エコーズの放った麻酔弾が、デクの心臓部分へと吸い込まれるように突き刺さる。
「おおおおおおおおおおお!?」
デクが獣のごとく咆哮する。
恐らく、通常の麻酔弾ではデクは倒せなかった。
麻酔がデクの全身に回るまで、若干の猶予があるためだ。
だから、倒すにはもう一工夫必要だった。
それがサルディナさんの眠りの魔術がかけられた羽根。
この二つの合わせ技なら、デクを倒す事が出来ると踏んだ。
デクに突き刺さった羽根は、紫色に発光し、小型の魔方陣を浮き上がらせる。
「あ、ああ、あが、ががあああ・・・・・・」
デクの体が小刻みに振るえ、一瞬、ぴたりとその動きを止める。
やがて。
「う・・・・・・が・・・・・・ぁ・・・・・・」
巨体をくの字に折り曲げ、デクはその場に崩れ落ちた。
「・・・・・・・・・」
――一瞬の沈黙の後。
「・・・・・・やった。・・・・・・んだよな?」
瓦礫と化したフロアに佇んでいた誰かがポツンと洩らす。
それを皮切りに、「やったぞー!!」という喜びの歓声と、勝利の雄たけびが周囲に木霊した。
デクを倒したと同時に、あれだけ熱気を帯びていた周りの空気が四散して行く。
空調設備が復旧し、熱を吸い上げているためだ。
これで、本当に、終わったんだ。
そう思った瞬間。僕は力なくその場にしゃがむ。
正直、5,6回は死んでもおかしくない状況だった。
無事に切り抜けられたのが信じられないくらいだ。
それもひとえにみんなのお陰だと思う。 僕1人ではとても無理だった。
サルディナさん。
御坂さん。
この場にいるみんな。
彼等の力があってこそ、こうして僕達は生き残る事が出来たんだ。
「――おい。あんたら、無事か?」
階段から複数の人達が姿を現す。
彼等は周囲の惨憺たる状況を見て「うわ。ひでえ」「めちゃくちゃじゃねぇか」など、口々に声を洩らす。
「あんたたちは? 下の階から来たのか?」
フロア内の誰かが男達に声をかける。
「――ああ。俺たちは一階から来たんだ。テロリスト共がいなくなって、その後すんゲェ爆発音が上から響いたんで、その・・・・・・。上のヤツラは無事かなって」
「最初は、まあ。能力者の事なんて放っとけ、何て意見も出てたんだけど。友達を助けに、上の階に行ったおっさん達もいるし。・・・・・・こういう場合、助けなかったら、俺たちのほうがかっこ悪いかなって」
男の一人がそういって、ばつが悪そうに頬をかく。「俺たち、何の能力も無いけど。数だけは多いから。怪我人を運ぶ位のことなら出来るぜ」
周りには、御坂さんがキャパシティ・ダウンとかいった装置の後遺症か、今だ動けない人。戦闘の巻き添えで負傷した人が大勢いる。正直、手を貸してくれるのはうれしい。
男達の申し出に、フロアで僕たちと一緒に戦ってくれた高校生の人が歩み寄る。
「――正直。ありがたい。手を、貸してくれるか?」そういって男達に手を差し伸べた。
「あ、ああ。こちらこそ」男の人は少しはにかみながらその手を握り返すと「おい。お前等。怪我の酷いヤツから下に運ぶぞ。タンかもってこい」そういって、怪我人の元へと駆け寄っていった。
「――さて。どういうことか説明してもらおうじゃない。孝一君。今回の事件、何がどうなってんの?」
「そ、そんなこと言われたって、僕にも分からないですよ」
僕の隣にいた御坂さんが腕組みをして僕を見下ろしている。その表情は、僕がまるで事件の当事者だといわんばかりだ。
だけど、それは無理な相談だ。
僕だって、事件の全貌を把握しているわけじゃない。
あのマフィアどもが、『ガナンシィ』を巡ってこの事件を起こしたというのは分かっているが、それでも疑問が残る。
あの薬品を回収するためだけに、果たしてこんな大事件を引き起こすだろうか?
こんな目立つことをして、ヤツラはその後、どこに逃走するつもりだったのだろう?
分からない。
この事件は、謎が多すぎる。
その時、「あっ」と御坂さんが声を上げ、その場を駆け出す。
階段のほうで誰かを見つけたみたいだ。
「――あ、あんたっ。どうしたのよ!? 全身血だらけで!」御坂さんが相手に詰め寄っている。
「げっ、御坂!? なんでここに?」
声の主は男のようだが、ここからじゃ良く見えない。
「コラッ、短髪。とーまから離れるんだよっ。とーまは全身傷だらけなんだからっ」女の子の声がするが、誰なのかは確認できない。
「ちびっこ シスター!? まさか、今回の事件、あんた達が一枚噛んでるんじゃないでょうね!?」
御坂さん達は、お互いにワイワイと言い合いになり「ここじゃなんだから」といって、このフロアから姿を消した。
一体どんな関係なんだろう。まあ、それを聞くのは野暮ってことかな。
◆
「孝一。当初の目的を果たそう」
御坂さんがこのフロアから消えて数分後。サルディナさんが僕に声をかける。
「当初の目的?」
「忘れたのか。『ガナンシィ』を回収する。それがこのビルに来た目的だったはず」
「あっ」僕は声を出して驚く。マフィア達と命のやり取りをしたせいで、すっかり忘れていたのだ。
「人がまばらな今がチャンスだ。今のうちに、回収しよう」
「う、うん」
僕達は足早に、商品保管庫に移動する。
「――よっ」
保管庫に到着した僕達を、思わぬ人物が待っていた。
「ジャックさん!?」
「よっ。孝一。サルディナ。久しぶりだな」
ジャックさんは保管庫の壁に寄りかかり、手を上げて挨拶をする。しかしその様子は、今朝のそれとはまるで違う。服には大きな血の跡があり、腹部を左手で庇うようにしている。表情も心なしか少し青かった。
「だ、大丈夫ですか!? どうしたんです!? この傷?」
「なーに。ちょいとマフィアと追いかけっこをして、ドジ踏んじまっただけだ。たいしたことはねぇよ」
「でも、血が!」
「大丈夫、大丈夫。もう、血は止まってんだ。それより、『ガナンシィ』だが・・・・・・。サルディナ。悪いが、お前の試験は、終わりだ」
ジャックさんが顎をしゃくり、保管庫の中を指し示す。
僕達は、中を覗きこむ。
その中にはグチャグチャに散乱し、砕け散った、アンプルの束があった。
アンプルは、破損し、床一面に液体を撒き散らしている。
「・・・・・・そうか。ガナンシィが・・・・・・そうか・・・・・・」
サルディナさんは、砕け散ったアンプルを見つめ、感慨深げに呟く。その表情はどこか安堵しているみたいだった。
「さて、これでここに留まる理由は無くなったな。俺たちは、アンチスキルの目から逃れなきゃならん。ヤツラが来る前にここを脱出する。孝一。お前はどうする?」
ジャックさんが僕に尋ねる。正直、一緒について行きたいところだけど――
「――いえ。僕はここに残ります。怪我をしている人が大勢いますし、今は人手が多いほうがいい」僕はそう答えた。
「そうか。じゃあ。とりあえず、ここでお別れだな。孝一。今日は助かった。このお礼は、いずれ精神的にお返しさせてもらうぜ」
ジャックさんは「じゃあな」というと、サルディナさんを伴いその場を後にする。
サルディナさんは「ありがとう。孝一。お前のお陰で助かった」というと頭を下げ、ジャックさんに続いた。
――精神的ねぇ。
僕は彼等に手を振りながら、心の中で苦笑する。
今までそういって、実現された事など殆んど無いからだ。
まあ、それでも憎めないのは、ジャックさんの人徳のなせる業だろう。
僕はしばらくジャックさん等の姿を消えるまで眺めていたが、やがて災害活動に協力するために、フロアの人達と合流することにした。
そのしばらく後。
「あ」僕は声をあげた。
「どうした、君?」一緒に救助活動をしていた男の人が不思議そうな顔で僕を見つめる。
「い、いえ。なんでもありません」僕は笑顔でその場を取り繕う。
そういえば。
あのリーダー格の男。あいつが生き残っていた。
そのほかにも、サラリーマン風の男がいたはず。
今の今まですっかり失念していた。
仲間もいないこの状況で、彼等は一体どうするのだろう。
いくらなんでも、ここにいる能力者全員を始末する事など、不可能に近い。
恐らく、身を潜め、逃走する機会をうかがっているはずだが・・・・・・
◆
「うっ・・・・・・う、うううう」
床には這いつくばり、天井を朦朧とした意識で眺めていたマーク・ドーバンスは、自分の目の前に小さな人影が立っていることに気が付いた。
「・・・・・・・・・」
それは、まだ年端も行かない少女だった。
少女は、腰まである長い髪を三つ網で1つに束ね、幼い顔つきでこちらを見下ろしている。
「お、ま・・・・・・え・・・・・・は・・・・・・」
かろうじて、それだけ声が出せた。
上条当麻にやられたダメージがまだ残っており、全身に力が入らないのだ。
少女は懐から携帯電話を取り出すと、腰を落とし、マークの耳元に押し付けた。
「――やあ、マークさん」
相手の男が呼びかける。この声は聞き覚えがある。
「さ、え、き・・・・・・?」
「ええ、そうです。佐伯です。どうやら、お互い芳しくない結末を迎えたようですね」
「な、に?」
「こちらとしては、あなたがウチのリクに倒される結末がベストでした。・・・・・・それをまぁ。どこの馬の骨ともしれない輩に、無様に負けてしまいましたね? せっかくお宅のボスに、あなたの身柄を譲ってもらったというのに。役立たずこの上ないですな」
何を言っているのだ、コイツは?
マークは佐伯の言葉が信じられなかった。
ボスが、俺を売った?
この男に?
なぜだ?
「驚いて声も出ないと言ったところですか? あなたはね、売られたんですよ。私達が開発したエフェクトの、戦闘データを取る実験サンプルとしてね。まあ、結果はご覧の有様でしたが」
「は、はは・・・・・・はは・・・・・・は・・・・・・」
思わず、笑った。
つまりこれは、最初から俺をこの学園都市におびき寄せるための、罠。
実験というのは、おれ自身の事。
これが笑わずにいられるだろうか。
マークは虚空を眺め、乾いた笑いを繰り返す。
「マークさん。大変の名残惜しいですが、あなたとは、これでお別れです。私どもの活躍を、草葉の陰から応援していてくださいませ。それでは――」
そういって「ブツリ」と携帯は切られた。
少女はそれを確認すると、携帯を懐にしまい、かわりにダガーナイフを取り出す。
「――エフェクト、起動」
少女はナイフの宝玉に触れると、周囲が赤く染まり、鳥の頭をした人型のスタンドが出現する。
全身に炎を纏ったそれは、リクが使用していたエフェクトと同一のものだ。
少女は何の感慨も無い表情で、マークを見下ろしている。
(――あーあ。やっぱ、上の人間の考えていることは、わかんねぇや)
死が身近に迫った中、マークはぼんやりとした表情で、そんなことを考えていた。
それが、彼がこの世で最後に残した心の声だった。
「さよなら」
少女がポツリと呟くと、スタンドでマークの体を焼き尽くした。
◆
一足先にヘリで脱出した佐伯達は、部下との交流ポイントを目指していた。
このヘリも、目的地に着けば処分する予定だ。
自分たちの痕跡となるものは、残さない。
残したとしても、それは他人に全て負わせる。
今までも佐伯達はそうして、物事を推し進めてきた。
そんな中、佐伯は1人、ぼんやりと沈んだ様子のリクを見つけた。
あれだけ気にするなと言ったのに、自分の失態でエフェクトを破損させてしまったのが、よほど堪えたのだろう。
「リク。言ったはずだよ。気にするなって。たかだか、試作した3本のうちの1つが壊れただけじゃないか」
ペットを躾けるには飴も必要。佐伯は優しくリクにねぎらいの言葉をかける。
「でも、ウチ・・・・・・。佐伯さんの命令通り、全員始末できんかった・・・・・・。ウチ、役立たずや・・・・・・」
本当の犬の様に、シュンと項垂れるリク。そんな彼に、佐伯は「そんなに挽回したいのかい?」と問いかける。リクは間髪いれずに「うん。したい」と答えた。
「それなら大丈夫だ。近々、エフェクトのお披露目会と言う名目で、各国のお偉方が、この学園都市に訪れる。君とシロは、エフェクトの性能を実証するために、敵を撃破してもらう」
「ほ、ほんまか!?」リクが驚きの声をあげ、佐伯に詰め寄る。「いつや!? いつ? いつ?」
「おいおい。気が早いよ。現段階では、まだ未定。スケジュールの調整中だ」
「なんやぁ・・・・・・」リクがあからさまにガッカリした表情を浮かべる。
「だから、そんな顔をしないの。君たちの出番は必ずあるんだから。それまで英気を養っておきなさい」
苦笑する佐伯に、リクが「はぁい」とややふてくされて返事を返した。
その時、佐伯の携帯に連絡が入る。
「はい」
「・・・・・・・・・」
電話の相手は、佐伯の雇い主だった。
――君の計画は順調のようだね――
佐伯に話しかける。
「ええ。何しろあなたに好きにしろといわれているので。それより珍しいですね。あなたのほうから連絡を入れてくるなんて」
――君に伝えておかなくてはならない事があったんだ――
「なんです?」
――私のほうの計画は順調だ。ついては、これ以上の子供達の追加は必要ない。それを伝えたくてね――
「なるほど。『イレイズ』の手は、もう必要ないと。わかりました」
電話の相手は本当にそれだけを伝えると、ブツリと電話を切ってしまった。
「・・・・・・・・・」
電話を切ってしばらくの間。佐伯は思案していた。
やがて、なにか面白いおもちゃを見つけたときみたいに、無邪気に笑う。
「・・・・・・『イレイズ』はもう必要ない。なら、もう潰しちゃっても構わないわけだ。これまで散々、お世話になって何だけど。私達の踏み台になってもらおう」
問題は、『イレイズ』にはスタンド能力を持った人間が複数いたはず。見限るのはいいが、リクとシロだけで事に対処できるのか?
「・・・・・・・・・」
そこで思い至る。
「戦力が不足しているなら、どこからでも補えばいい。学園都市の組織を動かしてね・・・・・・。しかも、うってつけの組織がいるじゃないか」
ある程度の指針は出来た。
後は、どう転ぶか?
どちらの組織が生き残るのか?
(まあ、最終的に私自身の懐は痛まないからいいけどね)
「――これからが楽しみだ」
窓の外を見る。
目的地まで、あとわずか。
地上には黒いワンボックスカーと部下達が、佐伯が来るのを待ちわびていた。
◆
「――っ! いててて」
「おい。大丈夫か? ジャック」
自室兼オフィスの『ノートン探偵事務所』にて、ジャックは包帯でぐるぐる巻きにされた腹部をさすり、コーヒーを頂いていた。
入れてくれたのはサルディナだ。その殊勝な態度は、昨日の彼女を見ている自分からは想像がつかない。
だが、それを茶化すのはやめておく。
それだけ今回の事件は、彼女の心に変化をもたらしたのだ。
それがいい変化だといいが――
ジャックはサルディナをチラリと見る。
「? なんだ? じろじろ見て」
テーブルの真向かいに座る彼女は、一件普通のようだが、それでもどこか、暗い影のようなものを感じさせた。だから、ジャックは聞いてみた。彼女とこうしていられるのは、後僅かの時間しかないのだから。
「なあ。サルディナ。お前、これからどうするんだ?」
「・・・・・・唐突だな。どうするとは?」
「つまりだ。お前、このまま死ぬつもりじゃないだろうな?」
「・・・・・・・・・」
「おい!」
「・・・・・・わからない」
サルディナがポツリと洩らす。その声色は、「本当にどうしていいのか、分からない」と、彼女の感情を表しているようだった。
「このまま、アジャンテの仕事を継ぐことに疑問が生じたのは事実だ。そして組織が、このまま掃討される運命だということも分かっている。だが、それでも、『アジャンテ』は私の全てなのだ。私が生まれ、私が生活し、苦楽を共にした仲間がいるのだ。このまま、仲間を見捨て、私だけ生きることなど、とてもじゃないが出来そうに無い」
「だから、『アジャンテ』に戻って、運命の時が来るまで待つってのか? 馬鹿げてるぜ」
「・・・・・・孝一にも、似たような事を言われたよ。『すまない』孝一にも、そう伝えてくれ」
サルディナが自傷気味な笑みを浮かべ、すくっと椅子から立ち上がる。
「・・・・・・もう、行くのか?」
「このまま長居すると、決心が鈍りそうだ。だから、これでいいんだ」フードをすっぽりと被る。それと同時に彼女の心までも仕舞われたようで、ジャックの胸はざわめき立つ。
「本当のことを言うと、私はかけてみたいのだ。人間が持つ可能性というものに。・・・・・・私は見たよ。この街の人間が、とてもじゃないがかなわない相手に、それでも立ち向かう姿を。一人ひとりの力は弱くても、それらが束になれば、奇跡を生むこともある。私は『アジャンテ』の長老達を説得してみたいのだ」
「それで、死ぬことになってもか?」
「ああ。私の試みは、無駄に終わるかもしれない。だが、それでもいいのだ。ひょっとしたら、周りの人間に何かを残すことが出来るかもしれないだろう? それが元で、長老達の考えを、改めさせる事が出来るかもしれない。私はそれで十分だ」
サルディナはそのままジャックに背を向ける。「短い間だった世話になった。礼を言う」
そして、ドアから出て行った。・・・・・・が。
「まて」
ジャックがサルディナの首根っこを掴み、これ以上進むのを阻止した。
「ジャ、ジャック? お前、何を・・・・・・」
「まったく。お前ってヤツは。前から思ってたが、ホント『単純』で『バカ』だな。どれだけ世界に夢みてんだよ。無理無理。お前みたいな小便臭いガキの言う戯言に、大人が真剣に聞くわけねぇだろ? 1人で勝手につっ走んな、馬鹿」
「お、お、お前。言うに事欠いて馬鹿だと? 前から思っていたが、なんというデリカシーのない男だ」サルディナがジャックの方へ向き直り、ワナワナと振るえる。
ジャックはそんなサルディナをものともせず、逆に、両の頬を引っ張る。
「!? にゃ!? にゃにおひゅる(何をする)!?」
「聞け、サルディナ! お前1人じゃ無理だ。だから俺も一緒について行ってやる! ありがたく思え!」
「にゃ、にぃ!?」
サルディナは目を丸くして驚く。
「正気か? お前が行ってどうなる。わざわざ死にに行くようなものだぞ? お前こそ馬鹿じゃないのか?」
「行けば死ぬってわかってるのに、それでも行こうとするお前の方が馬鹿だ。だが、俺様は違う。お前より遥かに知識は上だし、これまで何度と無く死線を潜り抜けている。運の良さは折り紙つきだ。『アジャンテ』の問題も、パパッと解決してやらぁ」
ジャックがサルディナに親指を立て、にやりと笑う。
「・・・・・・なぜ、私のためにそこまでする。・・・・・・わからない。なぜだ」サルディナは瞳に涙を浮かべ、視線を外す。ジャックは「そりゃあ、簡単だ」という。
「サルディナ。お前。体つきいいよな」
「は?」
唐突に、ジャックはサルディナの体をじろじろと凝視する。
「胸は、まだペッタンコだが、腰のラインは悪くない。将来的に俺好みの女に化ける可能盛大だ」
「な、なななななななな!?」
サルディナが顔を真っ赤にして、ついでに自分の体も隠そうとして身をよじる。
「そんないい女がよ。わざわざ死ぬために故郷に戻るなんて、あまりにもったいねぇ話じゃねぇか。だから、ついて行くのさ。そしてあわよくば、おめえを俺好みの女に・・・・・・ウヘヘヘ」ジャックは冗談めかした態度でサルディナを見る。「・・・・・・だから、勝手に死ぬなんて許さねぇ。俺にも、手伝わせろ」
「ふふっ・・・・・・」
サルディナは、思わず吹き出してしまった。
驚いたり、恥ずかしがったり、泣かされたり。この男といると、どうしてこうも自分のペースが崩されてしまうのか。
「あっはっはっ」そして今度は、笑わされている。一体何なのだ、この男は。
だが、何故だろう? その事がちっとも不快ではない。むしろ、この関係が、とても心地良いものに感じた。
「知らなかったよ。お前。私を口説いていたのか。そんなにいい女か? 私は?」
「いや!? それは言葉のあやという奴でだな?」
だから、サルディナも、冗談めかしてジャックにお返しをする。
自分でも、浮かれているのが分かる。
何故だろう。
この男といると感じる、この安心感は。
そして期待してしまう。
この男なら、『アジャンテ』を変えてくれるのではないかと。
「いいさ。『アジャンテ』の問題を解決する事が出来たなら、お前の女になってやる」
「だぁあああ! 人の話を聞け!」
世の中は広い。こんな、馬鹿みたいな男がいる。
現状は絶望的だが、それに飲まれることは、もうない。
サルディナの心には、今まで感じた事のない、爽やかな風が吹いていた。
◆
あの『オーシャン・ブルー』を襲った激震から、数日が経った。
世間のニュースは、この未曾有のテロ事件に持ちきりだった。
断片的な情報を繋ぎ合わせると、首謀者であるあのオールバックの男は、最後に追い詰められて自殺したらしい。
頭から灯油を被って、火をつけ、一巻の終わり。あっけない幕切れだった。
だけどあの男が自殺するなんて、仮もマフィアのリーダー格の男がそんなことをするのだろうか?
そして謎のスーツの男。
彼の行方は分からずじまいだ。
一体この事件は、なんだったのか。
結局の所、僕には見当もつかなかった。
デクは現在も特別施設で集中治療を受けている。
その姿を見ることは叶わないが、今だ予断を許さない状況のようだ。
ただし、どの施設に収容されているのかは分からない。あくまでニュースから得た情報だ。
アハドの行方は分からなかった。あれから無事に逃げおおせたのか、それとも敵に見つかり始末されたのか。『オーシャン・ブルー』が閉鎖された今となっては、うかがい知ることは出来そうに無い。
現在あのビルは、アンチスキルが事件の全容を解明しようと躍起になっている。
全容究明まで、果たしてどれほどの時間がかかるのだろうか?
そして僕達に再び日常が戻った。
いつもと同じ日常が。
だけど、同じではないこともある。
この学園都市から二人。
何処へと姿を消した人達がいる。
ジャックさんと、サルディナさんだ。
オーシャンブルーで救助活動を行ったしばらく後。アンチスキルの人達が到着した。
やはり本場は違う。
レスキューセットや、担架など。最新機器が備わっており、しかも隊員は迅速丁寧だ。
僕達は事件の被害者であり、PTSDの疑いが濃厚ということで、病院へ強制的に入院することになった。
その間、ジャックさん達とは、連絡を取ることは出来なかった。
でも、あのときの僕は、彼にすぐに会えると思っていたんだ。
退院後。ジャックさんの事務所へと足を運んだ。
しかしそこはものけのからだった。
生活用品はそのままだが、部屋の主がいない状態。
そこに、僕宛の手紙が置かれていた。
ジャックさんがいつもふんぞり返っているテーブルの上に。
手紙は便箋に入れられており表紙には「孝一へ」と汚い字で書かれていた。
手紙を開けてみる。
――孝一へ。
これをお前が呼んでいるって事は、俺たちはすでにこの学園都市からいなくなっているって事だ。お前に別れを告げるのが手紙という形なのは不本意だが、悪く思うな。
これから俺たちはアジャンテの問題を解決するために、組織の長老達とコンタクトを取るつもりだ。そこを足がかりとして、複雑に絡み合った問題を、少しずつでも解いていこうと思う。なので、そっちに帰るのはかなり遅れることになりそうだ。少なくても、1年。いや、それ以上かかるかも知れねぇ。
事務所の私物で、使えそうなものはお前に譲る。いらなけりゃ捨てといてくれ。だが、何年かかろうと俺は必ず帰ってくる。そのときは、お前と祝杯を上げたいね。(お前が、酒が飲めるようになる歳まで帰らないって意味じゃねぇぞ)
追伸。
手紙だから言うが、俺はお前のことを本当の親友と思っている。だが結果として、お前を色んなトラブルに巻き込んじまったな。それをどうか、許して欲しい。
それじゃ、これでしばしのお別れだ。お互い、笑顔でまた合おうぜ。
手紙はジャックさんらしく、シンプルな内容だった。あまりにシンプルすぎて、明日になれば、またひょっこりと現れるんじゃないかって思うくらいだ。だけど、この日を境に、ジャックさんは僕の目の前から姿を消してしまった。
学校の帰り道、夕刻になる前の空を見上げる。
オレンジがかった空と雲が一面に広がっている。
夕暮れ時の時間というのは、少しセンチメンタルな気分になるようだ。
ふと、ジャックさんの顔を思い出してしまう。
この空の向こうでジャックさんは、いつもの飄々とした感じで、トラブルを切り抜けていることだろう。
不思議と寂しさは感じなかった。
「・・・・・・だから、さよならなんて、いいませんよ」
口に出していってみると、それは確信に変わる。
予感がする。
ジャックさんとは、またどこかでめぐり合うって。
「・・・・・・ジャックさん。再会を楽しみにしていますよ」
僕は再会の希望を胸に、帰路についた。
『オーシャン・ブルー』を舞台にした一連の事件は、一部の人達以外には、いつもの日常の延長として当たり前に過ぎていき、やがて風化していった。
オーシャン・ブルー END