衛士アニエスの平穏な休日   作:琥珀堂

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あらかじめ言っておくと、コメディではない。


辛子色のカーテン

 私が老人と出会ったのは、十八歳の秋のことだった。

 それ以前の私は、剣の修業と情報収集を兼ねて、傭兵の真似事をしながら諸国を巡っていた。盗賊どもと血みどろの死闘を演じたり、獣たちの住まう森の中で野宿をしてみたり、お世辞にも文明的な暮らしではなかったが、我が故郷であるダングルテールを焼いた憎き仇どもを探し出し、討ち果たすという目標のためなら、その程度の苦難は喜んで受け入れられた。

 しかし、気合いと修業だけで何もかもうまくいくほど、世の中はうまくできておらず――具体的には、路銀が尽きて腹が減った――やむなく、衛士見習い求むという公募に申し込んで、いち公務員としてトリスタニアに落ち着くことになった。

 最初は女ということで、先輩の衛士たちにちょっかいをかけられることもあったが、戦うことに関してはこっちの方が先輩だったから、思いきり叩きのめすことでいろいろと解決した。連中の積んでいる修業ときたら、まるで棒きれを使ったままごと程度のものなのだ。酒場でケンカをするゴロツキなんかを押さえ込むにはそれでいいかも知れないが、オーク鬼や盗賊メイジとやり合ってきたもと傭兵を押し倒したいなら、もう少し鍛え方を考え直すべきだろう。

 ……しかし、この『充分に鍛えられている』ということが、全面的に良いことかというと、そうでもない。

 私がそのことに気付いたのは、下宿先のおかみさんであるノンノおばさんに、こう言われたからである。

「ねえアニエスちゃん、前から思ってたんだけどね、あんたちょっと休んだ方がいいよ。このままじゃ、いつか体壊しちまうよ?」

 黄色がかった白髪を、頭の上で玉ねぎのようなお団子にしている、まるまると太ったミセス・ノンノは、その日の仕事を終えて帰ってきた私を見るなり、心配そうな顔をしてそう言ったのだ。

 こちらにとってはまったく意外なことだったので、私はきょとんとする他なかった。とりあえずいつものように、衛士用の軽鎧を脱いで、傭兵時代から愛用している剣とともに棚の上に乗っけて――軽く首を傾けて、凝った肩をゴキゴキゴキっと盛大に鳴らしてから、先の忠告の真意を問い直してみることにした。

「おばさん、いきなり何を言うんだ? 私はこの通り、全然元気だが……」

「元気な人はそんなに肩鳴らないよ。家具職人やってるうちの人の方が、まだずいぶんマシってもんさ。

 衛士の仕事が、鍛えなきゃやれないもんだってのはわかるけどね、休める時はちゃんと休まないと。あんた、非番の日だって庭で一日中剣振ってるでしょ。あれはだめ。疲れは自分で感じなくても、いつの間にか溜まっていくもんなんだから。

 ほら、鏡見てごらんよ。若いのに、肌が土気色してるじゃないか」

 呆れたようにそう言われると、さすがの私も、今まで無視していたものが気になってくる。確かに、一晩寝ても疲れが抜けないような感覚はあった。肌も荒れ気味なのも、わかってはいた――ただ単に、そんなことに注意を払うほど、「女」をしていなかったというだけのことだ。

「むぅ。おばさんの言うこともわかるが、鍛練を休むというのは、どうにも落ち着かないものが……」

 なにしろ、毎日やっていることだから。怠け者が急に働けと言われてできないのと同じで、普段と違うことをするというのは、心理的な抵抗が大きい。

「まあ、アニエスちゃんは真面目だからねえ……頑張りたいって気持ちに棹さすのもあれだし……。

 じゃあ、そうだね。按摩屋さんにでもかかってみたらどうだい?」

「按摩?」

「そう、按摩。ほぐし屋さんさ。チクトンネ街の奥の方にね、腕のいいのがいるんだよ。あたしも時々世話になってる。休むのが嫌ってんなら、せめて筋肉ほぐしてもらって、血の巡りをよくしてきた方がいいわ」

 正直言うと、あまり気が進まなかった。按摩などというのは、か弱い年寄りや病人がかかるものだと思っていたからだ。

 しかしまあ、せっかくすすめられたのだし、一日休んで手持ち無沙汰になるよりはいいか、と思い、おばさんにその按摩屋の住所を教えてもらうことにした。

 

 

 チクトンネ街は、王都トリスタニアの裏側とでも呼ぶべき通りで、はっきり言えば薄汚れたガラの悪い場所だ。

 道のあちこちにゴミや汚物が散らかっているし(割れた酒瓶と嘔吐の跡が隣り合っているというのが、何とも象徴的だ)、いかがわしい店も多い。娼館に、怪しい匂いを漂わせている秘湯屋、窓の奥から、微かに「おでれーた」と不気味な声が響いてくる武器屋……自発的に足を運ぶには、ちょっと抵抗がある。

 チンピラやスリもたくさんいるが、そちらはあまり気にしていない。もし絡んでくるようなら、むしろ喜ばしい。正当防衛という名目で、遠慮なくどつき倒して踏みにじって、ストレスの解消ができるからだ。

 しかし結局、誰にも絡まれることなく(衛士としてしょっちゅうチンピラ狩りをしているから、顔を覚えられて警戒されているのだろうか。残念だ)、私は無事に目的の店にたどり着くことができた。

 ナローズ紅茶店の二階――鈍い灰色の、ひび割れだらけの石造りの建物に、紅茶店の看板を見つけたので、その外付けの階段を上っていった。

 上った先にも、按摩屋の看板はない。ただ、よく磨かれた松材の扉があったので、それをノックして、中に呼びかけた。

「はいはい、はいはい。どうぞお入りになって……鍵はかかっておりませんので」

 扉の向こうから、しわがれた声でそんな応答があったので、私はノブを回して中に入った。

 あまり広い部屋ではなかったが、驚くほどに明るく、整頓されていることに驚いた。ネズミ色のタイルが敷き詰められた床は、水飴でも塗ったようにピカピカだし、クリーム色の壁や天井も、しみひとつない。左手には、畳まれたタオルや香料の瓶が並んだ棚があったが、これもまるで家を建てるためにレンガを積み上げたかのごとく、ぴっちりと隙間なく、秩序を持って収められていた。部屋の中央には、木彫りの猫が乗った丸テーブルと、二脚のスツール。扉の対面にある窓が開いていて、そこから風が吹き込んでいている。辛子色のカーテンがはたはたとはためき、その向こうに青空が見えた――あまりに清潔で――ここは、本当にチクトンネ街なのだろうか、と訝しんでしまう。

「はいはい、お客様ですかな? いらっしゃいませ、いらっしゃいませ……」

 先ほどのしわがれ声が、右手から聞こえてきた。そちらを見ると、壁からじわりと染み出るようにして、小柄な老人が姿を現した。

 別に、怪奇現象が起きたわけではない。その壁に、隣室に通じる通路があって、そこに壁と同じ色の薄い暖簾がかかっていたというだけのことだ。老人はその暖簾を右の手でかき上げながら、私の方に顔を向け、こくり、こくりと、鶏のように首を動かした。

 百年生きていると言っても不思議ではないような、萎びきった爺さんだった。腰は曲がり、黄色っぽい肌には無数のしわが刻まれ、高い鼻まで萎れていて、まるで水気のないピクルスのよう。頭ははげ上がって、耳の後ろに縮れた白髪がわずかに残っている程度。

 そして、その両目は――左右のまぶたは――固く閉じられ、まったく開かれる気配を見せない。

「おや」

 巾着袋のようにすぼんだ口から、疑問混じりの言葉が漏れた。

「初めてのお方ですかな。どうも、わしの知っている人の気配でないように思われるが……」

「あ、ああ。家具屋のノンノさんの紹介で来た」

 老人の異様な雰囲気にたじろぎながら、私は答えた。

「ほう、ほう、家具屋さんの。あそこの奥さんと、ご主人のジャックさんには、大変ひいきにしてもらっておりますわい。

 っと、失礼、いつまでもお客様を、玄関に立たせておいてはいけませんわな。どうぞこちらへ……」

 老人は手招きをして、私をクリーム色のカーテンの向こうへと誘った。

 通されたのは、あえて言うなら、施術室とでもいうべきところだった。手前には薄い水色のつい立てがあり、それを回り込むと、白いマットレスの敷かれた簡素なベッドがひとつ。その枕が置いてある側に、大小様々な大きさの砂時計が乗ったテーブル、タオルの積まれたチェストが並び、そして一番奥には、ケトルの乗せられた、小さなかまどが据えられている。

 かまどには火が入っているが、ほんのりと暖かいだけで、暑くは感じない。部屋の左右に開かれた窓から、充分に換気がされているからだろう。

 老人はベッドの下から、手探りで籐編みのカゴを出してくると、それを私に差し出した。

「どうぞ、お荷物やお召し物をこちらに。上着など厚みのあるものと、靴を脱いで頂ければ充分ですので。準備ができましたらば、そこの寝台に、うつぶせになって下さいませ」

 む、やはり脱がねばならんか。それはまあ仕方がないが――しかし、この期に及んで、この老人以外に人の姿を見ないということは、ひょっとして――。

「なあ爺さん。もしかして、あんたが私を揉むのか?」

 そう聞くと、老人は何でもないようにこっくりと頷き、シワだらけの顔を笑わせた。

「へえ。わし独りでやっとりますもんで。まあ、お若い方に比べれば頼りなく見えるかも知れませんが、これでも按摩一筋五十年です。腕にはちっと自信がございますよ」

 素朴に応える老人。私が言いたかったのはそういうことではないのだが……まあ、こんなよぼよぼの爺さんなら、いやらしいことも考えたりしないだろうし、変に意識するのも失礼か。

 とにかく、言われた通りに、服をカゴに放り込んでいく。セーム革の上着と、麻のズボンを脱いで、肌着と下穿きだけになると、なんだか急に老人の目が気になりだす。彼の目が見えないというのはわかっているが、それでも落ち着かない。

 その格好で寝台に寝そべると――乗った瞬間、ぎしりと脚柱が軋む音がした――私の背に、老人が大きなタオルケットをかけてくれた。柔らかくて肌触りがいい。よほど丁寧に洗濯しているのだろう。

「まず、どこがおつらいか、お聞きしても構いませんかな」

 顔の前で腕を組んで、枕を抱くように姿勢をととのえていると、頭上から老人がそう問いかけてきた。

「そうだな……正直なところ、自分でもよくわからないんだが……疲れているとしたら、やはり肩や腕かな。剣の練習をしているから。

 剣術家や軍人を揉んだ経験はあるか? そういう人たちにやるように、やってみて欲しい」

「へえ、へえ。かしこまりました。お任せ下さい……そういう体を使うお仕事の方々は、たくさん揉んできましたんで。

 そんじゃ、さしあたり三十分ほどやってみますんで、もの足りんようでしたら、また言うて下さいませ」

 そう言って、老人はテーブルの上の砂時計を、ひとつひっくり返した。一番小さいあれが、三十分用のタイマーなのだろう。しかし、目の見えない彼が、どうやって砂の落ち切ったのを確認するのだろう? 不思議に思いながら目を閉じると、途端に疑問が解けた。静かな部屋の中で、砂の落ちるさらさらという音は、わりとはっきり聞こえるのだ。この音がやんだ時、彼は施術を終えるのだろう。

 背中に、軽い圧迫感。老人が、あの枯れ枝のような手を乗せたのだ。そして、その圧力が、ぐぐっ、と一点に集中し、深まっていく。

 背骨と肩甲骨の間の部分を、圧力が滑っていく。力任せに押し込んで、固まった筋肉を崩すのではない。一定のリズムで、押して、緩めてを繰り返すことで、押されたところがもとに戻ろうとする反発を利用して、自然に筋肉をほぐしているようだ。

 肩甲骨に沿うように、圧力が移動していく様子は、まるで骨にこびりついた疲れという名の汚れを、掻き出してもらっているようで――ううん、なるほど、これは確かに、かなり気持ちがいいな。

「これはまた、大層凝っておられますな。押しがいがありますよ」

 あー。やはりそうなのか。そりゃ、凝ってなければ、爺さんの指圧も、こんなに効きはしないだろうな。

 肩の凝りがほぐれてくると、気分も緩んでくるようだ。楽になっていく体。かまどの暖かい空気と、時おり肌を撫でる窓からの風。そして、砂時計のさらさらと流れ落ちる砂音。

 何もかもが安らかで――私はいつしかまぶたを閉じて、眠りの中に身を沈めていた……。

 

 

「お客様、お客様……終わりましたよ、お客様……」

 ぽんぽんと肩を叩いて呼ぶ声に、私はゆるゆると目を開けた。

 顔を上げ、上半身を起こして、辺りをぼんやり見回すと、老人がくしゃくしゃの笑顔を浮かべてそばに立っているのが見えた。彼の手には、木のマグカップが持たれていて、それが私の顔の前に、すっと差し出される。

「生姜とレモンのジャムを、紅茶に溶いた飲み物です。体が中からあったまって、血の流れがさらに良くなります。どうぞ、召し上がれ」

「そうか。有り難く頂こう……ん」

 カップを受け取るために腕を持ち上げると、肩がずいぶん軽くなっているのに気がついた。

 肩、背中、腕にかけての一帯が、ぽかぽかしている感じがする。なんだか、とても爽快だ。これが、血の巡りがよくなったということなのだろうか?

 タオルケットを肩にかけたまま、寝台に座り、熱い生姜茶をちびちびと飲んでいく。甘みの中に、ぴりぴりとした生姜独特の辛み。胃の中でそれらが燃え、体中の血を温める。美味い。

「ところで、お客様は右利きでしょうか? どうやら、左側より右側の方が、筋肉が発達していて、凝りも強いようです。

 できましたらば、左腕を使う運動を増やして、左右均等にお鍛えになった方がよろしいでしょう。左右のバランスが狂いますと、肩が凝りやすくなるだけでなく、骨格が歪んでしまいます。お若いので、比較的容易に矯正できましょうが、歳をとってくると、なかなか大変になりますでな」

 私が飲み物を楽しんでいる間に、老人はそんなアドバイスもしてくれた。

 そのまま、窓から見える空を眺めたり、老人となんでもないお喋りなどしながら(生姜茶がなくなると、おかわりをくれた)、しばし体を休めて……。

 ここ十年で、一番のどかな休日を過ごした。

 

 

 私が驚いたのは、按摩を受けた当日よりも、むしろ翌日だった。

 朝、普段よりしゃっきりと目が覚めて、しかも疲れが全然残っていないのである。

 体は、鉄の鎧を脱いだかのように軽かった。剣を振る音も違う。ブン! が、ビュワン! になった。わかりにくいかも知れないが、とにかく速くなった。

 いつにない絶好調に気をよくした私は、衛士同士での模擬戦で、同時に十人を相手にしてみた――わりと簡単に勝つことができた。負けた腰抜けどもの顔を踏んで、プライドを微塵に砕く嘲りの言葉を吐きかける余裕があったほどだ(踏まれた奴らのうち、半分が嬉しそうにしていたのは、ぶっちゃけ気持ち悪かったが)。

 ロードワークや腹筋、背筋などの体力作りも、普段よりつらくない。むしろ、より成果が上がっている感じすらする。

 体のコンディションをととのえると、こんなにも違うとは。そんな感想をノンノおばさんに話すと、「そうでしょうそうでしょう」と、得意げに頷きながら、夕飯のシチューをよそってくれた。彼女は、機嫌がいい時は大盛りにしてくれるから嬉しい。

 そんなこんなで、体をほぐすことの利点を知った私は、チクトンネ街の按摩屋に、ちょくちょく通うようになった。

 まあ、ちょくちょくと言っても、週に一度、非番の虚無の曜日だけのことだが。疲労が蓄積してくるのが、だいたい一週間ぐらいのスパンだとわかってきたし、料金的にもそれくらいの周期で通うのがちょうどよかった。按摩代が、だいたい昼食二回分くらいの金額なので、たまの贅沢と考えれば、あまり大それた出費でもない。

 だいたい毎回、一時間くらい揉んでもらって、例の美味い生姜茶をごちそうになって、老人とお喋りをして帰る。まったく刺激のない、ゆったりとした時間だが、酒場でぬるいワインを飲んだり、チンピラどもを締め上げたりして過ごす時間よりは、充実していると思う。

 老人は、話し相手としても好もしい人物だった。もうすっかり枯れきっているからか、私のことを女として扱わないのだ。いやらしい態度をとらないし、見下すこともしない。あくまで客として、丁寧に接してくる。

 ただし、それがけっして他人行儀でなく、何と言えばいいか――長い付き合いをしている隣人に話しかけるように、遠からず近からずの、とても安心できる距離感を保ってくれるのだ。

 たぶん、この頃の私が最も親しくしていた異性というと、この爺さんなのではないだろうか。

 ……これは、私の交遊関係が狭すぎるということなのだろうか、それとも私の周りにろくな男がいないということなのだろうか。

 突き詰めると悲しくなりそうなので、あまり深く考えないようにしようと思う。

 

 

 五度も通う頃には、私と老人は、個人的なことを語り合うくらいには、親しくなっていた。

 私が、衛士隊隊長の髪型がすごくて、顔を合わせるたびに笑ってしまいそうになるという話をすれば、老人はいつも使っている生姜のジャムと間違えて、アンチョビのペーストを紅茶に混ぜて飲んでしまったことがあると言って、私を笑わせた(その日の私は、マグカップの中身の匂いを慎重に確かめてから飲んだ)。

 衛士隊に入るまで、傭兵としてあちこちを回っていたことも話した。老人は、アルビオンの生まれらしく、スカボローの近くに住んでいた頃のことを教えてくれた。

 身の上話は、やはりそれなりに舌の滑りがよくなる。自分の体験を誰かに知ってもらいたいというのは、やはり人間の持つ基本的な欲求なのだろう。

 そして、それと同じくらい滑らかに口から出る話題が――いわゆる、愚痴である。

 不満を吐き出し、他人の理解を得たいというのも、人間の持つ基本的な欲求だ。少し前までの私なら、そういうことを話すのは、軟弱な傷の舐め合いだと切って捨てていただろうが、聞き上手な老人の前だと――うん、衛士仲間のふがいなさだとか、貴族連中の鼻持ちならなさだとか、気に食わないことを遠慮なく話してしまえた。彼はゆっくりと相槌を打ち、年長者らしい思いやりで私を慰めてくれたり、助言を与えてくれたりした。

「……だからな爺さん。うちの隊長の間抜けさ加減には、ほとほとうんざりさせられているんだ!

 騎士道か何か知らないが、そんなものを理由に、私を一段下に見るというのはな! 他の隊員連中は、模擬戦で一度だって、私に勝ったことがないのに。彼は現実を見るのを忘れている!」

「なるほど、なるほど……それは、確かに何ともじれったいものでしょうなぁ。アニエス様のように、進歩的な女性の方にとっては……」

 その日も私は、老人に揉んでもらいながら、男尊女卑的な衛士隊隊長についての愚痴を、ぶちぶちと語っていた。

 老人は、うつぶせに寝た私のふとももの裏を揉みながら、うんうんと頷いてくれる。

 同調者の存在に気をよくした私は、不満という心の毒を、たらたらと吐き出していた。周りへの悪意を晒す自分を、少し恥ずかしいと思わないではないが、老人は私を軽蔑したりはしないだろうと、信じることができた――むしろ、老人の方から、話しなさいと勧めてくれたのだ。

 筋肉の疲れだけでなく、心の疲れも解消するようにしないと、体は本当に健康にはならないのだそうだ。実際、ひとしきり愚痴ったあとは、心がかなり軽くなったし、あんなにムカムカしていた隊長たちのことも、まあいいやと思えるようになった。

 しかし、人間は悩みの尽きない動物であるらしく、毎回いくらでも愚痴る材料はあった。今回も、衛士隊への愚痴が終われば、次は仕事の内容への愚痴といった具合に、スムーズに話題はシフトしていった。

「世の中も、最近は少しずつ悪くなっている。徴税官の横暴、低年齢者の売春、害のある秘薬の取引……王家のお膝元である、このトリスタニアですら、そういうものが横行しているんだ。

 特にタチが悪いのは、犯罪に走るメイジが増えていることだ! 魔法が使える奴らにとっては、スリや空き巣は朝飯前だからな。しかも、連中は平民を見下しているから、ひどいことも平気でする。

 ヴィンセント・ストリートの毛皮商殺しのような凶悪犯罪が、これからさらに増えるかもしれん。まったく、嘆かわしいことさ!」

「ヴィンセント・ストリートの毛皮商殺し……で、ございますか?

 このチクトンネ街の、すぐそばでございますね」

 初めて聞く話題だ、とでもいいたげに、老人は疑問符を使った。

「ああ、北側に二つか三つ離れた通りだな……この事件のことは知らなかったか? ノンノおばさんとか、うちの近所のおかみさんたちは、最近はその話ばかりしているよ」

「ははあ。なにぶん、あまり出歩くこともありませんので、世の中のことには疎くなっておりまして。

 あの通りで毛皮を扱う店といいますと、ルーカスさんの工房と、ピーテルさんの問屋のどちらかだろうと思いますが」

「うん、ミスタ・ピーテルが興した、ラストマン商会の方だ。かなりでかい毛皮問屋だよ。二十件もの牧場、百人を超える猟師と契約していて、主に貴族ご用達のブランド・ショップに高級材料を卸している。マリアンヌ王妃のコートを仕立てるための、ミンク革を都合するための相談を受けたこともあるそうだ。

 会長のミスタ・ピーテルは、ヴィンセント・ストリートに大邸宅を構えて、貴族に勝るとも劣らない生活をしている大富豪だ――いや、だった、と言うべきだな。彼はもう、生きていないのだから」

「すると、ピーテルさんが殺されなすったと?」

「うん」と、私は小さく答える。

「三日前の夜中に、自宅の書斎で頭を割られたのさ。通報を受けて、私を含めた衛士隊員たちがピーテル邸に赴いたが――ひどいものだった。幾多の商戦を勝ち抜いてきたビジネスマンが、たった一個の金づちにやられるなんて、さぞ無念だったろうな」

 ぴたり、と――ほんの一瞬、老人の指の動きが止まった気がした。

「金づちで殴られていたのですか? それは実に恐ろしい――しかし、不思議です。

 そのような、まるで平民が使うような道具で殺されたのに、話しぶりからすると、アニエス様は、その事件をメイジの仕業と考えておられるようです。なぜですか?」

 おや、意外に食いついてきたな。

 まあ、ろくに外にも出られない老人だし、こういう刺激的な事件の話に、内心では飢えていたのかも知れない。

「まあ確かに、私も最初は、メイジの仕事とは思わなかったさ。奴らなら、人を害する時は魔法を使いたがるからな。

 金づちを使うなんてのは、確かにメイジらしくない。だけど、やはりメイジの仕事としか考えられないんだ。ピーテル氏を殺したあと、屋敷から逃げ出すことは、誰にでもできただろうが……屋敷中の窓や扉、すべての出入り口の鍵を、内側から閉めたまま出ていけるのは、メイジ以外には不可能だからな!」

 ほう、と、老人は驚きの声を上げた。

「それは何とも――不謹慎な言い方になりますが――興味を引かれる状況であったようですな。

 よろしければ、あなた様のピーテル邸での活躍を、詳しく聞かせては頂けませんかな。歳を取りますと、若い人たちの仕事の話を聞くのも、ひとつの楽しみになりましてね。それが、世の中でも珍しい事件に関わった仕事となると、なおさら……」

「ああ、それは構わない。むしろ、私の方から、あんたに聞いてもらいたいと思っていたぐらいだ。

 なにしろ、活躍とはお世辞にも言えないほどに、行き詰まっていてな……世間話のひとつにでもして、気分転換をしないことには、やっていられん」

 これが王室や、大貴族が関わるような大きな事件であれば、人様に詳しい事情を話すのは、ご法度ということになるだろう。

 しかしこのピーテル事件は、言ってしまえば所詮は平民階級の事件に過ぎない。街の婦人方の噂話に、充分に詳しい情報が流れるし、衛士も人に聞かれた時、特に話していいことと悪いことを区別したりはしない。情報ギルドの記者たちとも懇意にしていて、事件現場を見学させたりすることもままある。

 悪い言い方をすれば、衛士隊という対犯罪機構は、情報を守秘する義務を負うほどの、特別な厳しさを持っていないのだ。

 だから、私も特に気兼ねすることはなかった。按摩の時間は、たっぷり残っており――ピーテル殺害事件に関する物語を、私は吟遊詩人か何かのように、老人に語って聞かせることにした――。

 

 

 衛士隊が通報を受けたのは、早朝のことで――ちょうど私が出勤すると同時に、ピーテル邸に勤めるメイドの少女が、衛士隊詰め所に駆け込んできた。

 少女は、主が強盗に襲われ、大怪我をしたと訴えた。もちろん、「大怪我をした」という部分は、使用人独特の修辞に過ぎず、実際はもっとずっと絶望的だということを、彼女はほのめかしていた。

 それを聞いた衛士隊長ジャン・ピエール・ポルナレフは、三人の部下を伴って、すぐさまヴィンセント・ストリートのピーテル邸に向かった。この三人の部下の中に、この私、アニエスが含まれていたのは言うまでもない。

 ピーテル邸は、通称を柊荘といい、その名の通り柊の生け垣に囲まれた屋敷だ。高さ三メイルほどの柊が枝を絡め合って巨大な壁となり、通りと屋敷の敷地とを隔てている。

 屋敷自体は、平らな屋根と赤いレンガの壁を持つ、二階建てのどっしりとした建物だ。ベランダやバルコニーはないが、太い柱に支えられた玄関ポーチは、なかなかに立派だった。

 かつてはある貴族の別邸だったらしいが、二十年ほど前にピーテルが買い取り、自宅兼ラストマン商会の本拠地として利用していた。

 私たちは、玄関で初老の執事――リーフェンスと名乗った――に迎えられ、現場となった二階の書斎へと案内された。

 道すがら、私たちはリーフェンスから、事件発覚までの経緯を聞くことにした。彼は、動揺で汗が止まらないのか、頭頂部まで禿げ上がった額を何度もハンカチで押さえながら、緊張した声で次のようなことを話した。

「まったく恐ろしいことでございます。昨夜までは、確かに旦那様はお元気でいらしたのに。

 はい、傷つけられた旦那様を最初に見つけたのは、この私でございます。ちょうど八時でした――広間の水時計で時間を確かめて、朝食のできあがったことをお知らせしに参った時でしたから、間違いありません。

 もちろん、最初に向かいましたのは、旦那様の寝室でした。普段であれば、すでに目覚めておられて、着替えを終えられたところに、私が朝食を告げに訪ねるのですが、今日に限っては、旦那様は寝室におられませんでした。

 それどころか、ベッドがきれいなままで、昨晩そこでお休みにならなかったことが、見て取れたのです。

 はて、これはどうしたことかと首を傾げながら、書斎の前を通り掛かりますと、ドアノブに札がかけてあるのを見つけましてな。この札は、この屋敷でだけ使われている、いわゆる暗示札でして……つまり、こういう文句が表面に書いてあるのです。『仕事中。入室厳禁』と」

 リーフェンスは、柊荘でのみそれが使われていると言ったが、私は同じようなものが旅館などでも使われていることを知っていた。『就寝中、起こすな』の札なら、私もラ・ロシェールの宿屋で見たことがある。これを部屋のドアノブにかけておけば、旅館の客室サービス係が、気をきかせてくれるというわけだ。

「帳簿の計算をしたり、取引先への手紙を書いたり、大切なお仕事に集中したい時は、旦那様はこの札をおかけになりました。

 しかし、その時は朝の八時です。朝食も食べずに仕事をするというのは、あまり考えられません。

 不審に思って、扉を叩きますと、返事がない。ますますおかしいでしょう。中で仕事をしているという札が出ていながら、人が中にいる気配が感じられないのですから。

 ほとんどためらわず、私は書斎の中に入ってみることにしました。すると――すると……」

 青ざめたリーフェンスがそこまで言ったところで、私たちは書斎へとたどり着いた。

 小さなすりガラスの小窓がついた小洒落たドアを開けて、中に入る。書斎はヴィンセント・ストリートに面した横長い部屋で、入り口の扉の対面に、四つの大きな窓と、屋敷の外装と同じような赤レンガの暖炉があった。左手の壁には、金縁の額に入った驢馬と労働者の絵がかかっており、右手には、立派な書棚と執務机がしつらえてある。

 そして、暖炉のすぐそばに――白いコットンの部屋着を着込んだ老人が、頭から血を流して倒れていたのだ。

 鮮烈な光景だった! 老人の豊かな白髪は真っ赤に染まり、白い部屋着のえりも赤く染まり、しかもその部屋の絨毯は、明るいグリーンだった。緑色の中に散った小さな血しぶきすら、まるで輝いているようにはっきりと見えた。

 天井を向いた目は、驚愕に見開かれたまま、瞬きもせず固まっていた。高い鷲鼻――白い、ヤギのようなあごひげ――右頬にある、そら豆のような黒いしみ――時間が停まってしまったかのような、大商人ピーテルの死に顔がそこにあった。

「ううん、なるほど、これは酷いな……」

 ポルナレフ隊長が、遺体のそばに屈み込み、検分を始めた。

 彼は、爵位こそ持っていないが、家名があることからもわかるように、貴族だ。かつては魔法衛士隊に所属していたらしいが、魔法を使うより、レイピアを振るう方が向いているという変わり種で、そのあまり一般的でない戦闘スタイルのせいで、上司に嫌われ、出世を逃したらしい。

 衛士同士の模擬戦において、私と対等以上に打ち合える唯一の人物であり――ついでに言うなら、髪型に妙なこだわりを持っている人物でもある。彼は自慢の砂色の髪を(頭全体のすべての髪の毛を、一本残らず、真っ直ぐ真上に逆立てて、脂をつけて固めているのだ! それはまるで、ちょっとした石柱が屹立しているようだった)撫で上げながら、きっぱりと言った。

「左のこめかみを、硬くて重いもので砕かれている。完全に手遅れだ。リーフェンスさん、あんたがを見つけるより、ずっと前に彼は死んでいたに違いない。

 遺体の中の水――血は、流れるのをやめて、固まりかかっている。俺は土メイジだが、水の系統も少し心得があるから、死んですぐじゃないってことぐらいは、はっきりわかる。やっつけられたのは、何時間も前のことだな。

 気になるのは、遺体の体に少々の熱が残っていることだが……もしや、発見の時、この暖炉には火が入っていたのか?」

「は、はい。私が見つけた時には、薪はほとんど燃え尽きておりましたが、まだちろちろと赤く燃えておりました」

 問い掛けにリーフェンスがそう答えると、ポルナレフ隊長は小さく頷いた。

「やはりか。遺体の水の様子にムラがあったから、そんなことじゃないかと思ったんだ。

 遺体が暖められたり、冷やされたりしていると、死亡推定時刻が曖昧になるからな……少なくとも、死後八時間以上経過しているのは間違いないが、九時間経っているのか、十時間経っているのか、それとも十二時間以上経っているのかは、きっぱり決められそうにない。プロの水メイジの医者なら、いくらか範囲を狭められるかも知れんが、望み薄だな。……リーフェンスさん、あんたが旦那様の生きているのを、最後に見たのはいつだ?」

「はい。昨晩の十時のことでございます。毎日、仕事を終えて、休ませて頂くのが、その時間なのです。

 書斎に例の札がかかっていましたので、扉の外から『先に休ませて頂きます』と声をかけさせて頂きました。すると中から、『ああ、おやすみ』と、お返事がありまして……少なくとも、それまではご無事であったのは間違いないかと」

「ふーむ。となると、ピーテル氏の死亡時刻は、大雑把に見て昨夜十時から深夜零時までの間くらいということになる、か。……アニエス。他の使用人たちにも、同じように質問してこい。あと、近所を回って、昨晩十時以降、柊荘の近くで怪しい者を見た奴がいないかどうか、聞いて回ってくるんだ」

 私は頷いて、書斎を出た――私以外の二人の衛士は、現場の状況を記録した上で、遺体を運び出す仕事を割り振られたようだった。ミスタ・ピーテルの遺体は、彼らによって近所の診療院に運ばれ、そこで水メイジによる正式な検死を受けることになるだろう。

 使用人たちへの事情聴取は、あっという間に済んだ。執事のリーフェンス以外に、柊荘に住み込んでいたのは、メイドが二人と、料理人がひとりだけ。この三人は、夜の九時には地下の使用人室に引っ込んでしまうため、執事よりあとにピーテル氏の生存を確認した者はいなかった。また、地下室にいた彼らが、二階の物音を聞けたわけもなく、怪しい物音どころか、賊の気配も感じなかったという。

 近所への聞き込みは、少々時間がかかった。事件の話を聞きたがる奥様連中に捕まったからだ。彼女らは、私が尋ねる三倍以上のことを聞き出そうと、あの手この手を使って引き留めにかかる――それでいて役立つ情報は何も聞かせてくれないので、ひどく疲れさせられた。

 全部で二時間ほどを浪費して、ようやく柊荘の書斎に帰ってくると、遺体はすでに運び去られていて、その代わりに、見知らぬ人物がポルナレフ隊長と話をしていた。

 縮れた金髪を肩まで伸ばしており、鷲鼻が顔の真ん中からにょきりと突き出している。あごの輪郭を縁取るように、短いひげを生やしていて、どことなく、先ほど見たピーテル氏に共通するところがある気がした。年齢は三十後半から、四十の間といったところか。上等な黒い牛革の上着と、コットンのパンツを着こなした、粋な男だった――もっとしっくりくる表現をするなら、遊び人風の男だった。

「おお、帰ったかアニエス。連中はどう言っていた?」

 その男の肩越しに、ポルナレフ隊長が聞いてくる。

「駄目ですね。メイドも料理人も、九時以降は部屋から出なかったと言ってます。近所の人たちも、気付いたことはまるでなし。……そちらの方は?」

「ああ、ピーテル氏の甥御さんの、ミスタ・レンブラントだ。先ほど、偶然訪ねてこられたのだよ――レンブラントさん、これは私の部下でアニエスといいます」

 隊長の紹介に、レンブラント氏の薄い水色の目がこちらを向いた。彼は、私の爪先から頭の先までを、さっと素早く確かめたようだ――商人が品物を調べるような、油断のない眼差しだった。

 しかし、その直後には、にっこりと垢抜けた笑顔を浮かべて、彼は私に握手を求めてきた。

「これは意外だ。衛士隊なんて勇ましい仕事に、こんな可憐な女性が就いているなんて。

 お目にかかる光栄を得られたのが、こんな場だというのが少々残念ですが……はじめまして、レンブラントといいます」

「どうも、ミスタ・レンブラント。こちらこそ、お会いできて光栄ですよ」

 口元だけを笑わせた笑顔を向けて、この軽薄そうな男の握手に応じた――ちょっと熱烈に、リンゴくらいは握り潰せる力を込めてやった。女であっても、男より勇ましい場合もあるということを、彼は知らなかったらしいので、それを教えてやるためにも、軽ーく、ギューっと。

 衛士隊のアホどもにやってやった時は、半数以上が悲鳴を上げた私の『握手』だったが、レンブラント氏は、眉間にシワを寄せただけで、笑顔は崩さなかった。軟弱に見えるが、多少の根性はあるらしい。

 手を離すと、彼は握手した手をさりげなく閉じたり開いたりしながら、ポルナレフ隊長と私とを交互に見た。

「ミスタ・ポルナレフ。そしてミス・アニエスも。どうかお願いします、伯父を殺した犯人を、一刻も早く捕まえて下さい。伯父は多くの人に尊敬されていた、素晴らしい人だったんです。虫やねずみのように、無残に殴り殺されていいわけがない。

 もちろん、僕も協力を惜しまないつもりです。伯父やこの家のことで、何かお知りになりたいことがありましたら、遠慮なく尋ねて下さい。嘘をつくことも、隠し立てをすることもないと、始祖ブリミルに誓いましょう」

「ふむ、そう言って頂けると助かりますな。では、お言葉に甘えましょう」

 ポルナレフ隊長は、そう返事をしながら、私に目で合図をした。話をよく聞いておけ、相手の反応をしっかり観察しろ、という意味だと、私は判断した。

「まずは、レンブラントさんご自身のことをお尋ねしてもよろしいでしょうかな。

 どこに住み、どんなお仕事をされていて、伯父上とはどれぐらい親しくしていたのか、など……」

「ええ、お答えしましょう。僕はヴィンセント・ストリートの北のはずれにある、ナイト・カフェテラスの二階に暮らしています。職業は、まあ、画家と自称させてもらいましょう。一応食いつなぐ程度の金は儲けられているので。

 伯父とは正直なところ、ここ十年ほど、あまり顔を合わせてはおりませんでした。僕は十二、三歳の頃から、二十歳になるまで伯父の商会で働いていたんですが、どうしても絵で食っていきたくて……それで仕事を辞めてしまったんで、気まずくてあまり会わないようにしていたんです」

「ふむ。となると、最近の伯父上のことはあまりご存知でない? この家に勤めている者たちのこととか、親しくしている人たちのこととか、伯父上を憎んでいる者のこととか、そういう個人的なことは……?」

「ああ、いえ、失敬。言葉が足りませんでした。ほんのときどきですが、会って話をすることはあったのです。

 伯父には奥さんも子供もありません。親や兄弟もすでに死んでいて、彼の弟の息子である僕が、唯一の近親者なわけです。だから将来的には、やはり僕にラストマン商会を継いで欲しいと思っていたようで、伯父の方から会って話をしてくれと連絡してくることがあったんです。

 僕の下宿に彼が来ることもありましたし、彼がこの家に僕を招待することもありました。もちろん、長く商売から離れている僕には、とてもじゃないけれど大会社を回していく自信なんかないので、勧誘はお断りしていたんですがね。そういう時に、ちょっとした四方山話として、近況だとか仕事の愚痴だとかは聞かされていました」

「ほほう! たとえばどのような話です、レンブラントさん?」

「日常的な話です。どこどこの猟師を雇い入れたとか、ある貴族から大口の注文をもらったとか、最近はヴィオラの演奏に凝っているとか。

 そうそう、そういえば、最近、屋敷の庭を誰かがうろついている気配を感じるとか、そういったことも言っていましたっけね。これを聞いた時は、どうせ気のせいだろうと思っていたのですが、いざこのような事件が起こってみると……」

「庭をうろつく気配、ですか。それ以上具体的には仰らなかった? 結構です。

 屋敷で働く人や、出入りする人については、どの程度ご存知で?」

「リーフェンスは正直な男です。長く伯父に仕えていますし、信頼されてもおりました。メイドのジェーンやキャシー、料理人のガスは素朴な田舎者です。全員、伯父を裏切ったりするほどの悪意も、人の血を直視できるほどの度胸も持ち合わせてはいますまい。彼らのうちの誰一人として、この事件によからぬ関わりを持っているとは、僕には思えませんね」

「ふむ。となると、やはり外部の者が怪しいと、あなたは思っておられる?」

「伯父の感じた気配というのが、やはり犯人のものではないでしょうか。伯父が金持ちだというのは知られたことですし、この家に盗みに入ろうと考える泥棒も、けっして少なくはないはずです。そいつが以前から下見のために庭に入り込んでいて、昨日の夜、とうとうやらかしたのだとすると、筋は通るでしょう?」

「ええ、確かに仰る通り。その線でも、充分な調査が必要でしょうな。

 ところで、その庭をうろつく気配の話を聞いたのは、いつのことです? 数日前なのか、それとも一月以上前なのかで、かなり印象が変わってきますが」

「え? ああっ、そうだ、まだお話ししていませんでしたね。伯父からその話を聞いたのは、昨日のことなんです。

 僕は昨日、この家に来ているんですよ。そしてこの部屋で、殺される直前の伯父と会っているんです――」

 この注目すべき発言に、ポルナレフ隊長も、私も目を瞬いた。

 我々の驚きをよそに、レンブラント氏は中空を眺めながら、その時のことを話し出した。

「そう、夜の七時ぐらいだったと思いますね。夕食を終えたあとで、煙草でも吸いに来ないかと伯父に言われていたのです。

 話の内容は、どうせいつも通りのこと……売れない画家の仕事に見切りをつけて、商会を継ぐ決心をしろと言われるだけだろうってのはわかってましたが、彼の勧めてくれる煙草は高級品でね、とても美味いからそれを楽しみにして来たんです。

 伯父はもちろん、ぴんぴんしていました。彼の勧誘には、乗ってはあげられませんでしたが、煙草をやってアルビオン産のスコッチも何杯か頂いて……楽しくおしゃべりをして、九時頃においとましました。

 玄関のところで、執事のリーフェンスに見送ってもらったので、正確な時間は彼に聞けばわかるでしょう」

「……その時点で、伯父上の様子に、変わったところはなかったのですね?」

「はい。仕事の残りを片付けてから寝る、と言ってました。部屋を出る時に、ついでに『入室厳禁』の札をドアノブにかけておいてくれ、と頼まれましたよ。完全に、明日を無事に迎えられると信じている人間の態度でした……まったく、人間の運命なんて、何がどうなるかわかったものではないですね」

「なるほど。どうやら、あなたのおかげでかなり状況がはっきりしてきたようですな。

 どうもご協力ありがとうございました。今日のところは、これで結構です。後日、またあらためてお話を聞かせてもらうことがあるかも知れませんが、その時もよろしくお願いします」

「ええ、もちろんです。僕の話がお役に立つのなら、いつでもどうぞ。では、失礼しましょう……」

 そう言って踵を返しかけたレンブラント氏の横顔に、ポルナレフ隊長は「あ、ちょっと」と声をかけた。

「失礼、うっかりしておりました。あまり重要ではないのですが、衛士としての仕事の手順上、一応はこれを聞いておかなければならないもので……昨日、この家を出たあと、あなたはどこに行かれましたか」

 その問いかけに、レンブラント氏はニコリと微笑んで、なんでもない風に答えた。

「バーに行きました。少し飲み足りない気がしたものでね。ガジェの店という酒場でして、ヴィンセント・ストリートを挟んだ、この家の向かい側にある建物に入っています。

 そこで軽く一杯飲んでから、九時半頃に家に帰りましたよ」

「そうですか。いや、つまらないことでお引き留めして、申し訳ない」

 ポルナレフ隊長とレンブラント氏は、お互いに愛想笑いを向け合い、今度こそ別れた。

 書斎を出たレンブラント氏の足音が、一階へと降りていくのを聞きながら、私はポルナレフ隊長を見た。

「あの画家先生を、隊長はお気に召さなかったようですね」

「まあ、そうだな。アニエス、お前はレンブラント氏をどう思った」

「同じです。あれは気に入りません。体中から芝居のニオイがしていましたね」

「やはりそう思うか。少なくとも、ピーテル氏の死を本気で悲しんでいるわけではないだろうな。

 そして、もしそうだとすると、奴には誰にもまして大きな動機があることになる」

「ピーテル氏の遺産、ですか」

「ああ。奴が、画家としての収入に不満を持っていたら、伯父の莫大な財産は喉から手が出るほど欲しいだろうな。

 ピーテル氏の身内が彼一人だけなら、遺産は全部彼のところへ行くことになる。手に入れるための条件は、伯父が命を落とすこと、それひとつだけだ。

 もちろん、だからレンブラントが下手人だ、と決めつけるわけじゃないが……それ以外にも、奴の話を聞いていて、気になった点がひとつある……」

「気になった点、ですか?」

 私は首を傾げた。同じ話を聞いていたはずなのに、私はレンブラント氏に対して、いけ好かない奴だという以外に、気になる点を見出せなかったのだ。

「なに、つまらないことだ。レンブラントは、ピーテル氏が殺されたことについて、『虫やねずみのように、無残に殴り殺されていいわけがない』と言っただろう」

「ええ、確かに」

「お前は使用人たちの聞き込みをしていたから知らないだろうが、レンブラントがこの部屋にやって来た時点で、すでにピーテル氏の遺体は運び出されていたんだ。そして、俺もリーフェンスも、彼にピーテル氏が殺された、ということは伝えたが、どのように殺されたかは言わなかった。

 なのに奴は、伯父が殴り殺されていいはずがない、と言った……刺し殺された、でも、絞め殺された、でもなく、殴り殺されたと言い当てた。

 偶然だったのかも知れん。強盗といえば撲殺だと、レンブラントの中に先入観があったのかも知れん。しかし、あらかじめ知っていた、という可能性だってあるからな……アニエス、あの男のことは、少し突っ込んで調べてみた方がいいかも知れんぜ」

 私は、この奇妙な髪型をした衛士隊隊長の慧眼に、少なからず尊敬の念を覚えた。その指摘はもっともらしかったし、実際的を射ているだろうと私も思った。動機があるし、余計なことを口走っているし、何より人間が演技臭い。レンブラントという男が犯人で間違いないだろうと、この時点ではほぼ確信していたんだ。

 しかし、その方針で歩を進めていた我々が、大きな壁にぶつかったのは、わずか数分後のことだった。

 

 

 私たち衛士隊は、標的をレンブラントに絞って、捜査を開始した。

 まずは、レンブラントの客観的な人となりを知る必要があった。これは、リーフェンスのようなピーテル氏と親しかった人たちや、レンブラントの友人や知人に聞き込みをすることで、簡単に掴むことができた。

 はっきり言おう。私やポルナレフ隊長が、容疑者に対して抱いた嘘くささは、やはり間違いではなかった。

 レンブラントの友人たちは、彼がしょっちゅう金に困っていたということを教えてくれた。レンブラントは、派手な暮らしを好む人物だったのだ――良い酒を飲み、良い煙草を吸い、旅行を好み、懇意にしている女性も一人や二人ではない。彼の絵は、そこそこ画壇では評価されていて、売れ行きもまずまずなのだが、収入よりも支出の方がずっと多いのだった。

 彼は友人たちに借金を申し込むこともよくあり、その時の決まり文句が、「伯父に頼んで、すぐ融通してもらうから」だった。そして実際、レンブラントはあまり待たせることなく、友人たちに金を返すことができていたという。このことから察するに、レンブラントとピーテル氏が面会していたという事実があったとしても、それはピーテル氏が甥に商会を継いで欲しいと頼んでいたというより、レンブラントの方が伯父に無心を頼んでいたという可能性の方が大きそうだった。

 また、ピーテル氏の顧問弁護士から、氏が遺言状の作成を望んでいたということを聞き出した。

 その内容というのが、遺産相続人から甥レンブラントの名を削り、全ての資産と会社の経営権をトリステイン王国に譲渡するというものだったのだから、驚きだ。

 ピーテル氏はもう、ほとんど、甥に見切りをつけていたのだろう。しかし、遺言状を作成する前に、もう一度甥と話し合いをしたいと言っていたそうだから、レンブラントの出方によっては、ピーテル氏の考えも変わっていたかも知れない。

 あるいは、その話し合いこそ、レンブラントに殺意を抱かせるきっかけになったのかも知れない。

 動機に関しては、我々は事欠かなかった。こうなると、あとはレンブラントが伯父殺しをやったという事実を証明するだけで良い。

 これも非情に簡単だと思われた。彼が犯人なら、ピーテル氏との会見を終えて柊荘を出てから、こっそり舞い戻ってきて、屋敷に忍び込んだことは間違いない。彼の行動を調べれば、どの時点で屋敷に押し入ったのか特定できるだろうし、その痕跡も見つけ出せるに決まっていた。

 だが、そんな楽観的予想は、最初の最初でいきなりつまずいた。

「何? ちゃんと戸締りをした、というのか?」

「は、はい、衛士様。レンブラント様をお見送りしたあとで、私が屋敷中の戸締りを、しっかり確かめましてございます」

 額の汗を拭き拭き言ったのは、執事のリーフェンスだ。

「『最近は強盗事件とかが流行っているから、しっかり戸締りに気をつけるんだよ』と、レンブラント様がご注意を下すったものですから。あの方が玄関を出て行かれまして、すぐに扉に閂をかけ、窓や裏口もちゃんと施錠できているか、確かめて回ったのでございます」

「全部、鍵をかけたというのか? 内側から? じゃあ、レンブラントが帰ったあとで、誰かが屋敷に侵入してくるということは……」

「はい、絶対に不可能だったはずなのです。先ほど調べてみたのですが、どの部屋の窓も、出入り口も、私が昨夜施錠したままの状態で、ひとつも開いておりませんでした。唯一の例外は、あなた様方も出入りした玄関の扉だけですが、これも私が今朝開けるまで、間違いなく内側から閂が差し込まれておりました。誰かが鍵をこじ開けて侵入してきた、という可能性は、まったくございません」

 正直そうな男の、真剣そのものの証言に、私は困惑せざるを得なかった。

 だって、そんなことはあり得ないからだ。犯人がレンブラントにせよ、あるいは他の誰にせよ、そいつは鍵の開いている場所を見つけて侵入してきたか、閉まっている鍵をこじ開けて侵入してきたかのどちらかでなければならない。もし後者であれば、その痕跡はリーフェンスによって発見されているはずだし、前者だとしても、逃げる時にはどこかの窓か扉の鍵を開け放していくしか仕方がない。屋敷の外に出てから、内側についている鍵をかけることはできないからだ。

 夜の十時頃、リーフェンスが書斎の扉越しにピーテル氏の声を聞いているのだから、氏はそれまで生きていたはずだ。言い換えれば、犯人はそれ以降の時間帯に、柊層の中に存在できなければならない。レンブラントが屋敷を出た九時の時点で、柊荘が内側から完全に施錠された巨大な密室になっていたのなら、犯人は屋敷の内部の者ということになる。たとえば、目の前にいるこのリーフェンスとか。

 いや、待て待て。そうとは限らない。レンブラントが犯人だとしても、まだやりようはある。たとえば、九時に屋敷を退出してすぐ、リーフェンスが戸締りを確認し終えるより早く、あらかじめ開けておいた窓かどこかから侵入し、その侵入口の鍵を内側からかけ直して、屋敷の中に身を潜めておくのだ。

 そして、使用人たちが寝静まるまで待ってから、書斎に向かい、ピーテル氏を殺害する。ことを終えると、また屋敷内のどこかに身を隠し、翌朝、死体発見の混乱に乗じて、屋敷から脱出するのだ。

 脱出に使うのは、リーフェンスが開けた玄関の扉である。死体が見つかれば、当然執事は衛士隊に知らせようとするだろう。閂が外され、扉が開かれ、メイドが衛士隊詰所に通報に行かされる。そのあと、開いた扉は? また閉め直される? いや、きっと開けたまま放っておかれるだろう。衛士隊が到着した時、すぐに迎え入れられるように。

 そうなれば、潜んでいたレンブラントは、執事の目を盗んで、そっと開いた扉から逃げ出せばいい。それで密室の謎は解決する。

「いえ、それは駄目です。曲者が屋敷に潜んでいて、朝になって玄関から出て行ったということは、あり得ません」

 私が頭の中でまとめた推理をリーフェンスに聞かせると(もちろん、レンブラントを疑っているという部分は巧妙に隠したが)、彼は話にならないとでも言いたげに、首を横に振った。

「なぜかと言いますと、メイドにあなた様方を呼びにやらせたあと、私はずっと玄関のところで待っていたからなのですよ。誰も私の目を盗んで、玄関から出て行きはしませんでした。今は私の代わりに、衛士の方が玄関の前に見張りに立っておられますので、やはり見つからずに出ることはできません。犯人が屋敷内に潜んでいるとなると、未だ脱出の機会を掴めていないということになりましょうな。

 もちろん、それでも犯人が潜んでいる可能性があると仰るのであれば、捜索をお手伝いさせて頂きますが……」

「いや、その必要はないだろう。今の話は忘れてくれ……」

 少なくとも、私の考えた方法でレンブラントが密室を突破した可能性はゼロになった。玄関で見張りをしていた衛士たちに確かめてみたが、レンブラントは間違いなく、屋敷の外から訪ねてきたからだ。

 となると、九時に柊荘を去る前に、レンブラントはピーテル氏を殺害していた、と考えるべきか?

 遺体は暖炉の前に倒れており、長い時間暖められていた。ポルナレフ隊長が言うには、そんな状態に置かれた遺体は死亡推定時刻が見極めにくく、どれくらい前に死んだのかはっきりとはわからないとのことだ。大雑把に見て深夜零時以前、との見立てだったが、それより数時間前でもおかしくない、みたいな表現をしていた。ならば、深夜零時より三時間前の午後九時に殺されていてもいいはずだ。現場である書斎の扉には、『入室厳禁』の札がかかっていた。これは遺体発見を遅らせるための、レンブラントの小細工だったかも知れない。

 いや、いや、それもやはり駄目だ。リーフェンスが、午後十時に、書斎の中のピーテル氏に声をかけているではないか。その声に、中にいた人物は返事を返したではないか。もしその時点で、ピーテル氏が死亡していたなら、返事など返ってくるはずがない。もしその声が、ピーテル氏を殺害した犯人のものだったとしても、犯人がその時、柊荘の中にいたということになるから、レンブラントは当てはまらなくなる。

「……リーフェンスさん、間違いのないところを聞かせてくれ。昨夜十時に、あんたは書斎のピーテル氏におやすみの挨拶をしたと言うが、確かに返事は返ってきたのか? いつも返事が返ってきていたので、その時も返事が聞こえたと思い込んだとか……そういった可能性は?」

「絶対にございません、始祖に誓って」

 この問いはさすがにリーフェンスも心外だったのか、彼は少し強めに言い返してきた。

「暖炉の火で空気が乾燥していたせいか、普段より少し咳き込んだというか、割れたような声でしたが、確かに書斎の扉の向こうから、『ああ、おやすみ』という言葉が返ってきたのでございます」

 それ以上、私はリーフェンスに尋ねることはなかった。嘘を言っているようではないし、自信のないことを言っているようでもない。ピーテル氏は十時過ぎまでは生きていたのだ。

 そして、その事実は、柊荘の外で実施した聞き込みでも確かめられた。

 私は念のため、昨夜のレンブラントの行動を確かめるべく、彼の言った酒場へと足を運んだ。

 ガジェの店という酒場は、どちらかというと女性や洒落者向けの、落ち着いた雰囲気のバーだった。ヴィンセント・ストリートを挟んで、柊荘の向かい側にある宿屋の二階に入っている。縦に細長い狭い店で、入り口を入ると左側にカウンターと止まり木が並び、右側はいろんな絵の額縁がかかった壁になっている。窓は入り口の正面突き当たりの壁に、ぽつんとひとつあるきり。私は営業時間を邪魔しないよう、陽が落ちる前にこの店を訪ねたが、すでにランプが必要なほど薄暗かった。応対してくれた若い女性のバーテンダーが言うには、真っ昼間でもあまり明るさに違いはないそうだ。

「はい、その通りですわ。レンブラントさんは、昨夜九時過ぎにうちに来ましたよ」

 サービスだというマティーニのグラスを、止まり木に座った私の前に差し出しながら、バーテンはそう言った。

「あの方はうちの常連ですので、よく覚えています。いつもは日が変わるまでおられるのですが、昨日はたった三十分っぽっちで帰られたので、なおさらね。マティーニ一杯だけをご注文で、あとは軽い世間話をして、それでもうお会計でしたわ」

「なぜそんなに早く帰らないといけないのか、彼は言っていたか?」

「描きかけの絵を進めたいとか、そんな感じのことを言ってました。画廊の人に約束した期日が近いとか。

 そういう急いでする仕事はあまりお好みでないようで、文句を言っておりましたわ。夜はここで伯父様のヴィオラを聴きながら酒を飲むのが楽しみなのに、今夜はそれができない、って」

「? どういうことだ? この店で伯父のヴィオラを聴ける、というのは。

 ピーテル氏が、この店に演奏しに来るとでも言うのか?」

 私が問い返すと、バーテンは首を横に振り、ひとつしかない窓を指差した。

「その窓を開けますと、お向かいの柊荘が見えますわ。柊荘の二階が、ミスタ・ピーテルの書斎だそうですね。

 ミスタ・ピーテルは、毎晩十時過ぎ頃から、一時間ほど書斎でヴィオラの練習をなさっていたんです。その音が、通りを挟んだこの店にまで届いてくるのですわ。それがとても美しい調べで……このお店のお客様方の間でも、ちょっとした評判になっていたんですの」

「ほう? この窓から、ね?」

 私は立ち上がり、その窓から外を覗いた。

 ヴィンセント・ストリートの向こうに、柊荘の敷地を囲う柊の生け垣が見える。ガジェの店は二階なので、窓から臨む視点の高さは、生け垣の高さより少し高いくらいだ。生け垣の上にひょっこりと飛び出すように、柊荘の二階が顔を出していた。

 横に四つ並んだ、あの大きな窓は、ピーテル氏の書斎のものだろう。彼我の距離は、通りと柊荘の裏庭を挟むから、ざっと二十メイルぐらいだろうか。書斎の中で演奏したならば、ガジェの店までメロディが聞こえたとしても不思議ではない。

「この辺は、深夜営業の飲み屋が多いので、夜中の楽器の演奏は迷惑がられません。上手ければ、むしろ歓迎されます。

 うちの店は、ミスタ・ピーテルの演奏を聞くための特等席なんです。ご覧の通り、柊荘の真正面で、彼が演奏している部屋が見えるぐらいですからね。

 今はまだ陽が沈んでいないので、少しムードに欠けますが、夜中になると素敵ですよ。真っ暗な夜闇に、柊荘の窓の明かりが浮かび、その中でヴィオラをかき鳴らすピーテル氏のシルエットが見えるんです。芸術家や女性の方々に、特に評判になっています」

「その演奏を、レンブラントは楽しみにしていたが、九時半に帰宅したので聴けなかった、と……。

 ん、ちょっと待て。バーテンさん、ピーテル氏がヴィオラの演奏を始めるのは、十時過ぎからと言ったか?」

「はい、いつもその時間帯ですね。レンブラントさんが言うには、ミスタ・ピーテルは、使用人さんたちが休んでから、ひとりで演奏をするのがお好きだとか……」

「昨日はどうだった。ピーテル氏のヴィオラの調べは、聴こえてきたか?」

「ええ、ちゃんと。十時過ぎから、十一時頃まで」

 もし、そうだとすると。

 少なくともピーテル氏は、夜十一時まで生きていたことになる。死亡推定時刻は、十一時から深夜零時までの一時間に狭まる。

 そして、その時間帯に、レンブラントが柊荘内に存在できる方法はない。つまり、奴には絶対に、ピーテル氏は殺害できない、ということになる。

 いや、待て待て。まだそうとは決め付けられない。ヴィオラぐらい、ピーテル氏でなくても弾けるはずだ。

「バーテンさん、昨日の演奏が、ピーテル氏のものだというのは間違いないのか? たとえば、ヴィンセント・ストリートにいる大道芸人か何かが、その時偶然ヴィオラを弾いていた、ということはあり得ないか?」

「うーん、それは、まずないと思います」

 少し考えたあと、彼女はきっぱり言い切った。

「音は確かに柊荘の方から聴こえてきましたし、何より柊荘の二階の窓に、ヴィオラを演奏する人の影が映っていました。

 辛子色のカーテンが閉じられていたので、シルエットだけでお顔は見えませんでしたが、部屋の中に楽器を弾いている誰かがいたのは間違いないと思います。あの家の中で、ヴィオラを引く趣味をお持ちなのは、聞いた限りミスタ・ピーテルだけのはずですが……」

 これで、レンブラントの容疑は粉々に打ち砕かれた。

 その演奏していた影がピーテル氏だとすれば、十一時まで彼は生きていたということになり、九時に柊荘を出たレンブラントは犯人たり得ない。

 十時までに、すでにピーテル氏が殺害されていたとすれば、演奏をした影はピーテル氏のふりをした犯人ということになる。しかしそうなると、犯人は十時から十一時の間、柊荘の中にいたということになるので、やはりレンブラントは犯人たり得ない。

 これでは、とてもあの男を犯人として逮捕することなどできはしない。怪しい怪しいと思っていたが、それは結局ただの先入観に過ぎず、私たちは間違った方向に足を進めていたということになる。私の人を見る目はあまり当てにならないということになり、ポルナレフ隊長の注目したレンブラントの失言も、特に意味のない何となくの言葉だったということになる。

 そのことを認めるのは少し勇気が要ったが、それでも誤った考えに固執して、無実の者を処刑台に送り込むことになるよりはましだと己に言い聞かせ、私は捜査の根本的な見直しをポルナレフ隊長に進言するため、衛士隊詰所に戻った。

 私の報告を聞いたポルナレフ隊長は、私と同じように痛恨の表情であったが、すぐに気持ちを切り替え、捜査会議を招集した。

 そして、その会議で我々衛士隊が検討した新しい捜査方針こそ、次の二つだった――「リーフェンスを始めとする柊荘使用人の中に犯人がいる」、「内側から鍵のかかった屋敷に、自由に出入りできる能力を持った人間、即ちメイジによる犯行である」。

 このうち、より大きな支持を得たのが、後者のメイジ犯人説だった。

 貴族の地位を失ったメイジによる犯罪事件は、近年増加傾向にあった。チクトンネ街だけでなく、明るいブルドンネ街でも、《念力》の魔法を利用したスリや、攻撃魔法を使った強盗事件などが多数報告されている。

 そして、そんなメイジ犯罪の中でも特に多いのが、《アンロック》の魔法を利用した空き巣だ。

《アンロック》は文字通り、施錠を解除する魔法だ。これを使うと、鍵を持っていなくても、簡単に錠を開けることができる。

 つまり、この魔法が使える泥棒メイジの前では、どれだけ気をつけて戸締りをしても無駄なのだ。連中が扉や窓に杖を向けて、呪文を唱えるだけで、侵入のための入り口がガチャンと開くのだから。

 さらに、この《アンロック》と対になるようにして、《ロック》という施錠魔法まで存在するのだから、たちが悪い。

 泥棒メイジは《アンロック》で人の家に侵入。金目のものを物色して、外に出てから、今度は《ロック》で鍵をかけ直すことができる。その家の住人が帰ってきても、鍵がちゃんとかかっているので、侵入されたとは夢にも思わない。そうして被害に気付くのが遅れ、衛士隊に通報が来る頃には、犯人は盗品を全て処分して証拠を隠滅している、なんてパターンも、けっして少なくないのだ。

 そう。もしピーテル氏を殺したのが、《ロック》と《アンロック》を使うことのできるメイジだとしたら、柊荘という巨大密室の謎は、完全に氷解するのだ。

 筋書きはこうだ。昨夜、おそらくリーフェンスが戸締りを終えて地下室へ引っ込んだあとで、柊荘に狙いを定めた泥棒メイジが、《アンロック》を使って玄関か窓か裏口か、どこでもいいが施錠を外して、屋敷内に侵入した。

 おそらく家人が寝静まっている間に、盗みをはたらこうとしたのだろう。しかし、運悪く起きていたピーテル氏と遭遇してしまう。とっさに犯人はピーテル氏を殴り殺し、逃走した――言うまでもないが、帰る時は自分の侵入したところから出て、《ロック》で鍵をかけ直しておいたのだ。

 同様の強盗殺人事件は、前例がないわけではなかった。メイジは魔法という強大な力を持っており、平民の命を軽視する傾向にある。社会の枠組みの中で生きている貴族ですらそうなのだから、犯罪者に落ちたメイジなどは、武器を持った野獣のようなものだ。姿を見られたら、目撃者を殺すことをためらいなどするまい。

 このいかにもありそうな案の前では、先のレンブラント犯人説も、使用人犯人説も大きくかすんだ。使用人犯人説も一応は検討されたが、こちらは無理があり過ぎて、ほとんど最初から屑入れに捨てられていた。

 まず、屋敷の中にいた使用人の中に犯人がいるのなら、屋敷中の出入り口の鍵を内側から締めたままにしておく、なんてことはするまい。窓でも裏口でも、どこかひとつ開けておくか、ガラスを割っておくだけで、外部からの侵入者を演出できるのだから。

 次に、使用人たちには動機がなかった。給金も下手な貴族に仕えるよりずっと多く、ピーテル氏は使用人にも親しみをもって接すると、近所でも評判だった。良い条件で雇ってくれる主人を殺す理由が、彼らにあったとは思えない。

 さらに、ピーテル氏殺害に使われたと見られる金づちが、トリスタニア郊外の小川で発見されたことで、使用人たちの無実は決定的になった。

 その凶器は、赤黒い血の跡と、ちりついた白髪を付着させた状態のまま、川に沈んでいたという。馬に水を飲ませていた乗合馬車の御者が、川底で光っているそれを見つけ、金目のものかと思ってすくい上げた。ところが、それが血のついた金づちだと気付くとびっくり仰天して、衛士隊に届けてくれたのだ。粘ついた血は川の水でも洗い流されなかったようで、濡れた分禍々しさを増してさえ見えた。

 検査の結果、ピーテル氏の傷の状態と、金づちの形状が一致しており、こびりついていた白髪も被害者のものと断定された。凶器でまず間違いないわけだが、発見された場所は柊荘からあまりに遠かった。

 事件以来、柊荘の使用人たちは、ひとりとして柊荘を離れていない。衛士隊詰所に通報してきたメイドも、屋敷を出てから詰所にたどり着くまでの時間に不自然なところはなく、トリスタニアの外まで寄り道してはいないことが確認された。ならば事件の起きた夜のうちに、ということも考えられたが、王都トリスタニアをぐるりと囲う城壁の大門は、防犯のために夜間は閉じられてしまう。急用があれば、見張り番に申請することで通用口から出入りさせてもらえるが、彼らに見咎められずに、トリスタニアの外へ出ることはできないはずだ。

 つまり、彼らには凶器を捨てに行くチャンスは一切なかった。他の要素も合わせて考えるに、彼らの中に犯人を見出すのは、まず不可能であろう。

 つまり、残された可能性は、外部の者の犯行――それも、魔法を使うメイジのしわざだというものだけだ。

 流しの強盗、それもメイジとなると、これはかなりの強敵である。連中は逃走や証拠隠滅にも魔法を利用できるため、犯行の立証自体が難しいし、それが上手くいっても、逮捕の際に魔法を使って抵抗されると、おそろしく苦戦することが予想される。

 しかしそれでも、やってのけなければならない。この残酷な殺人犯を突き止め、処刑台に送らねばならない。

 魔法を犯罪に使うような奴は、最低だ。これは別に、衛士としての正義感ではない。

 職業意識ではなく、もっと深いところ、おそらくは私の魂そのものに刷り込まれている、信念なのだ。人殺しのメイジを、私はけっして許す気になれない――。

 

 

 そこまで話したところで、ちょうど按摩が終わった。

 知りうる限りのほとんど全てを、私は老人に聞かせた。話しながら記憶をたどっているうちに、まだ見ぬ犯人に対する怒りと嫌悪がむらむらと湧き立ちそうになったが、例の施術後の生姜茶をもらって飲んでいると、その激しい気持ちもしゅわわと萎んでいった。やはり、衛士隊という気を張る仕事の合間に通うこの按摩屋は、ものすごく心に優しい。

 老人も、おぞましい犯罪の物語に気を高ぶらせた様子もなく、私の座る寝台の脇のスツールに腰掛けて、のんびりとした表情でくつろいでいた。

「なるほど、なるほど。確かに刺激的なお話でした。やはり、衛士様のお仕事というのは、大変なのですねぇ。

 ところで、そのピーテル氏を殺害いたしました強盗メイジですが、今もまだ自由の身なのですか?」

「まあ、恥をしのんで言うが、まだ捕まってはいない。

 何人か怪しい前科者をピックアップはしているが、そいつらは宿も定まっていない流れ者ばかりでな、事件当日の行動を調べるだけでもひと苦労なんだ。それでも、ひとりずつちゃんと調べて、無実の者を除外していけば、いつか真犯人にたどり着くだろうことは間違いないだろう。

 だからこそ、衛士隊は隊員総出で野良メイジたちの行動を洗っているんだが……あの馬鹿ポルナレフときたら!

『娼館やいかがわしい酒場を拠点にしているような奴らの調査を、女であるお前にはさせられん』とは何事だ! 殺人事件の捜査が良くて娼館が駄目っておかしいだろ! しかもそう言うだけじゃなく、調査班から私を外して、捜査資料の整理などという退屈な仕事を割り振るなど、馬鹿にするにもほどがある!

 おかげで私はこのような大事件の渦中にありながら、毎日定時帰宅だ! 今日みたいに休みも普通に取れるしな! 私より体力のない男隊員どもが、昼も夜も靴底をすり減らして容疑者を漁っているというのに! レディ・ファーストのつもりか? 女の私に気を使っているつもりなのか? 見当外れにもほどがある! そんな空気の読めない頭で、狡猾な犯罪者を捕らえられると思っているのか!」

 うん、生姜茶のおかげで穏やかになった私だったが、あの石柱頭を思い出したら、また一瞬で怒りが蘇ってしまった。マグカップを握る手に力が入り過ぎて、カップがミシミシ言ったので、ハッとなって気を落ち着かせる。私もまだまだ修行が足りない。

「ははあ、それはお気の毒なことで……お話を聞く限り、隊長様のお言葉も女性への蔑みではなく、善意からのものであろうことはわかりますが、少々気を回し過ぎたようですなぁ」

「ああ、まったくだ。あんなだから出世できんのだ、あの男は」

「でも、わしはホッとしておりますよ。アニエス様のように仕事熱心な方や、隊長様のように空回りしているとはいえ部下を思いやる気持ちのある方がおられる衛士隊に守られているなら、我々庶民も安心して暮らせるというものですから」

「……そういうお世辞を言うんじゃない。まあ、期待にはそえるようにするがな」

 この爺さんときたら、思考も言葉ものんびりしているから、こちらが激しい感情である怒りや憎しみを持ったとしても、ペースを乱され、やはり膨らんだ気持ちは萎んでしまう。気の高ぶりは、この按摩屋の中では長持ちできない。歩みの速い者に、遅い者はついていけないから、両者が歩調を合わせようとすると、早い方が遅い方に合わせるしかなくなる――そんなイメージだ。時間のゆっくり流れるようなこの場所に、いらいらも怒りも憎しみもなだめだれて、平静な凪のような、落ち着いた気持ちに収められてしまう。

 そのまま、数分ほど、二人とも無言で、ゆったりと茶をすすっていた。

「……ところで、アニエス様」

 生姜茶を半分ほど飲んだ頃、ふと眠りから覚めたように、老人が穏やかに呼びかけてきた。

「今のお話で、少々気になったことがあるのですが……よろしければ、ご解説を頂けませんでしょうか」

「む? どこかわかりにくいところがあったか? 答えられるところであれば、補足してやるが……」

「いえ、大したことではないのです。衛士隊の方々の推理では、犯人のメイジは、《アンロック》の魔法でどこかの鍵を外して、柊荘に侵入したのでしたな」

「ああ、そうだ」

「そして、屋敷内を物色しているうちに、ピーテル氏と遭遇し、殺害してしまった」

「ああ」

「だとすると、少し疑問がありまして……どうして、ピーテル氏と犯人は、遭遇してしまったのでしょう?」

「どうして、って」

 当たり前のことを聞かれて、逆に私は戸惑ってしまった。

「どうしてって、そんなの決まってるだろ。犯人がうっかりピーテル氏の書斎に入ってしまったんだ。犯人はピーテル氏が起きてるとは知らず、ピーテル氏も他人が自分の屋敷に勝手に上がりこんでることを知らず、顔を合わせてお互いびっくり、ってところだろう」

「そうでございますね。殺害現場が書斎である以上、犯人の方が書斎に入り込んだことは明らかでしょう。

 しかし、気になりますのは、どうして犯人が書斎のドアを開けて、中に入ろうとしたのかということでして。

 わしは目が見えませんが、犯人はきっと見えていたと思うので……確か、書斎のドアには、すりガラスの小窓が嵌まっていたのでしたな? でしたら当然、その窓から室内の明かりが、外に漏れていたと思うのです。犯人が家人の寝静まった屋敷で、こっそり盗みをはたらくつもりだったのなら、明らかに人がいそうな明かりのついた部屋は、絶対に避けると思うのですが……」

「……………………」

 指摘されて、とっさに私はそれに対する答えを思いつけなかった。

 確かに不自然といえば不自然だ。空き巣でも何でも、よその家に侵入しようとする奴は、まず人に見つかることを怖れる。それが明かりのついている部屋に堂々と入っていくなど、あり得るだろうか?

 もちろん、可能性としては、絶対にないというわけではない。理屈も一応つけられる。たとえば――。

「……そうだな、たとえば、金目のものがなかなか見つからなくて、住人を脅して出させようとしたとか。

 あるいは、その人物の目的が、最初からピーテル氏を殺害することだったとも考えられる。彼はお金持ちだったから、人に怨まれることもあっただろう。彼を怨んで、殺そうと思いついた人物が、メイジだったとしてもおかしくない」

「ははあ、なるほど、さすがは衛士様。わしの老いた頭では、思いつきませんでしたわい。

 しかし、それでも、そのう……やはりいまいち、ふに落ちませんで……。居直り強盗がピーテル氏を脅したにせよ、恨みを持ったメイジが殺しに入って来たにせよ、凶器が金づちというのが引っかかります。

 確かメイジの方は、系統に関わらず、杖を刃物に変える《ブレイド》という魔法を使えるのではありませんでしたかな。鈍器よりは刃物の方が、脅したり殺したりする道具としては適当ですし、証拠も残りにくいでしょう。

 何より、その、犯人が杖と金づちの二刀流でピーテル氏に迫ったという光景が、私には少し想像できませんで……」

「……………………」

 またしても私は言葉に詰まった。そうなのだ、メイジが杖以外の武器を携帯するということ自体が、どうにも不自然なのだ。

 もちろん傭兵メイジなどの中には、杖の他に懐剣などを隠し持つ用心深い奴もいる。しかし、大抵のメイジは、杖ひとつだけで満足する。それさえあればだいたいのことは何とかなるし、他の武器はむしろ邪魔になる。

 まして、金づちというチョイスは、いくら何でも、その、ない。隠し持ちにくいし、重いし。

 金づちそのものを杖として契約していた、という可能性も、限りなく低い。杖として不格好過ぎる。それに、弾みで人殺しに使ってしまったとしても、自分の杖を道端にぽいと放り捨ててしまうというのは、心理的に抵抗が大きかろう。

「ではいったい、どういうことなんだ? なぜ犯人は金づちを使った?

 爺さんの話を聞いていると、犯人がメイジだという仮説が、間違ってるんじゃないかという気になってきたぞ」

「はあ――お気に障ったのでしたら申し訳ありません。ただ、必ずしもその仮説に可能性を絞らなくともよいのではないでしょうか。なぜなら、メイジでなくとも、ピーテル氏を殺害し、柊荘から脱出することは、できなくはありませんので……」

「な、何?」

 思いもよらぬ発言に、私は思わず身を乗り出す。

「あるというのか? あの柊荘という巨大な密室から、誰にも気付かれず、何の痕跡も残さず、魔法も使わず脱出する方法が?」

「はあ。ぱっと思いつくだけで、二、三通りはございます」

 くらりとめまいがした。この目の見えない、私の話だけしか情報源を持たない老人が、我々直接に捜査に携わっている人間の見逃した可能性を見つけられたと言うのか?

「面白い、ひとつ聞かせてくれないか。もしそれに見込みがありそうなら、隊長に聞かせてやりたい。

 誰が、どんな詭計を用いて、あの密室を突破したんだ?」

「よろしいので? わかりました、それではお話ししましょう。

 ――そうですな、まず真っ先に思いつきましたのは、やはり柊荘の使用人の中に犯人がいた、というものです」

「いや、だから彼らにはな――」

 心理的にも、時間的にも不可能なのだ。

 彼らのうちのひとりでも、ピーテル氏を殺害して得をする者はいないし、凶器をトリスタニアの外まで捨てに行く時間もなかった。

 しかしそれを指摘すると、老人は小さく首を横に振った。

「動機に関しては、わしにもわかりませぬ。ピーテル氏と犯人の間だけの、秘密の確執があったとしたら、これはどこの誰にも探り当てることはできますまい。

 ですから、動機はさておいて、その人物に犯行が可能だったかどうかだけ、申し上げさせて頂きます。中途半端に思われるかも知れませんが、それがわしの限界でございますゆえ……」

「いや、かまわん。そういう動機のある可能性は、私たちも無視はしない。しかし、後者の凶器を捨てる方法は、使用人たちは持っていないと思うのだが……」

「いえ、ひどく簡単なやり方がございます。犯人が直接捨てに行かなくても、外部の協力者に、ちょいと凶器の金づちを渡して、処分をお願いすればいいだけのことでして」

「…………え?」

 何というか、子供だましのような、馬鹿らしい可能性だった。

 しかし、いや、取り繕うのはやめよう。あまりに単純過ぎる方法であるため、衛士隊では検討した覚えがない。共犯者がいたって? 柊荘の外に?

「はい、仲のいいお友達に頼んだのかも知れませんし、金さえ出せば何でもするけちな犯罪者を雇ったのかも知れません。

 とにかく誰も知らない第三者を呼んで、夜のうちに凶器を手渡し、朝になって大門が開いてから、トリスタニアの外に捨てに行って欲しいと頼むだけでいいのです。使用人たちという、事件の表舞台に立たなければいけない人たちは、自分で凶器を処分しに行けば、すぐにその行動が調べられてしまいますが、人に頼めばこの限りではないのではないでしょうか?」

 いや、いやいや。待て。待てって。そんな、そんな単純な方法で――。

 私は焦りを感じながらも、その提案を検討した。どうやら不可能ではなさそうだ。

 しかしそれが正解だとすると、やはり別の気になることが出てくる。

「なあ、爺さん。それは確かに、上手い方法だと思う。共犯者のことを信用できれば、完璧に近いアリバイが作れるからな。

 だが、それなら、密室を作る必要は全然ないんじゃないか? 窓をひとつ壊しておくなりすれば、外部からの侵入者を簡単に演出できるし」

 そう、戸締りが完璧だったゆえに、我々は色々な可能性を検討しなくてはならなくなった。

 レンブラントを疑い、使用人たちも疑い、最終的にはメイジ犯人説に落ち着いた。しかし、わざわざ屋敷を密室にして、罪を着せる相手をメイジに限定しなくても、普通の泥棒だっていいわけだ。金づちを凶器に使うのなら、なおさらメイジの仕業としか思えない密室を形成する必要はない。実際、老人は凶器が平民の道具なのに、メイジが犯人としか思えないこの事件の様相に不審を抱いて、使用人に共犯者がいるかも知れないという説を思いついてしまったのだから、むしろ犯人は、密室を作ったせいで自らの首を絞めたことになる。

 どの使用人が犯人なのかはわからないが、彼(あるいは彼女)は、どういうつもりでこのような不自然を見逃したのか?

 それを尋ねると、老人はこくり、こくりと嬉しそうに頷いた。

「はい、まったく無意味なことです。不自然なことでございます。施錠を完璧にしておくと、メイジに罪を着せることにしかなりませんが、どこかに出入り口を用意しさえすれば、不特定多数の強盗のしわざに見せかけることができるので、よほど犯人のためになったでしょう。子供にもわかる理屈です。

 それを見逃したということは、犯人がよほどの愚か者か……あるいは、この説明が間違っているかのふたつにひとつ、だと思うのです」

「は?」

 つい間抜けな声を上げてしまったのも、仕方のないことだろう。この爺さん、自分で新しい説を提案しておきながら、それが間違いかも知れないなどとほざくのだから。

「実際、そのう、この事件に共犯者がいたのだとすると、もっと完璧なアリバイ工作が可能だったはずだと、わしは思いますな。

 共犯者を使うということは、打ち合わせの必要な計画的犯罪ということになります。つまり、それなりに前から、ピーテル氏殺害は決定されていたわけです。それなのに犯人のひとりが、被害者の殺害された時に同じ屋敷の中にいて、しかも屋敷の出入り口は全て内側から鍵がかかっていて……容疑者の主張できるアリバイは、凶器を捨てに行く時間がなかった、という消極的なものだけだというのは! どんなにまずくても、犯行時刻に容疑者が屋敷から遠く離れた場所にいた、ぐらいの演出はできるはずなのです。それをしないのは、共犯者がいるというメリットを潰すも同然のことです。ちょっと考えられません」

「ま、ま、待て待て待て! 考えられないなら何で話した! 一瞬だが、あんたの説が正しいかも知れないと、思いかけていたんだぞこっちは!」

「おお、それは失礼しました。しかし、まあ、犯人も共犯者も相当な愚か者であった場合は、そういうことをやらかしたかも知れませんでな。一応、頭の片隅にでも置いておいて頂ければと思いまして、話させてもらいました。

 もちろん、個人的にはあまり信じておりません。柊荘の事件は、適当な計画ではなく、かなり考えられているとわしは思います。柊荘が密室だったことが、何らかの意味を持っている説こそが正解……そう思えてならんのです」

「柊荘が密室だったことが、意味を持つ……?」

 それはつまり、密室によって容疑を逃れた人間こそ、怪しいと彼は言いたいのではないだろうか。

 彼の仄めかしている犯人とは、即ち――。

「ミスタ・レンブラント……はい、やはり彼のしわざなのではないかと、わしには思えるのですよ……」

 

 

「レンブラント……あの男か……」

 口だけは殊勝だった、あの胡散臭い男の顔を思い出す。

 初対面ですでに怪しく思い、調査の結果もすこぶる怪しかった。しかし、柊荘の密室が、完璧なアリバイとなって彼を守護しており、容疑者から除外せざるを得なかった。

 レンブラントが怪しいと言うからには、彼に犯行が可能だったと老人は思っているのだろう。しかし、果たして本当に可能なのか?

 いや、不可能、というわけではない。老人は、共犯者というやり方を教えてくれた。レンブラントの共犯者が、柊荘の使用人の中にいたなら、密室は意味を持たなくなる。レンブラントはいつでも好きな時に柊荘を再訪し、共犯者に招き入れてもらい、ピーテル氏を殺害し手から屋敷を出て、共犯者に鍵をかけ直してもらえばいいのだ。

 ――いや、いや、違う。それだと、すでに老人が自分で否定した、使用人に共犯者がいる仮説とまったく同じではないか。凶器を捨てに行ったのがレンブラントというだけの話になる。

 私のその思考過程を読んだかのように、老人はしわだらけの顔でにこにこと笑っていた。

「ミスタ・レンブラントが犯人だとしたなら、――もし無実だとしたなら、始祖よ、あらぬ疑いを抱いたわしを罰して下さいませ――おそらく、徹頭徹尾単独の犯行であろうと、わしは思います。先ほども申しました通り、もし共犯者がおりましたならば、もう少し明確なアリバイを作れたはずだからです」

「しかしな、明確かどうかはともかく、奴のアリバイは確かに鉄壁だぞ。

 事件の夜の九時に、レンブラントは柊荘を出ている。そのあと、リーフェンスによって柊荘は戸締りをされ、巨大な密室と化した。その扉が開かれたのは、翌朝の八時過ぎだ。それまでの約十一時間、レンブラントに限らず何者も、柊荘に入ることはできなかった。

 そして、ピーテル氏はリーフェンスによって午後十時に、ガジェの店のバーテンによって、十一時まで生存していたことが確認されている。つまり殺人が行なわれたのは、それ以降ということになる。

 ならば、レンブラントには絶対に犯行は不可能ということになるじゃないか。奴が実は《アンロック》や《ロック》を使えるメイジだったりでもしない限りは……」

「そうそう、その可能性も考慮する必要がありますな。ミスタ・レンブラントは、確かにメイジではないのですね?」

「絶対にない。曽々祖父の代まで、奴の一族の出自は確かめられている。全員が平民だ。

 もちろん父親も母親も、魔法を使えた様子はなかった。レンブラントは、貴族の血を一滴も引いてはいないんだ」

「ふむ、ふむ。よろしいです、大変よろしいです。となると、彼がもし事件の犯人だとしたら、魔法ではなく、手品じみたトリックを使った、ということになりますな」

「手品……だと?」

「手品でございます。平民であろうとも、まるでメイジの魔法のように不可能を可能にする、あの芸能でございますよ」

 老人は言いながら、私の目の前に右手を差し出してきた。そして、五本の指のうち、人差し指と中指を立てて、こう続ける。

「我々が間違いないと思っている事実のどこかに、間違いがあります。

 考えられるのはふたつ。ひとつは、柊荘が密室であり、外部から痕跡なしに出入りすることはできない、という認識が間違っている可能性。

 もうひとつは、ピーテル氏の亡くなられたのが、十一時以降であるという証言に間違いがある可能性。

 どちらかと言えば、後者の方がごまかしやすいように、私には思えます。窓や扉の鍵は物理的なもので、締められていたことを確認できますが、リーフェンスさんの聞いた『おやすみ』の声や、バーテンさんの見たヴィオラを弾くピーテル氏のシルエットは、目撃者の証言以外確かめようがありません。

 ミスタ・レンブラントが、九時以前にピーテル氏を殺害し、そのまま柊荘を出て、あとでリーフェンスさんやバーテンさんの目と耳をごまかし、ピーテル氏が生きているように見せかけたなら……彼はアリバイを得て、身の安全も手に入れられるというわけです」

「ああ、それはわかる。だが、問題はどんな方法を使って、ピーテル氏の生存を偽装したかだ。

 九時の時点で殺人が起きていたのなら、リーフェンスの聞いた声も、バーテンの見たヴィオラを弾く人影も、レンブラントのしわざということになる。

 しかし、リーフェンスの聞いた声は書斎の中から聞こえたと、あの執事は断言しているし、バーテンも窓のカーテンに映ったシルエットを確かに見たという。どちらも、誰かが書斎の中にいなければ現れ得ないものだ。レンブラントが書斎の中で、生きているピーテル氏のフリをしたのなら、どっちにしろ密室のはずの柊荘に入り込んでいるということになって……やはり不可能は不可能のまま、変わらないということになる」

 私はお手上げとばかりに肩をすくめたが、老人は落ち着いた様子で、また一口生姜茶をすすっていた。

 そして、カップから口を離した時、唐突にこんなことを言い出した。

「……これは、わしの目がまだ見えていた頃の話なのですがね。

 近所で、自殺者を見つけたことがあったのです」

 急に関係ない話をし出したので、どうしたのかと思ったが、老人が先を続けたので、私はそのまま耳を傾けた。

「夜中のことでしてな。厠に行ったわしは、ある農家の窓に、首を吊っている人間の影が映っているのを目撃したのです。少し離れてはいましたが、首を吊って天井からぶら下がっているような、宙に浮いた人間の足の形が、はっきりと見えました。

 室内に明かりがついているので、その人影はシルエットになっていて、誰なのかはわからないのですが、とにかく放ってはおけない。わしは急いでその農家に向かいました。ところがですよ、意外なことにその家の住人は無事に暮らしており、部屋の中にも自殺者などおりはしなかったのです。

 はてどういうことかと首を捻っていたのですが、首吊り死体が見えた窓を見せてもらった時、答えがわかりました。

 なんと、窓の外に、案山子が一体、立てかけてあったのですよ。背の高い杭に縛りつけてあって、ちょうど足の部分が窓にかぶさっておりました。翌朝には畑に立てる予定で、そこに置いてあったのだそうです。

 わしは、それのシルエットを自殺者と勘違いしてしまったのですな。真相を知った農家の住人は大笑い、しばらくの間は慌て者の罪のない騒動として、村人たちの話のタネになってしまいましたよ」

 その老人の思い出話は、確かに取るに足りない笑い話だったが、柊荘事件に行き詰まっている私には、まるで雷でも落ちたかのような強い衝撃を与えた。

「おい、まさか……バーテンの証言は、まさか、そういうことなのか?」

 私が震える声で尋ねると、老人はこっくりと頷いた。私は彼の言いたいことをきっと正確に読み取ったのだろうし、彼も私がそれを理解したことをわかてくれたのだろう。

「はい、おそらくはそういうことだったのではないかと。

 ミスタ・レンブラントは、書斎の中ではなく、書斎の窓の外に立ってヴィオラを演奏し、ピーテル氏が生きているように見せかけたのです。

 柊荘にはベランダやバルコニーはないということなので、植木屋の使うような長いはしごを外壁に立てかけて、その上に乗っていたのでしょうな。

 バーテンさんが目撃したのは、辛子色のカーテンが引かれた窓に映った、ヴィオラを弾く人影です。顔の作りもわからぬ、真っ黒なシルエットです。このシルエットというのが曲者でして……真っ黒に塗りつぶされた人影は、立体感を失い、平面的に見えます。ガジェの店には窓がひとつしかなかったそうで、視点も一方向からに限られるのならば、余計に凹凸はわかりにくくなりましょう。

 また、光は室内から室外に向いて放たれますので、シルエットの主は窓の内側にいようと、外側にいようと、見る者に対して光源を遮るような位置に立つことになります。窓の内側にいれば、光を遮った影がカーテンというスクリーンに映り、人の姿を作ります。窓の外にいても、カーテンを透過してきた光を、その人自身が遮ってシルエットを作るので、どちらにせよほとんど同じ、カーテンに人影が映るという現象が起きるのです。

 かくしてミスタ・レンブラントは、まんまと十一時過ぎまで、死した伯父が生きていたように演出することに成功したのです」

 私は呆然と、老人の解説を聞いていた。そして、頭の中で、その光景をぼんやりと思い浮かべていた――はしごの上に立ち、柊荘の書斎の窓に背中を預け、ヴィオラを弾くレンブラントの姿を。

 もしかしたら、よりシルエットに見えやすいよう、黒い服を着ていたかも知れない。黒い帽子、あるいは覆面を身につけていたかも知れない。

 ガジェの店から、彼の姿は見える。しかし、ヴィンセント・ストリートからは見ることができない。背の高い柊の生け垣が、彼と彼の足場であるはしごを隠してくれるからだ。

 劇的なトリックだ。ちょっと間違えれば、馬鹿馬鹿しいと言われかねないような。

 しかし、それだからこそ、あの洒落者のレンブラントがやりそうなことに思えた。

「さて、ミスタ・レンブラントが書斎の窓の外にいたとするなら、リーフェンスさんの聞いたピーテル氏の声も説明がつきましょう。

 そうです、彼は窓と扉を挟んで、リーフェンスさんの呼びかけに応えたのですよ。

 リーフェンスさんが、いつも休む前に挨拶に来るということを、ミスタ・レンブラントはピーテル氏から聞いて知っていたのでしょう。それが十時頃だということも知っていたと思います。その時間を見計らって、窓の外で耳をそばだてていて、呼びかけが聞こえたらピーテル氏の声まねをして、大声で返事をした。声というのは、案外いろいろなものを通り抜けて、向こう側に届くものです。ことによると、三件隣の夫婦喧嘩が、建物越しに聞こえてくることもありますな。薄い窓ガラス一枚と、扉一枚と、部屋ひとつ分の距離を挟んだ程度なら、何とかやり取りもできるでしょう。

 リーフェンスさんは、屋敷の外から聞こえた声を、書斎の方向から聞こえたために、室内からの声だと思いなさったのです。もちろん距離が開いておりますので、綺麗には聞こえなかったでしょう。そう、声が咳き込んだような、割れたような、どことなく不自然なものに聞こえても不思議はありますまい。

 リーフェンスさんと、ガジェの店のバーテンさんを欺いたミスタ・レンブラントは、ある程度でヴィオラの演奏を切り上げて、はしごから降りて帰宅しました。朝になって、トリスタニアの外に凶器を捨てに行き、それで安心と柊荘に戻ってきたのです。

 川に沈めれば、血も流れるし発見されないと思ったのでしょうが、見つかってしまったのは運が悪かったとしか言いようがありませんな。もし見つからなければ、硬く太い杖で殴られたと思われ、メイジ犯人説を補強できていたかも知れませんのに」

 ――そう、運が悪かった。レンブラントは、メイジに罪を着せようとしていたのに。

 なぜメイジ限定なのか、今ならわかる。普通の平民の強盗に見せかけるなら、魔法なしでも柊荘に出入りできるよう、鍵をどこか壊してしまわなければならない。しかしそうすると、レンブラント自身もまた犯行が可能になってしまう。

 リーフェンスが戸締りをすることで作られる、柊荘の密室を利用してアリバイを作り、なおかつ不可能犯罪にせず、適当な誰かに罪をかぶってもらうには、『魔法が使われた』という解決策を残してやればいい。もしメイジ犯人説が疑われても、次に疑われるのはリーフェンスなど、屋敷の使用人だ。レンブラントに捜査の手が伸びるには遠過ぎる場所を、衛士隊は延々探らされるハメになっただろう。

 そう、レンブラントは運が悪かった。金づちが見つかったせいで、メイジなのに凶器に金づちを使ったということが不審がられ、そこからこの老人に、正しい道を見つけられてしまったのだから。

 いや、いや、まだ充分ではない。今の老人の推理が正解かどうか、確かめねば。それは――私たち衛士隊の仕事だ。

 ぐっ、と残りの生姜茶を一気飲みして、私は立ち上がった。居ても立ってもいられない気分になっていた。早く裏づけを取らなくては。無理に私に休みを取らせたポルナレフ隊長の鼻をあかしてやらねばならん、何としても!

「ありがとう、爺さん。この礼は必ずするぞ」

 私はそう言い残すと、風のように按摩屋を飛び出した。やる気と自身が、私の体に満ち満ちていた――老人の按摩は、私の心と体だけでなく、ついに抱えている問題すらほぐして解消してしまったのだ。

 走る私は、途中で背後から、老人の慌てたような声が追いかけてきているのに気付いた。

「あ、アニエス様! お忘れですよ――お洋服!」

 私は思わずすっ転びそうになった。何とも、しまらないものだ。

 

 

 事件は一気に解決した。

 老人の推理を聞いた私は、まずレンブラントの周りにはしごがないかどうかを調べ上げた。柊荘にははしごがなかったので、彼は外部からそれを持ち込んだ可能性が高かったのだ。

 すると、彼の友人の大工が、事件の数日前にはしごをレンブラントに貸していたことが判明した。そして、事件翌日にそれは返されたそうだ。

 これでほぼ確信を持った私と、私から説明を聞いた衛士隊は、更なる調査を行なった――まずボロが出たのは、書斎にあったピーテル氏のヴィオラで、レンブラントはピーテル氏が事件の日、これを弾いていたことに見せかけるトリックを使ったわけだが、そのヴィオラは、何とネックが折れて使えなくなっていたのだ。

 リーフェンスに確かめると、事件の前日にうっかり落として破損してしまい、三日以内に近所の楽器職人に修理に出す予定だったという。

 もしリーフェンスが、仕事のあとで地下の自室に戻ったりせず、書斎から流れてくるヴィオラの音を聞いていれば、不思議に思ったはずなのだが、さすがの美しい音楽も地下までは届かず、彼は事件に重要な役割を果たしたヴィオラの演奏の存在を、この時尋ねるまで知らなかったそうだ。

 事件の日の朝に、ヴィオラが壊れていたなら、その晩に演奏など行なわれるはずもない。これでレンブラントは、絶体絶命の窮地に立たされた。

 さらに、明け方に植木職人と思しき男が、はしごを担いでヴィンセント・ストリートを歩いていったという目撃証言も得られた――話してくれたのは、以前私を捕まえた奥様連中で、その時は夜の目撃情報を聞いたので、思い出せなかったという。詳しく聞けば、その植木職人の容姿はレンブラントそっくりである。これでまた奴にとって不利な材料がひとつ増えた。

 これらの件で衛士隊詰所に呼ばれた彼は、柊荘の密室を盾に、必死に言い逃れをしようとした。が、はしごを使ったアリバイ工作を見抜いたことを教えてやると、がっくりと頭を垂れて降参した。

 動機はやはりピーテル氏の財産。氏が遺言書を作成して、自分が遺産を受け取れなくなる前に、何としても始末しなければならなかったのだと言っていた。ありふれていて、わかりきった動機――それを持っていたからこそ、彼は疑われないよう、策を弄さなければならなかった。

 レンブラントも自信を持っていた計画だったらしく、あっさり見破られたことに呆然とし、また悔しがってもいた。

 しかし、彼を思い上がった愚か者と笑うことはできない。実際に見破ったのは、衛士隊ではなく、私でもないからだ。

 あののんびりした按摩屋の老人が、のんびりと生姜茶をすすりながら考えたことなのだ。

 私の手柄では、ない。

 

 

 後日、私は礼を言うために、ノンノおばさんのこしらえてくれたジャムを持って、老人を訪ねた。

 事件が解決したことを伝えると、「左様ですか、それは良かった」と、にこにこしながら頷いていた。自分の推理が当たっていたことを誇っているわけではなく、ごく普通に私を祝ってくれているようだった。彼は私を施術室の方に誘い、

「どうです、事件解決祝いに、ひとつほぐしていきませんか。めでたい日ですので、少しまけておきますよ」

「いや、むしろ私は、あんたのことを祝ってやりたいんだがな……いや、まあ、いいか。お言葉に甘えて、この店の売り上げに貢献してやるとしよう」

 私は言い募るのをやめて、素直に寝台に横たわった。この老人にとっては、名誉とかは人のためのものであって、彼本人にはあまり意味を持たないのだろう。

 のんびりとした空気の流れるこの部屋。老人は、ここで仕事をしているだけで、充分なのかも知れない。

 私も、ここにいる時は、生き急ぐのをやめよう。あまり焦らず、たまにはゆっくり考えることも――あるいは、まったく何も考えないで休むことも――大切だと、私はここに通うようになって知った。

 そして気力を回復してから、また走るように生きればいい。

 復讐の気持ちも、今は眠らせる。その方が、早くたどり着くことも、あるかも知れないから。

 ゆっくり目を閉じる。視界が狭まっていく。

 眠る前に見た景色では、辛子色のカーテンが、ふわふわと揺らめいて見えた。

 

 

 


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