコは少しだけ明るく、そう返答してくれた。
それにしても……
誰もいなくなった室内で、コーイチは思案する。
考えているのはあの布束のことだ。
あの外見。あれは間違いなく幼児のそれだ。
しかし自分たちに対する対応や業務に当たる姿は完全に一般の大人と変わらない。
コーイチの霞のかかった記憶の中にそういう病気があることを思い出す。
でもそれだけではないような気もする。
フェブリは言っていた。「パパとママがおしごとでかまってくれない」と。
つまり父親がいると言うこと。
父親の外見も同じなのだろうか。
そういえば……
はたと今日の出来事を思い出す。
自分が目覚めた先で出会ったは子供の集団。
自分を案内した布束も子供。
自室にもぐりこんできたフェブリも子供。
「どういうことだ?」
この異常な程の子供率はなんだ?
この舞台の裏側で、何が進行しているんだ?
コーイチは自分のあずかり知れぬところで、何か得体の知れない計画が不気味に進行していくのを感じずにはいられなかった。
■
研究所の一室にて、カチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえる。周りに研究者たちはいない。なぜならここは彼女のプライベートルームだからだ。
先程からキーボードを打っているのは布束砥信だ。
そのパソコンから少し外れた長いすには、フェブリが今度こそ力尽きぐっすりと深い寝息を立てている。
経過報告の提出と提示報告書。
これは実験が終了するまで彼女に課せられた仕事であり、欠かすことのできない義務でもあった。
報告書の内容は以下の通りだ。
指示通り、観察対象をフェブリに引き合わせる。
能力者同士の接触が引き金となり、能力の覚醒が促される可能性がある為だ。
しかし能力発現の兆候は見られず。
フェブリとの接触は継続予定。
明日はエフェクトの接触実験を行う予定。なおこれは対象が自発的に取り組むと申し出たイレギュラーである。
前回との差異を含め、再考する必要性あり。
布束はそこでキーボードの手を止め、フェブリを見る。
「フェブリ……。この実験が終了したら……。いよいよあなたも……」
そう思ったら目頭が熱くなってきた。両手で顔を覆い、あふれ出る感情を必死に押さえつける。
布束はこれまでの実験を思い返す。
自分はきっと地獄に行くだろう。
それだけの事に加担してきたし、これからもそれをしなくてはならない。自分が生き延びるために。
だけど、この子。フェブリには何の罪も無い。
自分に出来た子供。
自分の卵子と他者の精子から人間が形作られていく様は、それだけで生命の神秘を感じずにはいられなかった。
そして芽生えた母親としての自覚。
自分を母と慕うこの子がとても愛おしい。
だけど、それももうじき終わってしまう。
「私はどうしたら……どうすればいい」
組織への忠誠か、それとも母親としての愛情を取るのか。
布束は答えの出ない自問を繰り返すのだった。