その黒い男を認識した次の瞬間、私は強く地面を蹴り走りだした。速く、疾く、早くここから離れないといけない。
彼我の位置関係は屋敷の壁に平行に、距離は5m程度。もしかしたらココは既に彼の間合いなのかもしれない。
生き残るためには、逃げる以外の選択肢なんて取りようがない。
あの場で黒い男と戦う? 冗談じゃない。勝てる気がしない。タイマンでもヤバいのに、時間をかければさっきの二人が来るだろうし、もしかしたら他の仲間も来るかもしれない。そうなったら詰む。
私がヤツを瞬殺できれば問題ないけれど、ビックバン級の奇跡でも起こらない限りは不可能。これは却下。
では見逃してもらえるよう交渉する? 駄目だ。これも悪手と言わざるを得ない。交渉中にあの二人が追いついてきた瞬間、状況は完全に私に不利になる。どちらかが完全に優位にたった状態では交渉なんてものは成立せず、それはただの脅迫になる。
私の盗んだものを対価にしようにも、それはその状況では何の意味も成さない。生殺与奪権は向こうにあり、死にたくなければ従わざるを得ない。命だけは見逃してもらえるかも、なんて楽観視するべきじゃない。これも却下。
じゃあ命乞いでもしてみる? 馬鹿げている。逃げるためとはいえあの二人に攻撃を加え、しかもサムライの方は一度私に撒かれているのだ。簡単に溜飲は下がらないだろう。
命乞いをフェイクに騙し討ちをしようとも、それは最低でも二人以上を同時に攻撃して逃げる隙を作らねばならない。それには念能力が必要不可欠だけど、その発動までのラグの間に潰される。色々と。却下だ。
ただひたすらに、できるかぎり遠くへ。その後どんな行動を取ろうとも、あの場で何かするよりはマシだ。
そんな思いから逃げた私を、あの男が後ろから追いかけてきているのがわかる。
もしかしたら逃げきれるかも、そんな甘い思いは打ち砕かれた。この分だとすぐに追いつかれる。
元々の身体能力の差もあるけれど、先ほどのダメージが効いている。足を動かすたびに痛みが走る。
それでも、追いつかれるとわかっていても、ギリギリまで走り続ける。
その追いかけっこの終わりは、予想通りすぐにやってきた。
ついに私をその射程圏内まで追い詰めた男が背中目掛けて突き出した刃物を、振り向きざまにナイフで横に弾くことで防ぐ。
男は弾かれた方向へ、私はその逆の方向へと体を流され、僅かに距離が開けた状態で対峙した。
刃物による刺突が来るのはオーラが感知していたのでわかっていた。本来であれば回避した上で反撃したかったけれど、予想外だったのはその速度。余裕のない状態の防御は、そのまま私達の実力差を示していた。
それはつまり、このまま戦った場合私が負けるだろうという予感が、確信に変わったということ。勝てる気がしないのではなく、きっと勝てない。
今いる場所は、屋敷の敷地の囲いの手前。敷地から出るのが理想だったけれど贅沢は言っていられないか。
向い合い、月明かりのおかげで明らかになったその顔は、意外に幼く見えた。年齢は10代後半位だろうか。
追手の気配はまだない。この男が私の相手をしているから勝利を確信し安心して任せているのか、以外にもダメージが大きかったのか。いや、後者はないか。
いずれにせよ追われる側の私は、このままココで睨み合う訳にはいかない。
戦わねばならない。その中で私が逃げられるだけの隙を作り出す、或いはこの状況を打破するための一手を考えなければならない。
男に向かって駈け出し、低い姿勢からその懐へと接近して上段にナイフを払うが、それは上体を反らすだけで回避される。
続けざまにナイフを一閃二閃、フェイントを混じえて蹴りを放ちナイフを突き出すも、その悉くが避けられる。
そして私の刺突を往なした男が右手が揺らいだのを認識して私が防御へと体制を変えた直後、刃に映った月の光で線を描くようにして下から袈裟懸けに払われた刃物の一閃を横っ飛びで回避。
すぐさま振り向いた私の目の前に迫った男が追撃を上段から振り落とす。
まだ体制の整っていなかった私はそれを右手のナイフのみで受け止めるしかなくなり、更にその一撃の重さに体が一瞬だけ硬直し、その隙を突いた男の前蹴りが回避できない速度で私の腹部を捉えた。
「っ……!!」
既の所で左腕の防御が間に合いはしたが、その防御を突き抜けて身体に衝撃が走り、息が詰まる。痺れた左腕が掴んでいる袋を落とさぬよう力を込める。
呼吸が詰まった苦しみを感じる暇もなく、その逆の足で顔を横から蹴りつけられて吹き飛ばされ、付けていたお面が砕け散る。
お面のおかげで思ったよりも少ないその衝撃のおかげで膝をついただけで済み、さらなる追撃に先んじて
私の方へと向かおうとしていた男はそれを見て後ろに飛び、直後に地面と接触した卵が割れ、殻と衝撃を撒き散らしつつ地面を抉る。
仮面の下の私の素顔を見ても男に動揺が走った様子はない。まぁ、体格からして子供なのは明白だし、後は男女の違いだけなのでコレはしょうがない。隙ができなかったのは残念だけど。
身体能力はあちらが上、体術も経験からして比べるべくもないだろう。分かってはいたがこのまま戦えばいずれは負ける。
ならばここで、賭けに出る。未だに新手は来ていないし、来ない理由も大体は予想がつくけれどそうだとは限らない。今仕掛けるしか無い。
距離が空いた事によって生まれた戦闘の隙間、それを利用するために立ち上がり、できるだけ余裕を取り繕って口を開いた。
「盗賊さん、私もここには盗みに来た身なんで、私達が戦うのは不毛だと思いません?」
敵同士じゃないんだから闘う意味なんて無いぞ、と語りかける。
私の言葉に反応してくれるかどうかは微妙なところだったけれど、それを聞いた男がその童顔から意外にも低い声で答えを返した。
「あぁ、そうだったのか。いや、どちらにせよお前を倒してからでもゆっくり仕事はできる。心配するな」
そうだったのかとはなんて白々しい。私が屋敷の人間じゃないことくらいわかっていただろうに。それに別にお前のことなんか微塵も心配してない。死ね。
とは言え、この答えは予想通りだ。こう言って見逃してもらえるくらいなら最初から私を追っては来なかっただろう。
重要なのは、私の言葉にこの男が耳を傾けたこと。そしていま彼が言った言葉。
先ほどの金髪の兄ちゃんは言った。目的のブツ、と。
今この男は言った。仕事はできる、と。
つまり滅茶苦茶に無秩序に強奪しているわけではなく、何らかの目的のシロモノを入手する仕事としてこの屋敷に来ているのだ。
組織的に行われるコレは、やはり最重要なのはそれの入手となる。多分だけど、だからこそ私は彼とこの場で一対一の戦闘をしているのだろう。
ならばこそ、私の賭けの成功率も上がる。そうはいっても、成功するには様々な条件が必要なこの策は、状況的にはいくつかクリアしているだろうけれどやはり必ず成功するとは言えない。失敗した時に打つ手も考えねばならない。
その場合のために思考を巡らせつつも、私は左手に持った袋を身体の後ろへと隠しつつ更に言葉を発した。
「そう言われても、私も暇じゃないんで。ノブナガって人が言ってましたけどこれが目的でしょう? これは返しますんで、私はもう帰らせてもらいます、ね!」
こうは言ったものの素直に帰らせてもらえるわけがないので、言い終わるとともに彼が動き出す前に更に手を打つ。
この能力の効果は彼の目の前で実演済み。先程のものよりも大きいそれは、袋とその中身に甚大なダメージを与えるであろうことは想像に難くないはず。ここがこの策の微妙なところでもあるだけれど。
更に、彼の前では物体に接触した瞬間にしか卵は割れていない。本来はいつでも割ることはできるけれど、それを知らない彼からしたら地面につくまでが勝負なのだ。
彼の視線がその袋を追い、更に舌打ちと共に身体がそちらの方に向かったのを見て、私は後ろを振り向いて全力で駈け出し、塀を越える。
痛みが全身を襲うが我慢し、塀が彼から私の視界を遮ったので即座に”絶”に切り替え、後ろを警戒しながら夜闇に紛れて森へと向かう。
森の手前まで来た時に卵が彼にダメージを与えたようで、私の中のオーラが少しだけ回復するのを感じた。しかしその量は僅かなものなので、特に怪我もしていないだろう。それはどうでもいい、大事なのは彼があの袋を追っていったこと。私と彼の現在地は結構な距離があることだ。
そのまま後ろから彼が追ってくる様子はないまま私は森へと入り、しかし油断すること無く進路を直線にはせずに遠くへ、遠くへと走る。
この策が成功するための条件。
一つは彼らの明確な目的。なんでもいいから奪い尽くすのではなく、何か明確なものがあること。コレは会話からしてクリアしているのはわかっていた。
一つはそれの大きさ。あの袋の膨らみ方は、私の顔より少し大きいくらい。それよりも大きな絵画や壺が彼らの目当てだったら袋を投げた時に、何言ってんのこいつ的な反応だったはず。コレが微妙だったのだが、どうやらクリア。
一つは投げた袋。その膨らみ方を彼が見て、コレは違うと判断した場合は失敗だった。コレもクリア。
一つは目的のブツ。彼らの狙いは私が予測したもののようで、コレもクリアだろう。
一つは彼の行動。袋を無視して私を狙う可能性もあり、ここが最大の博打だったけれどクリアしたようだ。
大きさについては微妙とは言え、おそらくそうだろうと判断できる材料はあった。なぜなら私が本を盗んでいた部屋は本の収納に使われていたらしく本棚ばかり、他には幾つかの高そうな装飾品のみだった。
あの部屋にある物が目的だった以上、本か装飾品のどちらかが目当て。ならばサイズはあの袋に収まる程度。
更に投げた袋の形は、私の卵が周囲に展開されているので視界が遮られて見難く、さらに暗闇であることもそれの形を正確に認識するのを妨げる。
そして彼らの目的とは何か。あの部屋の物が狙いだったのならば、あそこにあったのは高そうなだけで態々目的として狙う程でもない装飾品を除けば後は本のみ。なので彼らの狙いはそれだ。
本ならば卵が割れる前に彼が掴んで安全圏まで逃げるか、或いは”周”をして本を守るかしないと中身がズタズタになってしまうのであの状況を無視する訳にはいかない。オーラを盗めたことから、彼の取った行動は後者。
そして狙いが本、と言う事で、あの部屋にあった本棚の本をバッサリ切ってしまったサムライは、黒い男が私に対応したのを知り、私を彼に任せて安否の不明な本を探すために金髪とともにあの部屋にでもいるのだろう。だから来なかったのだ、と思う。
黒い男の行動については、彼の中の優先順位に賭けるしかなかったけれど、アレを追ってくれて助かった。
肉体的にも全身ズキズキと痛いし、その上顔を見られ、あまつさえ能力を一部とは言え知られてしまったのはかなり痛い。
だけど彼らが裏の人間であるのが不幸中の幸いだ。アレがハンターとかだったら顔がバレた上で追われるハメになっただろうけど、裏の人間はおそらくそんな事しないだろう。
今回の私怨で追うにしても、表の奴らがやるように大掛かりなものではなく、個人的なもののはず。であれば、危険はそこまでないはずだ、と信じたい。
正直私のことは忘れて放っておいてもらえるのが一番なのだけれど、追うにしたって戸籍も偽物なのだから難しいはず。まぁ多分大丈夫だ、うん。
夜空の明かりさえあまり差し込まない森の中を走りながら後ろを振り向き、視界に人影が移らず、また追跡されているような足音もしないのを確認して、漸く安堵の息を吐く。
そして左手に持った今日の獲物である
それを大事に両腕で抱えながら、麓の町を目指した。
これが、幻影旅団との最初の出会い。
馬鹿みたいな奇跡が起こした巡り合わせの始まりだった。