「追われれば逃げるさ。普通の人間ならね」
普通とは逸脱した存在であるフレイムヘイズが普通という言葉を声高々に言った。
彼の存在は見る人が違えばまるで変わって見えてしまう。
戦うことに誇りを持ち、戦いから逃げることを卑怯と捉える者がいたなら、彼は指を指されて笑われるような生き方だろう。意地汚いとさえ言うかもしれない。生きることに意地を張り、死を拒む姿を滑稽と感じて哀れみの視線すら向けるかもしれない。
だが、彼は指を指され笑われて、哀れみを受けたとしてもその生き方を変えることはない。誰に何と言われようとも『生』を選ぶ。たとえ醜くともね、と彼は胸を張って答えるだろう。
自身の生き様を貫き通すことに美を感じる者がいたならば、その者の目からは素晴らしい生き方に見えるだろう。これも一つの偉人だと称えるかもしれない。生にしがみつく姿を美と捉え、そこがいいと褒めるのかもしれない。
けれども、これはまだ彼の経験したことのない事。自分の生き方が人から見て美しいものに見えるだなんて考えたこともない。
彼はただただ生きるのに必死で、がむしゃらで、それだけで精一杯で、外見なんて気にすることすら出来ないのだから。
「追われなくても逃げるんでしょ? 貴方の場合」
フレイムヘイズの中で彼の一番の理解者が、彼の性質を十分に分かった上できっぱりと言った。その言葉に彼は一も二もなく即答でそうだよ、と彼女の正解に満足そうに笑顔で答える。
でも、最善は追われるまでに先に逃げることだけどねと付け足して。
彼は何よりも先手必勝というのを行動にする。
どんなことも敵よりも先に動くことが出来れば、事前の対策で簡単に命の危機を脱出することが出来ると彼は語る。
忘れてはいけないのは、彼にとって逃げるというのはあくまで生きるための手段で過ぎないことだ。生きるということに一番重きを置いている彼は、自分が生きるためにはどうすればいいかを考えた末に、最も簡単で現実的だと思った逃げるという手段を選択した。
いつだって念頭におくのはどうやって生きれるかで、そのためにはどうやって逃げればいいかを考える。
逃げるものはいつだって同じ。単純に生の反対──死だ。
でも、彼は人並みに強欲で、我侭だった。
ただ死から逃げるというのも人間味もないと言うのだ。
「モウカはさ、結局はどのフレイムヘイズと変わらないほど我侭で、自分のことを貫き通そうとするんだよ。あ、違うね。他のフレイムヘイズ以上に、傲慢だ。でも、そこが私にとってモウカが私の契約者たる理由だね」
最初は生きられればいいって言う。生を求めた。
次はそれなりにスリルも欲しいって言う。危険を求めた。
次は命の危険があると怖いから危険から逃げるって言う。安全を求めた。
逃げる隠れるじゃ人間味がない、つまらないからやっぱり面白味が欲しいと言う。変化を求めた。
「ほら、こんなにも強欲で、いつも心が移ろいでばっかしだよ」
「しかも、その度に何かに巻き込まれる。自分の事ながら悲しい性だ……」
「自業自得だけど思うけどね。でも、だから面白いよね。だって、こんな経験は」
他のフレイムヘイズでは絶対に出来ないんだからさ。本当に嬉しそうにウェルはそう言うのだ。
フレイムヘイズは生を求めない。フレイムヘイズは危険を求める必要もないぐらいに危険に常で身を置く。フレイムヘイズは安全を要らぬものだとする。フレイムヘイズは不変者だ。
そんなフレイムヘイズと比べれば、モウカの在り方はフレイムヘイズとは遠く、むしろ普通の人間に近い在り方。
だが、それ故に、
「そうね。貴方は見ていて飽きないわ」
彼は人間としては強かった。
◆ ◆ ◆
「何故逃げるのかな。私には少し、理解出来ない」
『不朽の逃げ手』を追いかけ始めた数時間前に『愁夢の吹き手』ドレル・クーベリックが虚空に呟いた。その声色には理解の色はなく、疑問の色が強かった。彼は少しと言ったが、実際には全くもって理解できていない。
若き御老人である彼は、つい十数年前までは協力しあわなければ生きていけない人間の輪の中で生きていた。人間は人間同士で貶め合うことも多いことを、音楽団という少し色の違う集団の中ではあったが彼はよく知っていた。
音楽の世界は一つ舞台に上がるために個々で必死の努力をし、相手を蹴落としてでもスポットライトを浴びなければならない。その世界の中では貶め合うのはむしろ普通の事だった。
しかし、相手を蹴落とすばかりでは決して自分たちが上に行けるわけではなく。時には協力し、一つの音楽を作ることも必要であった。
ドレルの理念で言えば、その協力こそが人間の強みの一つであると信じている。
人は一人では生きていけないを地で行く考え方だった。人はもちろんのこと元人間である超越者とも言えるフレイムヘイズだって例外ではないと考えていた。一人で出来ないことは二人で、二人出来ないことは三人で、少数で無理なら集団で、組織で、と。
フレイムヘイズの実態を身を持って知った今でもその理念は変わらず、ドレルとしては変えていかなくてはならないとさえ思っていた。
これはその足掛かりともなる一歩でもある。
(彼に協力してもらえれば、心強いだろうね)
(んー、でも噂だけじゃ分からないわよ)
ドレルの心の声に律儀に彼に異能の力を与えた``虚の色森``ハルファスは、耳に残るような高い声で返す。
(そうだろうね。復讐を手伝ってもらうには強くなくてはならないから、噂が一人歩きしてしまったなら、心強くないだろう。でも、私にとっては同時にそれは理由にならないんだよ)
フレイムヘイズという存在概念は強さというに大きな意味を持たせている。
強ければ正義という言葉は、ドレルには好きになれそうにはないが、そういった社会性を持ってしまっている理屈には十分に理解はできる。
簡単に言えば弱肉強食の世界だ。
強ければ``紅世の徒``を撃退、もしくは討滅して名を馳せることができる。弱ければ``紅世の徒``に殺されて存在を失ってしまう。とても単純でこれ以上無いほど分かりやすい世界観。
悪いとはドレルは思わない。
単純であれば簡単に生きる意味を見つけられるだろうし、強ささえあればいくらだって生きられるのだから。まさに強者にとっては理想的な世界だろう。
だが、弱者はどうすればいいのだろう。
ドレルはそこに一石を投じる。
どうやって生き残ればいい?
一回目の戦闘を乗り切って生き残っても、二回目には死んでしまうかもしれない。
自分のような攻撃性に欠けたフレイムヘイズはどうやって復讐を果たせばいい?
復讐をしたくて``紅世の王``と契約したのに肝心の力は復讐に向かず、自己矛盾を抱えたらどうすればいいのだ。
復讐相手をどうやって見つければいい?
この世界中を隅から隅を探したって見つからない可能性だってあるんだ。
これは決して弱者だけに当てはまるものではない。
ドレルはあまりにも低水準なフレイムヘイズの構築する社会に言いたいことがたくさんあった。
(どういうこと?)
(未来(さき)のことだよ。それよりも先にやるべきことが私にはあるからね。両方協力してもらえれば、私にとっても願ってもいないこと)
(もーッ、どうして逃げるのかしらね!)
逃げるという行為に全く理解は出来てはいないが、名前からしてそれが彼──『不朽の逃げ手』の本質なのではないかと熟考する。
仮にそれが本質なのだとすれば、逃げるという分野において特質した能力の持ち主である可能性が高い。ならば、ここまで自在法を使い巧みにモウカを追っているが捕まえるのは至難の業の域を超え、不可能の領域へと達するかもしれないと、最悪の事態までドレルは予想しだす。
幻術による広域探索によって、ちょくちょくモウカの気配を察知して近づけば、『不朽の逃げ手』はドレルが更に近づくよりも遠ざかる。
『不朽の逃げ手』が今まで一度も得意の自在法を使っていないことは確認済みだった。
有名なあの自在法はその強力さの反面、あまりにも目立つため使わせれば逆に近づき、見つけるチャンスが増えると睨んでいたのだが、それすらも使わずに逃げられてしまっている。
ドレルが自在法を駆使し巧みに扱ってもなお埋まらない距離感に、フレイムヘイズとしての格の差をドレルは今感じていた。
『不朽の逃げ手』を探してはいたが、見つけることが出来たのは完全なる偶然だった。最も困難であると考えていた存在の目撃情報を手に入れることが出来てからは、これはいよいよ風が自分に向いて来ていると思っていたので、この展開は流石に予想外だった。
(まさか近づこうとしただけで逃げられるとはね。まるで人間から逃げる猫。いや、鳥のようだ)
予想だにしない展開ではあったが、素早く頭を切り替え、逃がさないように自在法を使い現在に至った。
見つけてご対面するのも時間の問題だと当初は考えていたというのに、ドレルの予想をはるかに上回る逃亡にドレルは苦笑いを隠せない。
考えてみれば、自身の考えの右斜め上をずっと突っ走られているような気さえもしてきていた。
だからと言って、逃すつもりは微塵もなかったが。
(向こうの動きがこちらの考えを超えてくるということは、非常に辛い状況だ)
本来は追う側は逃げる側の意図を察して、道を塞ぐというのが最も有効な手段となる。どこかに目的地があるなら目的地に先回りをして、待ち伏せをする。行き当たりばったりで逃げるのなら、逃げる方向を誘導して徐々に追い込んでいき、行き止まりへと誘い込む。
どちらも相手の動きを予測するというのが重要になるのだが、ドレルの現在追っている相手はその予測を平然と上回っていくので、予測事態が成り立たず、追う側も行き当たりばったりになってしまいがちだった。
それだけではなく性質が悪いことにご丁寧に障害物まで設けている。それは時に人であったり、直接的な壁であったりと、ドレルの追いかけ方が巧みなら、相手の逃げ方もまた匠だった。どう考えたって、逃げ慣れているとしか言いようがない。
「ねー、ドレル」
ドレルがどうやって捕まえるべきかと悩んでいると、神器『ブンシュルルーテ』より声がかかる。
いつもの高揚した言葉ではなく少し落ち着いた声だった。
「もう諦めた方が……」
「いや、それは出来ない」
「でも、別に『不朽の逃げ手』じゃなくちゃいけないというわけじゃないわよね? なら!」
ハルファスからするとドレルがここまで『不朽の逃げ手』にここまで固執する理由が分からない。
フレイムヘイズはこの世に数多といるのだから、中にはドレルに協力的な者がいてもおかしくないじゃないかと思っている。だったら、わざわざドレルから逃げるような腰抜けではなくてもかまわないじゃないか、と。
仮に捕まえることが出来たとしても、ここまで猛烈に逃げて、ドレルと会うことを拒絶しているフレイムヘイズが、いざ会ってみてドレルの頼みに協力してくれるとは思えない。断られるのが眼に見えている。
そして、ドレルには頼み事を無理矢理聞かし、行動を起こさせられるような力もなければ、そんな性格でもない。
力に関してはハルファスの力不足な部分もあるので、彼女は申し訳なくは思っているが、それとこれとは話が別だ。ドレルが武器を片手に相手を脅している姿など、ハルファスには想像がつかない。
考えれば考えるほど、今ドレルが行っている行為が、無意味なものに変わってしまうのではないかと疑念を抱えずにはいられなかった。
ハルファスはドレルがこの追いかけるという行為に少しでも弱音を見つければ、止めるべきだと強く押そうとだいぶ前から決心していた、が実際にはその様子は一切見せず、逆にヒートアップしているようにさえ見えた。
(ドレルったら、意地になってるのかしら)
フレイムヘイズになってからの十数年間という月日は、初々しかった者にプライドを与えるのには十分な期間であり、またそれに見合う力をつけるのにも十分な時間であった。
ドレルの場合は戦闘力という力にこそは恵まれなかったものの、ハルファスの特性である幻術を駆使した力には優れた能力を発揮した。
復讐者であるドレルはその幻術の力をまずは捜索能力へと発展させた。復讐するためにはまずは敵を見つけることから始めなければならない。その道理を考えれば力を注ぐ部分が探索分野になるのは当然の結果。堅実な考え方とも言える。
自在法とはまさに音楽のように自由だ。その自由の中にも、ある一定の方式や決まり(限界)がある。フレイムヘイズや``紅世の徒``が己が望む形に自在法は形作られていき一つの音楽が完成する。
生を望む者が自在法を編めば逃げる手段に。未練を残した者が自在法を操れば未練を追う手段を。全てを恨み復讐を望む者が自在法を扱えば殲滅をする力に。
自在法は``紅世の徒``の本質に大きく左右されはするものの、最後に形にするのは結局は契約者たるフレイムヘイズであり``紅世の徒``自身でもある。
ドレルが望んだ形は多いものの、その中でも特に形になっている幻影の自在法は探索や撹乱に使える非常に優れたもの。それを駆使すれば、何も『不朽の逃げ手』に限らずフレイムヘイズを見つけることは容易いだろう。まして、最も困難であると考えていた相手を今もこうやって膠着状態とは言え、五分に渡り合っているのだ。数百年を生きて、名も十二分に知れ渡っているフレイムヘイズ相手にはこれ以上はないほどの十分な成果だ。
だから、未だに諦めずに執拗にドレルが追いかけているのは意地が絡んでいるのではないかとハルファスは思った。
「いや、彼じゃないといけないんだ。私はこうやって数時間も追いかけて確信したよ」
「え、それはどういう……」
ハルファスはドレルの言葉に全く理解が追いつかない。
ドレルはそんなハルファスの様子を分かっていて、あえて無視する形で自分の確信を言う。
「彼は決して戦いを望んでいない。もしかしたら、唯一のフレイムヘイズなのかもしれないのだからね」
ハルファスはまだその言葉の意味を理解出来ない。
「それに、どうやら運命の女神もこちらを味方してくれているようだ」
追っていた『不朽の逃げ手』の動きが止まった。