「はぁ…………」
深い深い溜め息がリーシャの口から漏れる。理由は先ほど太陽の砦の奥深くで取り憑いてきた女。
それが脳内で絶えず言葉を発してくるから性質が悪い。まともに取り合う事はしていないが、それ故に女は黙らない。
やれ『あの子は元気?』だ。やれ『ご飯は食べてる?』だ。もし彼がそれを聞いたら『お前は母親か!?』とキレ気味に言う事だろう。事実母親なのだが。
そう、取り憑いてきた女はアルクェイドの母親なのだ。それもアグニと共に消えたと思っていた残滓に過ぎない――はずだった。
それが何故か今もこうして残滓どころか明確に意志を持って残っている。
訳が分からないとリーシャは嘆いていた。
「そもそも、なんでデッドさんは残っているのですか?」
『なんで、でしょうねぇ……あ、さん付けだなんて他人行儀止めて、お義母さんでいいのよ?』
「はぁ…………」
これだ、一番の嘆いている理由がこれだ。彼女自身が今現代に残っている理由は彼女も分からない。
それ以上に、この
「なんで貴方の体は先走ってクロスベルに来ているのですか?」
リーシャは頭を振って気を持ち直し、内側のデッドへと問う。
彼女の体は恐らくシュリが見つけた女なのであろう。それがどういう訳か中身なしで先にクロスベルへと来ていた。異形の姿を取ってまで。
『単純に、待てなかったのでしょう。私がアレに入れるまでにはそれなりの時間を要します』
「先に入った少しばかりの欠片にあの場の残滓が呼応して意思が無い状態で目的も無く先走ったと?」
『ええ、おおよそそうでしょう』
考えてみれば単純な話なのやも知れなかった。放っておけば、そう遠くないうちにあの場等に残っていた怨念の残滓は時間と共に消えていただろう。
それを良しとしなかった意思が残滓に有ったのかどうかは分からないが、何故か比較的まともに残っていたデッドの意思に呼応してしまった。と、言う事なのだろう。
「で、結果として黒い塵となってクロスベルにやって来た……これまた面倒な事になりましたね」
『私自身にナニカをする心算は有りませんが、やはり何が入っているかは分からないという事は何が起こるかも分かりません』
「貴方がそこに入る事は可能ですか?」
『いえ、恐らく無理でしょう。誰かが入っているいない、どちらにせよ私がそこに入るには時間を要します』
絵の具が溶けた水のようなものとデッドは言う。水に絵の具の固まりを入れて自然に解けて広がる事で彼女は体を得ようとしていた。
だが、何が原因か分からないが広がった一部ごと
むしろ、誰かの体となっているのは確かで、そこに無理矢理入ろうとすれば器が壊れるだけである。
『私の一部が入っているとはいえ、私の思い通りになる事は、枷にはなれど強制させる力はないでしょう。要は子供が新たに出来たみたいなモノですよ』
「そう……ですか」
どうもすっきりとしない答えが返ってきて、リーシャは肩を竦めた。
『で、で、リーシャちゃんはあの子ことどう思ってるの?』
「は…………?」
いきなり突拍子の無い質問にリーシャは呆気に取られた。
「…………どうも何も既に分かっているでしょう」
『違うの! 私は! リーシャちゃんの口から聞きたいの!』
今更何を言っているのかとリーシャは大きく溜め息をついて言う。想い人の事を聞かれて顔を赤くするほど彼女は初心ではない。分かりきった事を言う心算もない。
半分同化しているとはいえ、デッドが分かるのは大まかな感情のみ。こうして対象さえ出してしまえば、どういう感情を抱いているかは分かるが、その蜜の様に甘い感情の内側までは分からない。
デッドはそういう感情の海に沈んでいたが故に大体は分かるが、詳細を知りたいのだ。端的に言えば、惚気が聞きたいのだ。彼女は、息子を好きでいてくれる少女の言葉で。
「市内に入るので少し黙っていてください」
人目がある所で独り言などして奇異の目で見られるのは勘弁して欲しい彼女は額を押さえながら言うと、デッドは渋々ながら了承する。
ただでさえ、アルカンシェルの女優として人目を集める彼女がおかしな行動をしていればたちまち騒動になる事は火を見るより明らかだ。例えそれが戦時中だとしても。
少し溜め息をつきながら旧市街へと向かって歩いていると反対側からアルクェイドが魔導二輪に乗って向かって来た。
「あ……」
その時、リーシャは思った。これはまずいと。デッドがこれ以上無い程にうざくなると。
「何してんだ、お前」
その泳いでいる視線を察したのかリーシャの前で止まったアルクェイドは訝し気に彼女を見る。
『アーくーん!』
「え……?」
どう言ったものかと苦笑していると予想通りデッドはアルクェイドに向けて飛びかかった。しかし、それに対して彼は何も無いかの様にずっとリーシャを見ている。
「さっきからどうした?」
デッドが霊体故に触れないだろうと思っていたが、まさかアルクェイドが見えていない事は予想外だった。デッドは自らに気づいて欲しい様で、何度も何度もアルクェイドに飛びかかりは通り抜け、耳元で声を上げては目の前で手を振る。
が、満足にいく効果は得られなかった。
「いえ…………何処か行くの?」
「あぁ、馬鹿にどついてこようかと思ってな」
「あまり無茶させない様にね」
相変わらずキーアに対して辛辣な言葉を発する彼に嗜める様な事を言うが鼻で笑われるだけだった。
一応一連の事件が終わっても今も彼のキーアに対する態度は変わらない。
立場的には伯母になるのだろうが、それに対して敬意を払う気はない様だ。
「では、な」
アルクェイドはそのまま返事を聞かずに発進していった。
『アーくんに無視されたー』
最初から最後まで気づかれる事すら無かったデッドは滝の様に涙を流していた。
そんな彼女を見ながらデッドの性格が軽いというよりは、起伏が激しいとリーシャは認識を改めた。心の海に長年居たせいかとも考えたが答えは出ない。
「しかし、変ですね」
『変も何もアーくんがグレたよー』
「いえ、そこは前からです。問題は
確かにアグニがいた世界からはズレているが、アルクェイドやリーシャと言った一部の人間は前の世界の記憶を持っている。それは前の世界のまま、彼女達だけが世界からズレているとも言える。
『どういうこと?』
えぐえぐと泣いたままのデッドはリーシャの説明を聞いてもピンとこないようだ。
「ですから、私もそうですが中身は同じなのですよ。ケイくんもレンちゃんも記憶を持っている事からして。で、あるならば私が見えているなら彼が見えていないのはおかしい。更に言うなら同じ怨念側に近い彼が怨念である貴方に気づかない筈が無い」
『じゃあ、わざとってこと?』
「それはそれで、おかしいでしょう。彼が見えているなら貴方は殺されていてもおかしくはないでしょうから」
ある種の同族嫌悪を持っているアルクェイドならば、反射的に視界に入れた瞬間に殺しに来ていてもおかしくはない。むしろそれが普通なのだろう。ならば、本当に気づいていなかったとなるが、そちらも些か疑問である。
もっとも、先に拒絶反応が来るのだろうが。Dやキーアを見たときの頭痛や吐き気はそれが原因だ。
だからこそ、それらに当て嵌まらないのが不思議だった。
「まさか…………」
『どうしたの?』
「いえ、結局答えは出ないでしょう」
答えが見つからない以上、無駄な思考は愚行に劣る。余計な先入観は足を引き摺るだろう。
「とりあえず、会わせてみるのが手っ取り早いでしょう」
デッドとあの女性を対面させた方が何か理解できるだろうと考えた。もっとも、何も起こらないという確信に近い予感はしていたが。
そんな彼女を待っていたのは、破顔していたシュリだった。
メゾン・イメルダに入った時に丁度シュリも女の部屋から出てくるときだった。
「あ、おかえり」
「ただいま。何か良いことでもあった?」
ずっと笑顔のままのシュリにそう問いかけてみると、女性が名前を教えてくれたという。
「D……」
アルクェイドやブルブラン、そして死神がそうであったようにアルファベットの一文字。であるならば、そのDがデッドコピーの頭文字で有ると考えれば、彼女らの関係にも予想がついた。
けれど、だからこそ先程の出来事が頭に引っ掛かっていた。
「入りますよ」
兎に角、彼女に会ってみるしかない事には変わりなく、リーシャはDの部屋をノックする。返答がないことはいつものことなのでそのまま入る。
Dは部屋に入ってきたリーシャには特に反応せず、呆然と意味もないまま前を向いていた。
「D、あなたの名前はDと言うらしいですね」
「……………」
リーシャの呼びかけにゆっくりとDは顔を向ける。けれど、依然として言葉を発しない。
それは甲斐甲斐しく世話をしてきたシュリと違い、彼女が信用されていないからなのか、まだ色々と言葉の意味が理解できていないのか。
「反応、ありませんね」
『みたいだね~』
デッドがDの前で手を振ってもDは特に反応しなかった。アルクェイドと同じように見えていないかのように彼女の視線はリーシャにのみ向けられていた。
「あ、なた、は」
「何でしょうか?」
「だい、しょうぶ、なで、すか? そのなま、で」
「……え?」
ボソボソと拙い呂律ながらもDは何かを伝えてくる。
Dの言っている内容は分かったが、どう言う意味なのか理解できなかった。
「大丈夫って何が? そのままってどういう……」
そう問うたところで明確な答えは返ってくる気がしなかった。それでも口にせずにはいられなかった。嫌な程に耳にその言葉が纏わりついてくる。
それは決して恐怖ではない。それどころか自らでもゾッとするような歓喜だったから。自然と体が震えた。下腹部の奥が疼くくらいには。リーシャの口から艶やかな呼気が漏れる。
その姿をデッドは歪んだ笑みで見ていた。
* * *
「…………なんだ?」
不意に背筋に寒気が走り、身震いをしたアルクェイド。キーアに問いに行ったが満足できる様な回答ではなく、どうしたものかと思案していた。
しかし、どうせ納得できるような答えなど浮かばないと予想して魔導二輪に腰掛けて、近頃帝国で噂の動力バイクの資料を見ていた。片やアーツや蛇の技術を利用した導力、片や熱を利用した動力。似て非になるソレの資料はアルクェイドに非常に価値あるもので、考え方の違いではあるが故に彼はとても感心していた。
しかし、そのような喜色から勝手に歪んでいた口元が寒気で一瞬で閉口する。落としてしまった資料を無造作に拾いながら辺りの気配を注意する。が、教会付近に人がいる程度で彼に意識を向けている誰かはいなかった。
「…………」
気のせい等という不確かな思い込みを理性で踏みにじって考える。アルクェイドのような強者が感じた悪寒は絶対に後に響く。ましてや、より不思議な存在がいる今、気を抜く理由に気のせいという思い込みは悪手である。
情報は集まらず、確証どころか考察できる程ですらないのだから、備えるしかない。それ故に、備えを怠ったらどうなるかは明白。
だからこそこうして警戒し続けているのだが、本当に彼が知覚できる範囲には何も無いようだった。
警戒を止めたアルクェイドは大きく息を吐く。殺気に近いがどこか微妙に奇妙な気配に首を傾げる。チリチリと焦げ付くような熱気が未だに背筋に残っていた。
「訳の分からない事だらけだ」
彼は忘れていた。いや、覚えてはいるがその時の感情など理解できる精神ではなかった。それは彼だけ無く彼女もだった。互いに餓えていた。ソレすらも忘れていられたのは一般的には幸せだったのであろう。
しかし、時は巡りこれまた因果の力の酔狂か。最初もそう、再会もそう、そして想いの成就もそうで非なければならなかった。
繋がりに固執して逆に切り落とした彼女。繋がりで有る事を唾棄して蹴り飛ばした彼。その飽いた心を埋めるに相応しきは互いに喰らう事。
理解も知覚もしていない。ああけれども、チリチリと背に焦げ付く熱は彼の体を伝って行く。
蛇の誰もが基本的には餓えている。そこを満たせるモノは各々違うが、彼は殺戮天使、怪盗、痩せ狼のどれにも似ているが何処か違う。
普通の愛は知らぬ。ただの輝きでは焦がされる。殺し合いでは物足りない。故に求める。歪な心を。下世話な情欲ですら甘美な神酒に感じて。
――さぁ、彼女の体は知覚した。己も舞台に上がられよ。姫君はお前が来るのを待っているぞ。
「あぁ……」
アルクェイドからおぞましくも耽美に感じる程に荒々しい欲望が篭った呼気が漏れる。
「今夜が楽しみだ」
今宵は新月。月が陽で輝く光を遮る朔の日。深い深い闇の中。
――さぁ、逢瀬を重ねよう。童の時と同じ様に。