Báleygr   作:清助

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第三話「コックピット」

「968………969………」

 身体を支えている腕はがくがくと震え続けていた。

 額から流れる汗が濁流のようにぼたぼたと地面に落ちていく。

 高地特有の空気は始めこそ新鮮に感じたが、修行をするとなると圧倒的に少ない酸素量に愕然とする。

 腕立て伏せを口に出すことは簡単で、想像も容易にしやすい。

 だが、実際にやるとなると50回ほどから腕が体重を支えきれなくなり、70回付近から心が折れてくるのはもう理解した。それが1000回を目処にするとどうなるかも、もう理解した。

「……972……いいいいいいいいっ!」

 既に何十回目だろうか。

 限界を超えた両腕が悲鳴をあげて、体重の重みと共に落ちるように地面に叩きつけられる。

「くふっ……うう…………うううううううっ!」

 食いしばった口元から自然と獣のようなうなり声がでる。

 身体を起こそうとしても手がぴくりとも動かない。自分自身でも何を言っているか理解できない絶叫をあげながら、肘を稼動区間にして無理やり姿勢を正した。止め処なく出てくる涎が滑稽にさえ思える。

 荒い呼吸を抑えて、息を整えようとする。

 ――と、灼熱の違和感が身体を襲った。

「うえっ……がっ……げえええええええっ」

 胃の中の物をすべて吐き出す。胃液も汗もまとめて滅茶苦茶にぶちまけた。

 そのまま無くなったかのように錯覚した両腕と共に、今しがた形成した吐瀉物の中に身体を沈ませる。

 ペースト状に溶けた今朝の食べ物を見てもったいないな、と思う余裕はまだあるようだ。

 精神は限界まで稼動しているのに、限界を超えた身体は鉛のように機能しない。

「休んでいいと誰が言った。あと100追加だ」

 今しがた無防備な人間に容赦なくオーラを浴びせた師匠――そう呼べと言われた――が、冷徹な言動で罰を述べた。

 奥歯を強く噛んで漏れ出そうになった泣き言と悪態を飲み込む。

 俺は絶叫しながら腕立て伏せを続けた。

 結局その後1300回まで回数が伸び、早朝に昇り始めるのを見た太陽は既に真上を通り越していた。

「なに? この汚いの……」

 どうやら知らぬ間にぶっ倒れていた俺の頭上で、細いソプラノボイスが響く。

 両腕が動かないので芋虫のように地面に這ったまま視線をあげると、師匠の横に知らない少女が立っていた。

 セミロングの真っ直ぐな黒髪で、人形のような端正な顔立ちをしている。こちらを見ている視線は砂漠の夜のように冷たい。はっきり言って俺の嫌いな眼だった。

 片手にはカツサンドが握られている。

 もぐもぐと喋りながら話す様はかなり失礼極まりない。残念なタイプだ、と俺は心の中で呟いた。

 肝心の師匠はというと、切り株の上に腰掛けて文庫本を愛読中だ。表紙に18禁な絵が描かれているのには突っ込んでもいいのだろうか。

「あんた誰だ?」

「こっちの台詞。最近、里に戻らないかと思ったらまた弟子を増やしたのかしら、兄さんは?」

 少女は咀嚼を続けながら呆れたように師匠を見ていた。

 言葉から判断するに、どうやら妹のようだ。厳格そうな妹に若干眉をひそめた兄は、読んでいた本をぱたんと閉じる。

「お前と同じ《クルタ族エピソード系》の解除条件者だ。共にいればお前の解除もより容易になる」

「そんな事は聞いてない。最初から里にいたアルバインはともかく、私はまだ兄さんの弟子のつもりってことはわかっているの? こんな所にいないでこの人つれて集落に戻ってくればいいのに」

「オレなりに考えがあるんだ。お前への修行も、この後直ぐに再開するつもりだから心配しなくていい。こいつは念をまだ覚えてもいない阿呆だから、なるべく基礎を早く学ばせた方がいいと思ってな」

 まあオレの方の苦労もわかってくれ、とチーボ師匠は小さく呟いた。

 それを聞いて少女は悲しそうな顔を一瞬見せたあと、カツサンドを食べ終えた手を払いながらこちらに顔を向けた。

「キシュハよ。あなたは?」

「ルカだ。師匠の妹さんか……」

 二人の髪の色が違ったので気になったが、深い事情があるかもしれないので聞かないことにする。

「あなた、とても臭うわ。兄さんの下で修行を初めてどのくらい?」

「2ヶ月。山篭りだから当然風呂には入ってないし、水行にもいかせてもらってない」

 形の良い眉を潜める少女。

「……ひょっとして、弟子の志願はあなたから?」

「そうだけど?」

「追い出しコースか……よく耐えられたわね……」

「…え?」

 侮蔑の視線から一転して憐憫を浮かべたキシュハに首を傾げる。

 彼女は感心したようなため息をついていた。

「あなたみたいに食い下がってきた面倒な志願者のために、わざと厳しくあたる兄さんオリジナルメニューのこと」

「……」

そのまま師匠に視線を合わせると、うんうん頷いていた。

「正直根をあげると思って適当にしごいてた」

「待てコラ」

 今までの死にそうなくらい激しい修行は何だったのだろうか。

 1日中筋トレしたり、殴られ続けたり、ほふく前進したのは何だったのだろうか。

 よく考えればほふく前進とか修行とは全く関係ないことに気づかなかった自分とは何だったのだろうか。気づけ自分。

「今、ルカ君はとても泣きたいです師匠」

「泣いていいぞ」

「悪魔めっ」

 頼みを承諾された時、向こうもわりと運命的な出会いだと感じていたはずだ、と感動していた俺の思考は完全に錯覚だったようだ。

 この男は自分では格好良い事言っているつもりだろうが、言動が壊滅的に理不尽ドSだということに気がついていないのだろうか。いや気づいているな畜生め。

 俺が呆然としていると、キシュハも不憫に思ったのか半笑いで慰めてきた。

「まあ、私が呼ばれたってことは本格的に指導が始まるってことだから」

「……そりゃ良かった」

 見た目完全年下の少女に慰められつつも、台詞の内容に僅かな希望をもつ。

 キシュハは後ろに振り返って少し大きめの声を出した。

「兄さん。それで、起こしていいの?」

「ああ、やってくれ」

「?」

 二人のやりとりに疑問を抱いていると、キシュハがこちらを向いてにやりと笑った。

 兄と同じS顔だった。

 どうにも嫌な予感しか思い浮かばない。

「天才と凡人の境目は、いつも神様だけが知っている……あなたはどちらでしょうね」

 とん。

 心臓付近に手を軽く置かれた。

 電流を流されたような衝撃が襲う。

 湯気のように身体から魂そのものが抜けていく感覚。

 おいおい、これは――。

 まさか。

「強制的に、念を起こしたのかっ……!」

「阿呆。幻影旅団が来るまであと約3年だ。悠長にゆっくりと起こして貰えるとでも思っていたのか? ほら、とっとと念を纏えないと死ぬぞ」

 腕を組んだ仏頂面のまま、チーボ師匠が告げてくる。

 そう言っている間にもどんどんオーラが流れ出ていく。

「……っ、わかったよ」

 俺は深呼吸しながら瞳を閉じた。

 確か血液の循環が最も定着させやすいイメージだったはずだ。落ち着いて身体の周辺をぐるぐると回すイメージを作る。

 頭から全身に、全身から中心に。

 行って帰り、また行く命の想像。

 だが感じる。

 出てる、出てる。

 やばくね、これ。

 循環だから心臓か? 心臓から流れいくようなイメージか?

 出ている、出ている。

 ああ、やばいやばい。

 どうすればいいんだ?

 思えば血液の循環と言われても、正確な医学の知識でもない限り精密な想定など不可能なはずだ。 論理的ではなく感覚で掴めということなのだろうか。

「安定していない。余計なことを考えてる」

 はっと目を開く。

「漫画の知識を鵜呑みにしてない? オーラをこじ開けた同胞は、恐らくそれで全員死んだと思う。あれはウィングのオーラで、ウィングがそうしやすいようにイメージしてこそ血液の循環なんてイメージで自身のオーラを纏えるようになるのよ。でも、実際はそうじゃない。念というのは、乗り方さえ知っていれば誰でも扱える自動車なんかじゃない。あなたの今の状況は、墜落していく飛行機のコックピットに乗った状態と同じ」

 キシュハがこちらをじっと見ていた。

「大事なのは、自分が最も自然体だと思える形にもっていくこと。基本に史実に、とか考えちゃだめ。一番楽な姿勢なら寝そべってもいい。上手くいえないけど、オーラを留めることよりも「自分の在り方」みたいなのを考えたほうがいい。それが、自然体ってこと」

 表面上では兄と同じ仏頂面だったが、その視線には心配の色が見て取れた。

 俺はそれに小さく笑うと、再び意識を沈める。

 在り方、在り方。

 自分の最も自然な在り方ってなんだ。

 脱力? やる気のなさとか? 

 正義。努力。友情。勝利。

 嘘だな。

 変化。後悔。皮肉。空虚。

 助けられない。助けない。

 ん、何を考えている?

 溶け込む。解け込む。融け込む。熔け込む。

 誰にも咎められないように。

 誰にも見られないように。

 あれ?

 ん?

 えっと。

 ああ、そういえば。

 空気のようになりたかったっけ?

 ――ふっ、と身体からすべての存在感が抜けた気がして。

 俺は死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ている。

 そう、夢だ。

 どうにもメルヘンチックな、くだらない夢。

 

 誰も死んでいないのに、皆は誰かを殺したいのだろう。

 その中に俺が入っていたことに、俺は自分自身を否定することはできなくて、許してくれとも思わない。

 ちらりと教室の隅を見やると、窓際の机の上に花瓶が一輪置かれている。

 まるで誰かが死んだみたいだ。

 教室の扉ががらりと開く。

 伏せ目がちに入ってきたその女の子は、注目されている目の中を頼りない歩みで通り過ぎていく。

 俺はそれを横目で見ながら友達と談笑している。まるでそこにいないかのように、自分に嘘をついて息をしている。

 彼女は席においてあった花瓶を見ると僅かに震えた。

 隠すようにそれをどかそうとするが、花瓶の底は接着剤で癒着してあり、そんな簡単には取れないのだ。花瓶と拮抗する白く細い腕には痛々しい痣がついている。

 不意にくすりと笑い声がした。

 嘲りだった。嘲笑だった。

 笑い声は少しずつ大きくなり、彼女をすぐに包み込んでいった。

 何故立ち尽くすことしか出来ないのだろう。

 教室に彼女の居場所なんて何処にもないのに。居場所がないのなら作ればいいのに。作れないなら逃げればいい。

 立ち尽くすことなんて誰でもできる。

 行動を起こせば、世界はどうにでも変わるのに。

 なんで、何もしない道を選ぶのか。

 俺は唇を真一文字に結ぶ。

 そうしてそんな資格なんてないのに、哀れむように彼女に視線を向けていた。

 下らない遊びだ。別に誰だって良かった。人より少し臆病なだけで、彼女は運が悪かっただけだ。

 震える彼女は周囲をきょろきょろと見渡していた。

 そんな縋るような瞳が、昨日まで普通に会話をしていた俺自身を捕らえる。

 助けてと、いつもみたいに助けてよと。

 川で溺れた子みたいな、そんな苦しそうな瞳。

 お願いだ。

 そんな眼で俺を見ないでくれ。

 俺はそこにはいないんだ。そこには行けないんだ。

 お前が悪い。何もしないお前が悪いんだ。

 反射的に立ち上がろうとした足を押さえつける。前とは違ういいようのない恥ずかしさが脳内を駆け巡っていた。重なった視線をたまらず外して第三者に紛れる。

 その時のその子の目をまともに見ることなんか、きっと神様だってできやしなかっただろう。

 ただ、もう戻れないような気がして。

 俺は空気のようになりたくて――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――《ブラックジャック》。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……っはあ!」

 水面から出たような感覚。

 いつの間にか流れていた涙で視界が見えなかった。喘ぐように呼吸をして少しの間だけ入っていなかった酸素を全力で補充する。

 俺の胸元から手を離したキシュハは短いため息をついていた。

 呼吸を整えながら俺は手を凝視した。

 流れる半透明のオーラがそこに感じ取れる。

「……一瞬、死んでたよな、俺」

「いいや」

 腕を組みっぱなしだった師匠はきっぱりと言い放った。

「3回は死んでいたな」

「4回よ。さすがにこっちのオーラがつきそうだった。ここまで凡人だった同胞は久しぶり」

 そう言ったキシュハは頭を抱えながら切り株に腰掛けた。

「医療系の能力者だったのか」

「そうよ。よくわかったね」

「某有名医療漫画の題名が聞こえた気がする」

「う……」

 師匠がせせら笑った。

「能力名を発動と共にいう癖は直したほうがいいぞ、キシュハ」

 そう言われた彼女の白い頬が若干赤く染まる。

「人の事言えるの? 言ったほうが精密に動くし、誰彼構わず自分は強化系ですって言いふらす誰かさんよりは全然ましだから」

「強化系は皆いうもんだ」

「あー、はいはい馬鹿馬鹿」

 付き合ってらんないとばかりに、キシュハは手を横にふった。

「まあとにかく――」

 師匠はこちらに向き直って、あの野獣のような笑みを見せた。

「こちらの世界へようこそ」

 その巨躯に纏うオーラは遥か大きい。

 だが、感じ取れる程度には成長したということだ。

 俺は両手を強く握りこむ。

 先ほど見た己の夢は、道化のように忘れたふりをした。

 

 




キシュハの能力の元ネタはもちろん某漫画です。

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